序
ナナシス、つまりTokyo 7th シスターズはアイドルもののスマートフォンゲームであり、今最も注目されている2次元アイドルコンテンツの1つと言えるだろう。
この文章では、そのナナシスについて広く考察を行う。
まず、世界観の考察を行う。
ナナシスには、主に2つの時間軸が存在する。
1つが、メインストーリーとなる、777(以下ナナスタ)に所属するアイドルを中心に描く、2034年~(以下、ストーリーA)。
もう1つが、主にサブストーリーで展開される、セブンスシスターズ(以下セブンス)を描く、2030~2032年(以下、ストーリーB)。
厳密には、前者においては、Le☆S☆Ca(以下レスカ)やthe Queen of Purple(以下QoP)といった777☆Sisters(以下スリーセブン)以外のナナスタ所属アイドル(以下ナナスタシスターズ)が、また、KARAKURIや4Uなどの非ナナスタ所属アーティストがそれぞれの物語を展開しており、単純に2034年からストーリーを考えることにはリスクも伴うが、現時点(2016年11月11日)において、彼女らには回想より大規模で複雑な考察手段が求められるような過去はないと考え、この文章の中ではまとめて「2034年以降のストーリー(ストーリーA)」とする。
セブンスのストーリー(ストーリーB)には、「なぜセブンスが解散したのか」という、ストーリーAにも関係する大きな謎が残っていることを理由に、それ以外のアイドルやアーティストのストーリーとは区別した。
まず、ストーリーAの概要を把握する。
ストーリーAでは、セブンスの解散後、アイドルは下火となってしまっている。プレーヤーは、弱小アイドル事務所であるナナスタの2代目支配人としてアイドルの原石を探し、スカウトして、マネージメントする。紆余曲折ありながら、ある程度の人数が集まり、デビューさせることに成功。スリーセブン、レスカ、QoPの3グループは、現実の世界の現在においてCDをリリースしている。
そして、ナナスタ所属アイドル、特にスリーセブンのライバルとして、KARAKURI、4Uが存在し、こちらもアーティストデビューしている(設定では、アーティストとしてデビューしているのはライバルの方が先だ)。
ライバルとしのぎを削り、己にとってアイドルとは何か考え、アイドルとして輝くという王道の物語がストーリーAである。
登場人物・グループについても改めて簡単に触れておこう。
物語の核となるスリーセブンは、春日部ハルを中心とする12人のグループである。
スリーセブンでないナナスタシスターズは、レスカはじめ26人。
謎のマネージャー、六咲コニーと、プレーヤーである2代目支配人が彼女らをマネージメントする。
ライバルは、アイドルを否定するガールズバンド、4Uと、神秘的なカリスマ双子アーティスト、KARAKURI。
1つのグループ、または個人にスポットを当てるのは別の機会に譲ることにして、ここではこの構造全体を見る。
まず注目したいのは、アイドルであるナナスタシスターズのライバルがアイドルではない、ということである。
アイドルが下火になっているストーリーAにおいては、アイドルは全くの不在ではないにしても、かなり数を減らしているため、こういうライバルになっているのだろうが、これはどういう効果を生んでいるだろうか。
まず1つ目が、楽曲における視野の拡大である。
これまでの多くの2次元アイドルコンテンツは、主人公らのライバルを求める場合には、別のアイドルをそこに据えてきた。アイドルマスターしかり、ラブライブしかり、ウェイクアップガールズしかり。
もちろん、ライバルの設定方法は多様である。ヒーローものとして「悪者」を配置したり、そもそも明確なライバルを設定しなかったり。
ナナシスではアイドルのライバルをアイドルでなくすることによって、音楽の融和、混合を図っている。
断っておくと、私は音楽評論家ではないので、4Uの曲がガールズバンドとして適切なのか、KARAKURIの曲が芸術性の高い、少なくともアイドル曲の区分から離れているかは分からない。だが、少なくとも公式側がそう銘打っている以上は、そうだという前提で話を進める。
これまでの多くの2次元アイドルコンテンツでリリースされる楽曲は、基本的にアイドルの楽曲だけだった。これはしかし、当たり前のことだ。アイドルを売り出すからこその「アイドルコンテンツ」である。
ナナシスではライバルを非アイドルにし、アイドルと対立させることにより、これまでの、アイドルという枠組みの中でしか闘わなかったアイドルたちから、その枠組みを取り払い、別の分野の楽曲を導入し、それらに「ナナシス」という新たなフィールドを与え、音楽を広げている。
それは、アイドルの楽曲である、ナナスタシスターズの曲でもいえる。
QoPの楽曲は、それまでのナナスタシスターズの楽曲とは違う。それどころか、アイドルではない4Uの楽曲と比べても「QoPの方がアイドルっぽくない」と評されるほどだ。もはやナナシスにおいて、楽曲の境界というものは意味をなさないのかもしれない。
もちろんナナシスはまだ発展途上のコンテンツであるから、「広がった」と言っても、ガールズバンドやJ-Popなどの比較的近いところに過ぎない。
また、更にここからゲーム内でライバルが増えるとも考えにくく、そういう意味では小さな変化だ。
しかしこれは今後の2次元アイドルコンテンツにおいて大きな意味を持っていくのではないだろうか。
