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第3話 転入だァァッ!!

「申し訳ありません、父上ッ!」

 イグサと和紙の破片にまみれた薄暗い室内に、透き通るようなニルルティの声が反響した。


 陀緒須(だおす)市内の、何処かの山中。

 重なり合うようにして、鬱蒼(うっそう)と生い茂った木々の奥深く。

 人々の記憶からもはや完璧に忘れ去られてしまったその領域に、殆ど半壊状態のままひとりぼっちでポツンと横たわる、小さな仏教のお寺の姿があった。


 (ふすま)という襖は外れ、障子(しょうじ)という障子は穴だらけ。(たたみ)に至っては、ことごとくめくれ上がって床板が剥き出しになってさえいる。

 当然、外から中は丸見えかと思いきや、殆ど日の光が差し込まない影響で遠くから見ても内部は薄暗闇に包まれ、それどころかジメジメとした湿気さえ漂わせていた。


 誰がどう見ても廃墟(はいきょ)と形容する他はない、みすぼらしい外観の古寺。

 打ち捨てられたのは一体どれほど昔のことになるのか。

 そんな世の無常を体現したような湿(しめ)っぽい空間に、ギューマ一族は陣を構えていた。


「一度ならず、二度までも……あの孫悟空を相手に撤退(てったい)余儀(よぎ)なくされるとは……! (かい)(たく)(こころざ)す者として、この(ぎゅう)()ニルルティ、不覚の極みに思います!」

「――気に病むことはないさ、ニル。我が愛しの娘よ……」


 と、暗闇の奥の方から、やけに落ち着いていて渋みのある、ともすれば味わい深くさえ感じられるような男の声がした。

 それを受けて、固い床板に(ひざまず)(こうべ)を垂れていたニルルティが、ようやく顔を上げる。


 廃寺の最奥部に鎮座していたその男は、場所柄を考慮すると実に異様な風体をしていた。

 ひとことで言うならば、西欧の軍人か貴族にしか見えない格好なのだ。

 優に百八十センチ以上はあると思われる、縦横ともにガッシリとした体躯。

 その全身を包み込むは、金糸で縁取られた深緑色のフロックコート。

 腰に携えるは刀身の分厚き一本のサーベル。

 艶々(つやつや)と光るプラチナブロンドヘアに彩られた、色白ながらも彫りの深いザ・ヨーロピアンな顔立ち。そして、天に向かって頭部から突き出す二本の角。


 その名を、牛魔王ダルマ。

 天状界の現体制を打破せんとするギューマ一族の頭領である。

 対する娘のニルルティが西洋ファンタジーに登場する占い師のような姿形をしていることもあって、純和風なこの建物の中にいると、彼らは実によく()えるのだった。


「元より、そう易々と勝利が掴めるなどとは思っていない……ワタシたちの強みは、(かい)(たく)という大いなる目的のためであれば、いかなる労苦をも(いと)わぬ不屈の魂にこそある。一度や二度の敗北でへこたれる程、ヤワではない。違うか?」

「それは……」

「これからも、地道な闘争を続けていこうではないか、ニルよ」

「……はいッ、父上!」


 鷹揚(おうよう)に言って、ニルルティに微笑みかける牛魔王。

 この偉大なる父の表情を見るたびに、ニルルティは心が(おど)るのだった。

 ああ、やっぱりこのお方は素晴らしい人だ。

 牛魔王を父に持つ私は三千世界において最も幸福であるに違いない。

 ニルルティは幼い頃から、そう信じて疑わないのだった。


「それはそうと、ニル……例の『仕込み』に関しては上手くいったのか?」

「……ええ、それは勿論(もちろん)! 丁度おあつらえ向きの人間を見つけましたので、その者から生まれた牛魔獣を利用し、(とどこお)りなく! 幸いにも、孫悟空の奴めは何も気づかなかった様子! これで数日以内にも、我らの悲願達成に向け準備が整うことでしょう!」


