第5話 我ら思う、故に我ら在り
あれから更に数日が経過した。
時期的には、もうちょっとで梅雨入りするかもというあたりである。
それゆえか山々の彼方に広がる空模様は、陽光を遮る白い雲が支配的であまり芳しくない。一方、手前に見える馬場では放牧されたモンブランたちがいつもと変わらぬ様子で、自由気ままに駆け回って遊んでいた。
気が付けば、悟空と出会ってから間もなく一か月近くになろうとしていた。
「…………」
その日は休日だった。
乗馬クラブの仕事を一通り終えた信二郎は、休憩時間になると、母屋の入り口前に設置されたテラスにあるテーブルに着き、小さなアルバム冊子を開いてぼんやり眺めていた。
そこに挟まっているのは、他ならぬ信二郎の幼少期の写真。
今は亡き母と、幼い自分とがひとつの枠に収まって、楽しげにしている様が写っている。
悟空と出会ったあの日、ゲンドー会の本部で回収してきたものである。元々信二郎は、このアルバムを持ち帰るために再び教団本部に赴いたのだった。
まあ色々とあったが、無事見つかって良かったなと思う。
写真の中の信二郎は、今からは考えられないほど幸せそうな表情をしていた。
勿論、こんなものをいくら見つめたところで過ぎ去った日が戻らないのは知っているが。
それでも、思い出さずにはいられないのが、人の性なのかもしれなかった。
「……おや、またお母上の写真眺めてるんですか?」
「うぉわっ、悟空いつの間に」
知らぬ間に真後ろに立っていた悟空の声にドキッとして、信二郎はアルバムを乱暴に閉じて身をすくめるようにして振り返った。
信二郎の頭越しにアルバムを覗いていたらしい悟空は、その態度を見て苦笑していた。
「何も、そこまで驚かれなくても。別に思い出に浸るぐらい、誰にでもあることです。恥じるようなことじゃないですよ」
「いや、まあ、そうなんだけどさ。そうじゃないっていうか……その」
「?」
悟空は言葉の意味が分かってないらしく、素直に首を傾げてきていた。
いけない、彼女の顔を間近で見ると、未だにややドギマギする。
あの不意の混浴の一件以来、信二郎はなかなか悟空と正面から目を合わせられないでいた。時々必要以上に接近して、彼女の髪の匂いなどに気付いてしまうと、思春期の性か、あの日の光景がフラッシュバックして来そうになるのだ。
……彼女の方は、平気なんだろうか?
信二郎が逸らしていた視線をチラッと戻しかけたその時、何処か遠くの方から、ウキキー! とだいぶ聞き馴染んだ感のある小動物の鳴き声が聞こえてきた。
信二郎と悟空が同時に振り向くと、未だモンブランたちが寝転んでいる広い馬場の真ん中を突っ切って、一匹の子ザルが全速力でこちらに走ってくるのが分かった。
勢いよく飛び込んできた子ザルを抱きとめ、悟空はたちまち嬉しそうな声を上げた。
「チビ! チビじゃないですか! 良かった、無事帰って来れたんですね!」
「なんだ、悟空の分身だったのか」
「ええ、ええ。そうなんですけどね、ちょいと危険な任務をやらせてましたので」
「危険って……?」
信二郎が訝しんでいると、悟空の腕の中の子ザルは己の主人に向かってウキウキ言いながら可愛らしい身振り手振りをまじえ、何かを伝えようと懸命に頑張っていた。
それに対して悟空はふんふんと大げさに頷いたりなどしているが、傍から見ている信二郎には何が何やらさっぱり分からない。
「ほうほう、成程……。いやご苦労様です、よく頑張ってくれましたねぇ」
「おい悟空、どうなってるんだ。ボクにも説明してくれよ」
「あっ、申し訳ない。簡単に言いますとね、敵の潜伏先がとうとう判明したんですよ」
「ホントに!?」
驚いている信二郎の手元に、用件を伝え終えた子ザルが悟空の手を離れて飛び込んできた。思わず抱きかかえたチビの頭を、信二郎は条件反射的に優しく撫でてやる。ミニ悟空とも呼ぶべきそいつは、何だか非常に気持ちよさそうにしていた。
「実はですね、こないだのシナイバッファローとの戦いの時なんですが、あたしゃスキを見て毛を一本、ニルルティの奴に仕掛けておいたんですよ。時限式で変化するように力を籠めた、特別な髪を一本、ね」
「いつの間にそんなこと……」
「んで、連中がアジトに着いた頃になってようやく術の発動した髪の毛が、このチビになって遠路はるばる戻って来た、というワケです」
信二郎はここでいよいよ納得することが出来た。
「……そっか、今までギューマの奴らには、散々逃げられちゃってたもんな」
「ええ、時間はかかりましたが、これでやっと本拠地を叩くことが出来ます。チビの働きが無駄にならない内に、早いとこ実行に移してしまいましょう」
悟空がもう一度、信二郎の腕に収まっていた子ザルの頭を撫でると、チビは実に可愛らしく目を細めた後で、バイバ~イ! とでも言うかのように手を振ると、最後は煙を残して消えてしまった。
信二郎の記憶が間違ってなければ、今日の午後からは千手が来てくれるハズである。
祖父も在宅しているため、どうやら馬の世話は彼らに任せることになりそうだ。
二人には頼りっきりで申し訳ないが、悟空と、自分には、今日こそ果たさなければならない使命があるのだ。
「……構いませんよね、信二郎?」
「ああ、分かってるさ……いい加減に、決着をつけなきゃいけないってことは」
答えながら、信二郎は今一度、遥か彼方にそびえる山々に目を向けた。
心なしか、広がる曇天がより一層濃さを増しているように信二郎には思われた。
はじまりの日から今日まで、長かったような、短かったような。
だがもはや逃げることは許されない。
ここへきて遂に、雌雄を決するときがやって来たのだ。
* * *
帰還した子ザルの記憶を辿って王羅町を離れてより、はや数時間。
いつしか信二郎と悟空は、辺り一面に真っ白な靄の広がり漂う、起伏の激しい一帯へと足を踏み入れていた。
細長く伸び育った広葉樹が無数に生え並ぶ合間を、薄い水滴のベールが覆い尽くしている。
その上、舗装された道ならばまだ良かったものを、よりにもよって信二郎たちが進むのは、落ち葉と腐葉土が剥き出しとなった無数の斜面なのだった。
不意に、ズリッと足元を滑らせ転倒しそうになる。
「うわわっ!」
「っと、危ない」
即座に悟空が手を伸ばして来て、信二郎の腕を掴んで支える。
一瞬、肝が冷えた気がした。こんな場所で下手に転べば、どこまで落ちるか分かったものではない。
「信二郎、どうか気を付けて」
「うん、ごめん。まだちょっと心臓がドキドキしてるよ」
「舗道を行っても良かったんですが、見つかるリスクがありますのでね……」
「いいよ……悟空のことは信頼してるから」
一か月も一緒にいた所為か、知らぬ間にこんな台詞まで言えるようになっていた。
悟空に斜面の上まで引っ張り上げて貰いながら、信二郎は自分で自分に驚いたりしている。
「だけど奴らも、随分と面倒な場所に拠点構えてくれたよね」
「まぁ、過激派のアジトって考えれば、ありがちな気もしますがねぇ」
信二郎たちがやって来たのは、陀緒須市の西端に位置する広い山岳地帯であった。
スマートフォンを使って調べてみたところ、この先の山腹に、もう十年以上も前から使われなくなっている古い廃寺があるらしいのだ。どうやら、ギューマ一族はそこを拠点にしているようだった。
人気のない土地であればアジトにはもってこいだ、というのが悟空の見解である。
実際ここへ来る途中も、打ち捨てられて相当な月日の経過した集落の跡を目撃した。
こんな山奥では生活も不便だろうし、過疎化の進行を止められなかったに違いない。檀家がいなくなって収入源もなくなり、寺の維持すらも不可能となったのだろう。
信二郎はなんとなく『諸行無常』という言葉を思い浮かべた。
そうして苦労しながら、いくつかの斜面を登ったり降りたりし続けていると、いつしか遠くの方から小気味よい、独特のテンポ感のある掛け声のようなものが聞こえてきた。
「悟空……!」
「……ええ、分かってます」
悟空もすぐに気付いたらしく、相変わらず信二郎のことは気遣いながらも、心なしか斜面を登る際の速度を速めたように思われた。
こうして、更にふたつほどの斜面を乗り越えたその時、信二郎たちの視界が大きく開けて、探し求めていた集団がいよいよその姿を露わにした。
「信二郎、伏せて伏せて」
思わず身を乗り出しかけた信二郎を、悟空が慌てて引き戻し斜面のこちら側に隠す。
それから、悟空に促され改めてそっと向こう側を覗いた信二郎は、今度こそ敵の姿をしっかりとその視界に捉えることとなった。
――ウッシ、ウシシッ! ウッシ、ウシシッ!
眼下でこだましていたのは、そんな珍妙極まる掛け声の数々であった。
尤もそれを発している連中の風体は、ある意味それ以上に奇妙で奇天烈だったが。
バトラー兵たちが隊列を為し、行軍練習に励んでいるのだ。
数十体近くもの牛面執事服が両手に武器……というか、どう見ても農具の鍬にしか思えない物体を抱きかかえ、二列縦隊を作りながら、山間を走る道なき斜面を、一心不乱にグルグルと行ったり来たりしているのだ。
「――貴様たち、声が小さいぞッ! そんなことで本当に、一人前の改拓戦士になれるとでも思っているのかッ!?」
ウッシ、ウシシッ!! ウッシ、ウシシッ!!
「まだまだ、もっとだ! 貴様たちの中にあるという改拓的精神を見せてみろッ!」
ウッシィ~、ウシシッ!! ウッシィ~、ウシシッ!!
