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第4話 激白 すっげェ〜真実

 少年はいま、苦悩していた。


 それはもうずっと長いこと続いていた。

 早く言わなければ、とは自分でも思っていたのだ。


 始まりのあの日以来、その胸中に秘めたものを、少女に向かって告白する。

 ただそれだけのことが、延々と出来ないでいた。

 言おうとするたびに、怖くて言葉を飲み込んでしまっていた。


 ああそうだとも、怖いのだ。

 未だに結局、怖くて怖くて仕方ないのだ。

 自分は決して、彼女が思っているような人間ではない。

 そんな大層な人間ではないのだ。


 自分は最低の人間だ、とさえ少年は思っていた。

 自分の本性を誰も分かっていないのだ、とも。

 にもかかわらず、彼女は少年に対して笑顔を向けてくれる。全身全霊で肯定してくれる。

 その度に、少年は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えるのだ。


 少年は逃げ続けていた。

 自分からも、他人からも、ありとあらゆるものから逃げ続けていた。

 逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げ続けた。


 それでも結局は、逃げ切れなかった。

 少年はもう諦めかけていた。いい加減に、真実を口にしなければと。


 ああそうだとも。

 ボクは……ボクは……ボクは……。


*  *  *


 メンメンメンメンメェェェェェェェェェェェェェンッ!!


 耳を疑う奇怪な絶叫が、青空の下、(おう)()高校(こうこう)の新校舎付近にある剣道場前にこだまする。

 その声の主は、身長が二メートル近くもある漆黒の牛魔(ぎゅうま)(じゅう)であった。


 S字状に反り返った二本の角を持つ牛面が、(あい)(いろ)の剣道着と黒光りする防具とを身に纏い、眼前に構えた長大な竹刀(しない)をビュンビュン振り下ろしながら、鼻息も荒く、まるで狂ったようにして突撃してくる。


「――――っとぉ!」


 その正に進行方向で身構えていた孫悟空は、予測をやや上回る敵の突進スピードに驚きながらも握りしめたニョイロッドごと、寸前でひらりと宙を飛ぶようにして直撃を回避した。

 彼女自慢の金髪が、その回転運動に合わせて目にも美しく棚引き、弧を描く。


 片や牛魔獣は足元で急制動をかけ停止すると、今しがたすれ違ったばかりの悟空を振り返り憎々しげに睨み返し吼える。悟空が全身真っ赤なバトルスーツ姿であるというのも相俟って、それはさながらスペインの国技たる闘牛の模様を見ているかのようであった。


 コテドォォォォォォォォォォォォォォォッ!!


「うお危なッ!?」


 新たな絶叫と共に突撃してきた牛魔獣の一撃が、悟空の薄手のバトルスーツの脇腹を(かす)め、傍目にも分かるぐらいパックリと切り裂く。見た目には竹刀といえども、ある種のエネルギーのようなものを纏っているらしく、その威力は殆ど真剣と大差なかった。

 とにもかくにも、離れた場所から見守っている信二郎にとっては、気が気でならない。

 先日の牛魔王との戦いの時といい、曲がりなりにも急所を掠められるその光景を目にしては一瞬とはいえ、血の気が引く思いであった。


「……悟空、気を付けろ!」

「アハハハハッ、いいぞ! そのまま押し切れ、牛魔獣シナイバッファロー!」


 剣道場の屋根に上ったニルルティが、戦いの様子を見下ろしながら実に(たの)しげに笑う。

 どうやらセコンドがついているのは、牛魔獣の側も同じようであった。


 だが当事者である悟空は、外野の声など何のその、眼前に構えたニョイロッドの表面を手でなぞると、いつもと変わらぬ冷静さで高らかに宣言した。


「ニョイロッド・ライトブレードッ!!」


 悟空の手にした赤い棒の両端がバチバチとスパークし、たちまち二つの光刃(こうじん)を備えた必殺の武器へと変化する。間髪入れずに、悟空は牛魔獣シナイバッファローの懐目掛けて飛び込んでいった。

 ところが、どうしたことだろう。

 悟空の振るう必殺の一撃は、いくらやってもシナイバッファローに命中しない。


 よくよく見てみると、シナイバッファローは眼前に構えた竹刀を基準に、常に悟空から一定距離を保ち続けているのだ。いわゆる一刀一足の間合いというものだった。似たような得物を構えた場合、体格などから見て、どう考えてもシナイバッファローの方が間合いは広い。そのために、先程から悟空の一撃は敵を捉えることが出来ずにいるのだ。


 メンメンメンメンメェェェェェェェェェェェェェンッ!!


「……くっ!」


 反撃を食らいそうになった悟空は、(らち)が明かないと判断したのかニョイロッドの先端で敵の竹刀の切っ先を弾くと、一旦後方に飛び退った。たちまち敵と味方との間で、優に十メートル以上もの距離が生じてしまう。

 牛魔獣は雄たけびを発し、屋根の上のニルルティは勝ち誇ったように笑みを漏らす。

 もはやハラハラするしかない信二郎だったが、反対に悟空はここにきて、何故かアハハッと声を上げて笑う余裕さえ見せているのだった。


「……ははぁ、こりゃ驚きました。間合いをとって戦うなんざ、牛魔獣にしちゃあ中々、頭が切れるじゃないですか? 意外と歯ごたえあって、正直有難いぐらいですよ」

「負け惜しみもそのぐらいにしろ、孫悟空! やってしまえ、シナイバッファ――――」


「――――だけど、残念でしたねぇ」


 そう言った次の瞬間、悟空が眼前に突き出したニョイロッドの先端が爆発的に伸長した。

 目にも止まらぬ速さで元々の何倍もの長さとなった光の刃が、シナイバッファローの胴体を身動きも許さずに刺し貫き、まるで血しぶきの如く傷口から火花を噴出させた。

 これには見守っていたニルルティも、果てには信二郎も、あんぐりと口を開けてしまう。


「「……なぁッ!?」」

生憎(あいにく)と……あたしの間合いは無限大なんですよ!」


 悟空の言葉に呼応するかのように、ニョイロッドが彼女の手元に向かって、今度は勢いよく収縮を開始した。胴体に光刃が突き刺さったままのシナイバッファローは、もがき苦しむ様子を見せながらも為す術なく、つんのめるようにして悟空の眼前へと引き寄せられる。

 彼我の距離が、たちまち縮んでゼロとなった。

 そうして敵から乱暴にニョイロッドを引き抜いた悟空は、自身の体の周囲でビュンビュンと何度か振り回したその光刃を、遂に真っ向から振り下ろし絶叫した。


「――――ライトブレードインパルス!!」


 それはまるで、猛り狂う嵐の様な攻撃であった。

 最初の一撃で敵を袈裟(けさ)()けに切り伏せると、身体を反転させながら柄の反対に輝く刃で再び斬りつける。続けて三撃目、四撃目と光の刃を(きら)めかせながら幾重にも幾重にも、ともすれば際限なしと思える程の勢いでシナイバッファローを切り刻んでいく。

 しなやかに舞う悟空の肢体に連動し、金色のポニーテールが大きく躍動(やくどう)する。


 そして遂に、悟空がその身を翻し敵に背を向けた瞬間、シナイバッファローはどうと地面に倒れ伏し爆発四散した。断末魔さえも残らない、徹底的なまでのフィニッシュだった。


「く……くそッ、またしてもかッ!」


 ニルルティは屋根の上で地団太(じだんだ)を踏んでいたが、やがて何処へともなく姿を消していった。


 こうして再び校内に平穏が戻る。

 いつの間にか、すっかり馴染みとなったパターンであった。


「……っふぅ~」

「悟空、怪我は大丈夫か!?」


 ついさっき彼女の脇腹を掠めた一撃が心配で、血相を変えて悟空の元に駆け寄る信二郎。

 が、それを見た当人は、苦笑したように手を振って答えるだけだった。


「イヤですねぇ信二郎……そんなに顔色変えなくても、ちょこっと服が切れただけですよ?」

「そんなこと言ったって……ハァ、無事ならいいんだけどさ」

「フフッ、でも心配してくれて嬉しいですよ、信二郎。いつもありがとうございます」

「……呑気なこと言わないでよ。人の気も知らないんだから、ったく」


 地面についたカッカライザーに寄り掛かり、ブツブツと不平を漏らす信二郎。

 そんな彼の様子を眺めながら、慈愛に満ち満ちた表情を浮かべる孫悟空。

 これもまた、気が付けばお馴染みとなった光景であった。


 するとその時、背後から大勢がどやどやと駆けつけてくる、騒々しい音が聞こえた。

 おっといけない、と慌ててカッカライザーを通じ悟空のリミッターをオンにする信二郎。


 即座に悟空の額に装着されたキンコリミッターが明滅し、彼女は瞬きする間にバトルスーツ姿からいつものセーラー服姿へと変化していた。

 ついでに、信二郎自身もカッカライザーを縮小させポケットに収納する。


 直後、現場に駆けつけて来たのは他ならぬ、ここ王羅高校の剣道部員たちであった。


「き、キミたち、さっきここで怪物を見なかったか!?」


 いの一番に信二郎たちに訊ねてきたのは、ただひとり私服姿をした青年だった。

 彼こそが、今回の牛魔獣シナイバッファローの母体であり、騒動の発端となった人物。

 数か月前に王羅高校を卒業したハズの剣道部OB・葛山(かつやま)である。


「ここにいたハズだ……剣道の防具に身を包んだ、巨大な牛のような怪物が!」

「その怪物ならさっき、やられて爆発しちゃいましたよ」

「なんだって!?」

「やっつけた人も、どっかに飛んで行っちゃいました。いったい何だったんでしょうねぇ?」


 などと答えたのは、やっつけた当の本人である孫悟空。

 葛山が愕然(がくぜん)となって膝をついたのを他所に、彼女はあさっての方角を見て終始すっとぼけた態度を取っている。まぁ、現場を見られない限りはこれが無難というものだろう。


 一方、これを聞いて(にわ)かに活気づいたのが、彼の背後にいた現役剣道部員たちだった。

 それもそのハズ。というのも彼らはここ最近、部活中は勿論のこと、果ては日常生活の細部に至るまで、葛山の曲界力(きょっかいりょく)から生じた牛魔獣シナイバッファローにより、事実上の監視状態に置かれていたからなのだ。


「……いま聞いた通りですから、葛山さん」


 現役の部長と思しき三年生のひとりが、一歩前に進み出ると葛山に向かって言った。


「あのバケモノがいなくなった以上、俺らは俺らで自由にやらせてもらいます。葛山さんも、気持ちは分かりますけど、もういい加減に諦めてくれると助かりますんで」

「うるさい、黙れ。まったく……何なんだその失礼な態度は……」

「……あのねぇ、葛山さん」


 これまでに幾度となく有形無形の反感を買っておきながら、一向に己を(かえり)みようともしないOBの姿に、後輩たちが揃って冷ややかな視線を送る。だが当の葛山は、それを前にしたことでより一層逆上した様子であった。


「大体お前らは口の利き方からして、なっていない! そうやって目上の人間を敬うことさえ忘れるから! 剣道の精神を失い、あまつさえ部の練習にも身が入らないんだ!」

「いや、関係ないでしょ。大体、俺らのモチベーションが下がりまくってたのは、葛山さんが頼んでもないのに毎日入り浸って、口出しばっかしてきたからなんですけどね」

「何? 早口で聞き取れないぞ! もっと明確に喋れ! 社会に出るなら常識だろ全く!」

「……アンタ本当にいい加減にしろよ!?」


 事ここへ至って、流石にとうとう堪忍(かんにん)(ぶくろ)()が切れたらしく、それまで抑え気味だった現役部長が葛山に向かって語気を荒げるようにして詰め寄っていた。


「剣道部はアンタの私物じゃないんだよ! 現役時代にどんだけ悔しい想いしたんだろうが、今の部長は俺で、実際に試合に出る部員はコイツらだ、アンタじゃないんだよ! それぐらい分かれよ! アンタの自己満足に、現役の俺らを巻き込んでんじゃねえ!」

「だから……そういう口の利き方をするなと何度言わせれば気が済むんだ! 何かしら不満があるとしても、その場に相応(ふさわ)しい態度ってものがあるだろ! まずはそこからだ!」


「うるせぇ、話逸()らしてんじゃねえ! 大体、不満なら今まで散々、アンタに送ったメールやLINEで伝えてるだろうが! もうこの辺で自重してくれって、俺らが何遍(なんべん)言ったと思ってるんだよ!? それなのに後で読む後で読むっていいながら無視し続けて、結局なにも無かったみたいな顔して毎日部活に来やがって!」

「そんなものは時間が無いから読んでいない! とにかく……いままでの無礼はこの際、水に流してやる。これからもう一度お前らの性根を鍛え直す! いいか、無駄にした時間は永遠に戻っては来ないんだからな! 分かったら返事だ!」


「「「――――付き合ってられるか!」」」


 葛山に声を揃えて三下(みくだ)(はん)を突き付けた現役部員一同は、今度こそ完璧に呆れ果てた様子で身を翻し、ぞろぞろとその場から退散を開始した。ただひとり、ポツンと取り残された葛山はしばし呆然としていたが、やがてハッと我に返ると性懲りもなく「まだ話は終わってないぞ! おい待て、待てったら!」などと虚しく喚きながら後を追いかけて行く。