2つ目の効果が、アイドルという存在の協調である。
これは1つ目にあげたことと矛盾すると反論されるかもしれないが、それは違う。
楽曲においては、先述の通り、「ナナシス」という枠組みのもとにアイドル楽曲やガールズバンド楽曲、J-Popなどを混ぜ込んでいるが、ストーリーAにおいては逆に、アイドルの存在を際立たせている。
4Uにはアイドルへの激しい嫌悪を、KARAKURIには圧倒的な実力を、それぞれ与え、アイドルであるナナスタシスターズから断絶させている。
これによって「アイドルとは何か?」という問いをプレーヤーに強く意識させる。
この問いはナナシスにとっては奇妙な位置を占めている問いだ。その理由は後述する。
ここでは簡単に、非アイドルのライバルの存在は、ナナシスにとって奇妙な位置を占める「アイドルとは何か?」という問いを非常に巧く引き題していると指摘するにとどめる。
最後の3つ目の効果はストーリーBと関連する。
そのため、3つ目の効果について主張する前に、ストーリーBの内容をここでまとめる。
ストーリーBは、ストーリーAに比べると、よくわかっていない部分が多い。
わずかに「Episode Seventh」があるのみで、しかもそれは日常系のエピソードである。本質はかなりの部分が明らかになっていないと言えるだろう。
とはいえ、セブンスのメンバーがアイドルになった経緯やセブンスのメンバーたちの性格が多少は描かれている。この部分の詳しい考察も別の機会に譲ろう。
ストーリーBにおけるメインキャラクターは、当然セブンスの6人だけだ。
現状ではよくわからないことだらけのストーリーBだが、しかし、担う役割は大きい。
最も大きい役割は、ナナシスに結末を用意したことである。
ストーリーBのスタート(結成)とゴール(解散)を先に提示し、「何があったのか」という謎を投げかけた以上、その答えをいつかは示さなければならない。そしてそれは、ナナシスに結末、少なくとも何かしらの区切りをつけることを強いる。ナナシスは必ず終わる物語なのだ。
わざわざ説明するまでもないかもしれないが、ソーシャルゲームにおいて、明確な結末は用意されにくい。ソーシャルゲームは、据え置き型ゲームとは違い、うまく運営できれば数年続く。また、ユーザーに課金してもらうためには、ゴールを作らず、無限に新しいものを作る方が効率が良い。
アイドルものとて例外ではない。最もわかりやすい例がアイドルマスターシンデレラガールズだ。
その一方で、アイカツやラブライブなど、アニメに重きを置くコンテンツは、結末がある。これも当然だろう。
では、なぜナナシスには、ソーシャルゲームであるにも関わらず、結末が用意されているのか。これによって、どういう効果が生まれているだろうか。
これは、ナナシスというコンテンツを端的に説明する効果を生む。
ナナシスの生みの親である茂木監督は、アイドルそのものよりも、アイドルによってもたらされるものに強い思いを持っている。たとえばそれは、アイドルがファンに与える影響だ。セブンスを見てアイドルになろうと思ったナナスタシスターズ(の数人)、セブンスへの怨念から生まれた4Uは言うまでもなく、KARAKURIや2代目支配人など、ナナシスのキャラクターのほとんどが大なり小なり影響を受けている。
そしてナナスタシスターズが、その思いを引き継ぐ(これはセブンスと同じ「シスターズ」をその名に冠していることからわかるだろう。単なるオマージュではなく、「シスターズ」という言葉によって強い繋がりを示す)ことで、今度はナナスタシスターズなりの何かを現実のプレーヤーにもたらすことを、ゲームのメッセージの1つとしている。アイドルはいつか終わってしまうが、何かは残る。それは、我々にも言えることだ。
セブンスからナナスタシスターズら、ナナスタシスターズらからプレーヤー、プレーヤーから…と続く「絆」を象徴するのがこの「結末」なのである。
だいぶ長くなってしまったが、そしてこれが、ライバルが非アイドルであることの意味の1つにもなる。 セブンスが非アイドルにも影響を与えたことで、アイドルというものの大きさを示している。
これは、またセブンスについての考察で深く掘り下げるが、セブンスは伝えるということに非常に重きを置いている。
必死の問いかけは、いつかアイドル以外にも届く。そのことを我々に知らしめるのが非アイドルのライバルたちだ。
さて、この文章も終わりに近づいている。
まだまだ語るべきことはあるが、先ほど置きっぱなしにしてしまった、非アイドルのライバルが生む効果の最後の1つを考察して、1度筆をおこう。
アイドルという存在の協調は、アイドルものにとっては当然必要である。でなければ、アイドルコンテンツである意味がない。
「アイドルとは何か」。それを語るために、あえて別の存在を置く。別の存在からの語りが、この問いへの答えに厚みを加えるのだ。
しかし、「アイドルとは何か」という問いは、実はあまり意味がない。なぜなら、ちょうど今述べたように、ナナシスにとってアイドルとは、連綿と受け継がれる絆の象徴に過ぎない。アイドルからもたらされる影響こそが本質である。
ゆえにこの問いは、重要ではあるものの、「2位」でしかない。
これゆえ、ナナシスにおいて「アイドルとは何か」という問いは奇妙な位置を占めるといえるのだ。
アイドルよりも大切なものがある。
それを語ることができるアイドルコンテンツは稀だと言わざるを得ない。