少し離れた位置から見下ろす監督役が、何ともありがちな檄を飛ばしている。
その監督役というのは、誰あろうニルルティであった。
……どうでもいいが、彼女に怒鳴られれば怒鳴られるほど、バトラー兵たちの掛け声に妙に艶が増していくように感じるのは、信二郎の気のせいだろうか。
いやこの際、気のせいということにしておこう。
というか正直あまり深く考えたくない。
何はともあれ、探し求めてきた敵の姿を発見したのは僥倖であった。
「悟空……これからどうする?」
「うーむ、さて……」
信二郎が出来るだけ声を殺して訊ねると、悟空は顎に手を当てて思案を始めた。
「出来れば不意打ちしたいところですが、我々の場合、リミッター解除の光で居場所がバレる危険性があるんですよね。だとすると、今のこの状態で仕掛けるほかない訳ですが……」
「……人数も多いし、流石に不利じゃないか? 悟空が負けるとは思わないけどさ」
「まぁ、いつもに比べて時間はかかるでしょうねぇ」
「もしかしたら、その隙に援軍呼ばれたり、逃げられたりするかもしれないよ」
「それこそ元の木阿弥ってやつですね……よし、分かりました。この際ですから、今までの礼も兼ねて、ちょっくら脅かしてやることにしましょう」
「えっ?」
信二郎がキョトンとしていると、悟空はひとりでにニヤッと笑ってみせた。
いつぞやのような、悪だくみを秘めている時の表情である。
悟空と一緒に、音を立てないように敵から死角になっている斜面の影に降りて行きながら、信二郎は何やら嫌な予感を覚えていた。
「モンキーマジック・サモン!」
悟空がまた新たな術を唱えて、手の平を地面に押し付けた。
すると、その地面が微かな光を放った後にボコボコっと泡立ち、信二郎を仰天させた。
信二郎が悟空の背中に隠れながら推移を見守っていると、数秒後に突然、地面の下から何か上手く形容出来ない茶色い塊のようなものが膨れ上がるようにして出現し、たちまちボロ布を纏った白髪の老人の姿へと変化した。
その老人が恭しく礼をしてくると、悟空もニコニコと手を振って応じたりする。
「いやー、お勤めご苦労様です」
「滅相もありませぬ。はて、何の御用ですかな、大聖どの」
「え……あの……浮浪者の幽霊……?」
信二郎が思わずそう呟くと、たちまち悟空に肘で小突かれてしまう。
「ちょっとちょっと、信二郎……失礼なこと言っちゃあいけません。この方はね、ここら一帯の土地神なんですからね」
「土地神……!? ってことは、つまり氏神さまってことか……」
「恥ずかしながら、人間に打ち捨てられて十余年、誰からも見向きもされなくなってすっかり荒れ果ててしまい、現在ではこの有様なのです」
そう説明する目の前の白髪の老人を、信二郎はまじまじと見つめた。
成程、言われてみれば、この人物をもう少し小奇麗にすれば、子供向けの童話等に出てくるデフォルメされた『神様』のイメージに近くなる気がする。
あまりにアレな姿なので、一瞬、この辺で亡くなったホームレスの幽霊が化けて出たのかと勘違いしてしまった。
「そんなことよりも、現在おたくの土地に居座ってるギューマの件なんですがね」
「ああ……彼らですか。土地を利用して貰えるのは有難いですが、まさか過激派の方たちとは知らなくて……一体どうしたら良いやらと」
「これからちょっとした捕物をするので、ここら一帯を濃霧で覆い尽くして貰えませんか」
「ええ、ええ。その程度ならば、何なりと」
こうして、土地神が要請を快諾してくれたことを受け、信二郎たちは彼を引き連れて再び、目の前の斜面をよじ登っていった。
頂上部からそっと覗き見ると、バトラー兵たちは相変わらずニルルティの監督の下、奇妙な掛け声を発しながら熱心に行軍練習を続けている。ニルルティの注意も、終始彼らの一挙一動に注がれていて、こちらの接近には気付いてないようであった。
やがて悟空の合図と共に、土地神が頭上に伸ばした腕をグルグルと回し始めた。
すると不思議なことに、現在の位置から見える範囲に漂っていた靄が、見る見るうちにその密度を高めていき、あっという間に様態を靄から真っ白な霧に変化させていった。
「……んっ、何だ? 急に霧が濃くなってきたな……」
ニルルティの方もどうやら異変を察知した様子であった。
が、既に時遅し。気が付いたときには、辺り一面は突如発生した濃密な霧によって、完全に飲み込まれてしまっていた。もはや十メートル先の光景を確かめるのさえ覚束ない。
何も知らない側からすれば、それはかなり不気味な状況でもあったハズだ。
「おい、貴様ら戻って来い! この状況は危険だ、訓練は一時中止――」
次の瞬間である。
悟空が隠れ潜んでいた場所からバッと立ち上がると、「モンキーマジック・ヘンゲ!」などと新たな呪文を唱えるなり、まるで弾けるようにして濃霧の中へと飛び込んでいった。
咄嗟の出来事だったので、隣にいた信二郎でさえも呼び止める暇がない。
ダダダッという斜面を駆け下りる音が聞こえたが、それも次第に遠ざかっていった。
一方、霧の中からは相変わらずニルルティの声が響いてくる。
「聞こえているなら返事をしろ! まったく、急にどうして――――えッ? い、い、いいい、いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!?」
突如として、まるで悍ましいモノに出くわしたかのような激しい謎の悲鳴。
思わず信二郎は、近くにいた土地神と顔を見合わせてしまった。
「いやああああああ来ないで! やめて! やめて! やめてったらぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
ニルルティが女らしい叫び声を上げる瞬間など、初めてという気がした。
しばらくして、ズルッ、ゴロゴロ、ドッシーン! と三拍子揃った音がして悲鳴は途切れた。
……一体、この霧の中で何が起きているというのだ。
混乱しているのはバトラー兵たちも同じらしく、眼下に見える谷間のそこかしこでパニック状態となったウシウシという声の連鎖が聞こえてくる。
状況を今一度よく確かめようと、隠れていた斜面から身を乗り出したその時。
不意に信二郎の眼前に、角を生やし鬼の形相をした白装束の女が音も立てずにヌッと現れた。
「ひぃっ…………!?」
思わず仰け反り、大声で叫びそうになるのを懸命に堪える信二郎。
落ちついてよく見るとそれは、能などで使われる般若の面をつけているのだった。片手には異様にでかいナタを携え、もう片方の手には霧の中へと伸びた縄の端を握りしめている。
しかもその縄でグルグル巻きにされ、こちら側へぞんざいに引きずられて現れたのは、今やすっかり目を回し、不幸にも気を失ってしまっているニルルティだった。
それを見て、信二郎は初めて目の前の般若面の正体に思い至った。
「ご、悟空……?」
「ぷっ、くくくくく……!」
すると途端に、ホラー映画に出て来そうなおっかない見た目のそいつが、押し殺した様子で聞き慣れた笑い声を漏らすと共に、ボンッと音を立てて金髪セーラー服の少女に逆戻りした。
やっぱり、彼女が化けていたという訳か。
信二郎はようやくホッと胸を撫で下ろすことが出来た。
「あのなぁ……ビックリさせないでよ……こっちまで心臓に悪いじゃないか」
「いやぁ……驚かしてすみません、ぷふふ……それにしても、この脳みそ海綿女の慌てっぷりといったらなかったですよ……くくく……」
「いや、誰でも怖いよアレは……」
あんな見た目の人物にいきなり霧の中で襲撃されて、平気な人間など誰もいないだろう。
小さな子供とかなら正直、チビっても許されるレベルだと思う。
悟空が悪戯好きなのは、まぁ何となく知っていたが、これには流石に呆れる他なかった。
「あのぅ……、もう霧は晴らしてしまっても宜しいのですかな?」
土地神にそう訊ねられ、すっかり忘れていたと、悟空は即座に許可して術を解かせる。
たちまち、辺りを覆っていた濃霧が文字通り霧散し、元の視界が復活した。
改めて斜面の向こう側を覗き込むと、いつの間にか監督役を拉致されたバトラー兵たちは、未だに何が起きたのか理解できないまま、慌てふためき右往左往していた。
それを見て、ちょっとだけ気の毒に思ってしまう信二郎であった。
* * *
「ははぁ、成程。こういう仕組みだった訳ですね」
「何を一人で納得してるんだよ、悟空?」
「いやホント、中々面白いですよコレ」
拉致してきたニルルティを伴い、信二郎たちはまた更に離れた場所に移動して来ていた。
ニルルティは相変わらず気絶したまま、先程から地面に乱暴に転がされている。
扱いの雑さにやや同情するが、それよりも気になるのは、彼女の近くにしゃがみ込んだ悟空が、何やら妙に感心した様子であることだった。
いざ悟空が顔を上げてこちらを見た時、いつの間にか彼女がアンダーリムのメガネをかけていることに気が付いた。
よく見るとそれは、普段からニルルティが装着しているものだった。
どうも彼女の顔からもぎ取って試着してみたらしく、それを弄りまわしながら悟空は、終始ほほー、とか、おおー、などと声を漏らしていたのだ。
「悟空、一応言っておくけど、呑気に遊んでる場合じゃないんじゃ……」
「や、違うんですよ。このメガネですけどね、どうも曲界力の測定装置になってるみたいで」
「……なんだって!?」
「このレンズを通して覗くと、相手の宿している曲界力がどのぐらいなのか、数値とグラフに変換されて表示される仕組みのようです。噂でおびき寄せた人間の中から、実際の標的をどうやって選別しているのか気になってましたが、これでハッキリしましたね」
「えっとつまり……悩んでる人間や苦しんでる人間を、ある程度見分けられるってこと?」
「平たく言えば、そういうことですね」
曲界力とは、全ての人間に宿る『世界をねじ曲げる力』だという。
心理的な現実逃避の度合いとも直結するそれは、見方を変えれば、その人間がどれだけ悩み苦しんでいるかのバロメーターともなり得るということだ。
まったく、ギューマ一族というのも妙なところでハイテクな集団である。
「ちなみに信二郎の数値ですが……これによると、およそ一五〇〇ってところです」
「何だよ一五〇〇って!? 大きいの? 小さいの?」
「さあ……あたしにも正直よく分かりませんが。良かったら信二郎もこれ、かけてみます?」
そう言って悟空が手渡してきたニルルティのメガネを、信二郎は注意深く受け取った。
こうして見ても、外観はいたって普通のメガネである。
信二郎が恐る恐るメガネをかけようとしたその時、足元でもぞもぞと蠢くものがあった。
「ん……んぅ……」
「ッ!」
今まで気を失い続けていたニルルティが、やっとのことで目を覚ましかけていた。
信二郎は慌てていたためか、咄嗟に彼女のメガネを畳んでポケットに突っ込むという意味の分からない行動をとってしまった。
悟空もまたニルルティが起きたのに気が付いて、相手の前にしゃがみ込むと、その頬を軽くペチペチと叩いて覚醒を促しにかかっていた。
「おはようさん、ご機嫌いかがです? 今がどういう状況か理解できますか?」
「……? ここは何処だ……あのとき足が滑って転んで、それから……」
ブツブツ言っていたニルルティの瞳の焦点が、徐々に合ってくる。
するうちに、彼女の顔色が見るからに青ざめたものへと変わっていった。
「そ……そ、そそそ、孫悟空ッ!? 貴様が何故ここにいるのだッ……」
「おやおや、まーだ寝ぼけてるみたいですねぇ」
「ハッ……さ、さては全部貴様らの仕業か! おのれ、よくも人をコケにしてくれたな!?」
「改拓的精神に溢れた、随分と可愛らしい悲鳴でしたね」
「黙れ黙れ黙れ――――――――――――――――――――!!」
喚き立てながらニルルティは地面の上で滅茶苦茶に暴れようとしていたが、何せ全身を縄でがんじがらめにされている上に、ロープの端も近くの木に括りつけられているので、思うように身動きが取れない。
メガネを外した影響もあるのだろうが、両目はかつてないほど細まって鋭く攻撃的になり、それなりに美しかった銀髪はボサボサに乱れて、もう惨めな事この上ない。何とも実に近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
しかも悟空は一歩後退した上で、それを指差してケラケラと笑っている始末。
「クッ……私としたことが一生の不覚だ! 殺すならばいっそ、ひと思いに殺せ!」
「生憎ですが、オークと姫騎士ごっこするような趣味はありませんのでね」