「…………(あわ)れなもんですね」


 眼前で繰り広げられた剣道部内の泥沼(どろぬま)模様(もよう)を眺めた後、ポツリと悟空が言った。


「ああやって他人と向き合うのを拒んで、目先の権威づけにばかり固執して……あの人はこれから先一生、本当の威厳も信頼も失うんです。曲界力に呑まれたばっかりに……」

「……ロクなもんじゃないな、ホントに」


 悟空につられて、葛山の惨めな後ろ姿を見つめながら、信二郎も自然とそう漏らしていた。

 言いたくもなるというものである。


 牛魔王ダルマが悟空たちの前に姿を現してから、はや三週間。

 あの男の宣言通り、今や陀緒須(だおす)市内(しない)の各地では牛魔獣が次から次へと出現し、人々の抱いた現実逃避を反映して勝手気ままに暴れ回る事態となっていた。


 それを阻止する形で、悟空と信二郎はこのところ市内を飛び回っては、牛魔獣を片っ端から退治して回る日々。その方々で、今回の葛山よろしく曲界力に呑まれた人間が展開する無残で哀れな光景を、それこそ何度となく目撃させられる羽目になっていたのである。


 その総数、しめて十六体。より正確には、最初のハンマーホルスタイン及びコンピュータースイギュウを除いて、十八日間で計十四体。おおよそ三十時間ごとに一体は、新しい牛魔獣が出現している計算であった。

 それにあくまで発見し撃破したのがこの数、ということだから、実際はより多くの牛魔獣が未だに陀緒須市内に潜伏・活動している可能性さえあった。


「今更かもしれないけど、不思議な話だよな……」


 信二郎が話しかけると、何のこっちゃ? と首を傾げてみせる孫悟空。

 こうしてセーラー服姿に戻ってしまうと、欧米人っぽい容姿という以外はごく一般的な金髪ポニテの女子高生にしか見えないもので、先程まで異形の怪物と死闘を繰り広げていた戦士と同一人物には思えず、信二郎は今でも時々混乱しそうになった。


「いやほら……ギューマの奴らって最初に現れた時からずっと、この陀緒須市の中だけで活動してるだろ。ボクや悟空に見つかるのは分かり切ってるんだから、いっそ遠くに逃げちゃえばいいハズなのに、どうしてかなって思って」

「ああ……そういえば信二郎には、まだ言ってませんでしたっけね」


 今度は信二郎が疑問符を浮かべる番であった。

 その顔を見て、悟空は面白そうに笑いながら後をつづけた。


「この陀緒須って街ですけどね、実は昔、天状界からの移民が多く暮らしてた地域なんです。それこそ、人間界の中のプチ天状界って呼べるぐらいにはね。ですから当然、現地人との人的交流も盛んでして……まぁ早い話が、現在この街に暮らしている人々の約半数ほどは、かつて天状界からやって来た住人の血を引く子孫なんです」


「…………マジで!?」

「マジです。もしかしたら信二郎や、千手さんも、そのうちの一人かもしれませんね」


 また悟空の口から物凄い事実が明らかとなった。

 これはある意味、最初に教えられた西遊記の真実より衝撃的である。だって、下手をすれば自分自身にも無関係ではいられなくなってくることだから。


 ここ数年というもの、実の父親が新興宗教の教祖であるという部分ばかり気にしてきたが、今回の話が本当ならそれどころの騒ぎではない。自分のルーツが異世界にあるかもしれない、だなんて考えてみたことも無かった。


「えーと……それはつまり、陀緒須全体が異世界スケールの中華街みたいなものってこと?」


 信二郎は混乱する頭を整理しながら、ひとつひとつ確かめるようにして訊いた。

 話を聞く限り、天状界からの移民とは華人や華僑のようなものではないかと思うが。


「まぁ、元は似たようなものかもしれませんね。ただもう、天状界の存在自体が歴史から忘却されちまってるぐらいですし、混血が進みまくって見分けがつかないぐらい浸透してることを考えると、むしろ渡来人(とらいじん)とかのレベルで捉えたほうが適切かもしれません」

「また随分とスケールの大きな話になったね……分かってたけどさ」


「いずれにせよ、ギューマが陀緒須市を拠点に活動してるのは、おそらくその辺が理由です。アイツらの本来の目的は、天状界の体制(たいせい)転覆(てんぷく)ですからね……この街を攻撃して支配下に収めることが、すなわち天状界に与える第一撃だ、とか思ってんじゃないですかね」

「はた迷惑な話だなぁ」


 信二郎が思わず漏らした本音に、悟空が「お恥ずかしい限りです」と久々に恐縮する。

 それでふと思い出し、信二郎はスマホを操作すると、先日見つけたとあるページを開いた。

 そこには最近、街中でウワサになっている新興の都市伝説が紹介されているのだ。


「だとすると……この情報が陀緒須市のネットワークだけに拡散したのも、偶然じゃなくて、奴らの狙い通りだってことなのかな?」

「間違いなくそうでしょうね……まったく、あたしとしたことが迂闊(うかつ)でしたよ。陰で、こんなことが起きてるとも知らずに、敵を倒しただけで安心しちまって……」


 悟空はそう言いながら、実に悔しそうに歯噛みしていた。


「それだけ敵のカモフラージュが巧妙だったんだ、仕方ないよ。ボクだって最近まで、ずっと気が付かなかったんだから」


 信二郎のスマホに表示されているもの。

 それはズバリ『青い目の女の(うわさ)』と名付けられた都市伝説であった。


 要約すると、人気のない路地裏や空き地、夜の公園などといった場所に、深い悩みを抱えた人間が赴くと、何処からともなく不思議な牛車に乗りフードを被った青い目の女が現れ、相談に乗ってくれるというもので、その短いカウンセリングが終わった頃には、まるで心の重荷が全て解き放たれたように軽くなり、新しい人生を歩み始められるというのだ。


 これだけ聞くと何とも眉唾(まゆつば)な感じで、実際「新手の薬物の宣伝かな?」などと揶揄(やゆ)する書き込みさえあったぐらいだが、問題は、この都市伝説が広まり始めた時期であった。

 それが今から三週間前。より正確には、牛魔獣コンピュータースイギュウが引き起こした、陀緒須市内における電子端末の大規模異常動作現象の直後からなのである。そして、この噂にある『青い目の女』とは、どう考えてもニルルティのことであった。


 信二郎と悟空はこれまでずっと、あの事件はゲンドー会の信者である()菜子(なこ)の願望を満たすためだけに引き起こされたものだと、そう考えていた。が、実際は違ったのだ。

 その本当の目的とはズバリ、陀緒須市民らの無意識下に、青い目の女=ニルルティの情報を刷り込んでおき、牛魔獣の元となる強い曲界力の持ち主が引き寄せられてくるように仕向けること。市民が使うアカウントやSNSを次々クラッシュさせ混乱に陥れるその裏で、ギューマ一族は大規模な広告戦略を打っていたのである。


 実際、この噂の出どころを(さかのぼ)ってみると、その殆どはあの日コンピュータースイギュウによってクラッシュさせられたと思しきアカウントが発信元であった。つまり異常動作の直前に一度、アカウントが牛魔獣に乗っ取られ利用されていたということなのだ。

 返す返すも、恐ろしく巧妙に考えられた作戦であった。


「しかし、あの連中がとことんまでゲリラ戦法に頼るとは意外でした。軍隊の創設を目指す、とかほざいてましたから、てっきり大規模な組織化が前提とばかり……」

「でもさ、実際こんなチマチマした攻撃ばっかで、本当にギューマの目的って達成できるの?アイツら今は、ひとまずこの街を征服したいんだろ。道のりが遠すぎないか?」


「意外とそうでもありませんよ。あたしも正直ナメてましたが、牛魔獣がこれだけのペースで投入されてくるとなれば、我々にとっては一種の消耗戦(しょうもうせん)になります。あたしだけならともかく信二郎は、このままじゃ心と体が持たないでしょう」


 そう言われてしまい、信二郎は反論出来なかった。

 おそらく外からでは分からないだろうが、カッカライザーを介して悟空のリミッターを制御し続けるのは、想像以上に体力を消耗する。いやそうでなくとも、殆ど毎日のように牛魔獣を追って陀緒須市内をあちこち行ったり来たりしているのだ。このままのペースで戦いを続けていれば、いずれ疲労が蓄積して倒れるのは自明の理だった。


「……そういえばさ、ずっとボクらだけで戦ってるけど、天状界に頼んで増援送ってもらうのとかって出来ないの?」

「一応、打診はしてみたんですが……期待しないでくれと返答がきました。以前話した、例の規定もありますでしょ。むやみに大がかりな部隊とか送り込むと、逆にこっちが侵略者みたくなっちゃうので、(よろ)しくないんですって」


「…………毎度毎度、政治っぽいものに振り回されるよなぁ」

「何処の世界も、大して変わらないモンですよ…………」


 信二郎と悟空が順番にため息を吐き、何とも微妙な空気になってしまった。

 やがてバカバカしくなったのか、悟空が大げさに眼前で手を振って話を打ち切った。


「あー、やめやめ、やめにしましょう! こんな場所で、こんな話してても(らち)が明きません。とにかく一旦、信二郎の家に戻りましょう。帰ってからもまだ仕事が残ってる訳ですし、体を動かしてりゃ、そのうち良い考えが思いつくかもしれません」

「それもそうか……分かったよ。じゃあ、とりあえず教室に戻って荷物を……」


「……あ、タンマです。そういえばひとつ、やり残したことがありました」

「へっ?」


 信二郎がキョトンとしていると、悟空は制服姿のまま眼前でササッと印を結び、

「モンキーマジック・トンシン!」


 初めて耳にする呪文を唱えた直後、悟空の全身がシュウッと音を立て、身体の中央の一点に向かって吸い込まれるようにして消滅した。

 一瞬の出来事に、信二郎は思わず目をパチクリする。一体何処へ消えた?


 すると数秒遅れて、少し離れたところにある倉庫の裏からガタンガタンと物凄い音がして、更に「テメーどっから現れやがった!?」と聞き慣れた悲鳴と共に、物陰から泡を食った様子で実に見知った人物が飛び出してきた。


「……犬司!?」


 それは、言わずと知れた台場犬司であった。

 今日も今日とて目に馴染んだチンピラスタイルだが、いつもと違い、その手には映研部員が使っていたような小型のデジタルビデオカメラを、後生(ごしょう)大事そうに握り締めている。

 犬司は一瞬こちらを見てから、チッと舌打ちすると、急いで逆の方向目掛けて走り出した。


 が、彼を捕捉した者の手から簡単に逃れられるハズもなく、

「――――モンキーマジック・テーシン!」


 今の今まで彼が潜んでいた倉庫の陰から、後を追うように響く呪文の声。

 ガチッと音を立て、犬司の全身がたちまち不自然な格好のまま金縛りに遭って止まった。


「やれやれ、往生際悪いんですから……あんま手間かけさせないで下さいよ」


 呑気にてくてく歩いて物陰から現れたのは、先程目の前から消えたハズの孫悟空だった。

 信二郎はふたつの地点を何度も交互に見返したが、何が何やらサッパリ分からない。


「い、いま一体何が起きたんだ……?」

「ああ、お披露目(ひろめ)は初でしたね。あたしね、短距離(たんきょり)だったらワープ出来るんですよ」

「「ワープ!?」」


 信二郎と、金縛りにあったままの犬司との声が盛大にハモる。

 困惑を隠しきれない信二郎たちを見て、悟空は楽しげにケラケラと笑っていた。


「やー、懐かしいですね。昔はこれ、(なわ)()けとかによく使ったんですよ。今じゃめっきり機会が減っちゃいましたがねー」

「く……クソッ! クソッ! クソッ! クソッ! クソッ!」

「クソクソ言うんじゃありませんよ、汚らしい。ただでさえ犬のクソみたいな人間性が、より一層クソっぽくなるじゃありませんか、負け犬クソ野郎」


「…………キミも大概ヒドいよな」

 悟空に向かってこれ言うの何度目だろうか。


 それはともかく、金縛りに遭ったまま悪態をつき続けている負け犬クソ野郎、じゃなかった犬司に近づいていって、その手に持ったものを信二郎は今一度、確認した。


「……もしかして犬司、またボクらの戦いを撮影するつもりだったのか?」

「ハッ、当たり前だろーがカルト野郎! 俺はぜってー諦めねーぞ! 何度でもやってやる!テメーらの正体を世界中の(さら)し物にする瞬間まで! テメーらが二度と、この街で暮らせないようになるまで、ぜってーになぁ!」

「へーそりゃ凄いですねー頑張ってくださーい」


 近くまでやってきた悟空が、犬司を冷たい目で見下ろし、棒読み口調で激励する。


「だけどねぇ……この間の出来事もう忘れたんですか? 我々の戦いはねぇ、どう頑張っても記録には残せないんですよ。それで大恥(おおはじ)かいたの誰でしたっけねぇ」


 悟空の言葉を聞き、犬司がギリッと、離れていても分かるぐらいに歯軋(はぎし)りする。

 そうなのだ。

 あの牛魔王に襲われて必死の逃亡劇を繰り広げた日以来、犬司は何かと悟空や信二郎をつけまわしては、スマートフォンにデジカメ、更には今手に持っているようなビデオカメラなどで盗撮を繰り返し、悟空たちが牛魔獣と戦っている瞬間を写真か映像に収めてやろうと、躍起(やっき)になり続けていた。


 あれは今から十日ほど前、王羅町内では二体目となる牛魔獣が現れた時のこと。

 奮戦の末に牛魔獣を倒した翌日、学校へ行ってみると犬司がデジカメを持って信二郎たちのクラスにまで現れ、教室にいた全員に向かって「俺は昨日この目でハッキリ見た! いま噂の牛の化け物どもは、コイツらが目的で襲って来てたんだ! 戦ってるところも動画に撮った! こいつらの近くにいると殺されるぞ!」などと馬鹿げたことを喚き出したのである。

