ムスビエピを少し考える
ムスビエピを少し考えてみました。
ムスビエピを少し考える
エピソード3.5「遠回りして、見つけたもの、大切なこと」が開放されました。今回の主人公は天堂寺ムスビ。我らが777☆sistersのトリを務めます(ユニットエピソードはまだありますが)。
ナナシスエピソードでは珍しく、エピソード2.5「ワン・ステップ・フォワード」からの直接的な引用が見られるなど、「続きもの」の意味合いが強い一編になっています(なので、未読の方はとりあえず先にワンステを!)。
ワンステで迷いに迷う姿を見せた彼女ですが、さて、今回はその迷いを断ち切れたのでしょうか。
始まって早速、象徴的な一言が。
「「探求」…(中略)…それが、私のこれからのテーマ」。
これが後々まで影響してくるのですが…後で詳しく考えます。
ワンステを経て、「自分にとってアイドルとは何か」と考えたムスビですが、自分のテーマを「探求」と定め、完璧なアイドル、完璧なパフォーマンスを目指して奮闘します。それまでの数倍のレッスン(それについていくスースも凄いですよね…)に加え、生徒会長を辞めるという決断までしました。アイドル一本で頑張るという宣言を実行に移していきます。
しかし。
満を持して挑んだステージでは、パフォーマンスが完璧であるにも関わらず、失敗、失敗、失敗。全くウケず、心が折れそうになります(ただ、ここで投げ出さないのがムスビの良さでもあります。周囲の人間が止めなかったというのもあるのですが、彼女は我武者羅に努力を積んでいきます。こういうところが好きなんですよね…)。
失敗続きでもがく中、学校で後任の候補者を募るムスビのもとへアイドル部部長がやってきます。彼女はムスビを厳しく叱責し、生徒会長ではなく、アイドルの方を辞めるべきではないかとまで言います。
しかし、それは信頼しているからこその激励でした。部長が、ムスビがウケなかったライブでも懸命に応援していたこと、そして、それにも関わらず、自分はそのことさえ覚えていない(見えていなかった)こと。ここでムスビは、自分のやってきたことへの疑念を抱きます。
迎えた生徒会長選挙当日。候補は結局生徒会の役員1人のみ。しかしその彼女も演説で、自分ではなく、ムスビが生徒会長であってほしいと言います。戸惑うムスビに、部長はこう言います。
「あなたの輝きは完璧だからこそじゃありません。」「だからこそ、誰かのために必死になってくれる姿を見て、みんながあなたを欲していたんです。」
心打たれ、生徒会長に戻ったムスビ。後日、ムスビを見に来た生徒たちに、彼女は朗らかに接していました。「お客さんが見えていなかった」ムスビがお客さんと柔らかく会話する姿は、エピソードの幕引きにぴったりでしょう。
さて、エピソードの概観を見てきたわけですが、私が今回このエピソードで考えたいのは、「自分らしさ」という言葉の深さについてです。今回のエピソードの主題とも言えそうですが、なかなか深みがある問いかけだと思いますし、ムスビの本質を考えるうえで避けては通れないところの1つかなあと思います。
まずは表面を辿っていきましょうか。表面を辿ると、どんな「自分らしさ」が出てくるでしょうか。
探求を自分のテーマとする→一生懸命頑張る→失敗する→「完璧なパフォーマンスは「ムスビらしく」ない」
完璧でない姿→「ムスビらしい」
このような矢印が引けるかと思います。一見それっぽいですが、でもこう考えると、「じゃあ、ムスビは頑張らないのが自分らしさなの?」という疑問が出てくるでしょう。でも、たぶん違いますよね。
次にこう言い換えましょうか。「ムスビは、頑張った結果が報われないのが自分らしさなの?」ちょっとそれっぽいですけど、でもなんというかこれだと報われないですよね。努力が報われないのがよいことだというのはなかなかえぐい。違うと言い切ることはできませんが、好きではないので保留で。
とりあえず2つの「自分らしさ」を考えてみましたが、いずれもしっくりきません。
では、ここで最初に戻って考えてみましょうか。ムスビは、テーマを「探求」としていましたから、少し応用して、彼女の自分らしさとは「探求」である、と考えてみましょう。
ここから出発してみると、このような矢印が引けそうです。
ムスビの自分らしさとは「探求」→ムスビは自分らしさにしたがって努力を積み重ね、生徒会長を辞めた→そしていいパフォーマンスをした→なのにパフォーマンスは失敗した
引いてみるとわかりますけど、おかしなことになったのがわかります。自分らしさに従ったのに、失敗してしまうという…なぜでしょうか。ここの矛盾を突っ込んでいきたいと思います。
まず、簡単に確認しておきますが、レッスンによってなされた「完璧」=自分以外の誰かのパフォーマンス ではありません。例えば、テストで100点を取ったと仮定します。でも、その100点に至る道は様々です。猛勉強した人、さらっと解いた人、鉛筆振って奇跡的にとれた人…点数は同じでも、過程は人それぞれです。そしてその過程こそが彼女にとっては「探求」=テーマになるわけです。もう一度言います。完璧それ自体が悪いのではありません。
ムスビのパフォーマンスはある意味では「成功」していたのです。スースやシズカを見てみてください。
「ムスビ、本当にダンスも歌も最高だったわ!(中略)なのに、どうして盛り上がらないの?」
彼女たちは、ムスビのパフォーマンスは成功したと思っています。彼女のパフォーマンスは、彼女の努力と決意を知っているものにはしっかりと届いていたのです。支配人やスースたちは、ムスビの「探求」を知っていたから、凄いと思ったのです。裏に決死の探求があって初めてあのパフォーマンスが成り立っていると知っていたのです。彼らにとってムスビのパフォーマンスが成功だったというのはそういう意味です。