「やかましいわッ!」
「いや、そもそも何の話だ」
信二郎は思わずツッコまずにはいられなかった。
人間界にやってきてから、悟空は一体どういう方面の知識を仕入れているのだ。
「まあ、冗談はさておきですね、真面目な話、アンタの要望に応える気はさらさらありませんので諦めてください。牛魔獣みたいな生体兵器は別として、アンタと牛魔王は死んだら殉教者扱いになっちゃうから、生け捕りにしろと上からお達し出てますんで」
「またしても、当てのない幽閉で我らの誇りを踏みにじろうというのか……天状主義者どもの好きそうな、うす汚いやり口よ!」
「勝手に何とでも言いなさい。ああ、念のため言っときますが自決とかもさせませんからね。もしも変な動きしたら、その瞬間にあたしの術で金縛りにしてやりますんで」
「な、何ぃ……!?」
「まぁ、たとえ命令がなくてもこの場にお師匠さんが……三蔵法師がいたとしたら、同じ様に殺すなと言ったでしょうしね。あたしゃその遺志に従うまでのことですよ」
悔しそうに歯噛みするニルルティを、悟空は哀れみを含んだ目で見ながら言った。
その言葉を聞いて信二郎は、ああ、と納得した。
この間の一件でも分かり切っていたことだが、改めて、悟空の中には三蔵法師の言葉や想いが今も尚息づいているのだ。たとえ死別しても変わらず、彼女はこれからもそれを守り続けていくのだろう。
「フン……そんなのは所詮、我らにとってはありがた迷惑というものだな!」
と、ニルルティが悟空を睨み返して、対抗意識からなのかそう言い放った。
「我らには、改拓戦士の誇りがあるのだ! 貴様らの掲げる理念のために生き長らえるぐらいならば、いっそこの場で命を絶たれる方が、私も父上も幸福だというものよ!」
「ハァ……アンタねぇ、あんまり滅多なこと言うもんじゃないですよ」
「黙れ! 貴様などには理解できまい! もし仮に、私がここで改拓に準じ散ったと聞けば、父上もさぞお喜びになられるに違いないのにな、残念だ! アハハハハッ」
「この……!」
悟空が思わず、挑発的な笑みを浮かべるニルルティの胸ぐらを掴みかけたその時。
気が付けば信二郎は、悟空よりも早くニルルティに挑みかかるようにして彼女の服を乱暴に掴み、あらん限りの声で怒鳴りつけていた。
「――――いい加減なこと言うなよ、この馬鹿!」
「え……」
予想外の人間が見せた、予想外の剣幕。
ニルルティどころか悟空までもが呆気に取られている様子だった。
だがその時の信二郎は、考えるよりも先に手と口が動いてしまっていたのだ。
「キミが死んだら父親が喜ぶだって? そんな訳ないだろ! だったら逆に、キミは牛魔王がいきなり死んだって聞かされたら喜ぶことが出来るのかよ!?」
「い、いや、それは……」
「見ろ、喜べないだろ!? 身近な誰かが死んだら、悲しいと思うに決まってるじゃないか……そんなことも分からないで、殺せとか何とか、軽々しく言ってんなよ!」
「あ……う……」
意外にも、信二郎のその言葉はニルルティに深く突き刺さったらしかった。
瞬く間に色を失い、俯いてしまう彼女を見ているうちに、信二郎はハッと我に返ってその服から手を放して数歩後ずさった。
頭に血が上って、自分は一体何を口走っているのだ。
「あ……ご、ごめん……ボクが言えるような立場じゃないけど……」
信二郎自身の母親のこと。
それに、悟空にとっての三蔵法師のことを考えたら、つい我慢が出来なかったのだ。
急速に勢いを衰えさせた信二郎が、ふと悟空の方を振り返ると、何故だか彼女は半分笑ったような、泣いたような、実に不思議な表情を浮かべていた。
それから遂にハッキリと微笑むと、信二郎の元に近づいてきて言った。
「……ありがとうございます、信二郎」
言いながら彼女は、信二郎の頭を抱き寄せるとやや乱暴にガシガシと撫でた。
信二郎は思わず声を漏らして、小さく身をすくめたが、悟空はお構いなしだった。
「……今のは本気で嬉しかったですよ」
「う、うん……」
熱く見つめてくる悟空と、消え入る様に目を逸らす信二郎。
地面に座り込んだままのニルルティはすっかり無言になって、それを力無く見上げていた。
* * *
その後信二郎たちは、再び悟空が召喚した土地神の案内で、比較的傾斜の緩やかな場所を辿りつつ、また三、四十分ほども山奥を目指して歩き続けていった。
そうしてやがて、ある小山の中腹付近に差し掛かった時、とうとうそこに、痛み切って半分以上が崩れ去った状態の山門があるのを目の当たりにすることとなった。
付近には、周囲を警戒するかのように配置されたバトラー兵の数々。
つまりは、ここがギューマ一族のアジトという訳である。
白濁して陽光の遮られた空の下、まだ微かに靄が漂う山中にてポツンとそびえる壊れかけの山門という光景は、さながら冒険の果てのラストダンジョンという趣きであった。
この奥に行けば、いよいよ敵軍団とのご対面だ。
「遂にここまで来ましたね。信二郎……準備は大丈夫ですか?」
敵から身を隠した木陰で、隣に立つ悟空が念を押す様にしてそう訊ねてきた。
信二郎は斜め上方にある山門を無言で真っ直ぐ見上げていたが、今一度大きく深呼吸をして息を整えると、少し間を置いてから一言一言ハッキリ噛みしめるように返事をした。
「……うん、覚悟は出来てる。いつでもいいよ」
彼らの斜め後ろでは、ここまで一緒に連行されてきたニルルティが、さっきのやり取り以来ずっと仏頂面を続けていた。ここで大声でも出せばいっそ、門の向こう側にいる仲間に警告を発せそうなものだが、不思議と彼女はそうすることはなかった。
何か思うところでもあったのかもしれないが、その胸中は信二郎たちには窺い知れない。
「さて、それじゃ早速――」
「あ、やっぱり待って悟空」
「――はいっ?」
「悟空、あのさ……ボクらが初めて会った頃にした約束……覚えてるかな?」
信二郎は何となく、今のうちに確認しておきたいと思ったのだった。
「……はて? 突然なんの話でしょうか?」
「い、いや、別に覚えてないならいいんだけどさ……」
悟空はただただ、不意を突かれたようにキョトンとした顔で首を傾げるばかり。
そんな彼女から視線を逸らし、信二郎は慌てて話を打ち切った。
思っていた以上に気落ちしている自分に驚いたが、今はそんな場合ではないのだと強く言い聞かせて気持ちを切り替え、さっさと呪文を唱えてしまおうとする。
だがそこへ、
「苦しい時が来ても辛い時が来ても、必ず共に歩んでいくとか誓ったような気がしますが……そのことがどうかしたんですか?」
「……覚えてるんじゃないかよ」
動作をすんでのところで中断し、少しだけ抗議めいた眼差しで悟空のことを見返す。
「ついでに言えば、今後信二郎が味わう予定の不安や痛みや寂しさも、一緒になって背負っていくと誓いを立てたりもしましたよね」
彼女はいつの間にか、ニヤッと悪戯っぽい表情でこちらを見つめて来ていた。
まったく、この性質の悪い斉天大聖ときたら。
他人をからかうことを、三度の飯より楽しみにしているのだ。
「心配しなくて大丈夫ですよ。ちゃんと無事に帰って……約束は果たすつもりですから」
「……本当の本当に、約束だからな」
「ええ!」
悟空から元気よく返事をされてしまい、信二郎はつい気恥ずかしくて、彼女から目を背けてカッカライザーを急ぎ取り出し伸長させると、その金色の錫杖に今度こそはと強く意識を集中させるようにした。
そう、約束を果たしてもらうのだから。
だからこそ、この最後の戦いには勝たなくてはならないのだと、そう自分に言い聞かせて。
「カッカライジング!!」
まばゆいばかりの金色の光が山中に溢れ返るのと、空中をひと薙ぎしたニョイロッドに弾き飛ばされたバトラー兵たちが、崩れかけの山門に激突して跡形も無く打ち砕くのが、殆ど同時の出来事だった。
崩壊する木造建築から立ち上る埃や轟音が収まりきらぬうちに、その中を突っ切り真っ赤なバトルスーツ姿に身を転じた孫悟空が、廃寺の境内に颯爽と現れる。
「やいやい牛魔王ッ、何処に隠れてやがるんですか! この斉天大聖・孫悟空さまがやって来たからには、もうアンタに逃げ場はありませんよ。大人しく姿を現しなさい!」
信二郎がニルルティを連れて、後から正面の石段を上っていって追いついた時には、境内の中は既に一触即発の状況であった。
石畳がめくれ上がり、ぼうぼうとした雑草に覆い尽くされる荒れ果てた境内では、そこらを警備していたバトラー兵たちが続々集まって来て、いつでもかかって来いとばかりに皆一様に身構えていた。
その奥に建つ半壊状態の本殿からは、のっしのっしと一歩ずつ足音をさせて登場する、プラチナブロンドにフロックコートを纏った、二本の角を持つ白人風の大男。
――牛魔王ダルマである。
「……来たか、我が愛しの義妹よ!!」
両手を大きく広げ、余裕に満ちた、極めて大歓迎といったムードを醸し出す牛魔王。
悟空とは何もかもが正反対の様子である、
尤も彼女にとってみれば、その態度は癇に障るものでしかなかったようだが。
ニョイロッドを突き付け、彼女は今一度ハッキリと口上を述べた。
「観念なさい、牛魔王! 見ての通り、アンタの娘はひっ捕らえました。残るはアンタひとりだけです……もう万に一つも勝ち目はありませんよ!」
「フハハ、それは余りにも早計というものではないか、我が義妹よ?」
牛魔王は目の前でチッチッと指を振りながら、相変わらず余裕の笑みを浮かべていた。
「ワタシは知っているぞ? オマエが与する天状主義者どもは、生半な協調路線を掲げる故にこの世界へは安易に立ち入ることが出来ない。大方、我らを確実に捕えるまでは増援一人すら満足に寄越せぬのではないか? オマエが後ろの小僧と、たった二人きりで潜入してきたのが何よりの証拠よ」
「フン……狂牛病野郎にしちゃ、中々冴えてるじゃないですか。ええ、ええ、確かにアンタの言う通りですよ。たとえこのアジトの位置情報を伝えたところで、アンタらを確実に捕えない限り、上の連中は応援ひとつ寄越すことはないでしょうよ」
「ほほぅ、珍しく素直ではないか。如何なる心境なのだ? さてはいよいよ天状主義者どもの欺瞞に嫌気がさし、我らの軍門に下りに来たと見えるな。よい、よいぞ! 今からでも遅くはない……ギューマ一族はかつての同胞を快く歓迎しようぞ!」
「黙りなさい! だからアンタの脳みそはスポンジだってんですよ」
悟空が歯をむき出しにして、牛魔王の申し出に噛みつく。
こちらも相変わらずかつての義兄には攻撃的だった。
「確かに上からの増援は期待できませんが……それがどうだってんですか。元よりあたしゃ、ありもしないものには頼らない主義なんです。あたしにはね……かつてお師匠さんから頂いた言葉と、今ここにいる信二郎で充分なんですよ!」
「悟空……!」
自信たっぷりにそう言い切られて、信二郎は思わず胸がいっぱいになった。
そんなにまで、大きなものだと思ってくれているなんて。
だが悟空のその啖呵を前にしても、牛魔王は大仰に笑うばかりであった。
「クハハハハハ、これはまた大層なハッタリよ! だがな、我が義妹よ……オマエとて、この圧倒的兵力差を認識できぬ訳ではあるまい?」
牛魔王の言葉と共に、境内に集まったバトラー兵たちが僅かに一歩、距離を詰めてくる。
確かに相手の言う通り、この彼我の人数差だけは如何ともしがたい。
悟空のことだから、バトラー兵そのものに苦戦することはないとしても、そこに牛魔王自身が加わって攻撃してくれば、戦況は一転して不利になるのは間違いなかった。
「我が娘を人質として扱えぬことも知っているぞ。オマエたちはその偽善的精神から、決して我らの命を奪うことは出来ぬのだから……今も昔もな」
「ち、父上……!」
「少しの間、待っているがいいぞ、ニルルティ」
信二郎の隣で感極まった表情をしているニルルティに、優しげな眼を向けながら、牛魔王は僅かに腰を落とすと携えていた剣に手をかけ、悟空を相手に今すぐにでも斬りかかれるぞ、という風な体勢を取った。
「せっかく捕えた我が娘を、ここへ連れてきたのは失策だったな。この場にある兵力に加え、ニルルティを取り返せばそれ以上の兵力さえも、我らは無尽蔵に獲得することが出来る。近くギューマ一族は改拓を成就させ……悲願たる極酪壌土の実現を見るのだ!」
「悟空、どうする!?」
牛魔王のみならずバトラー兵たちも完全な臨戦態勢に入ったことで、信二郎は流石に焦燥を覚えるようになった。この状況はマズい、明らかにマズい。
先程ああ言ってくれたのは嬉しいが、悟空には何か勝算でもあるというのだろうか?