 信二郎は思わず慌てたが、悟空は泰然自若(たいぜんじじゃく)とした様子。


 やがて、犬司がデジカメの記録映像を意気揚々(いきようよう)と再生してみせると、犬司の顔色はたちまち青ざめていき、教室中は思惑(おもわく)とは裏腹に、むしろ犬司への大ブーイングに包まれた。

 それもそのハズ。犬司が知らないのも当然だったが、牛魔獣とは曲界力、すなわち『世界をねじ曲げる力』の凝縮体なのである。そのため、牛魔獣の姿をいくら最新の電子機器を用いて撮影しようとも、その光景は決して正常には記録されない。


 犬司が得意げに見せつけた映像に映っていたのは、ぐにゃぐにゃとねじ曲がった映像の中で辛うじて牛魔獣と判別できる小さな影が何者かと戦う姿と、更にその牛魔獣が爆発した衝撃に(あお)られ、離れた場所から撮影していた犬司が、情けない悲鳴を上げてひっくり返るまでの一部始終であった。

 悟空どころか、信二郎の姿さえまともに映っていないこんなクソ動画で、犬司の叫ぶ戯言(たわごと)を真に受けるものなど、誰一人として居はしなかったのである。


「大体ですねぇ、新参者のあたしはともかく、これまで信二郎に対して集まってきた支持が、アンタごときがゴチャゴチャ喚いたところで、失われる訳がないでしょう。積み重ねが違うんですよ、積み重ねが」


「……ケッ、あーあー、そうだろーなぁ! 一年の時もそうだったよ! クラスの連中だってみーんなカルト野郎に洗脳されちまうんだもんな! このままじゃ牧奈が危ねぇつってんのに、だーれも耳を貸さねぇんだ! 気持ち悪いったらありゃしねぇよ!」

「違いますよ、バーカ」


 未だに金縛り状態でありながら、強気の姿勢を失わないで喚き散らす犬司だったが、それを見つめる悟空の視線も声も終始冷ややかであった。


「もっと単純なことです。それはアンタって人間が余りにも分かりやすくて、ついでに行動が心底みっともないからですよ」

「んだとォッ!?」


「そりゃあね、急に宗教団体の教祖の息子だとか言われて、初めは正直、警戒したって皆さん言ってましたよ? けど信二郎と千手さんは、元々がクラス公認みたいな仲だった二人ですよ。そこに、アンタみたいな負け犬野郎が、それもあからさまな嫉妬で噛みつきまくってりゃあ、誰でも同情的な空気になるってモンでしょーが。現にいまも、何もしてない信二郎相手に意味不明なことばっか言って喚き散らして……みんなドン引きですよ? この学校の中で孤立していってるの、むしろアンタの方なんじゃないですか?」


「…………うるせえうるせえうるせえええええええええええええええええええええッ!!」

「そ、そうだったのか……!?」


 信二郎はその日初めて、クラスメイトの中に自分に便宜(べんぎ)を図るような態度をとる者がいる、その理由を知らされた。というか自分よりむしろ犬司の方が孤立化していたのだとは、今までこれっぽっちも気が付かなかった。

 なんだか一度に入ってくる情報が多すぎて、初めて悟空と会った日と同じぐらい、頭の中がグラグラする気がした。


「しかし、こうなってくると増々怪しいですねぇ……いい加減、正直に答えたらどうです?」 


 そう言って、悟空はどこからともなくニョイロッドを取り出すと、身動きが取れないままでいる犬司の頬面(ほおづら)に押し付け、まるで威圧するかのようにグリグリとやった。


「今月の七日! 牛魔獣ハンマーホルスタインを生み出したのはアンタですね!」

「し、知らねえっつってんだろ! 俺はその日……そこの駄菓子屋でアイス食ってたんだよ! 街には行ってねぇ! もう今までに何度も、同じこと言っただろうが!?」

「ウソをつくんじゃありませんよ……アンタ以外に誰がいるっていうんですか!」


「も……もういいよ、悟空……」

 信二郎はここへきて、慌てて悟空の尋問を止めに入った。


「もう随分時間が経ったんだしさ……ハンマーホルスタインの母体になったのが誰かなんて、今更追及したってしょうがないじゃないか……」

「そういう訳にはいきませんよ、信二郎!」


 悟空が珍しくちょっと怒った顔で、信二郎のほうを振り向いて言った。


「あの日、あたしが駆けつける直前まで、ハンマーホルスタインは信二郎ひとりを追いかけて来たんでしょう? だとしたら、それを生んだ現実逃避は単なる破壊が目的じゃありません。明らかに、信二郎を消せば得をするってタイプのやつです! そんなこと考える人間なんて、コイツでなけりゃ一体誰だって言うんですか!?」

「それは……」


 信二郎が思わず黙ってしまうと、悟空は軽くため息をついてから再び、犬司を見て言った。


「まぁ、信二郎もこう言ってることですし……今日のところは、これぐらいで勘弁してやろうじゃありませんか。ですがこれに懲りたら二度と! 信二郎や、千手さんに、下らない真似をするんじゃありませんよ! 分かりましたね!?」

「う、うるせえ、命令すんじゃねえよ『愛しの義妹』!」

「は!?」


 悟空が途端にゾゾッと身を震わせ、それを見た犬司が金縛り状態のままニヤリと笑った。


「忘れてねえぞ! あのオッサンと昔、仲が良かったんだろ! 今からでも、おにいちゃーん頭なでなでしてー! って言いに行って来いよ、『愛しの義妹』! 『愛しの義妹』!」


「…………どうやら、」

 悟空が唐突にガッと犬司の顔面を掴み、ミシミシと言わせた。

 信二郎はその後ろでビクッと身を震わせた。悟空のこめかみに青筋が浮いている気がした。


「痛い目を見ないと分からないらしいですね!?」


 言うが早いかグギッと音を立て、悟空は硬直して動けないでいる犬司の顔を強引に別方向へねじ曲げた。犬司が「アガッ」と妙な声を漏らしたが、一向にお構いなしだ。

 信二郎が仰天して動けないでいると、悟空はその後も犬司の腕やら足やらをそれぞれ、ある特定の方向に向かってねじ曲げ、やがてそれを地面に横たえると、足で乱暴に蹴りつけ近くの電柱の麓目掛けて吹っ飛ばした。


「――――アンタはそこで、しばらく反省しなさい!」


「うわ悟空、いくらなんでもこれは……」

 信二郎が思わず全力で犬司に同情したくなったもの。


 それは、犬がマーキングする際の、片足を上げたポーズのままで硬直させられ、電柱の麓に放置されるという、何とも屈辱的な仕打ちであった。この場所も、これからの時間それなりに人通りが生じるというのに、いくら何でも鬼畜に過ぎるのでは。


「チクショォォォォォォォォォォォォォォォ覚えてやがれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

「さー、信二郎帰りましょー」


 それを見届けた悟空は、逆に晴れ晴れとした顔つきで、体の向きを反転させ信二郎の背中を押すとその場所から立ち去ってしまおうとする。


「え……いいの? これ本気で放ったらかしで行くの!?」

「負け犬野郎の(しつけ)には、いい薬ですよ。上手くすれば保健所が回収してくれますでしょ」

「それだと死んじゃわないか!? …………いいのかなぁ、これ」


 信二郎は悟空に押されるがままに剣道場の傍を歩きながら、果てしなく上がり続ける屈辱の遠吠えが響き渡るのを、背後に聞き続けていた。

 その後、荷物を取りに校舎へと戻ってみると、たったいま信二郎たちが歩いてきた方向に、何人かの生徒が野次馬的テンションで走り去っていくのを見て、信二郎は心中で密かに犬司に対し手を合わせ、こう唱えるのだった。


 …………レッツ、成仏。


*  *  *


 学校の正門を出てから徒歩二十分。

 山沿いに整備された舗道(ほどう)をまっすぐに辿り、いくつかの雑木林をくぐって小高い丘の上へと上っていくと、しばらくして舗道の途切れた場所がある。その先にある、一車線ほどの幅しかない傾斜した砂利道を進んでいくと、やがて現れるカントリー調の()洒落(じゃれ)た建物。


 レジェンド乗馬クラブ。

 その場所こそ、信二郎が今現在、祖父と共に暮らしている住まいであった。


「……ただいま!」


 信二郎が馬場(ばば)を仕切る木製の柵に寄り掛かり、声を上げた瞬間、ドドドドドと地を揺るがす轟音(ごうおん)がして、それまで広い馬場のあちこちにて思い思いの行動をとっていた馬たちが、一斉に信二郎目掛けて殺到してきた。


「うおおおおおおッ!?」


 普段は飄々(ひょうひょう)としている悟空だが、この時ばかりは気圧されたように後ずさる。

 反対に、まったく動じていないのが平素はヘタレな信二郎の方であった。

 我先にと集結してきた色も大小も様々な馬たちは、ひしめき合うようにして柵の縁から顔を出し、ぶるるっ、と声を震わせると、こぞって信二郎に向かって鼻先をすり寄せるようにして甘える様子を見せる。


「あ、あははっ、やめろよ皆、くすぐったいって! あははっ!」


 普段の言動からは考えられないぐらい(さわ)やかに微笑み、自然な笑い声を漏らす信二郎。

 彼の方もまた、馬たちのことが大好きなのであった。


「モンブラン、ゴウテン、バリアス、ストライカー……みんな良い子にしてたか?」

 ひひぃぃぃぃん!


 信二郎の問いかけに、名前を呼ばれた馬たちが揃って(いなな)く。

 一方、悟空はそれを見てほえー、と驚きを隠しきれない様子であった。


「しかしまー、信二郎ってホント動物たちに好かれますよねー……(うらや)ましい限り」

「そんなことないよ、普通だって。ほら、悟空もさ、ここへ来て三週間にもなるんだし、いい加減ちょっとは慣れたハズだよ。もっかい触れ合ってみたら?」

「そ、そうですかね……? では、試しに……」


 悟空はカバンをその場に置き、ゴホンと咳払いすると、出来るだけ肩の力を抜いた上で腕を大きく広げ、これ以上ないというぐらいのパァッという笑顔で馬たちに歩み寄った。


「みなさん、ただいまで~す!」

 ぶひひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃん!?


 その途端、集まっていた馬たちが一転して酷く怯えたように声を上げ、一斉に後ずさりして散り散りとなった。


 悟空はその光景を見て、しばし笑顔のまま固まってしまっていた。

 信二郎は自分で提案しておきながら、実に居たたまれない気分になる。


「あー……悟空?」

「う、ううう…………あたしはただ仲良くしたいと思ってるだけですのに…………」


 そのまま涙が滂沱(ぼうだ)として流れ落ちる悟空。

 そうなのだ、実は悟空は、何もせずとも馬に怯えられてしまう体質の持ち主なのである。


 それというのも、信二郎もすっかり忘れていたのだが、彼女が釈迦(しゃか)如来(にょらい)によって封印されるよりも以前、天状界で(ひつ)()(おん)という役職についていたからなのだ。

 弼馬温とは、読んで字の如く馬の世話係である。


 かつての悟空はこの仕事を半月近くも真面目に務めた後、天状界の中でも最下等の地位だと知らされ、へそを曲げてしまうことになるのだが、重要なのは面倒を見ていた馬たちがみな、天状界の馬だということである。

 一時期とはいえ彼らを世話し従えていた悟空は、それを可能にし得る、極めて強力な気迫を身に纏ってしまっている。そのため、人間界の馬たちは自動的に威圧(いあつ)され、悟空の意思(いし)如何(いかん)にかかわらず、みな自然に怯えてしまうのだった。


「…………返す返すも、あたしを弼馬温なんかにしやがった奴らが恨めしい…………」

「あ、あはは……ま、まぁ、地道に信頼を築いていくしかないんじゃないかな……?」


 そう言って、肩を落とす悟空を、いつもとは反対に信二郎の側が(なぐさ)める。

 ごく(まれ)には、こういうことも起きるのであった。


「それじゃボクは、じいちゃんに帰ったよって伝えてくるから」


*  *  *


 一般に馬にかかわる仕事といえば、朝早くから殆ど一日中かけて所属する馬たちのケアをし、更にそれを三百六十五日休みなく繰り返す、それはそれは過酷なものである。

 実際、信二郎もこの生活で体力の素地(そじ)(きた)えられていたからこそ、連日に及ぶギューマとの戦いに辛うじてでもついて来られたのだ、と感じるぐらいだった。


 馬の世話の基本要素はおそらく、飼い付け、手入れ、馬房(ばぼう)掃除(そうじ)、の三点であると思う。

 というか最低限、馬に対して人間の果たすべき責任だと捉えるべきだろう。

 飼い付け、つまり(えさ)やり作業は、レジェンド乗馬クラブでは朝、昼、夜の三回である。


 今は昼の飼い付けから数時間経過しており、クラブで管理する六頭前後が一斉に馬場の中に放牧され、自由に動き回ることを許されている時間であった。気ままに砂の上に寝転んだり、パッカラパッカラとリズミカルな音を立てて駆けっこしたりという姿は、傍から眺めていると実に心穏やかになる風景だった。

 彼らの幸せそうな様子を見ていると、信二郎もまた同様に幸せを感じるのだ。


 本当は、彼らを厩舎(きゅうしゃ)から出し夕方の放牧に向かわせる作業も、学校から帰ってきた信二郎の役割なのだが、その日は牛魔獣退治で予想より帰宅が遅れたため、先に祖父がやってしまっていた。なお当然ながら祖父は、悟空と信二郎が街で戦っていることを知らない。

 さて、では信二郎がこの時間、何の仕事をしているのかというと、


「ゆっくり……ゆっくり……慌てるなブラックセイバー……」

 ぶるるるるっ!