「そうか。よくやってくれたな、ニルよ」

勿体(もったい)ないお言葉……ありがとうございます、父上!」

「クックック……それにしても、孫悟空とはな……」


 牛魔王はさも可笑(おか)しそうに言いながら、小刻みに肩を震わせ笑った。

 まるで遠い昔を懐かしむように虚空を見据え、軽く目を細める。


「相も変わらず、実に愉快な奴よ。三蔵法師と(うり)(ふた)つであるという小僧の件もある……やはり一度、ワタシ自ら出向かなくてはならんらしいな」

「は……そ、それはどういう?」

「ニルよ、お前は少しの間、休んでいるがいい」


 牛魔王はそう言うなり、すっくと立ち上がった。

 どっしりした男の体重が直にかかり、剥き出しの床板がギシギシと唸りを上げる。


「今度はワタシの方から、孫悟空たちに会いに行ってやろうではないか」

「なっ……それは危険すぎます! 父上は偉大なるギューマ一族の長、孫悟空のみならず天状界の勢力全てが御身を狙っております。もし万が一のことがあれば!」

「なぁに、心配の必要はないさ。ただ少し、挨拶に行ってくるだけだ。久方ぶりの再会を祝すため、そして我が愛しの娘が世話になった礼をするために、な」


 牛魔王はニルルティの肩に優しく手を置いて、不敵な笑みを浮かべた。

 そのことでニルルティは(かえ)って(うつむ)いてしまう。


「お手を(わずら)わせてしまうなど……本当に申し訳ありません、父上……」

「謝らなくてよい。それに、これはいい機会だ。あの女を再び改心させるためのな……」

「……は?」


「一度は体制の犬に成り下がったとはいえ、あやつは仮初(かりそ)めにも我が義妹……かつては立派な、(かい)拓的(たくてき)精神(せいしん)の持ち主だった女よ。ならば今一度、帰参のチャンスを与えてやってもよいではないか。それがギューマの、偏狭なる天状界の者どもとは違うところだ」

「父上……ッ、でしたらもう、私は何も申しません。どうかお気をつけて!」


 ニルルティが跪いたまま、今一度深々と頭を下げる。

 牛魔王は身を(ひるがえ)すと、ハッハッハと高らかに笑って立ち去っていった。


 その後ろ姿を見つめながら、ニルルティは内から溢れ出る高揚感を抑えきれない。

 ああ、なんて大きな器の持ち主なんだ。

 偉大なる我が父上。ギューマの長・牛魔王ダルマさま。

 この方にこれからも一生ついていこう。


 ニルルティが己の父への敬愛を、より一層強めていたそのときである。

 彼女の眼前にヒラリと、何か小さくて薄い紙片のようなものが舞い落ちてきた。

「……? これは……」

 どうやら牛魔王が落としていったものらしい。

 それを拾って、正体を確かめようと裏返してみたとき、たちまちニルルティの胸中に一抹(いちまつ)の不安がよぎった。


 端的に言うと、それは色あせた写真であった。

 ずっと昔に撮られたらしい、一組の男女の姿が写った一枚の写真。


 それは父である牛魔王と、他でもない孫悟空だったのだ。

 どうやら彼らがまだ同志であった頃、一緒に撮ったものらしい。

 現在よりも大分幼い雰囲気を湛えた悟空がヤンチャ気味な笑顔を浮かべて、同じく微笑みを浮かべた牛魔王と並んで写っている。

「…………」


 牛魔王は、父としても、指導者としても、とにかく偉大な人物である。

 が、しかし、ただ一点だけ明確に欠点と呼べるものがあった。

 それはズバリ、女癖(おんなぐせ)の悪さ。

 ニルルティの母という正妻がありながら、父である牛魔王の周囲には、()ねてから(めかけ)の影が絶えなくて久しかった。


 まぁ牛魔王ほどの立場ともなれば、それも甲斐性(かいしょう)のひとつかもしれないが、実の娘としては正直複雑な気分であった。実際、かつての孫悟空たちとの戦いでも、父は女癖の悪さが原因で敵の術中にハメられてしまった経験があるのだ。

 孫悟空の元に出向くのに、他意はない、と信じたい。


 いや、ないに決まっている。

 あって堪るか。


 …………ないといいな。


 ニルルティの曲界力(きょっかいりょく)が、本人も気付かないうちにちょっとだけ上昇した。


*  *  *


「えー、突然ですが、皆さんに転入生を紹介します」


 担任教師のひとことで、教室内の空気がにわかに(ざわ)めきたった。

 窓際の席で頬杖を突きながら、信二郎だけはたった一人、そんな雰囲気を他所(よそ)に静かにため息を吐いている。


 孫悟空と出会って共に戦う決意をしてから、はや数日。

 信二郎はようやく、陀緒須市の郊外にある自分の町・(おう)()(ちょう)へと帰って来ていた。

 周囲を緑豊かな山地に囲まれた、比較的田舎な雰囲気の町で、総人口はおおよそ一万五千人前後。いつだったか忘れたが、日本全国から選ばれる、住みたい田舎ランキングで上位に入賞したこともあったらしい。