そう思って訊ねようとすると、彼女はこちらを手で制して呟くように言うのだった。
「兵力……ねぇ……」
「……ん?」
悟空は牛魔王のことを真っ直ぐに見つめて、視線を離そうとしなかった。
攻撃を警戒していた、といえばそれまでだが、その割には声色に緊張感が見られない。
それどころかむしろ、冷たく突き放すようなそんな印象さえ与えられたのだ。
「……どうした我が義妹よ、何か言いたい事でもあるというのか?」
牛魔王も、何か唐突な違和感を覚えたらしい。
余裕に満ち溢れていた彼の表情が、一瞬だけこわばったように思えた。
「言いたい事というか、聞きたい事なら少々あるんですがね」
「ほう……遠慮せずに言ってみるがいい」
「では訊ねますが……アンタの言う『兵力』とやらが、一体全体何処にあると言うんです?」
「な、なに……!?」
これには牛魔王のみならず、ニルルティも、信二郎も思わず唖然とさせられた。
一瞬、悟空が何を言わんとしているのか分からなかった。
ギューマの兵力が何処にあるかだって? そんなもの明らかに――、
「そ、孫悟空貴様、いきなり何を言い出すのだ!」
沈黙を破り、彼女の発言に真っ先に噛みついたのがニルルティであった。
「そんなもの……今貴様の目の前にいる、このバトラー兵どもに決まっているではないか! それだけではないぞ……私が生み出してきた数多くの牛魔獣たちもだ! これらは全て、天状界の現体制によって為されたあらゆる過ちの産物であるのと同時に、この改拓戦争を勝利へと導くため身命を賭さんとする、偉大なる兵士たちの姿なのだ!」
「へぇ……そうですか」
だがそれでも、変わらず悟空の目つきや声は冷ややかなままであった。
「あたしにゃ何故か、そんなご大層なシロモノには見えないんですけどねぇ?」
「……さてはいよいよ血迷ったか、我が義妹よ」
そう言ったのは牛魔王だった。
「この圧倒的にして絶対的な兵力差を前に、現実を認識する力が失われてしまったと見える。実に心苦しいが、これも改拓を成就させるための必要な犠牲のひとつということか……」
「その言葉、そっくりそのままアンタにお返ししますよ、牛魔王」
「…………」
「もうこの際、アンタらの口からハッキリ聞いておきたいんですがね」
悟空は牛魔王の返事を待たずに続けた。
「牛魔獣なんてモンを生み出して、アンタらは結局のところ、何がしたかったんです? この街のあちこちで破壊とパニックを散発的に引き起こして……それがアンタらの言う改拓とやらを成し遂げるのに、いったい何の意味があったというんですか」
「…………ぬ」
「えっ? 待ってよ悟空、その話って確か……」
そう、その疑問については先日、悟空自身が推測を口にしていなかったか。
すなわち、天状人の子孫が多く住まう陀緒須市を攻撃することは、イコール天状界に与える打撃の第一撃であると見做しているのではないか、ということ。
また、牛魔獣をそこら中で出現させることによるゲリラ戦法は、自分たちに対する消耗戦の意味合いがあるのではないか、ということ。
推測とはいえ筋は通っていたし、今この場でその疑問を蒸し返す必要があるのだろうか?
「言いたい事は分かりますよ、信二郎」
信二郎の疑念を察したらしく、悟空はすぐにこちらを振り返って言った。
「ですがね、考えてみりゃアレも妙な話なんです。それにさっき……ちょいとばかし不可解なモンを見てしまいましたのでね。その確認です」
「不可解なもの……?」
「まあ、今は置いときましょう。いずれすぐに分かることです」
首を傾げる信二郎をひとまずは宥めて、悟空は改めて牛魔王の方に向き直った。
「それで……どうなんですか、元・義兄上どの? あたしなんかにゃあ、到底及びもつかない深遠なるお考えがあるものと思いますが、是非とも改めてご教授頂きたいモンですね」
「……クハハ、中々殊勝な心掛けではないか」
そこでとうとう、牛魔王は腰の剣から手を離し戦闘態勢を解くと、またも両手を大きく広げ余裕ぶった態度を示しながら、手前の回廊を行ったり来たりし始めた。
「牛魔獣を用いたゲリラ攻撃の、その意味が知りたいと言ったな? 教えてやろう。天状界の勢力圏に潜在する不満分子、および被搾取階級の意思によって生み出された兵士たちの攻撃、それはすなわち天状主義に対する力無き市民の明示的脱却意思の表明であると同時に、天状界現体制に対する進歩的改拓闘争と位置づけられるのだ」
「……? ……!?」
信二郎はしばしの間、脳内での処理が追い付かずに頭痛を覚えさせられた。
牛魔王が語っているのはおそらく政治的な言説なのだろうが、なにぶん難解な用語や抽象的理論が連発されすぎていて、前知識が無い状態では全く意味が分からない。
が、悟空はある程度それを理解した様子であった。
「進歩的改拓闘争……ですか。進歩的、ねぇ」
悟空はあからさまな含み笑いを浮かべていた。
「仰々しい言葉を並べてやがりますが、要は無差別テロじゃないですか。これだけ時代に逆行した手段に訴えときながら、進歩的とは笑わせます」
「我々が時代に逆行的であると非難されるのならば、オマエが与する天状主義者どもも、同じく前時代的であると非難されるべきではないか? 元より、我らにこのような暴力改拓の道を選択させたのは、現在までギューマ一族の者たちを軽んじ対話による解決を拒み続けてきた、天状界の現体制そのものではなかったか」
「んじゃ訊きますが、善財童子のやつは何なんです?」
「…………」
ここでまたしても牛魔王が押し黙った。
見れば、信二郎の隣にいるニルルティも気まずそうな顔をしていた。
追い打ちを掛けるかのように、悟空がその後を紡ぐ。
「アイツの件を忘れたとは言わせませんよ、牛魔王。アンタの息子でもあり、ニルルティ……アンタにとっては兄貴でもあった男・紅孩児のことですよ」
「ニルルティ以外に、牛魔王に息子なんていたのか……!?」
素で驚いた声を上げてしまった信二郎を見て、悟空が苦笑気味に補足してきた。
「西遊記という側面で見れば、むしろ息子の方が有名ですよ、信二郎」
善財童子。またの名を紅孩児。
その正体は牛魔王の実の息子であり、三昧真火と呼ばれる火炎を操る能力を持つ。
かつての戦いでは、悟空たちとの死闘の末、敗北して観音菩薩の弟子になったという。
悟空に西遊記や牛魔王たちの真相を聞かされた今となっては、それはつまり反体制組織から足を洗い真っ当な公務に従事するようになった、と解釈するべきなのだろう。
「善財童子のやつもアンタらと同じギューマ一族の人間ですが……少なくともアイツは、毎日立派に仕事して、今では普通に周りの連中から受け入れられてます。そりゃあ元・犯罪者ですから肩身の狭い時期も多少はあったでしょうがね。昔はともかく今じゃもう、ギューマ出身だからってそれだけを理由に軽んじられるようなことは、無いんですよ」
悟空の指摘に、牛魔王もニルルティも沈黙したままであった。
ハア、と悟空が微かに溜息を吐くのが、後ろからでもよく分かった。
「それにウチのお師匠さんだって、善財童子を通じてアンタらのところへ何度も何度も面会に行ってたハズでしょ? 獄中のアンタらと手紙のやり取りしてるって、嬉しそうによく話して聞かされましたよ。天状界の抱えてきた問題をひとつでも多く解決したいって、あの人がそう言ってたの、アンタらだって知らない訳じゃないでしょうに」
「……三蔵法師って、そんなことまでやってたの?」
「お師匠さんは敬虔な人ですが、決して盲目的ではありませんでしたからね」
言いつつも、悟空は少しだけ呆れたような口ぶりだった。
「ギューマみたいな連中を生んでる時点で、天状界は決して完全無欠の体制ではないのだと、あの人はそう考えていたみたいです。まぁ、あたし自身の過去の件もありますしね。天状界に不満を持ってる連中との間に、少しでもいいから妥協点を探れないかと、お師匠さんは必死に駆け回ってたんですよ。対話の道が全く無かったなんて、ウソですね」
「だ……騙されるものかッ!!」
唐突に、信二郎の隣でニルルティがそう叫んだ。
「あんなことで……あんな程度のことで、私たちは騙されはしないぞ……! 貴様らは所詮、内外に向けて解決姿勢をアピールしたいだけなのだ……本気で解決する気など毛頭ないクセに見せかけのポーズを取っているに過ぎないんだ……!」
「……あのねぇ、誰に、何をアピールするっていうんですか」
悟空が再び呆れたような顔を見せたが、ニルルティは「騙されないぞ! 騙されないぞ!」と顔を真っ赤にして、ただひたすらに喚き立てるばかり。
「…………その通りだ。哀れな我が息子を利用し懐柔政策を用いたとて、我らギューマ一族の目指すべき道が変わるようなことはあり得ぬ…………」
と、それまで重く口を閉ざしていた牛魔王が、ここでようやく反応を見せた。
おや? と信二郎は一瞬だが強烈な違和感を覚えた。
ハッキリした根拠がある訳ではなく、単なる印象の問題である。
だが確かに、牛魔王から今までの様な若々しさが薄れ――――一言で言えば急速に年相応に老け込んだように思われたのだ。一体どういうことなのだろうか。
だがその回答は得られるハズもなく、彼は再び回廊を行ったり来たりしながら話し始めた。
「そもそも…………我らの扱いが多少改善されたからと言って、それが即、天状主義者どもの過ちを帳消しとすることの理由には当たらぬ。天状界の勢力圏たるこの街で、数多くの人間が前後も顧みず、救いを求めて次々と我らギューマに縋り、その曲界力から牛魔獣という形での改拓的戦力の提供に同意したことが何よりの証だ…………」
「いやいや、誰もアンタたちの目的に同意した訳じゃないでしょ。ただ、ひとりの人間として解決したいと思った悩みや不安を、アンタの娘が都合の良いように騙くらかして、見境もなく利用しまくってただけでしょーが」
「そう…………それだけこの街に、現体制の過ちによって生じさせられた不満分子が、数多く潜んでいるということなのだ。しかもその殆どは、自らが天状主義者どもによって搾取されているという真実さえ知らぬという。よってこの不幸な現状より彼らを脱却させるには、危急的速やかに天状主義勢力に対する解放戦線を、牛魔獣という進歩的改拓手段によってこの人間界の中に組織せねばならんのだ…………」
「ちょ、ちょっと待ってよ。さっきから黙って聞いてたけど、一体どういうこと?」
信二郎は我慢しきれずに、思わず牛魔王と悟空の会話に割って入った。
もし自分の理解が間違っていなければ、牛魔王の言い分とはつまりこうだ。
「それじゃまるで……ギューマ一族が、ボクたち人間のために戦ってるみたいじゃないか」
「そう……その通りだ、孫悟空のマスターよ」
牛魔王がそのとき初めて、信二郎のことを見ながら言った。
「我々がとる改拓的行動とは、全てオマエたちのためにやっていることなのだ」
「そうだとしても、おかしな話ですよ」
悟空がすかさず口を挟んできた。
「だったらじゃあ、なんでアンタたちの生み出す牛魔獣は、解放しなきゃいけないハズの市民にばっかり被害を与えてるんですか。天状界がこの街を不当に支配しているというなら、攻撃すべきはその象徴である仏教のお寺や、あるいは警察関係の施設とかでしょ。だけどそういう場所は殆どひとつも襲ってなかったじゃないですか」