 クラブ内の馬たちと比べてもやや大きめの体躯を持つ漆黒(しっこく)牝馬(めすうま)が、口元から伸びた手綱(たづな)を握って先導する信二郎に応えるかのように、大きく鼻を鳴らした。先程もそうだったように、馬たちは長く付き合っていると、こちらの言葉を理解しているとしか思えぬ行動を取ることが間々ある。


 そして、その牝馬の下腹部はこれでもかとばかりに大きく膨れ上がっていた。

 ブラックセイバーと呼ばれるその馬は、妊娠しているのだ。


 現在では妊娠十か月半を過ぎている。馬の標準的な懐胎期間は十一か月だから、祖父が言うにはあと一~二週間もすれば出産だそうである。ただし、胎児を抱えている負担からか放っておくと運動不足に陥りやすいため、こうして人間が手綱を引き、適度な歩行運動をさせてやる必要があるのだ。

 目安は、時速三~四キロを維持しながら二十分ほど。乗馬クラブ内の、馬場以外の決まったルートをぐるぐると回り続ける。こうして心機能を刺激し血流を増加しておくことは、安産を成功させる上で非常に重要な役割を果たすのだとか。


「……ブラックセイバー、ストップ!」


 信二郎の合図に従うように、ブラックセイバーが彼の背後で歩みを止める。

 立ち止まった一人と一頭の進行方向の少し先を、一匹のハチがぶぅ~んと羽音を立てながら通り過ぎていった。信二郎はともかく、妊娠中の馬が刺されては敵わないので、しばらく待つことにする。

 と、そこへ馬場を挟んで向こう側にいた悟空から、不意に声がかかった。


「信二郎~、その子の飼葉(かいば)は気持ち多めにするんでしたよね~?」

「……運んだ先で、小分けにしとくのを忘れずにね!」

「はいは~い!」


 悟空が手を振って軽快に返事をし、それからまた作業を再開する。

 彼女は、例の弼馬温の呪縛の所為もあって馬たちと直接触れ合う作業に向いていないので、基本的にはこうして馬たちに与える飼葉の準備・運搬と、それから厩舎内が留守になっている隙に、馬たちの普段の寝床である馬房の清掃を任せている。


 地位の低さを理由に放り出してしまったとはいえ、それ以前は、職務そのものには真面目に取り組んでいたのだ。寝床に敷くのが(わら)ではなくおが()だったり、妊馬の扱いまでは知らないなど少々勝手の違いはあれども、それすらも瞬時に吸収して、非常に丁寧で行き届いた仕事をするため、祖父からの評判は上々であった。


 最近知ったことだが、猿は馬の守り神であるという伝説があるらしい。だとすると彼女にはピッタリの仕事であるといえた。孫悟空を「弼馬温」呼ばわりするのは罵倒(ばとう)の意味らしいが、信二郎の目から見るとイマイチ信じられなかった。


 それにつけても、行く先で飛び回るハチが一向に去ってくれない。

 このままではキリがないと思い、信二郎はブラックセイバーに合図し、迂回(うかい)()を取る選択をした。急がば回れというやつだ。強引に突っ切ろうとして刺されては元も子もない。


「よーしよし……ブラックセイバー、良い子だ……」


 大人しく方向転換して後に従う漆黒の馬に、信二郎が優しく声をかけると、彼女の側もまたぶるると声を発しながら、信二郎の腕に軽く鼻面を押し付けてくるのだった。

 彼らの一挙一動が、信二郎には愛おしくてたまらない。

 約一年前、教団本部を離れてここへ引っ越してきたばかりの頃は、右も左も分からず、正直どうなることかと思ったが、今では心の底から良かったと感じている。


 俗に言うアニマルセラピーというものだろうか。馬との関わり合いは傷心を癒すのに効果があるらしかった。元々、信二郎にそういう意図があった訳ではないが、結果的には似た状況になっているといえた。

 実際こうして、馬たちに対して責任を持ちながら生活し続けていると、多少なりとはいえ、過去の痛みを忘れられる気がした。自分が背負った罪過(ざいか)のほんの一部分だけでも、取り返せるような気がした。


 そう、あくまで、気がするだけだった。

 本当は、決して忘れることも取り返すことも出来ないのだと知っていた。

 自分にはこんな場所で微かでも幸せを感じる資格はないのだと、誰よりも理解していた。


 どれだけ見えないフリをしていても、無かったことには出来ないのだ。

 忘れようとすればするほど、むしろ信二郎の心は(さいな)まれていった。

 だからこそ、ボクは……。


「――――あら、今日もいらしたんですか!?」


 そのとき悟空の妙に嬉しそうな声が耳に飛び込んできて、信二郎はハッと我に返された。

 気が付けば、出発点を一周して、厩舎に近い位置まで戻って来ていた。

 時間の関係で共に微かにオレンジ色へと染まり始めた、木材を活かした三角形の屋根を持つ人間用の母屋(おもや)と、馬のために(しつら)えられた厩舎との間に来客が一名、立っていた。


 西日を浴び、ほんの少しだけ眩しそうに目元を手で覆っているのは、王羅高校の女子制服に身を包み、長い天然の栗色の髪をかき上げるようにこちらを見つめる、メガネをかけた一人の少女であった。


 牧奈千手。彼女が、レジェンド乗馬クラブへとやって来ていた。

 思わず歩みを止めた信二郎と、その背後のブラックセイバーを見て、千手は微かにはにかむようにして言った。


「……えへへ、来ちゃった」

「え……あの……うん……いらっしゃい」


 不意を突くような訪問に信二郎が歯切れ悪く答えていると、横から悟空が口を挟んできた。


「やー、折角来てくれたのにすみませんねぇ……ウチのマスターときたら不愛想(ぶあいそう)で……」

「キミはボクの保護者か」

「ううん、平気だよ、悟空さん。もう慣れたもん」

「だそうですよ信二郎。良かったですねぇ、千手さんがいい人で……」

「うるさいよ」


 信二郎の素っ気ない返しを聞いて、千手と悟空が一緒になってクスクスと笑い出す。

 この二人、いつの間にかすっかり仲良くなってしまった様子だった。

 いや勿論、いいことには決まっているのだが。


 するとそのとき、馬場の中から待ってましたとばかりに、ひひぃぃぃぃん! と声がして、これまた一匹の牝馬が千手の近く目掛けてパカパカと一直線に駆けつけて来た。

 それは千手と同じく栗色の毛を持つ、間もなく生まれて一年になるモンブランだった。


 モンブランの接近に気が付いた千手もまた、パァッと顔を輝かせ、馬場の柵へと駆け寄ると手を伸ばし、相手の馬の体に触れて愛おしげな声を上げた。


「モンブラ~ン、ちゃんと良い子にしてた?」

 ぶるるるるっ!

「お前は少し元気が良すぎるから……あんまり、蓮河くんたちを困らせたら駄目だよ?」


 分かっていますお姉さま、とばかりに千手の大きめの胸に鼻先をすり寄せるモンブラン。

 彼女たちの交流もまた、目に優しいことこの上なかった。

 そう思うから敢えて黙って見ていると、


「……もしかして、羨ましいなー、とか思ってます?」

「は!?」


 悟空が耳元でコソッと呟いてきたその言葉に、信二郎は思わず仰け反る。

 それを見て悟空は口元に手を当てると、またも(こら)えるようにして笑みを(こぼ)すのであった。


「冗談ですよー、じょーだん! 全く信二郎ってば、真面目なんですから~」

「……あのなぁ!」


 幸い当人には聞こえなかったようだが、恥ずかしさのあまり信二郎が悟空相手に腹を立てていると、ふと千手が「あ、そうだ」と思い出したようにカバンの中身をゴソゴソやり、やがて数冊のノートの束を取り出すと信二郎に言った。


「あの、これ、先週の木曜日と金曜日に授業でやった内容……まとめてあるから、良かったら使ってね。もうすぐ中間テストだし、蓮河くんも分からないところ多いと困るでしょ?」

「え……あ、ありがとう……」

「それからこれは悟空さんに」


 千手が続けてカバンから取り出したのは、古風なデザインのラッピングが施された、四角く平べったい形状の、食品と思しき包みであった。どうやらお土産を持参したらしい。

 それを見た途端、悟空がおおっと言って目をキラキラさせ始める。


「もしかすると、和菓子ってやつでしょうか!?」

「ぴんぽ~ん、豆大福だよ。悟空さん、初めてっぽいのによく分かったね?」

「やー、何となくですが、千手さんのイメージにピッタリな気がしましたもので」

「ウチのお寺の目の前にあるお店で買ってきたんだよ。創業三百年の味なんだって。ノートと一緒に(でん)(すけ)さんに渡しておくから、後でみんなでゆっくり食べてね」


 伝介というのはちなみに、信二郎の祖父の名前であった。


「お米とか大豆が原料なら、悟空さんも安心して食べられるでしょ?」

「嗚呼、なんというお心遣いでしょう……謝謝(シエシエ)!!」

「そうやって急に時々、思い出したみたく中国語使うのやめろよ、すごくワザとらしいぞ」

「あ、あれ? そうですかね……」


 (うやうや)しく頭を下げていながらも、実にとぼけた声を出す悟空。

 それを見て、フフッと楽しげに微笑む千手。

 信二郎は何だか、とても申し訳ない気持ちになってしまった。


「……いつもゴメンな、牧奈。ボクらの所為で、余計な気ばっか遣わせちゃってさ」

「ううん、そんなことないよ蓮河くん。悟空さんも、蓮河くんも、わたしたちを守るために、毎日大変な想いしてくれてるんでしょ? これぐらい何でもないし、役に立てて嬉しいぐらいだよ。こうやってモンブランたちにも会えるし……」


 千手にそう言って優しく撫でられ、モンブランが気持ちよさそうな声を漏らす。

 牛魔王による襲撃を受けたあの日以来、敵愾心(てきがいしん)を増大させ続ける犬司とは対照的に、千手は信二郎や悟空に対し、何かと気を回してくれるようになっていた。


 たとえばこうして、平日に牛魔獣退治に出かけなければならないことで、授業を休みがちな信二郎のためにノートを取っておいてくれる。出席だけなら悟空がモンキーマジックで何とか誤魔化してくれるからともかく、やはり授業内容そのものは、その場にいなければ知りようもないため、正直非常に助かっていた。


 それから今日倒したシナイバッファローのように、王羅町内で牛魔獣が暗躍した場合は情報収集にも一役買ってくれる。立場上、あまり知人が多いとは言えない信二郎や悟空と違って、千手は寺の娘としても、ひとりの女子高生としても、交友関係が広いため、これまでに幾度も彼女の集めてきてくれる情報が、事件解決の大きな糸口に繋がっていた。


 そして更にもうひとつ。一人の馬術経験者として、レジェンド乗馬クラブの手伝いにやって来てくれること。これに関しては、つい先週からのことであった。

 既に述べた通り、馬にかかわる仕事は基本的に年中無休であり、どんな事情があるにせよ、気まぐれに投げ出すことは出来ない。祖父の負担が急激に倍増してしまうことになるし、病気などと違って、事情を明かせない以上は尚更であった。


 そこで、状況を察した千手が先週来、信二郎たちの帰りが遅くなりそうな日などには、ここレジェンド乗馬クラブを訪れて、代わりに馬たちの面倒を見てくれるようになったのである。馬たちを悲惨な状況に追い込むなどまっぴら御免(ごめん)なので、信二郎にとっては何気にこれが一番助かっているかもしれなかった。

 しかも驚くべきは、これら全てが千手による自発的行動の結果であり、こちらから依頼などした訳では一切ないことである。最初のうちは遠慮したのだが、千手は(がん)として聞き入れようとはしなかった。彼女は想像以上に、意志の強固なところがあるらしいのだ。


「それにしても……まさか千手さんの方が信二郎より、この乗馬クラブで過ごしてきた時間が長いとは思いませんでしたよ」

「小さい頃から、教養として身に着けといて損はないって言われたんだ……お寺の子供って、割と結構、そういうところあるから」


 悟空の率直な感想に、千手は何でもない事のようにそう答えてみせる。

 歴史や伝統のある家に生まれるというのも、それはそれで大変なものなのかもしれないと、信二郎は千手の話を聞きながらそう思った。


「でも、小学校からずっとここに通ってたけど……嫌だと思ったことは一度も無かったかな。あの子たちと一緒に過ごすのは楽しかったし……他の事が忙しくなりすぎて、中学校では一回やめなきゃいけなかったけど、それでも時々はここに顔出してたぐらいだから」

「……それに比べればボクは、てんで初心者だよ。じいちゃん家だから何度かは来てたけど、正式に習ったって言えるのは去年からの一年間ぐらいだし」

「蓮河くんは……正直ちょっとズルいって思ったかな」


 千手がちょっとだけ()ねたような顔をしてそう言うので、信二郎は目を丸くした。

 悟空は悟空で、初めて見る千手の表情にポカーンとなっている。


「だって技術的には初心者で、何も知らないハズなのに、なんでか知らないけど、馬がみんな言うこと聞いちゃうんだもん。伝介さんに聞いてみたら昔からそうだったって言うし、なんか不公平だなって気がしたよ」