ムスビの自分らしさとは「探求」→ムスビは自分らしさにしたがって努力を積み重ね、生徒会長を辞めた→そしていいパフォーマンスをした→だから支配人たちは感動した
しかしその一方で、観客はそれを知りません。彼らからすれば、怒ってばかりのムスビがある日突然完璧になったということは、喜ぶ以上に戸惑うことだったのです。
彼らはいつもの姿、つまりはムスビの怒るところが見たいのです。
「『他人から求められていること』。そして『自分がやろうとしていること』」「たぶん、エンターテイナーなら誰しもが悩む、大きな壁。」
コニーさんの言葉が重いですね。ちなみに、観客の名誉のために言うならば、彼らは別に(ムスビにとっての)負の面を取り立てて見たい…と言うわけではないと思います。観客は、完璧な姿(結果)ではなく、支配人たちと同じように、「探求」そのもの(過程)を見たかったということなのです。「怒る姿」はその一例にすぎません。そこはご理解いただきたいです。
ムスビの自分らしさとは「探求」→(ムスビは自分らしさにしたがって努力を積み重ね、生徒会長を辞めた)→そしていいパフォーマンスをした→観客は変化に戸惑い、パフォーマンスは失敗した
でも、過程を見せろというのは真面目な彼女にとって非常に酷な要求でしょう。「探求」というのは、彼女にとってのアイドルのテーマですが、答えが絶対に出ないという状況で挑み続けることの辛さは如何ほどでしょうか。彼女は、どこかで答えを出したい。
ムスビは「過程」は自らの内に秘め、(完璧な)「結果」だけを見せたい。それに対し、観客は(完璧な)「結果」ではなく、(不完全な)「過程」を見たい。こうまとめることができます。さて、コニーさんが言ったジレンマにムスビはどう立ち向かうのでしょうか。
これだけでも考えるのが難しい問いですが、もう1つ深く考えてみましょう。アイドル部部長についてです。ムスビが「完璧」を志向していると述べましたが、もし仮にムスビが本当に「完璧に」パフォーマンスができたならば、部長のことが見えていたはずです。しかし、そうではなかった。ムスビは彼女のことが見えていなかった。つまり、ムスビのパフォーマンスは完璧ではなかったのです。
つまり、コニーさんの出したジレンマ(演者と観客の望むものの違い)だけでなく、もっと単純に、彼女は未熟だったのです。これが非常に興味深い。あれだけやっても、ムスビは「完璧」ではなかった。それは彼女の「本質」が未熟だったからなのか、それとも、完璧だと言った支配人たちが過大評価をしていたからなのか。
前者の考え方というのは残酷です。繰り返しになりますが、誰よりも完璧であろうとするムスビの本質が「不完全」だというのは悲劇的と言えるでしょう。そのような「罪」(中二っぽい言い方ですみません)を茂木さんは彼女に背負わせるのでしょうか。可能性が無くはないというのがなんとも苦しいです。
それに比べ、後者の考え方は、救いがあるという意味で面白いと思います。つまり、パフォーマンス以外のところ(具体的には過程)を見ることによって、ムスビの「完全な」パフォーマンスの重さを理解できる。これを最も明確に示したのがアイドル部部長でした。彼女は支配人たちとは違い、観客と同じ場所にいます。でも、彼女は、ムスビの葛藤を知っている。だから、戸惑う観客の中一人懸命にムスビを応援していたのでした。
このことは、「観客=「身内」」ということの面白さ、ドラマ性を示しているのではないかと思います。「身内」に届くようなパフォーマンスをするというのは、少しずるいような気もちょっとしますが、コニーさんの出したジレンマをすり抜ける希望となりえます。十分考えられるルートだと思います(「あなただけのアイドル」みたいな感じですかね)。
ただ、ここでコニーさんはまた別の難題をふっかけてきます。
「探した先に自分なんていないかもよ。」
過程を見せて好きになってくれる身内はいるだろう。でも、エンターテイナーであることを捨て、「一般的な他人が見たい私」ではなく、「私がありたい私」であることを探した先に、何かあるのでしょうか。
さて、とりあえず私が考えてみたのはここまでです。簡単にまとめると、「過程」は自らの内に秘め、(完璧な)「結果」だけを見せたいムスビと、それに対し、(完璧な)「結果」ではなく、(不完全な)「過程」を見たい観客の間のすれ違い。コニーさんはそれをエンターテイナーならではの難題と評します。しかし、そもそもムスビも「完璧なパフォーマンス」を提供することができておらず、自分の理想(「「結果」を見せたい」)を一人で懸命に応援してくれている部長の姿が見えていませんでした。もし、ある日、本当に「完璧な」パフォーマンスを提供することができたなら。
その時ムスビが選ぶのは、エンターテイナーなのか、「自分」なのか。その先に光はあるのか。彼女の悩みはまだまだ尽きません。
「なーに言ってんの支配人。」「そんなのこれからずーっと続くに決まってんでしょ。」
ムスビのよさ、「自分らしさ」というのは案外他人が知っているものだとコニーさんは言いました。でも「他人」って誰だろう?観客はエンターテイナー(結果)として見て、身内は「人」(過程)として見る。観客みたいな身内もいれば、身内になろうとする観客もいる。ムスビと他者をめぐる問題は、まだまだ続きそうですし、考察も色々できそうです。この駄文がそのきっかけになれば幸いです。茂木さんは自分の作品のことを「誰かのコピー」と言っていますし、この問題はわりと根深そうですよ。
ムスビにとっては私(ムスビ推し支配人)だって他者です。これからも彼女の「自分らしさ」に「私らしく」向かっていけたらいいなあと思います。
G+が欲しいです…