「それは……牛魔獣の性質上仕方のないことだ! 貴様らとて知っているだろう、奴らは元になった人間の曲界力を反映させる形で活動する! それゆえに……」
「なーに言ってんですか、ニルルティ。そもそもアイツら、アンタの命令ひとつさえあれば、あたしへの攻撃なりなんなり、どうとでも自由に動かせてたでしょ。それだってのに、実際に被害に遭ったのはそこら辺の一般市民ばっかりです。曲界力を提供した本人以外、基本的には迷惑しか被ってないじゃないですか。どういうことです?」
「……そういえば、最初の戦いの時にも、平気で一般人とか人質にしてたよね」
「それは……それは……ただ父上のご命令に従ったまでのことで……」
「へえ? 随分と自己矛盾した命令を出すんですねえ、牛魔王は」
「黙れ黙れ黙れッ!!」
ニルルティが殆ど金切り声にも近い絶叫を上げた。
「ち、父上には……何か深いお考えがあるに違いないんだ……ッ!」
「だ、そうですが……どうなんですか、牛魔王?」
「ん…………む…………」
悟空に矛先を向けられた直後、牛魔王は僅かだが口籠ったようにも見えた。
「…………改拓的…………改拓的思考に基づくのであれば…………頽廃的現状からの脱却とは進歩的最優先事項と位置づけられる…………ゆえに市民に対して積極的に反芻要求をしていくことは…………彼らを来世に送り届け壌土主義化された進歩的改拓的精神を持つ人間に生まれ変わらせるための不可避的プロセスと見做すことができ…………すなわち…………」
「……さっきから、アンタらは一体何を言ってるんだ……!?」
次第に消え入りそうなボソボソという声で、自己の論理を説明しようとする牛魔王を見て、信二郎は背筋を中心に少しずつ冷たいものが広がっていくのを感じていた。
牛魔獣による攻撃は無差別テロではないのか、と初めに疑問が投げかけられた。
自分たちをテロに駆り立てたのはギューマ一族を差別した天状界の側だ、という。
もはや一族に対する差別などありはしない、と再び回答があった。
一族の扱いが改善されても不満分子はおり、牛魔獣こそがその証だ、という反論がされる。
それは所詮、ギューマが人々を利用しているだけではないか、と反証が為された。
その目的は天状界からの解放戦線結成で、全ては人間界の市民らのためなのだ、という。
解放すべき一般市民ばかりが標的になるのは何故か、と問いかけた。
そしてその答えは、腐敗した現状からの脱却が最優先であり、そのためには積極的に市民を来世に送って理想的な人間に生まれ変わらせる必要がある、というもの……。
「……支離滅裂じゃないか……!!」
言葉に過度な装飾がされていて、読み取り辛いが、要点はこういうことではないか。
これではまるで……いや、何処からどう見ても完璧にカルト集団の論理だ。
もはやゲンドー会が可愛く見えるレベルである。
彼らは何がしたいのだろうか……まったくもって訳が分からない。
信二郎が混乱をきたしていると、悟空が突然こう言った。
「信二郎……例のメガネをまだ持っていますか?」
「え……? ああ、うん、そういえばポケットに入れたまま……」
「アレを今、この場でかけてみてください」
「な……に……!?」
だがまたしても、悟空の言葉に真っ先に反応を示したのはニルルティであった。
理由は分からないが、元々色白な顔面が今は異常なほど蒼白になっていた。
「無くしたもの思っていたら……貴様らが持っていたのか! 返せ、今すぐに返せッ!」
ニルルティが信二郎に向かって飛びついて来ようとした。
しかし、彼女は未だに自分が捕らわれの身であることを忘れていた。
縄で縛られているため思うように動けず、足元の小石に蹴躓いて盛大に倒れ伏した。
思わず信二郎は彼女を助け起こそうとしたが、即座に顔を上げた彼女が、今までの比でない死に物狂いの形相を浮かべているのに気付いて、ギョッと身を引いた。
「返せ……返せ……返せぇ……ッ!」
「な、なんでそこまで必死になって……!」
「信二郎、いいから気にせず、例のメガネをかけてください。そうすれば全部分かります」
「やめろォォォォォォォォォォォォォォッ!!」
声を枯らし暴れ続けるニルルティに対し、悟空は相変わらず冷静沈着だった。
信二郎は少し躊躇ったが、言われるがままに、ポケットの中からニルルティのメガネを取り出すと装着して、ゆっくりと周囲の様子を見回すようにする。
聞いた通り、そこにはレンズの向こう側の曲界力らしきものが表示されていた。
試しに悟空の数値を測ってみるが……まるで見たことも無い文字が表示されて、読めない。
だが隣に表示されたグラフを見る限り、左程大きくはないようだった。流石は悟空だ。
続いて、広場に集まったバトラー兵たちを見てみる。
彼らの持つ曲界力はほぼ均一であることが分かった……というよりも、一体一体が小規模な曲界力の塊のようなのだ。どうやらバトラー兵たちは、その全てがプチ牛魔獣とでも呼ぶべき存在だった様子である。
……その場合、元になった曲界力とは何処から集めたのだろうか?
疑念が湧いたが、ひとまずは置いておいて、今度は離れたところに立つ牛魔王を見てみる。
だがその直後、信二郎の口から裏返った奇妙な声が漏れることとなった。
「え……な……何だよコレ……!?」
あまりのことに一瞬、信二郎は故障ではないのかと疑った。
慌てて牛魔王から目を逸らし、自分の足元にいたニルルティのものを測ってみる。
こちらを見上げ、睨み付けてくる彼女の顔に、謎の文字とグラフが重なって表示された……やはりだ、全く同じ結果のようである。
「……それが全ての答えですよ、信二郎」
「……どういうことだよ……これじゃまるで……」
曲界力を測定するメガネに表示されたもの。
それは牛魔王とニルルティのふたりが、一瞬にしてグラフが跳ね上がり、上限値オーバーとなって警告表示らしきものが出る程の、膨大な量の曲界力を抱えているという事実だった。
曲界力の高さというものが、そもそもどういう心理と直結しているのか。
この結果が示唆することは、ただひとつであった。
「アンタら…………とっくの昔に気付いてたんじゃないかよ!? こんなことしてももう何の意味もないって…………自分らの言ってる事ややってる事に無理が生じてきてるって…………自分でも分かってたんじゃないかよ…………!!」
信二郎がそう言った途端、ニルルティが地面に額をこすりつけて絞り出すように慟哭した。
牛魔王は何も言わなかったが……苦しそうに俯き、明らかに唇を噛みしめていた。
まさか、こんなことがあるというのか。
反体制組織を率いてテロ行為を繰り返してきた父と娘。
その両者ともが、自分たちの行為の破綻ぶりを、これ程までに自覚していたなんて。
「……妙だとは思ったんです」
流石にこの空気に居たたまれなくなったのか、悟空がややトーンの低い声音でそう言った。
「そもそもバトラー兵は……かつて火焔山の戦いの時、味方が誰もいなくなったという現実と向き合えなかったコイツらから生み出された……いわば偶然の産物だったんです。それがこれほどまで大量に、しかも継続的に投入されてくるなんて、どういう訳かと不思議でしたが……ついさっきニルルティの曲界力の高さを見て、ようやく確信が持てました。結局は今回も……コイツらは本音じゃ、自分たちの敗北を悟っているんだってことをね」
「そんなの……そんなのってアリかよ……」
信二郎は思わず再び、周囲を取り囲むバトラー兵たちを見渡した。
一見すると、先程までとその光景は変わらない。
だが真相を知った今となっては、この膨大な戦闘員たちの姿が、ひどく空虚なものの証明に思えてならなかった。こんな悲しすぎる『兵力』などあって堪るものか。
「なんでだよ、ニルルティ……牛魔王ッ!」
「……仕方がないのだよ」
信二郎の声を枯らした問いかけに、そう答えたのは牛魔王だった。
「我々は所詮……主義とか、教義といったものを運ぶための船でしかないのだから……」
声の主を見上げたその時、信二郎はハッとさせられた。
視線の先に立っていたのが先程までと同じ牛魔王かどうか、一瞬だが分からなかったのだ。
そのぐらい、彼の印象は短時間の間に様変わりしていた。
そこには既に若々しく目を輝かせ、生き生きと野望を語っていた男の面影はない。
ただ、ただ、そこに立っているのは年相応にくたびれ、身も心も完全に疲れ切ったひとりの中年……そうとしか形容のしようがない男の姿であった。
「……どういう意味ですか、牛魔王」
「孫悟空、我が愛しの義妹よ……オマエにはきっと、理解し難いことであろうな。父もなく、母もなく……ある日突如として、石の卵より生まれ出でたオマエには……」
「…………」
ジッと見つめ返され、そんなことを言われ、今度は悟空が黙り込む番であった。
牛魔王は彼女から目を逸らし、溜息を吐くと、また再びゆっくりとした足取りで回廊を歩き始めた。だがもう、さっきまでのようなハッタリ感は微塵もなかった。
「改拓とは……決して昨日今日、このワタシが始めたようなものではない……我が父、祖父、そのまた父と……ギューマ一族が連綿と受け継いできた、一族の悲願そのものなのだ。だから一朝一夕にやめることなどは夢のまた夢……たとえそこに、どれだけの疑念や、矛盾を孕んでしまっていたとしてもな」
滔々(とうとう)と語る牛魔王を見ていると、今までの言い訳染みたボソボソ口調が嘘のようだった。
なんとなくだが、信二郎には、こちらが牛魔王の偽らざる本音なのだろうという、確信にも近い思いが湧き上がって来ていた。
「かつてある男が……一族の使命に真っ向から異を唱えたことがある。必ずしも体制の転覆にこだわる必要はなく、もっと別の道を考えていいハズだと……若さゆえの純粋さに依ってな。結果はどうなったと思う? 男は、暗く蛆の湧き立つ牢へと閉じ込められ、食事も与えられぬまま、延々と鞭で打たれ続ける羽目になった。恩知らずの裏切者、恥知らずの愚か者と罵声を浴びせられ、泣いて許しを請うその時まで際限もなく殴りつけられた……敬愛していた、実の父親の手によってな」
信二郎の口から、知らず知らずのうちに呻き声が漏れていた。
悟空は何か言おうとしたようだったが、途中で言葉に詰まったらしく、結局は息を呑み込むだけに終わっていた。
「ギューマ一族に生まれるということ……それはすなわち、反体制であるということだ。この世に生を受けた瞬間から死ぬときまで、それだけが唯一の存在意義であり……拒絶することは許されぬ。それはつまり、自分が生まれてきた意味そのものを否定することに繋がるのだ……逃れることなど出来はしないんだよ……それが、現実というものだ」
「…………」
「……何が、」
信二郎ですら沈黙に呑まれていたその時、悟空がとうとう口を開いた。
その怒りと悔しさに満ち溢れた視線は、まっすぐに目の前の男へと向けられていた。
「……何が現実ですか、牛魔王……ッ!!」
彼の力無い瞳が反応して、再び無言で悟空のことを捉える。
「現実ってのは……現実ってのはね……自分が辿り着きたいと思った目標のため、乗り越えていかなきゃならない、目の前の課題のことを言うんですよ! アンタが今日まで苦しんできたのはよく分かりました……だけどね、アンタの言ってることは結局! もう何もかも諦めて、それ以上は何もせずにいるための……言い訳と変わらないじゃないですか……!