「……信二郎アナタ、さっきあたしに、地道に信頼を築けとか言ってませんでしたっけ?」

「そうだったっけ?」


 悟空からの指摘に、信二郎はその時ばかりは全力ですっとぼけた態度を取る。

 それを見た千手は苦笑するばかりであった。


「蓮河くんってば、意外と自分が恵まれてるのに気付いてないんだよなあ……」


 その時ふと、信二郎の背中をツンツンと突っつく者がいた。

 あ、と信二郎はようやくそこで思い出した。今の今まで自分が何をしていたのかを。


「ごめんごめん、ブラックセイバー……まだキミの運動が途中だったよね。話に夢中になってすっかり忘れちゃってたよ」


 信二郎が()びつつ頭をなでてやると、ぶるるっと鼻息を鳴らすブラックセイバー。

 いつまでも話し込むな、という抗議の声かもしれなかった。


「それじゃ、ボクはブラックセイバーをもう少し歩かせてくるから」

「うん、気を付けてね。私も伝介さんにお土産渡したら、服借りて着替えて来るから。他の子たちも、あとちょっとしたら(しゅう)(ぼく)の時間だろうし……折角だから最後まで手伝って帰ることにするね。確か悟空さん……馬に触れないんだよね?」

「うう、違いますよう……あたしが馬に触れないんじゃありません……馬たちの方があたしに触れないんですよぅ……」


 珍しく半泣きで肩を落とす悟空が、何とも哀れを誘うようだった。

 それを聞いた千手は、ひとまず理解したように頷いた。


「そっか……じゃあやっぱり、私も残って手入れとか手伝う方がいいね。伝介さんは休んでるだろうし、蓮河くんひとりに全部やらせちゃったら、大変だと思うから」

「……そもそも気になってたんだけどさ、牧奈」

「何?」


「ワザワザ来てくれたのはいいけど、今日って確か……牧奈は休みじゃなかったっけ?」

「ん、忘れてないよ。だけど蓮河くんたち、今日も学校で戦ってたよね」


 どうやら千手は全て知っているようであった。


「悟空さんもだけど、戦いが終わったばかりで疲れてるんじゃないかなって……ちょっとでも力になれればいいなって思って来たんだけど…………ダメ?」


 小首を傾げるようにして信二郎を見つめてくる千手。

 レンズ越しに瞬きする彼女の瞳が、いつになく真っ直ぐと信二郎のことを捉えていた。

 そのとき信二郎は、自分でもどういう顔をしているか、よく分からなかった。

 不思議と彼女から視線を逸らすことが出来ないでいる。


 不意にクスリと、千手が微笑んだのを目の当たりにし、信二郎は慌てて顔を伏せた。

 ブラックセイバーが鼻を鳴らすのとほぼ同時に、すぐ近くで悟空の「やれやれ」という声を聞いた気がした。


*  *  *


 やがて日も殆ど暮れ、暗くなったレジェンド乗馬クラブの馬場からは、一頭たりとも馬たちの姿は見えなくなっていた。あの後、千手が信二郎に協力して、順番に全ての馬を収牧したのである。


 馬場の目の前に設置された馬専用の洗い場では、そのラストにあたる馬たちが丁度、千手と信二郎の手によってそれぞれ手入れの真っ只中であった。

 ビニールホースから噴き出るシャワーを浴び、頭から足先まで全身をくまなくブラッシングされるモンブランは、千手の前で実に気持ちよさそうな面持ちとなっていた。


「よしよし、もうちょっとで終わるからねー、モンブラン……」

「おやおや……幸せそうですねぇ、モンブラン」


 と、そこへ両手に掃除用具を持った悟空がブラブラやってきた。

 呑気なことを言っているぐらいだから、彼女は彼女で仕事が片付いたということらしい。


「あたしの方は、馬場掃除終わりましたよ、千手さん」

「悟空さんお疲れ様……わたしの方も、もうちょっとしたらお終いだから」

「……しっかし千手さん、どんな格好してても様になりますねぇ」


 悟空が千手をまじまじと観察しながら、唐突にそう呟く。

 千手は現在、馬の手入れをするためということで、その長い栗色の髪の毛を後頭部に纏めて結わえ、首から下は学校の制服ではなく、信二郎の祖父に言って貸してもらった夏物の乗馬服に着替えていた。悟空の目から見ても、動きやすそうにはなっている反面、制服のとき以上にだいぶ胸元が窮屈(きゅうくつ)そうだった。

 そのことを間接的に信二郎に伝えたらどう反応するか見てみたい気もしたが、あまり調子に乗ってからかい過ぎると、今度こそ本気で怒り出しそうなのでやめておく。


「育ちと品の良さが表れてるというか、なんと言いますか」

「ほ、褒め過ぎだよ悟空さん」

「千手さんと信二郎なら……きっと、とてもお似合いだろうと思いますよ」

「……う~」


 そう言って、千手に優しく微笑みかける悟空。

 千手は心なしか頬を染めて、モンブランに寄り添うようにして顔を伏せてしまった。

 今や悟空にとって千手は、信二郎と同様、見守り(いつく)しむ対象の一つとなっているのだった。


「お似合いついでに、ひとつ、お聞きして(よろ)しいですか」

「……な、何?」

「千手さん、どういう訳で信二郎のことを好きになったんです?」

「ふぇっ!?」


 思わず声が裏返ってしまうほどの衝撃。

 それを聞きつけた信二郎が何事かと、目を丸くして振り返ったが、ただならぬ雰囲気を感じ取ったのだろう……首を突っ込まないほうがいいと判断したらしく、即座に体の向きを直して自分の作業に戻っていた。


 信二郎は、千手からは少し離れた洗い場で、ブラックセイバーとは別の馬をケアしていた。ブラックセイバーは妊娠中なので、出来るだけ事故等のリスクを避けるよう、一番に手入れを終え、早めに専用の馬房へと戻していたのだ。


「きゅ、きゅ、急にそんなこと聞かれても……ビックリするよ、悟空さん……」


 たちまち、しどろもどろになり、誤魔化す様にモンブランをひたすらブラッシングし始める千手。そうした中で、モンブランがぶふぅっと鼻を鳴らしたが、まるで千手の慌てぶりを見て笑っているかのようであった。


「それに……すぐそこで蓮河くんに聞かれちゃうし……」

「だーいじょうぶ、大丈夫! それなりに離れてますし……水さえ流しちゃえば、音量に掻き消されるからバレやしませんって!」

「…………何がバレやしないって?」


 言った傍から筒抜けとなっていたらしく、振り向きさえしない信二郎から即座に牽制(けんせい)され、笑顔のままダラダラと冷や汗を流し始める悟空。

 だが信二郎は気を利かせたのか、はたまた偶然タイミングが良かったのか、ともかく手入れ用具一式を元の場所に片付けると、馬の手綱を握って洗い場から移動し始めた。


「それじゃボクは、ゴウテンを厩舎まで連れて行くから」

「そ、そうですか……お気をつけて……」

「笑顔が引きつってるぞ、悟空。あとキミは声がデカい」


 淡々と指摘を食らわせながら、ハァとため息を吐いて、馬のゴウテンと一緒にその場を通り過ぎていく信二郎。それを取って付けたように手を振りながら見送った悟空は、千手がこちらを見てクスクス笑っているのに気付くと、オホンと咳払いをして話を再開し出した。


「と、とにかくですね……実際のところ、どうなんです?」

「……そんなに気になる?」

「まぁ、信二郎も割かしハンサムですからねぇ……同世代の女子から好意を持たれるぐらい、考えてみりゃ、そんなに不思議じゃないかもしれませんけど」

「もうっ、茶化さないでよ、悟空さん……」

「あはは、すみません」


 後頭部に手をやり、とぼけたように笑ってみせる孫悟空。

 そんな彼女をじっと見つめ返す千手だったが、しばらくして観念したように口を開いた。


「――――だったんだ」

「はい?」

「……わたしね、初めて会った頃……正直、蓮河くんのこと苦手だったんだ……」

「えっ、そりゃまたどうして!?」


 千手が告白した意外すぎる過去に、悟空が声を裏返したうえに目を丸くする。

 今現在の状況からすれば、あまりに想像しづらい話であった。

 悟空から投げかけられた疑問に、千手は少しの間考えてから、


「これ……言ってもいいのかな」

「どうぞどうぞ」

「……蓮河くん……あの頃は今よりずっと、雰囲気暗かったから……」

「…………あー」


 悟空がたちまち納得したようにうんうんと頷く。それだけ共通認識ということだ。

 きっと今頃は、厩舎内では馬のゴウテンを個別の馬房に入れる際中の信二郎が、くしゅんと何かを感知し、小さなくしゃみでもしている頃合いであろう。


「まるでこの世の終わりみたい、って言えば伝わるかな……それに悟空さんも言ってたけど、蓮河くん、ちょっと美男子過ぎるから……なんていうかね、すっごく近寄りがたかったんだ、最初のうちの何か月かは……」

「なるほど……分からないでもないような。しかしそれなら、一体何がキッカケで?」


「……最初のキッカケはね、ここの乗馬クラブに遊びに来たことだったんだ。ちょうど去年の今頃だったんだけど、高校に上がってしばらく経ったし、久々に顔出そうかなって。そしたら偶然、蓮河くんと出くわしちゃって」

「そこで、馬たちを華麗に乗りこなす信二郎の雄姿を目の当たりにした、と」

「ううん、違うよ。そのとき蓮河くん、丁度ブラックセイバーから落馬したところだったの」


 悟空がガクッと拍子抜けした様にすっ転びかける。

 体勢を戻し「さ、さいですか」と焦りの表情を浮かべる彼女に、千手は小さく笑った。


「伝介さんもその場にいてね、タイミングよくわたしが来たから、お手本を見せてやってくれないかって頼まれちゃって。それで言われた通り、着替えてきて乗ってみせたら、蓮河くんもその後からいきなり乗れるようになって……なんか悔しかったから、ついでに走ってるところまでやって、見せつけちゃった」


「…………千手さんって、意外と負けず嫌いなところありますよね」

「時々ちょっと、大人げないかなって自分でも思う」

「まあ、いいでしょう。それで?」


「うん……それが終わってから、初めて二人で喋ったんだ。学校のこととか、馬のこととか、色々。意外と気が合うんだって分かって、驚いて。気が付いたら日が沈んでて、いつの間にか夜になっちゃってたの」

「時間を忘れるほど楽しかった訳ですか……なんか、青春って感じでいいですねぇ」

「ふふ、ありがとう悟空さん。だけどね、大事なのはここからなんだよ」

「ほぅ?」

「もう暗いから帰ろうって思ったその時にね……たまたま、馬の出産が始まっちゃったの」


 悟空は心なしか前のめりになり、より一層興味深げに聞き入った。

 馬というのは捕食者を避ける野生の名残があるからか、大抵が日没後から明け方までの間に出産する。月の満ち欠けや潮位とも関連性がある、という説も聞いたことがあった。


「しかも逆子(さかご)だったから……家に電話して、わたしも助産手伝うことになったんだ。小さい頃から何度もそういうの見てたから、慣れてたし。反対に蓮河くんは初めてで、凄く戸惑ってるみたいだったけど」

「まあ、そりゃそうでしょうね」

「時間はかかったけど……結果的には、無事に生まれてきてくれて。あ、それが今ここにいるモンブランなんだよ」

「……この子、お二人の目の前で生まれたんですか!?」


 千手が優しげに撫でる、栗色の毛をした牝馬を見て、悟空が驚きを(あら)わにする。

 言われてみれば確かに、千手とモンブランは特別仲が良かったように思える。気のせいかと考えていたが、なるほど、そういう経緯(いきさつ)があったという訳だ。


「何もかも納得ですよ……そんな経験を共にしたからこそお二人は、それ以来分かち(がた)い絆で結ばれたと、こういうことなんですね」

「ううん、違うの」

「へ?」


「馬の赤ちゃんってみんなそうだけど……生まれて少ししたら、あの折れそうな足で、必死に立ち上がろうとするでしょ? わたしはもう見慣れちゃったから何ともなかったんだけど……蓮河くんは逆に、それを見守ってるうちにボロボロ泣き出しちゃって」


「泣いた!?」

「あの時はビックリしたなぁ……だって蓮河くん、全然そういうタイプに見えなかったから。それが一番意外だったことで、実は凄くいい人だったんだなって分かって……それで……」

「は、はぁ~……」


 それ以上は口ごもって恥ずかしそうに顔を伏せてしまう千手に、悟空はコクコク頷きながらそんな間の抜けた声を出すことしか出来なかった。なんとまぁ、なんというか。


「……ちなみに、この話って誰か他の方には?」

「たぶん、クラスの半分ぐらいの人たちは知ってると思う……蓮河くんが、お父さんのことで怖がられたときに、誤解を解きたくてわたしが友達に話したんだけど、そしたらいつの間にか凄く大勢に広まっちゃって……」


「ははぁ、信二郎と千手さんに肩入れする人がやたら多いのは、そういう事情もあったって訳なんですか。お陰で皆さんから、随分応援されてますよね」

「ちょっと、お節介なときもあるけどね」


 そう言って苦笑する千手だった。

 悟空自身、そのお節介の一員である自覚は多分にある。


「……あの時は気が付かなかったけど、蓮河くん、ここに引っ越してくる前にお父さんと何かあったんじゃないかなって、今ではそう思うんだ。何か凄く、辛くて嫌なことがあったんじゃないかって……」