たとえ苦しくても……しっかり向き合って戦い続ければ、一パーセントであっても可能性はあるんですよ! だからこそあたしも、お師匠さんも、何よりアンタ自身の息子も! 困難な目的を達成して、それまでとは違う自分にだってなることが出来た……それなのに! いい年こいた大人のアンタが……そんな子供染みた理由で逃げ続けてどうするんですか? もう一度向き合えばいいじゃないですか……現実と!」
そこまで言い切ると、悟空はハァッと息を吐き出し大きく肩を上下させた。
その背中を見つめながら、信二郎は未だに何も言えずにいた。
「……羨ましいよ」
不意に牛魔王がそう言って、信二郎と悟空は揃って咄嗟に顔を上げた。
「そんな風に言い切ってしまえるオマエが……ワタシは正直……心の底から羨ましい」
それは決して、嫌味でも何でもなかった。
諦めと、羨望と、寂しさとが複雑に入り混じった眼差し。
こちらを見つめ返す牛魔王が余りにも切なげな表情をしていたので……それまで、最低限の構えだけは保持していた悟空でさえもが、虚を突かれて不覚にも警戒を緩めてしまった。
その隙を逃さず、牛魔王が目にも止まらぬ速さでこちらに飛び掛かってきた。
「「!!」」
悟空が微かに遅れて、信二郎を庇うようにして咄嗟に地面に伏せさせる。
だが牛魔王の狙いは、悟空でも信二郎でもなかった。
娘のニルルティ――それも彼女の懐から転がり落ちた、所持品の水晶玉だ。
その大きな手のひらにすっぽりと水晶玉を収めた牛魔王は、悟空たちからやや離れた位置に重々しい音を立て着地すると、まるでそれを見せつけるようにして天高くに掲げた。
「アンタ、何を――――」
「――――今ここに、我は反芻するッ!!」
悟空たちが疑問を差し挟もうとする余地さえなく、牛魔王は突如としてその口から、一帯の山々全てを揺るがさんばかりの破壊的大音声を発してみせた。
「ワタシは……改拓を成し遂げるべき一族の頭領の立場でありながら……これまで個人的感傷に基づく現実からの逃避という目的の下……極酪壌土の実現という進歩的改拓目的を貶め……被搾取階級の意思によって為されるべきである進歩的改拓闘争の成就を不当かつ頑強なまでに阻み続けてきた! よってこれより我が肉体と! 我が心に宿った改拓的精神の最後の一滴に至るまでを糧とすることで! 究極の進歩的改拓手段を出現させ! 頽廃的市民らに対してのより一層の壌土主義化促進に寄与することを宣言し……反芻とするッ!!」
見方によってはがら空きで、隙だらけの、攻撃のチャンスだったかもしれなかった。
だがその場にいた誰一人として、何もすることは出来なかった。
あまりの鬼気迫る姿に、信二郎はおろか悟空でさえも身動きが取れなかったのだ。
ある種の儀式のようにさえ思われた長広舌が止んだ次の瞬間、牛魔王は手にしていた水晶玉を猛烈な力によって自らの胸元へと押し込み、同時に苦悶の声を上げ始めた。
「「な……!?」」
「……ち、父上ッ!」
絶句する一同の前で、水晶玉が牛魔王の体内にズブズブと沈み込んでいった。
同時に、その肉体が爆発的な虹色のエネルギーに包み込まれ、痛々しい音を立てて少しずつ変形しながら、そのサイズを見る見るうちに仰ぎ見るほどの規模へと肥大化させていく。
後戻りできなくなってしまった男の曲界力が、何もかもを飲み込もうとしているのだ。
牛魔王の、それはいわば最後の悪あがきとでも呼ぶべきものだった。
「……さらばだ……ニルルティよ……!」
「父上! 父上! 父上!」
ニルルティがなりふり構わずに牛魔王を呼んだが、もはや応答も返ってはこない。
急激な質量の増加に堪え切れずに地盤が砕けたのか、やがてグラグラと信二郎たちの足元が大きく揺れ始め、見渡す限りの境内の光景が轟音を伴って崩壊し始めた。
「うわ……っ!」
「信二郎、掴まって!」
盛大に転びかけた信二郎を、慌てて悟空が抱きかかえるようにした。
ついでに、横たわったまま身動きの取れないでいるニルルティのことも回収し、悟空は崩れゆく廃寺の敷地を蹴りつけて跳躍し、安全と思われる距離まで一足飛びに退避していった。
ガラガラという凄まじい音に振り返ると、山の中腹が丸ごと崩れゆく最中だった。
直前までいた廃寺は本堂まで含めてすっかりガレキの塊と化し、逃げ遅れたバトラー兵をも容赦なく飲み込んで、無数の土砂と共に暗闇の中目掛けて滑り落ちていった。
グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!
ほんの僅かの間に、小山ほどの大きさにまで巨大化した牛魔王――いや、もはや牛魔獣王とでも呼ぶべき現実逃避の化身が、山々の間にそびえ立って、地の果てまでも届くかと思われる背筋の凍るような雄たけびを轟かせた。
既に知性と呼べるようなものなど、何一つ残ってはいない。
牛頭を備えた真っ白なケンタウロスとでも形容すべきその怪物を目の当たりにして、しかし信二郎の胸中に去来するのは、筆舌に尽くしがたい程のやるせなさであった。
「……なんだよそれ……ふざけんな……ふざけんなよ……」
こんなことがあっていいハズがない。
とても認めようという気持ちが起きてこない。
たとえ真実であったとしても、決して受け入れてなどやるものか。
「……人間の……人間の価値が……たかが生まれひとつで決まって堪るかバカヤローッ!!」
自分でも知らぬ間に、信二郎は絶叫していた。
魂を削るかのような信二郎の叫び。
それさえも、山の崩壊音に飲まれて虚しく掻き消されていくだけだった。
* * *
気が付けば、雨が降り出していた。
サァァ、と霧雨にも近い穏やかな音色の降雨が続く中、突如として白く巨大な塊が天空から落下してきて、地を揺るがす大轟音を山中に響かせる。
山々とほぼ同等の大きさを持つ、白い体躯の半人半牛――牛魔獣王。
事情を知らない者がその光景を目撃すれば、きっと霧による目の錯覚かと思うことだろう。
だがそれは、確かにそこに存在している。
恐ろしいことだが、存在してしまっているのだ。
「…………あのバカ」
担いできた自分とニルルティをようやく地面に下ろした悟空が、山の彼方を見つめながら、そんなことを呟いているのが信二郎には分かった。
つられて振り返ってみたはものの、改めて見てもゾッとする。
悟空のお陰で峠をいくつも飛び越えて来たというのに、それでもなお、今いる山の斜面からでも、先程の場所に屹立し蠢く牛魔獣王の姿が見えるのだ。
彼我のスケール差は、どれだけ少なく見積もろうともおよそ数万倍。
山々の間を巨大な異形が闊歩するソレは、もはや怪獣と呼ぶに相応しかった。
「悟空……どうするんだよ、アレ……」
「……万が一にでも人里に下りられたりしたら、大変なことになりますね」
それぐらいは信二郎にだって分かる。
あんな巨大な化け物がもし人口密集地に出現していたら、予想される被害は甚大であった。
その意味では、まだ不幸中の幸いだったともいえるだろう。
「奴を食い止めるには、今ここでやる他ありません。信二郎……ニルルティをつれてなるべく遠く、安全な場所まで逃げてください。後は、あたしが何とかしますから」
「それはいいけど……悟空、あんなの相手にして、本当に勝ち目あるの?」
「……ま、大丈夫ですよ、きっと。あたしが敵に負けたことなんて、一度も無いでしょ?」
「それはそうだけど……」
「心配いりませんって。案外弱いかもしれませんよ? あんな現実逃避野郎……アハハ」
そう言って直前までのお通夜気分を払拭せんとするかの如くヘラヘラ笑い、ニョイロッドを軽い調子で担ぎ直す悟空であった。が、その直後。
グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!
再度、山の向こうから牛魔獣王の絶叫が轟いて、信二郎たちは絶句させられた。
見れば、牛魔獣王がケンタウロス状の下半身を震わせ、その巨大な蹄で大地を幾度も幾度も引っかいていた。しかもその一挙一動ごとに、山の一部がごっそりと削り取られて無くなっていくのだ。まるで、今にも走り出しそうな雰囲気であった。
当初は余裕の笑みを崩さなかった悟空だが……やがて遂に、観念したように真顔になった。
「……と言いたいのは山々ですが……流石に正直、今回はヤバいかもしれません」
「……悟空……」
「ごめんなさいね、信二郎。もしかしたら……あの約束は果たせないかもしれません……」
「……ッ!」
「とにかく……やれるだけのことはやってみますよ。信二郎たちは早いとこ逃げてください」
悟空が話に区切りをつけ、とうとう信二郎たちに背を向けようとした。
刹那、信二郎の胸中に言い知れぬ不安と恐怖が、ドッとなだれ込むように押し寄せてきた。
嫌だ……嫌だ……やめてくれ悟空……。
このまま行ってしまうなんて……そんなことはやめてくれ……。
湧き上がる感情に任せるまま、信二郎は無意識のうちに悟空の背中に手を伸ばそうとした。
「……あるじゃないか」
そのとき突然、ニルルティがそう言ったのだった。
寸前まで殆ど呆然自失の状態に見えた彼女が口を開いたので、信二郎も悟空も驚かされた。
ニルルティの方を向いて、信二郎は思わず素で訊ね返してしまった。
「なんだって?」
「……あるじゃないか孫悟空。ひとつだけ方法が……」
「ちょっとニルルティ、アンタまさか――――」
悟空がなぜか顔に嫌な予感を滲ませるのも構わず、ニルルティは大急ぎで先を続けた。
「――――かつての戦いの時だ! これと同じような状況下で、貴様は三蔵法師と心身ともに一体化を果たし……父上に匹敵する力を発揮して、最後には我らを捕らえたではないか!」
あまりのことに信二郎は仰天した。
あの牛魔獣王に対抗する手段があるというのだけでも驚きだが……。
方法は勿論のこと、今ここでその情報をもたらすのがニルルティというのも意外だった。
胸の奥に広がりつつあった暗い不安感が、急速に晴らされていく予感がした。
「心身の一体化って……本当にそんなことが出来るのか!?」
「ああ、本当だ! だから頼む……頼む頼む……孫悟空……!」
縛られたままのニルルティが、またしても地面に額をこすりつけてみせた。
何とも言えない顔で立ち尽くしている悟空の足元に縋りつき、恥も外聞もなくかつての敵に向かって嗚咽を漏らしながら、肉親のためにと繰り返し繰り返し懇願を続ける。
「父上を……どうか父上を救ってくれ……お願いだ……ッ!」
「悟空、どうして黙ってたんだ!? それをやろう……今すぐに!」
信二郎は両手で改めてカッカライザーを握りしめ、悟空に詰め寄って決断を促した。
ニルルティでさえもが、これ程までに懸命な姿を見せているのだ。
自分が協力することで現状を打破できるというならば、何だってやってやろうではないか。
この期に及んで迷う余地など無いと、信二郎でさえもそう考えたのだった。
ところがである。
「……いいえ、却下です」
「な……!? どういうことさ、悟空……昔だって同じようにして戦ったんだろ!?」
予想外に頭を振った悟空を見て、信二郎は却って慌てることとなった。
まさか牛魔王相手では救う気にならない、とか? 流石にそんな訳はないだろうが……。
「……確かに、手段としては存在します」
その時の悟空は、普段と比べて奇妙なほど早口気味にそう言ったのだった。
「あたしたち天状人と、マスターである人間の魂とをシンクロさせ……本来の限界を超えた、数万倍もの力を引き出す隠し機能が、カッカライザーには備わっています」
「だったら尚更――」
「ですがそれは! 当時のあたしのマスターが、あの三蔵法師であったからこそ成立した方法なんですよ! 桁外れに強靭な魂の持ち主であった、お師匠さんだから! 本来であれば封印された機能で……人間のマスターにかかる負担が途轍もなく大きいんです……!」
悟空が唐突に声を荒げたことで、信二郎は開きかけの口を咄嗟につぐんだ。
「いくら、あたしのマスターでも……信二郎は普通の人間でしかありません。そんな人間が今言った手段を使えば、魂を急激に消耗して……下手をすればそのまま死んでしまう危険だってあるんですよ……そんなのは、絶対に御免ですから……」
「…………そっか。心配してくれてありがとう、悟空」
信二郎はある意味でホッとする。
悟空はあくまでも、彼女なりに信二郎の身を案じてくれていたのだろう。
それは責めるべくもないことだ。だが――――、
「…………でもさ、他に方法がある訳でも無いんだろ」
それでも、敢えて信二郎は食い下がった。
このまま悟空を一人で戦いに向かわせる気には、どうしてもなれなかった。
素直に受け入れてしまったら、取り返しのつかないことになりそうな気がするから。
もう二度と会えなくなるのではないかと、そんな予感に襲われたから。
「この一ヶ月、一緒に戦ってきて……今みたいな悟空は初めて見たよ。本気で危ないんだろ? いつもだったら、どんなに追い詰められて見えても余裕があるのに、今回は違う。本当に……さっき話したもの以外に、勝つ手段なんか思いつかないんだろ?」
「……分かりませんよ、そんなの。実際にやってみるまでは……」
「じゃあ具体的にはどうするつもりなのさ。言ってみてよ、悟空」
「…………それは、」
「それに、実際にやってみるまで分からないっていうなら……それはボクだって同じことだ。たとえ危険でも、試してみなけりゃ死ぬかどうかは分からないし……そもそも他に方法だって無いんだろ……やるしかないじゃないか!」
「…………リスクが大きすぎます」
「少しぐらいのリスクが何だよ!? ボクは悟空のマスターだ……キミが今までボクのことを助けてくれたように……ボクだって少しぐらいはキミの力になりたい! 何より、キミ一人で行かせたら死ぬかも知れないのが分かってて、今更知らんぷりなんて出来るか!」
「現実を見てくださいよ! 都合の良いことばっかり言ってないで!」
とうとう悟空が、我慢しきれずに激昂した様に叫んだ。
「アナタはただの人間です! ハッキリ言いますが、アナタには決して不可能なんです!」
「現実は乗り越えるべきものだって、散々言ってたのは悟空自身だろ!?」
「……いい加減に分かってくださいよ……ッ!!」
悟空がガッと信二郎の肩を掴んできて、まるで訴えかけるように力が籠められた。
言いながら俯いた彼女の肩は……驚くほど、震えていた。
「アナタが……お師匠さんに瓜二つな姿をしているアナタが……あたしの目の前で死ぬところなんて……もう二度と見たくないんですよ……ッ!!」
まるで消え入る様に、声を震わせる目の前の少女を見て、信二郎は息が詰まる想いだった。
ああ……そうなのか。
ずっと、そのことが怖くて仕方なかったのか。
自分がこれまで、死にたいと漏らす度に彼女が見せてきた様々な表情。
それらの全てが、今ようやく納得のいく形のピースとなって、信二郎の中にあったパズルにカッチリと当てはまった気がした。
それは理解できる。いや、理解するしかない。同じ立場なら、誰だって怖くて当たり前だ。
だけどさ、悟空……果たして気付いているのかな。
確かにキミに比べれば、遥かに浅くて、幼稚で、薄っぺらいものだろうけど。
今この瞬間は……ボクだって、キミのことを同じように想っているんだっていうことをさ。
「…………ボクは、三蔵法師じゃない」
今もなお震え続ける彼女の肩に、信二郎はそっと自分の手を置きながら言った。
ただし別離に対する恐怖が理由ではなく……むしろ相手を励まし奮わすために。
「ボクは蓮河信二郎で…………キミのお師匠さんとは全く別の人間なんだ。キミ自身が、前にそう言ってくれたんじゃないか、悟空」
「信……二郎……」
「ボクは死なない…………絶対にキミひとりを残して、勝手にいなくなったりしない」
次第に、信二郎の両肩を掴む手の力が弱くなっていくような気がした。
信二郎自身もまた、悟空の肩に置いた両手を少しずつ緩めていく。
ゆっくり下がっていく彼女の手に、自らの手を優しく重ねるようにして信二郎は宣言した。
「…………今度は…………今度はボクが、キミに約束する番だから!」
その瞬間、悟空がハッと息を呑むようにして顔を上げた。
信二郎の顔を、まるで打ちのめされたかのように見返して、次の言葉を探そうとする。
けれども、それすら見つからず、やがて彼女は諦めたように破顔一笑した。
その頬を、ツゥッと一筋の滴が落ちていくところを、今度こそ確かに目の当たりにした。
「……言うようになったじゃありませんか……甘ったれのお子さま風情が……」
「……黒歴史まみれの年寄りが、いつもいつも説教してくれていたお陰さ……」
負け惜しみと悪態を互いに交換し、見つめ合った悟空と信二郎は改めてクスリと笑い合う。
そして、どちらからともなく、遠くで遂に動き出した牛魔獣王を振り返った。
地響きを立てながら、山中を迫りくる巨大怪獣。
その威容を前にして、とうとう悟空は覚悟を決めたようだった。
「行きますよ、信二郎……準備はいいですね!?」
「ああ……今度こそいつでもオーケーだ、悟空!!」
信二郎が応答するのと前後し、悟空は信二郎と手をつなぎ合ったまま、片手でササッと印を結ぶと、また新たなる呪文をここに宣言した。
「モンキーマジック・ドリフト!」
ギュウウウンッ! と、意識が急激に体の内側に引っ張られるような感覚があった。
一瞬、強烈な乗り物酔いのような気分に襲われそうになる。
しばらくして意識が戻ったとき……全ての感覚が、今までの二倍になったような気がした。
いや、決して大げさではない。自分の中に、自分以外の誰かが同居しているのだ。
その正体にふと思い当たった瞬間、真隣にいる悟空がこちらに向かって微笑んだ。
そうか……今、信二郎は、悟空と意識が完全にシンクロした状態なのだ。
言葉にせずとも、次にどうするべきかが理解できる。
考えたこと、感じたことがそのまま互いに伝わる……驚くべきことだった。
二人は同時に手を離すと、それぞれの得物をサッと眼前に構えた。
信二郎がカッカライザーを、悟空がニョイロッドを、完全に呼吸の一致した動きを伴い斜め前方に向かって突き出す。その先端が交叉し、微かな金属音を立てた。
その合間から、こちらへと疾走してくる牛魔獣王の姿が覗く。
今ここに引導を渡そう……過去の亡霊に囚われ、生き方を見失ってしまった哀れな者に。
そして何より……自分たち自身が背負った、過去という名の現実に。
「「――――スーパーカッカライジング!!」」
完全に同調を果たした、神と人間の宣言が山中にこだまする。
二人の得物の交叉点から放たれた爆発的な灼光が一帯を覆い尽くし……フッと全ての光景が暗転して消え失せた。
どれ程の時間が経ったのか、自分でもよく分からなかった。
いつの間にか、信二郎は光り輝く無限の空間に立っていた。
「ここは……」
周囲をいくら見渡せども、果てというものが見当たらない。
暗闇でこそないが、宇宙空間に出たらこんな感じなのだろう、という印象だった。
ふと気になって足元を見ると……大きなハスの形をした台座が浮かんでいた。どうも自分はその上に足を着けているらしい。いかにも仏教的だな、と純粋にそう思った。
「……気が付きましたね」
不意に真隣で声がする。
振り向けば、先程までと変わらぬバトルスーツ姿の悟空が、笑顔でそこに立っていた。
それを見て信二郎は、ホッと安堵の感情を抱く。
「つまりこれは……成功したってことで、いいんだよね?」
「ええ、そうだと思いますよ……我々は今、心と体が完全に一体化した状態です」
「それにしては、いつもと変わらない気がするけどね」
「意地悪なこと聞かないでくださいよ。考えるだけで伝わってるハズなのに……」
そう言って悟空が苦笑気味にこちらを見つめてきた。
「これは、我々の頭が処理したイメージ映像です。きっとこの方が、我々には認識しやすいということなんでしょう……まあ昔から、細かい原理まではよく分からないですが」
「何だって構わないさ。だけど不思議な感じだな……なんていうか、その……」
今度は信二郎の方から、悟空のことを見つめてみた。
「……よく分からないんだけど、何だかすっごく懐かしい気分になるんだ」
「ええ、伝わってきますよ……信二郎の感じているものが」
「有り得ないハズだけど……ずっと昔にも、この場所に来たことがあるような気がして」
「…………あたしと、初めて出会った時のように?」
信二郎が驚いた顔をすると、悟空が悪戯っぽく微笑みかけてきた。
そんなことまで、伝わってしまっているのか。
そう……悟空と出会ってマスターとなる決意をした、あの始まりの日のこと。
気のせいかと思い、すっかり忘れかけてしまっていたが……確かにその時も感じたのだ。
何か言いようもない、強烈な既視感を。
悟空という少女と、かつて何処かで出会っていたかのような錯覚を。
いや……錯覚ではなかった……? まさか……。
「ひとまず、考えるのは後にしときましょう」
悟空にそう言われて、我に返った信二郎は顔を上げて、前を見た。
無限に広がっているかと思われた光り輝く空間の一部が、薄っすらと消えて、そこに巨大な敵の姿がスクリーン・プロセスのごとく映し出された。
「まずは、こいつを阻止することが先決です」
敵は――牛魔獣王はもうすぐ目の前へと迫っていた。
狂って涎を撒き散らす、猛牛のごとき顔が異様なまでに近くに見える。
……いや待て、どういうことだ? 敵の顔が間近にある?