「…………」

「だからね、悟空さん」


 千手はそこまで言うと、悟空を真っ直ぐに見つめてきて言った。


「わたしに無理なときは……悟空さんが、蓮河くんの支えになってあげてね」

「えっ、いや、いきなり何言ってるんですか」

 悟空はそう言われて、心底慌てた様子になる。


「あたしなんかに頼まなくたって、千手さん自身が信二郎の傍にいてあげれば……信二郎自身だってそれを望んでるハズでしょうし、それに……」

「……イヤ?」

「いえ、決してイヤとかそういう訳ではないですが……」


「もしかして、悟空さん……自分じゃ気付いてないの?」

「は……?」

「……蓮河くん、悟空さんが来てから前よりもずっと、明るくなったんだよ」


 今度は悟空が、自分で一体どういう顔をしているか、よく分からなくなる番だった。

 彼女を見つめる千手の視線は、気付けば何処か切なげであった。


「だから……負けるつもりはないけど……ちょっとだけ悔しいなって」


 とっぷりと日の暮れた乗馬クラブ内に、モンブランの小さな嘶きがこだまする。

 それは何処となく、自分と同じ髪色をした愛すべき姉を鼓舞し励まそうとする、馬の健気な行動のようにも思えてならなかった。

 それからしばらく悟空は、千手に何と言えば良いのか分からなかった。


*  *  *


 半透明の湯気に(いろど)られた母屋の一階端の浴室に、信二郎は立っていた。

 浴槽の上から、二枚に分かれた厚みのない(ふた)を取り除き、手にした容器の中から適量よりも気持ち多めの薬剤をカップで(すく)い取ると、眼下で温まった湯船の中へと投じる。


 たちまち、風呂に溜まっていた湯が一面、乳白色の液体へと早変わりする。

 スキンケア効果が(うた)われている、ちょっと高めの入浴剤だ。今日、学校からの帰り道に町の薬局に立ち寄って購入してきたのである。

 これでおおよそ、するべきことは完了だった。


「おーい、悟空!」


 信二郎は浴槽(よくそう)の蓋を閉めると浴室を出て、これまたカントリー調の小洒落たデザインの居間を通り過ぎ、玄関前の階段から階上を覗き込むと、我が家の居候(いそうろう)宛てに声をかける。

 数秒もしないうちに、問題の斉天大聖がひょっこりと廊下から階段に顔を出した。


「どーしました、信二郎?」

「丁度お風呂が沸いたからさ、一番に入っていいよ。最近、戦い詰めで疲れてるだろ?」


 現在の時刻は既に、午後九時を回っている。

 あれから、千手は手入れを終えたモンブランを厩舎に戻した後、信二郎を手伝い全ての馬に夜の飼葉を与える作業までやって、こちらが引き止めるのも構わずに帰っていった。


 せめて、土産に持ってきてくれた豆大福を開けて、お茶ぐらい出そうと思ったのだが、もう時間も遅いからと、信二郎たちに遠慮するようにして去ったのだ。

 また明日ね、と別れ際に手を振ってきたが、彼女が妙に寂しそうな顔をしていたのが印象に残っている。


 それから、祖父の伝介も町内の寄り合いに出席するとかで出かけて行ってしまい、この家に今いるのは信二郎と悟空の二人だけとなっていたのだった。


「じいちゃん、今夜は帰りが遅くなるんだってさ」

「あー、お気遣いありがとうございます信二郎。ですが申し訳ないです……あたしまだ、上に提出しなきゃいけない報告書の作成が残っとりまして。今晩中に片付けとかないと、後で色々面倒なことになるんですよ」


「そっか……なら仕方ないや。じゃ、先に入っちゃうけど大丈夫?」

「あたしよか、信二郎の方が余程お疲れでしょう。ゆっくり休んで下さいな」

「……ごめん、そうする」


 悟空が自分に充てられた二階の部屋に引っ込むと、信二郎は僅かにため息を吐きはしたが、本人の都合が最優先だよなと思い直し、もう一度風呂場へと引き返した。

 浴槽の蓋を開けると、粉末の入浴剤は浸透しきって、お湯は完全に乳白色と化していた。

 こんなものを買ってきたのも、そもそもは悟空の労をねぎらうためである。


 どれだけ超人的な能力を秘めていようとも、外見はあくまでも年頃の女子高生。連日に及ぶ激しい戦いで流石に疲労が蓄積しているハズなので、何かせめて肌に優しいものでも用意してあげよう、と思ったのだが。

 だがまあ、目前の仕事を片付けねば休むに休めない、という事情もよく分かる。

 一番風呂だからと無理に入らせたところで、本人は有難くも何ともないだろう。


 信二郎は諦めて、洗面所兼脱衣所で服を脱ぐと風呂場に入って鍵をかけ、全身に蓄積された乳酸の重みを感じながら、体と、それから髪の毛を順番に洗った。


 そうしているうちに信二郎の脳裏に甦ってきたのは、牛魔王ダルマによる宣戦布告の以後、陀緒須市内で次々に出現してきた牛魔獣と、そしてそれを生み出した人間の様々な現実逃避の様相であった。

 この三週間というもの、本当に色々なものを目の当たりにさせられていたのだ。



*  *  *



 牛魔王が去ってから数日後、まず最初に出現したのは、両手に巨大なハサミを持ち、全身が骸骨(がいこつ)のようにガリガリに()せ細った、牛魔獣シザーズオグロヌーだった。

 曲界力の提供元は、王羅高校の映画研究会に所属する柳田(やなぎだ)という男子生徒である。


 経緯を説明すると、柳田は映研で進めていた自主映画で主演ヒロインを務めた女子に片思いしており、全撮影が終了後にアタックしたが、見事に玉砕。まあこの程度ならば、まだ同情の余地もあったのだが、問題はこの柳田が、映研内で編集担当だったことである。

 簡単にいえば、監督と分担して、映像素材をつなぎ合わせ、完成作品にまで仕上げる非常に重要な役割を任されていたのだ。


 ところが柳田は主演の女子にフラれたことで、この作品を完成させるモチベーションを一気に喪失してしまい、あろうことか、自らのパソコンに保存してあった担当箇所の映像素材を、衝動的に全部まとめて消去してしまったのである。


 しかも元々この自主映画、市内で開催される映画祭に出品することを目標としており、当然締め切りも厳格に決まっていたので、映研メンバーから再三「どのぐらい進んでる?」などと確認のメールや電話が届くのだが、柳田は一向に返答しない。

 出来るハズもない。全データを削除した以上、完成部分は一秒とて存在しないのだ。


 そんな中で誕生させられた牛魔獣シザーズオグロヌーが最初に着手したのは、ケータイから家庭用電話機に至るまで、あらゆるルートを通じて、柳田のもとに催促や確認の連絡が来ないようにすることであった。

 大元を絶ってしまえばよい、と判断したらしいシザーズオグロヌーは王羅町内を駆け回り、カットカットカットォォォォォォォ!! などと絶叫しながら電話線という電話線を手当たり次第に両手のハサミで切断しまくるという暴挙に出た。巻き添えで送電線まで切ってしまったため、王羅町全域が一時的に大停電に見舞われる羽目となった。


 また更に、この柳田という男、覚悟や信念といったものは薄弱(はくじゃく)な割に、プライドや自尊心といったものだけは他人以上に強い側面があった。

 そんな彼の耳に、もうこれ以上は待てないので監督が自ら予備の素材を用い、全体の編集を終えて映画を完成させるつもりである、という報せが飛び込んできた。実は、柳田が消去してしまった部分も含め、映研の元には万が一に備えた、映像素材のバックアップが取ってあったのである。


 いつまでも音信不通な上に、校内で出会えば逃亡する柳田に業を煮やしての判断なのだが、柳田はこれがどうしても受け入れられなかった。果たすべき責任から自ら率先して逃げたにもかかわらず、彼にとってこれはあくまでも“自分の任された仕事”だったのである。あるいはこの映画を永久に完成させないことで、片思い玉砕、という己の黒歴史を丸ごと封印できると考えたのかもしれなかった。


 いずれにせよ、シザーズオグロヌーが取った次なる行動とは、映研の部室や監督の自宅等に壁を切り裂いて押し入り、映像素材が保存されていると思しきパソコンやデジタルカメラを、片っ端からハサミで串刺しにして破壊するという、実に乱暴なものだった。


 それからようやく、悟空たちの奮戦でシザーズオグロヌーは撃破されたのだが、映画完成は当然間に合わず、家屋や公共財の被害も甚大なもの。しばらく後、牛魔獣の出どころを知った映研メンバーが柳田と話をしようと試みたが、彼は未だに病気であると主張し自宅から一歩も外に出て来ないでいる。




 続いて出現したのは、背中に黒くて真四角なタンクのようなものを背負い、一見無垢な風に見える両目をクリッとさせた()(うし)のような姿の、牛魔獣インクジャージーだった。

 こいつの母体となったのは、陀緒須市の教育委員を務めるのと同時に、女性書道家としても広く知られる、中島(なかじま)さやか、という人物である。


 牛魔獣を生むキッカケとなったのは実にバカバカしい話で、この中島という女は少し以前、中学三年生の息子が購入してきたマンガやライトノベルを没収した上、それらの中身を軒並み黒塗(くろぬ)り・墨塗(すみぬ)り状態にして写真をSNSに投稿、謎の教育論を語るなどしたために、世間から袋叩きに()っていたのであった。


 そんな中島の曲界力を反映したものだから、インクジャージーの行動も実に分かりやすく、アニメ・コミック専門店は勿論、果てには一般書店などにまで出現し、その口から牧汁(ぼくじゅう)もとい墨汁(ぼくじゅう)を猛烈な勢いで噴射、周囲への誤爆や巻き添えをも一切厭(いと)わず、中島が一連の投稿の中で一方的に「悪書(あくしょ)」と決めつけていたマンガおよびライトノベルに類する書籍を、ひとつ残らず真っ黒けで販売不能の状態に追い込むというものであった。


 やがてこのインクジャージーも悟空と信二郎により粉砕され、中島はその後、彼女の言動と今回の事件の類似性を指摘する意見をSNS上で見かける度、そうしたアカウントを見境なくブロックして回っているという(うわさ)だがはてさて、真偽の程は定かではない。



 それはともかく、本件を通じて判明したのは、牛魔獣には能力のみならず、姿かたちに至るまで、母体となった人間の抱くイメージが強く反映されるらしい、ということである。


 結論からいえば、中島の行動の背景には、自分の息子を無垢で従順であった小学校一年生の時点のイメージに縛り付けておきたい、という願望が存在していた。インクジャージーの外見には、ランドセルを背負っていた頃の幼い息子の姿が投影されていたのである。

 (さかのぼ)って考えてみれば、なるほど納得のいくものであった。


 美菜子から生まれたコンピュータースイギュウは、屋上で座禅を組んでいた。あれは教祖の玄道(げんどう)に対して彼女の抱くイメージが具現化したもの、と考えられる。また、柳田から生まれたシザーズオグロヌーに関しては、彼は数年前まで存命だった祖母と非常に仲が良かったということで、どうやらそのイメージが反映されたようだった。



 そしてその後も、不正経理がバレかけた四十代後半の市会議員の男から生み出され、市役所にある書類という書類に放火しまくり、汚職(おしょく)糾弾(きゅうだん)どころではない状態にしようと画策した、牛魔獣ライターショートホーン。


 電車内でマナー違反を繰り返しては「同じ車輌乗ってるからって待遇が同じだと思うな文句あるなら社会主義の国にいけよバーロー!!」などとマシンガントークで絶叫しまくり四六時中鉄道警察のお世話になっていた二十代前半の女から生み出され、彼女の気に障った相手に対し無差別に機関(きかん)(じゅう)掃射(そうしゃ)を繰り返す、牛魔獣マシンガンデボン。


 などなど、暴れるに暴れたり総勢十六体。

 それにつけてもどいつもこいつも、決してこうはなりたくない、と思わせるのに十分すぎるような、なんともまぁ見苦しい人間のオンパレードであった。



*  *  *



 信二郎は湯船に浸かりながら、何となく厭世的(えんせいてき)な気分に支配されていた。

 こんなことを続けていて一体何の意味があるんだろう、と心の何処かで思い始めているのかもしれなかった。


 倒しても、倒しても、牛魔獣は現れ続ける。

 それはすなわち人間の現実逃避に際限がない事の表れでもあった。

 元々、あまり人間が好きだとは言えない信二郎だったが、それにしたとて、これほどまでに立て続けに人間のロクでもない部分ばかり見せつけられては、誰でも気が滅入るというものである。


 だがそれ以上に、自分自身への嫌悪感が募ってくるのを日増しに感じていた。

 悟空の言葉にほだされて、マスターとなったまではいいが、実際自分に何が出来ているかと疑問に思うことばかりなのだ。


 そして何より、自分には牛魔獣の母体と化した人々を糾弾する資格など、本当はないこと。それが一番の引っ掛かりとなっていた。

 またも、ため息と共に信二郎の中から幸せが漏れていく。


 考えれば考えるほど、疲れるばかりであった。もう何もかも嫌になってくる。

 湯船に微かに顔を埋めてブクブクやると、脳内の酸素が消費されていく気がした。


 …………。


 そうこうしているうちに、段々と頭の中がボヤッとしてきて、


 …………。


 こっくりこっくりと幾度となく一人で舟を漕いでいるうちに、


 …………。


 気付いたときには、意識がどこか遠くの世界へと連れ去られていった。



 …………。

 …………。



 信二郎は突然、ハッと意識を取り戻した。

 何だか、夢の中の世界では誰もが羨むような幸せな日々を送っていた気がしたが、それすら今の信二郎には不確かなものとなっていた。元よりそんなものはあるハズもない。


 湯船の中で寝落ちしてから、一体どのぐらい経過しているのか分からなかった。

 あんまり長風呂し過ぎるのも体に良くないかなと思い、もう三十秒ぐらいで出てしまおうと信二郎は決心した。


 ……十秒。

 …………二十秒。

 ………………よし、上がろう。


 そう思って腰を浮かしかけた次の瞬間、目の前にブワッと肌色(はだいろ)の塊が落下してきた。


 バッシャァァァァァァァァァン!!