巨大化した敵は、山と同じぐらいの大きさがあったハズではないのか?
それに周囲の風景も……まるでミニチュアかと思うぐらいに、小さく見える。
……まさか。
「そう、そのまさかですよ、信二郎」
悟空が今度こそ、不敵な笑みと共に目の前の敵を見据えた。
「――――我々が合体して、巨大な姿になったんです」
* * *
「お……おお……おおお………」
ただひとり、外の世界に取り残されたニルルティが、降りしきる雨の中で半ば呆けたような顔つきへと成り果ててしまっていた。彼女のその瞳に宿るのは、かつての圧倒的な強敵を目の当たりにしたショックか、はたまた唯一無二の救世主に捧げられる畏敬の念か。
いずれにせよ、光に包まれ土煙を上げて山中に降り立ったものは、ニルルティからまともな言語を失わせるのに充分過ぎるほどの威容を誇っていた。
仰ぎ見るは、全高数十メートルにも達する鋼鉄の巨神。
赤と金で彩られた本体が、白の気高き法衣を纏って仁王の如く立つ、至高の猿神。
かつての西天より来たりし、天にも斉しき大聖者。
神と人間の心と体が満を持してひとつとなった姿。
西勇巨神ダイセイテン――――千年以上の時を超えて伝説が今、陀緒須の地へと降臨した。
「気張っていきますよ――――信二郎ッ!」
「ああ、どこまでも一緒さ――――悟空ッ!」
内部にいる二人の動きをトレースして、鋼鉄の巨神がググッと臨戦態勢を取る。
グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!
牛魔獣王が猛り狂う本能に任せるまま、ダイセイテン目掛けて突撃を開始した。
迎え撃つように、ダイセイテンも大地を蹴り砕いて全力疾走を開始する。
ここに、天地を揺るがす一大決戦が巻き起こった。
牛魔獣王の突き出した拳に応じて、ダイセイテンもがその拳を叩きつける。
航空兵器による爆撃が行われたかのような凄まじい衝撃が山々を襲い、降り注ぐ雨が両者の周囲から球状に消し飛ばされて、僅かの後でまた元の状態に戻った。
両者はよろめきながらも体勢を立て直すと、互いに距離を置くようにバッと逆方向へと飛び退っては、再度の激突に備えて身構えた。
「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」」
先に仕掛けたのはダイセイテンだった。
悟空と信二郎、二人の叫びを乗せた鋼鉄の巨神が、疾走とほぼ同時に跳躍する。
赤と金と白、三色の入り混じった重量数万トンの塊が、俄かには信じられない程の軽やかな宙返りを見せて牛魔獣王の背後に着地する。敵が方向転換に手間取っている隙に、ダイセイテンは再び跳躍して強烈な後ろ回し蹴りを、相手の胴目掛けて浴びせかけた。
牛魔獣王が苦悶の声を上げながら盛大にひっくり返って大地に倒れ伏す。
周囲一帯に、崖崩れが起きるほどの激しい揺れが引き起こされた。
「「ニョイロッドライザー!!」」
完全に同調した悟空の信二郎の声に応え、ダイセイテンの手の中に巨大な錫杖が出現する。
それは丁度、ニョイロッドとカッカライザーを足して二で割った様な外観であった。
ダイセイテンがそれを掴み構えると、倒れていた牛魔獣王がゆっくりと起き上がってきて、何処からともなく巨大な剣を取り出し振りかざした。
グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!
先程同様に、地響きを立てながらこちら目掛けて爆走してくる牛魔獣王。
対するダイセイテンは、長得物のニョイロッドライザーを振るって迎え撃ち、ここに激闘の第二陣が火蓋を切って落とされる。
規格外の重々しさを持つ剣戟が繰り返される度、金属同士の擦れ合う耳障りな音色が山間部いっぱいに響き渡っては消えた。
しかしやがて、理性を保ち戦っていることが幸いしたのか、ダイセイテンの側が牛魔獣王を明らかな勢いで圧倒するようになる。荒れ狂うままに繰り出される敵の攻撃をかいくぐって、幾度となくニョイロッドライザーの切っ先が牛魔獣王に叩きつけられた。
「「でぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇいやああああああああああああああッ!!」」
斜め下から斬り上げるような一撃が、牛魔獣王の胴体に炸裂して火花を飛び散らせた。
それによってとうとう、牛魔獣王は体勢を保てなくなって、ガクリと大地に膝をつく。
トドメの一撃を浴びせかけるなら、今まさにこのタイミングであった。
一方その頃、ダイセイテンの内部では悟空とシンクロ状態にある信二郎が、戦えば戦う程に奇妙なまでの確信を深めつつあった。
間違いない。自分は確かに、これと同じ経験をしたことがある。
それも昔……二年や三年といった程度のものではない、もっとずっと遥かな昔のことだ。
その当時も自分は、こうして悟空の隣で戦っていた、そんな気がする。
毎日のように彼女の笑顔を見て、彼女のしでかすバカに悩まされ、彼女のことを叱りつけ、そして誰よりもぶつかり合いながら……誰よりも彼女のことを強く信頼していた。
それは信二郎の中で、次第に疑いようもない事実へと昇華しつつあった。
何故、今になって思い出すのだろう。
こんな状況下で記憶が甦らなければいけない理由は何か。
そもそも……これは一体誰の記憶なのだ。信二郎であるハズは絶対にないのだが。
だってそうだろう。常識的に考えてあるハズが……いや待て、おかしい。
やっと微かにだが、信二郎はあることを思い出した。
現在の信二郎は、自分を信二郎としか思っていないが……幼少の頃は違っていた。
殆ど薄っすらとしか覚えていないが……生まれた直後の数年間、物心がついてまだ間もない様な時期のこと、実に不思議だが信二郎は自分のことを、蓮河信二郎ではない誰か別の人間であるなどと、本気で信じていたことがあったのだ。
幼い頃は、根拠もなく確信に近い思いを抱いていたが……成長するにつれ消えていった。
自意識が発達しきらない幼児のこと、さして不思議でない現象のハズだった。
だが、仮にそうでないとしたら?
もし、あの頃の奇妙な思い込みが本物だったのだとしたら?
だとしたら、まさか……自分は……。
「「――――伸びよ、ニョイロッドライザー!!」」
ダイセイテンが、その足元にニョイロッドライザーの柄を押し付けるようにして宣言した。
次の瞬間、赤と金に彩られた錫杖がグアッと伸長を開始して、それに掴まるダイセイテンの鋼鉄の巨体が、天高くに向かってぐんぐんと持ち上げられていった。
ある高度を境に、その動きはピタリと止んで、ダイセイテンは高空に宙づりになる。
その状態のまま、ダイセイテンはニョイロッドライザーを自分の手元にある箇所を目掛けて急激に収縮させ、元通りの長さにすると大上段に構えて振り上げた。
瞬く間に、ダイセイテンの巨体が轟音を上げて自由落下を始める。
よろよろと立ち上がる牛魔獣王だが……既に一歩遅かった。
重力加速度を利用したダイセイテンが最高速度へと達した。
「「――――ファイナルセイテンギャラクシィィィィィィィィィィィィィィィィィィッ!!」」
神秘のオーラを纏って輝くニョイロッドライザーが、勢いのまま脳天に叩きつけられた。
曲界力を暴走させていた水晶玉は一瞬のうちに砕け散り、牛魔獣王が真っ向両断される。
大絶叫を残して崩れ落ちた牛魔獣王が、次の瞬間に大爆発を引き起こした。
それを背にしたダイセイテンは見得を切り、やがてゆっくりと身動きを止めた。
遥かな過去に端を発した因縁が、ようやく終わりを迎えた瞬間である。
降り続いていた霧雨も、いつしかその勢いを弱め始めていた。
* * *
ダイセイテンの内部では、悟空の横で信二郎が激しく息を切らしていた。
魂が消耗する、という言葉の意味を信二郎はやっと少しだけ理解したような気がした。
しかしいずれにせよ、自分の命が失われていくような致命的な危機には感じない。
信二郎たちは見事に現実を乗り越え、戦いは集結したのだ。
これで、全てが解決したハズだった。
だったのだが……それにしても……。
「…………信二郎」
「…………言わなくても、全部分かってるんだろ」
信二郎は敢えて悟空の方を見ずに、呟くようにそう言った。
悟空との心身合一でさえも成功させた以上、ハッキリと言葉に出しては否定し辛い。
だがたった今判明したばかりの事実を、頭の中で整理するのにはひどく手間取った。
「自分でも正直まだ信じられないよ……だけど、だけどさ、悟空……」
「ええ……分かってますよ、信二郎……」
言いながら悟空はそっと寄り添ってきて、涙ながらに信二郎のことを優しく抱きしめた。
今回ばかりは、いつもとは違って自分自身を慰めるかのように。
もう二度と会えないハズだった大切な人との再会に浸るように。
「……あたしがあの時に感じた運命は……決して間違いなんかじゃなかったんですね……」
「……ボクなんかで良かったのかな」
「正直まだ分かりません……けど……けど……とにかく無事で良かったです、マイ・マスター」
理由は全く分からない。
何故、自分などがそうだったのかは皆目見当もつかない。
未だに、戦いの中で自分の気が変になっただけなのではないかと疑うほどだ。
けれども、そうと分かってしまった以上、ひとまずは現実として認める他にないのだろう。
これまでの既視感は、ひとつとして間違いではなかったのだ。
自分は―――蓮河信二郎という人間は―――あの玄奘三蔵法師の生まれ変わりだったのだ。