 風呂場の天井まで届くような飛沫(しぶき)が跳ね上がり、たちまち信二郎の視界を覆い尽くした。

いったい全体、何が起こったのか、理解するまでにかなりの時間を要した。


「――――!?」


 混乱の只中にある信二郎が身動き出来ないでいると、目の前に着水してきた肌色の塊が二本ある腕を天井目掛けてググッと掲げ、実に大きな伸びをしてみせた。


「――――んん~、やっぱり一仕事終えた後の風呂は最高ですね! 命の洗濯とはよく言ったものですよホント」


 それは非常に聞き覚えのある明るい声でそう呟くと、剥き出しになった生白い肩を手で軽く押さえながら、普段はポニーテールで隠れているうなじの部分を左右に揺らしつつ、首の骨をマッサージするかのようにぐりぐりと運動させた。

 その美しい金髪は、現在は後頭部で荒っぽく纏められ、ひとつの団子を形成している。


 ひとしきり上半身の関節をほぐし終えた彼女は、「フワァ~」などと気の抜けた声を発すると同時に全身を脱力させ、それまでよりも半頭身分ぐらい余分に湯船の中へと身を沈めた。その様子からはすっかりリラックスしていることが窺える。


「あー……いい気持ちです。これって昼間買ってた入浴剤ですかね……信二郎があたしに一番風呂勧めてくれたのはこれが理由だったんですか……なんか悪い事しちゃいました」

「……お、おい悟空」


「あれ? 信二郎の声が聞こえた……な訳ないですよね。あたしも疲れてるんですかねー……それとも千手さんにあんなこと言われて、意識でもしてるんでしょうか……いやいや、それは流石にマズいってモンでしょう……あたしゃともかく、信二郎にはいい迷惑だって話ですよ。大体あたしゃお師匠さんに……」

「おい、聞いてる? 悟空ってば」

「……あれ? また聞こえた? ハァ、まったく空耳も大概な――――」


 悟空が湯面にさざ波を広げながらこちらを振り向く。

 信二郎とでバッチリ目と目が逢う。

 悟空の表情が固まり、ポタポタという水滴の(したた)る音以外が聞こえなくなった。


「……………………えっ?」


 この間、時間にしておよそ五秒。

 それと同等の僅かな間に信二郎は、真正面を向いた悟空の頭から(こぼ)れ行く水滴を目で追ってしまい、その先に待ち構える白く美しい首筋、なだらかな曲線を描く鎖骨、それから普段着の束縛より解き放たれた大きなふたつの膨らみと、その間に生じた谷間を目撃した。


 偶然にも湯船が乳白色の液体で満たされていたことにより、決定的な部分までは直視せずに済んだのが不幸中の幸いであった。

 だがしかし。


 殆ど不意打ちで、少女同然の柔肌を間近に目撃してしまった衝撃は大きく。

 目撃させてしまった側もまた、予期せぬ遭遇に動揺を隠しきれていなかった。


 男女双方の首から頭のてっぺんまでが、たちまち沸騰する血液の上昇に連動して、真っ赤に染め上げられていった。



「「わあああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!?」」



 湯気満ちた風呂場に轟く二人の大絶叫。

 これでもし祖父が在宅であったら、騒ぎを聞きつけ飛んできたかもしれない。

 そうでなかったこともまた、不幸中の幸いだったか。


 信二郎と、悟空は、揃ってバシャバシャと風呂場に大波を立て、キントウンも真っ青になる猛烈な勢いでもってそれぞれ、浴槽の端と端とにへばりつく様にして逃亡した。


「なななななな何故いるんですか信二郎!?」

「そそそそそそそれはこっちの台詞だよ! ボクがまだ入ってるのにどうして入って来た!?」

「えッ、いやッ、だってもう一時間も経ってますし、とっくに上がってるとばかり」

「疲れてたから寝ちゃったんだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

「そそそそうだったんですか、それは申し訳ないことを!」


「いやそれより、どうやって急に入って来た!? 鍵閉まってただろ!」

「あの、その、仕事がようやく終わったばかりで動くのが億劫(おっくう)でしたから、昼間やってみせたトンシンの術で直接ここに……」

「ワープしてきたの!?」

有体(ありてい)に言えばそうですハイ……」

横着(おうちゃく)するなよおおおおおおおおおおお!」


 パニックのあまり、両者ともテンションがおかしなことになっていた。

 悟空は悟空で胸元を恥じらうように隠しながら、入浴とは明らかに別の理由で顔を湯立たせ斜め横に目線を逸らし続けている。頼むからそんな顔をしないでほしい。こっちもどんな顔をすればいいか分からなくなるではないか。


「ととと、とりあえず分かったから! ボクはもう上がるからそれじゃ――――」

「あああッ、待って、急に立ち上がったりしないで! ――――ってわわわわッ!?」

「わッ、何…………おわあッ!」


 信二郎が湯船から離脱しようとしたその瞬間、悟空は大慌てで引き止めるように伸びあがり近づくと、信二郎の両肩を掴んで浴槽内に押し戻そうとした。が、体勢がよくなかった。

 風呂場の中で体を傾ければ、バランスを崩すのは自明の理。

 悟空は浴槽の中で足を滑らせると、そのまま思い切り信二郎を巻き添えにして湯船の中へと倒れ込む形となった。


 バッシャァァァァァァァァァン!!

 と、再び激しい湯飛沫が立ち上がり、二人の頭上に降り注ぐ。

 気が付いたときには、悟空が全体重をかけて信二郎の上にのしかかってしまっていた。


 外見が年頃の少女そのものの相手と、一糸まとわぬ姿で密着状態。

 日ごろ彼女が発揮している膂力(りょりょく)からは到底、想像もできない程の柔らかさが体の真正面から伝わってきて、信二郎は大げさではなく一瞬、本気で気絶してしまいそうになった。


「…………ッ!」

「すすす、すみませんッ!」


 悟空がはじけたように信二郎の上から飛び退き、浴槽の反対の端に退避する。

 だが時すでに遅し。信二郎ともども、顔面が文字通り()でダコと化してしまっていた。


 少しして、自意識を回復した信二郎はどうにかこうにか体勢を元に戻すと、浴槽の端に寄り掛かるようにして努めて大きく息を吐き、それから吸った。

 心臓が今にも爆発しそうな勢いでバクバク鳴っているのが分かった。

 やがて言葉を発せるようになるまで、今しばらく時間を費やさねばならなかった。


「…………今度からは、ちゃんと確認して入って来てよ」

「は…………はい…………肝に銘じておきます…………」


 そのやり取りさえも、決して目は逢わせぬままで行われたのだった。

 それから、長い長い間があった。


 風呂場は再び水滴の音だけが響き渡る、静寂の支配する空間となっていた。

 湯気が肌の表面にはりついてくるようだが、それらまでは流石に乳白色をしていない。

 いやそんなことは当たり前だが、気持ちが落ち着くまではとにかくバカげたことの一つでも考えていないと、あっという間に変な気分に陥ってしまいそうなのだった。


「…………よく考えたら、こうやって別々の方向見れば良かっただけじゃないのか?」

「…………すみません、気が動転してて」

「…………ボクもだよ、おあいこさ」


 ハハハ、とぎこちない笑いが両者の間で起こる。

 が、それからすぐに悟空が「いや、待ってください」と水を差した。


「ある意味おあいこ……ではない気がします……少なくとも信二郎は、どう考えても得な思いしかしていませんから」

「と、得って何だよ!?」

「あのねぇ信二郎……一応アナタも思春期の男子なんですから、そういうことまで誤魔化すと却って嘘くさいだけですよ」

「うるさいほっとけ!」

「……仏だけに?」

「そういうことを言ってるんじゃないよ!」


 悟空がクスリと笑みを零し、信二郎もまたつられて笑ってしまう。

 そうやって、ほんの少しだけだが、湯気の中に溢れ返っていた緊張感が和らいだ気がした。


「……あのさ、悟空」

「なんです?」

「……キミに、伝えておかなくちゃいけないことがあるんだ」


 信二郎は今までの空気から一転、真剣そのものの顔つきで隣にいる悟空を見る。

 その眼差しを受け止めた悟空は、急に雰囲気の変わった信二郎を目をパチクリとさせながら見返していたが、何故かまた微かに頬を赤らめると、別方向に視線を逸らして何やらモジモジした仕草をし始めた。


「な、なんだかまるで……愛の告白をするような口ぶりですね信二郎……」

「そうやってあんまり茶化すなよ!?」

「アハハ……すみません、真面目に聞きます」


 肩をすくめてペロリと舌を出す悟空。

 どうやら冗談のつもりだったようだ。

 信二郎は下を向き小さくため息を吐いてから、自分の中での最初の言葉を選ぶのに、大いに悩み苦労した。そして結局は、シンプルに伝えるのが最良の手段であるという結論にやっとの思いで達した。


「…………実は、例のハンマーホルスタインのことなんだけどさ…………」

「奴を生んだ曲界力が、元々は信二郎のものである、ということですか?」

「…………えっ」


 信二郎は思わず悟空の顔を見返した。

 そのときの悟空は、この浴室に現れてから現在までで最も真剣味に溢れると同時に、何とも言えない切なさを醸し出す表情を浮かべていた。

 そのために今度は、信二郎の方が応答に困る番であった。


「…………知ってたの?」

「まあ、なんとなくそうじゃないかなって、思ってた程度ですがね。曲がりなりにも自分の命を狙って来た相手なのに、真相を探ることに対して妙に後ろ向きでしたし、ひょっとしたらと思っていましたが……」

「…………今まで黙ってて、ごめん」


 再び下を向き、呟くように謝罪を口にする信二郎。

 悟空はただただ沈黙するばかりであった。


 事と次第によっては、ぶん殴られるぐらいは覚悟するべきだろうと思っていた。

 それぐらいのことを、自分はしてしまったハズだから。

 しかし悟空は、敢えてそうはせずに再び信二郎のことを見つめてきて言った。


「……訳を、聞かせてもらえますか?」

「…………」

「間違っていたら申し訳ないですが……要するに自殺願望ってことですよね。まあある意味、究極の現実逃避ともいえますでしょうが」

「…………」


「信二郎がお父上のことを気に病んでるのは、知っています。だけどそれなら、あの牛魔獣は真っ先にお父上の方を狙うハズですよね。そうではなく、信二郎自身を抹消しようとした……解せないんですよね、どうも。一体何があったんです?」

「…………簡単な話だよ」


 信二郎は低くボソッとした声で言った。


「ボクが……生きてちゃいけない、あの男以上のクズ野郎だってことさ」



*  *  *



 (さかのぼ)ること二年前、信二郎がまだ都市部にあるゲンドー会本部で父親らと共に暮らしていた、中学時代のこと。


 当時の信二郎には、親友とも呼ぶべきひとりの少年がいた。

 教団信者である女性の一人息子で、その母親に連れられて本部によく顔を出すこと、信二郎とは小学校からクラスが度々一緒になっていたことなどもあり、気が付けば共に過ごす時間の多い、かけがえのない相手となっていた。


 見方によっては、物語にしばし登場する王子と、王の家臣の息子、のような関係だったともいえるかもしれない。とにかく、二人は無二の親友同士だった。

 ところが次第に、親友の母親の言動がおかしなものになってきたのである。


 例を挙げるなら、授業参観などに顔を出す度に「頑張ってね、マスターも応援して下さっているわ!」などと大声で叫ぶ。信二郎に出番が回ってきても「若様頑張って!」などと同様のテンションで大はしゃぎする。更にはPTA活動などを経由し知り合った他生徒の保護者達に片っ端からゲンドー会への勧誘を試みる。などなど。

 ハッキリ言ってしまえば、節操というものがなかったのだ。


 中学も半ばを過ぎた頃には学校中のあちこちで変なウワサが立ち始め、信二郎とその親友は徐々に居心地の悪さを感じるようになっていった。ここに来て初めて、信二郎たちは教団内で信者らが語る自己認識と、外部の人々からの評価に、重大な齟齬(そご)があることに気付かされたのである。

 そして彼らは、出来れば普通の中学生として卒業したいと望むようになっていた。


 親友の少年は母親に対して、少しは自重してほしい、と抗議の態度を示すようになった。

 しかし、それは(ことごと)く突っぱねられる形となった。


 そればかりか逆に「師父の出している御本を読めば、その偉大さが分かるハズ」などと言い始め、遂には、教団で週一回開催している集まりに参加し、指定した教団関係の本の感想文を書いて信者たちの前で読み上げるように、と強要までしてくる始末だったのだ。


 厄介なことには、この親友の家庭はいわゆるシングルマザーの状態であった。

 母子二人きりという状況下で、養育に際し母親が多大な苦労を負っていたのは確かである。反面、親の側が万が一にも理不尽な行いをした場合、それに率先して歯止めをかけられる者が身近に誰もいない、ということもまた事実だった。

 この母親の“敬虔(けいけん)な信仰”の下では、息子の言葉など通りはしなかった。ただでさえ行動を制限されることの多い中学生という事実が、その立場の弱さに拍車をかけていたのだ。


 親友の少年の悩みを知り、信二郎は共に深く悩み考え込んだ。

 信二郎から玄道にひとこと告げ、行き過ぎた行動は慎むようにと教祖の口より直々に母親に注意させる、という手段も一度は考えた。


 だが既に述べた通り、当時の信二郎たちは、教団の内外で価値観に大きなズレが生じていることを知ってしまっていた。例えば教団内で親友の悩みを吐露したとて、「お母さんの気持ちも分かってあげなくちゃ」などと終始ニコニコ顔で言われるだけなのは目に見えていた。そんな状態に置かれた彼らにとって、教祖の玄道が不信感を抱く最大の対象となるのは必然だった。やらずとも結果は見えている、と思われたのだ。

 玄道を介しての問題解決という選択肢は、たちまち却下となった。


 こうして二人は話し合った末に、ある作戦を決行するに至った。

 実を言えば信二郎は、父の玄道が以前から自著を酷評(こくひょう)された際の書評などを自室に保管し、時々大事そうに読み返しているのを知っていた。理由までは知らなかったが、これは使える、と判断したのである。


 二人が考えたのは、この書評を密かに持ち出し、読めと命じられた教団本について徹底的に批判意見の書かれたその箇所を、そっくり丸写しして信者たちの目の前で読み上げることで、親友の母親を含む信者らに、ある種の反撃をしてやろうというものだった。


 今にして思い返せば、なんと馬鹿な真似をしたのかと後悔が湧き上がる。

 けれども、当時たかだか十四・五歳の少年たちに“信仰”の本質を理解することなど出来るハズもなく、「自分たちの信じているもののバカバカしさを突き付ければ、彼らも目を覚ますに違いない」などと簡単に捉えてしまったのも無理からぬことだった。


 また親友のためのみならず、この頃の信二郎は「若様」呼ばわりを受け続けることに次第に嫌気がさし始めており、少なからずその腹いせの側面もあったには違いないだろう。


 かくして、信二郎と親友の少年による企みは実行に移された。

 結果、どうなったか。


 最初のうちは想定した通りだった。

 敬愛する教祖の本への批判を聞かされた信者たちは騒然となり、親友の母親は唇を噛みしめ怒りにワナワナ震える様を見せた。痛快な一撃を浴びせることに成功した、これで少しは信者たちの自己認識も変わるだろうと、確かにそう思ったのだ。


 次の瞬間であった。

 予想を遥かに上回って激昂(げきこう)した母親が、壇上に飛びあがって来て息子の髪の毛を引っ掴むと力任せに床に引き倒し、大勢が見ているその目の前で激しい暴行を加え始めた。

 突然の出来事に、その場にいた信者たちの多くはおろか、離れた位置で見守っていた信二郎さえもが、その光景にただ呆然とさせられるばかりだった。


 やがて、無抵抗な息子に暴虐の限りを尽くす母親の甲高い奇声に、ハッと我に返った人々が大慌てでその女性信者を取り押さえにかかった。その一部始終を、信二郎は何もできずに放心状態で見守ることしか出来なかった。いったい何が起きたのか、騒ぎを聞きつけてやってきた地元警察が教団本部内に現れるまで、全く理解の追いつくことがなかった。


 その後、親友の少年は(かね)てから彼の母親の信仰を苦々しく思っていた親類らに、半ば強引に保護される形で姿を消し――――そして二度と、学校には戻ってこなかった。


 更にそれからしばらくして信二郎は、教団内で信者らが示す態度に異変が起きていることに気付かされた。あんな事件を起こしたにもかかわらず、むしろ何故か今まで以上に、信二郎に対する敬意や忠誠心が強力なものとなっていたのである。


 原因はすぐに判明した。父であり教祖でもある玄道が、信二郎たちの行動を「信者たちへの修行の一環として実行したものだった」などと言い広めていたのである。これを(もっ)てついに、信二郎の玄道に対する不信感は限界を越え、嫌悪と呼べるものへとシフトした。


 信二郎が教団の元を離れて暮らすようになる、そのキッカケともいえる出来事であった。



*  *  *



「――――そいつとは……もう一生離れ離れだと思ってた親友とは……一年ぐらい経ってから偶然再会した。この王羅町に、ボクよりも後から引っ越して来てたんだ……」

「あの、その親友ってまさかとは思いますが……」

「…………犬司だよ」


 悟空がいよいよ本格的に愕然(がくぜん)とした表情になるのが分かった。

 信二郎は身の内から湧き上がってくる自己嫌悪に吐きそうだったが、それでも何とか言葉を選び取り、もはや隠しておけぬ秘密だけをポツリポツリとひとつずつ吐露していった。


「アイツは……親戚中をたらい回しにされて……二学期になってからようやく今の学校に転校してきた。最初に顔を見た時は何て言えばいいか分からなかったけど……それでもアイツは、ボクに言ってくれたんだ……『お前が悪いんじゃないよ』って。ボクは嬉しかった……状況は前とは変わっちゃったけど、それでもまた、昔みたいに一緒に過ごせるんだって思って……。だけどそんなの、甘かったんだ」

「信二郎……」


「転校してきてからしばらくは、昔みたいな関係が続いてた……でもひと月ぐらい経ってからある日、急にアイツは、ボクと教団のことを、学校中で言いふらして回るようになってた……本当はまだ許されてなかったんだよ。笑えるよな……自分ひとりだけ何もかも忘れたつもりになって浮かれて……生きてる価値もない最低の人間だよ、ボクは……」

「何を……何を言ってるんですか……信二郎……!」


 悟空は突如として手を伸ばし、ガッと信二郎の両肩を掴むとこちらの顔を覗き込んで、一語一語ハッキリと言い聞かせるようにして揺さぶった。

 信二郎は抵抗する気力も湧かずに、俯き加減でひたすら為すがままであった。


「その話が本当なら……責められるべきは、立場の弱いアナタがたをそこまで追い込んだ教団がらみの大人たちであって……決してアナタ個人ではありません! 万が一、信二郎が責めを負わねばならないとしても……言ってみれば、あの負け犬野郎は共犯じゃないですか! 何故信二郎ひとりが、そこまで罪の意識を背負わなきゃならないんです!? 納得できませんよ!」

「……それだけじゃないんだ」


 信二郎は尚も俯きながら小さな声で言った。


「母さんが……ボクの母親が死んだんだ……事件が起きたすぐ後に」


 悟空が息を詰まらせたような声を発したのが分かった。

 信二郎の両肩を掴む手が、微かに弱まるのを感じ取った。


「それまで病気がちだった母さんはずっと入院してて……教団中が警察への対応に追われてるその最中に、急激に容体が悪くなっていって死んだ……ボクが殺したようなもんだ」


 牛魔獣の姿には人間の深層意識が強い影響を与えるという。

 そのことが次第に明らかになるにつれ、ハンマーホルスタインが何故ああいう姿で生まれてきたのか、信二郎は確信に近い思いを抱くようになっていた。


 あれはきっと、自分が死なせてしまった母の姿が投影されているのだ。

 馬鹿な息子の所為で命を落としてしまった、母親の自分への怒りが反映されたのだと。

 そう、信二郎は理解していた。それ以外には有り得ないと思った。


「悟空、お願いだよ……お願いだからボクを殺してくれ……」


 信二郎は自身の両肩で緩んだ、目の前の少女の手を掴むと、自らの喉元(のどもと)に押し当てた。

 いつしか信二郎の両頬は()れていた。

 当然、浴室に満ちる湿(しめ)り気とは別の理由で。


「今の話で分かっただろ……生きていたって仕方ないんだ……ボクみたいな奴は……」


 すべてを終わりにしてしまいたかった。

 血も魂も何もかも、汚らわしい罪で染まり切った命に幕を引きたかった。

 目の前の少女に介錯(かいしゃく)してもらえるならば、それが一番に違いないと思った。


 そして徐々に、喉元に(あて)がわれた少女の手に力が籠っていった。

 ああ、これでやっと解放される。

 人を傷つけるだけのロクでもない人生に終止符が打たれると、そう感じた。

 それなのに――――、


「――――ッ!」


 ガバッと乱暴に抱き寄せられる。

 力を失い、目尻を生暖かい液体で染めた信二郎の顔が、少女の首筋に押し付けられる。

 背中と後頭部から手を回され、逃げ出せぬよう力いっぱいに抱擁(ほうよう)される。


 一糸まとわぬ少女の肌から伝わる、湯より遥かに高い温度をした情熱的な想いが、信二郎の内側へと浸透してきて、絶望で冷え切った氷のような(からだ)を少しずつ解かしていく。

 胸元から伝わる柔らかさと、その奥からトクントクンと響いてくる心臓の鼓動が、信二郎がいま確かにここに存在しているという事実を強烈なまでに再認識させた。


「…………もういいんです……いいんですよ、信二郎…………」


 自分を抱きとめた悟空の声が頭上から聞こえてくる。

 それは今まで聞いたどんな言葉よりも、遥かな慈愛と優しさに満ち溢れていた。


「や……やめてくれよ……放してくれったら……」


 信二郎は気恥ずかしさより、激しい自責と自罰の念とで悟空の腕から逃れようとした。

 しかし彼女の穏やかながらもハッキリとした力強さが、信二郎に決して、それを許そうとはしない。抵抗も虚しく信二郎は、悟空の胸中に抱かれたままだった。


「ボクに……こんなことをして貰う資格はないんだ……ボクみたいなクズには……」

「丁度いいじゃないですか……信二郎がクズだというのなら……あたしゃきっと、その千倍はクズですから……」


 悟空は静かにそう言うだけであった。


「あのね信二郎……あたしね……ずっと昔に、同じ故郷に住む仲間たちを、生ける(しかばね)にしてしまったことがあるんですよ……」


 信二郎が少しずつ抵抗を諦め始めると、悟空は言葉を選び選びこんな話をした。


「あたしが斉天大聖を名乗るようになる、ほんの少し前のことです……あたしゃ一度、寿命が尽きちまって、閻魔(えんま)大王(だいおう)のところへ連れて行かれたんです。けれども、それが気に食わなくて……奴らを脅して、寿命の帳簿(ちょうぼ)を滅茶苦茶にし、あたしだけじゃなく花果山に住む連中全員の寿命を書き換えたんです。そのお陰で、山に住む連中の多くは不老不死になりました。これでめでたく万々歳……初めはそう思っていましたが、現実は甘くはありませんでした」


 悟空はそこまでで一旦話を区切ってから、微かに深呼吸したかと思うと更に続けて言った。


「後から分かったことですがね、寿命ってのはそもそも、エネルギーの枯渇(こかつ)した魂を回収し、過度な摩耗(まもう)を防ぐために存在してるんです。必要なシステムなんですよ。だから仙人としての修業を終えたあたしなんかはともかく……そうでない他の普通の連中は、とてもじゃないけど不老不死には耐えられなかった。

 ……あたしが天竺(てんじく)を目指す旅の途中で一度、花果山(かかざん)に帰ってきたとき……昔から知っていた仲間の多くは、魂が修復不可能なレベルにまでボロボロに摩耗しきり、もはや自分が何者かも分からず、喜怒哀楽もなく、ただ意味もなく動き回り機械的に命を繋ぐだけの……生きてると言えるかも分からない、あたしが望んだのとは別の何かになってしまっていました。あたしゃ耐え切れなくて……そいつら全員を、一人残らずこの手で介錯することになったんです」


 今度は信二郎が息を呑む番であった。

 悟空が自分のことを抱きとめる腕の力が、ほんの少しだけ増したような気がした。


「あたしゃその時、生まれて初めて自分のしでかした事が心底、(おぞ)ましいと感じて……ハッキリ言えば、死のうとしました。だけどね、無理だったんですよ……あたしゃ天状界で暴れた時に不老不死に繋がる薬や食べ物を、これでもかってぐらい食べちまったから……もうあたし自身の意思では、どうやったって死ねないんです。下手すりゃ、この宇宙が終焉(しゅうえん)を迎えるその瞬間まで生き続けなきゃならない。逃げられないんですよ……どう足掻(あが)いたってね」

「悟空……」


「もう一度共に旅をすることになった時……お師匠さんがそれを知って、あたしにこう言ってくれました。『もう起きてしまったことは変えようがない。ならばせめて、これからどう生きていくのかを考えるべきじゃないのか?』って。信二郎……アナタと同じ御顔をした、あたしのお師匠さんがそう言ったんです。だからどうか……今度は、あたしから信二郎に、その言葉を贈らせては貰えませんか……?」


 その瞬間、信二郎はあることに気が付いた。

 自分と触れ合っている悟空の首筋に、頬の辺りを伝って、何か生暖かい湿り気のあるものが一筋、ツウッと零れ落ちてきたのだ。それは微かに塩気が混じっている気さえした。


「……悟空……もしかしてキミは……」

「いやですねぇ……長い時間いるから、湯気がほっぺに張りついてきただけですよ? ええ、ただそれだけ……それだけのことです……」


 そう言いながらも悟空は、増々強い力で信二郎を腕一杯に抱きしめるようになった。

 やがて信二郎も目を閉じると、腕を彼女の背中に回して弱々しいながらも抱擁を返すようにした。この上もなく傷ついた魂同士が寄り添い合って、互いの温もりを分かち合う。


 ああ、そうか。どれだけ辛くても、苦しくても、後悔ばかりでも。


 生き続けていく。そうする他にはないのだと、信二郎はその日、やっと理解した気がした。


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