 そんな町の一角にある、市立(しりつ)(おう)()学園(がくえん)高校(こうこう)

 そこが信二郎の平素の生活空間である。


「どうぞ、中へ入って来てください」

 担任が廊下の方に声をかけると、(あらかじ)め開いていた引き戸の向こう側から、その美しい金髪ポニーテールを揺らして、欧米人染みた容姿の赤目の少女が姿を現す。

 彼女の外見を目の当たりにした途端、クラス中の男子たちがどよめくのが分かった。


 ある意味では当然の反応だろう。

 彼女単独でも美少女と形容可能なのは勿論のこと、その服装というのが、古式ゆかしい紺色のセーラー服なのである。男女ともにブレザー着用な王羅学園ではまず目にする機会が無く、そういった点でも物珍しさがあるのだろう。

 (もっと)も信二郎は先日来すっかり見慣れてしまったので、特別驚かないのだが。


 というか実は、こうなることは一昨日(おととい)辺りには既に分かっていたのである。

 ゲンドー会本部を()ち、王羅町へと帰って来てすぐのこと、信二郎の祖父の元に、ホームステイ生を受け入れてほしいとの連絡が届いていたのだ。祖父がずっと以前にホストファミリー登録をしていたらしく、天状界がそれを利用したのであった。


 本来ならもっと前もって連絡があるべきなのだが、信二郎の祖父は特に気にするでもなく、事前の条件通り仕事を手伝えるならばすぐにでも、と快諾(かいだく)してしまった。

 家業柄、慢性的に人手不足なこともあって、単純に助かると考えたのだろう。


 信二郎の祖父はこの町で、小さな乗馬クラブをやっているのだ。

 ホームステイ兼ファームステイという中々珍しい状況が出来ていたが、当人同士が納得しているならば、おそらく問題あるまい。


 元より、こういう場合に「謎の転入生」とかを偽って出現し、四六時中行動を共にする羽目になるだろうというのはよくあるパターンだとして、信二郎も早い段階で予想と諦めはついていたのである。しかし、まさか本当に実行に移されるとは。

 大方、信二郎と同じ蓮河姓を名乗り、海外の親戚(しんせき)とか言い出すに違いない。


「皆さん、はじめまして――」

 生徒たちの眼前で黒板に大きく名前を書き込んだ少女が、クルッと身を翻して笑った。


「――孫 悟空と申します。中国からやってきました。これから宜しくお願いします」


 流暢(りゅうちょう)な日本語で自己紹介し、丁寧にお辞儀する見た目は欧米人の美少女。

 信二郎は思わず椅子から転げ落ちてしまった。

 ガタタッという大きな音がしたため、クラス中の視線が一斉にこっちを向く。

 が、今はそんなのはお構いなしだった。


「せめて名字ぐらい変えろよ!?」

「あ、信二郎! えへへ、やっほ~」


 可愛らしく微笑んでヒラヒラと手を振ってくる孫悟空。

 胸の鼓動が一気に跳ね上がりそうな笑顔だ。いや待て、そんな場合ではない。


「やっほ~、じゃないよ何考えてんの!? いつでも一緒に行動したいと思うのは分かるけど、もう少し隠す努力ってやつをさぁ!」

「え? そりゃ多少珍しい名前かもしれませんが、中国出身ならそこまで不自然では……」

「だから何度も言っただろ、キミの外見はアジア人じゃないんだってば!」

「…………あッ」

「馬鹿ァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!」


 ドジっちゃった☆ みたいな仕草でペロリと舌を出す悟空。

 それを見て盛大に頭を抱える信二郎。

 転入してきて早々なんたる大失態。いくらなんでも直球すぎる。

 これなら信二郎の親戚ですとか言ってくれた方が遥かにマシであった。


 とはいえ教室中は最初以上の騒めきとヒソヒソ声で溢れ返っていて、もはや後の祭り。

 どうあっても後戻りは不可能で、信二郎はその後数時間に渡り「謎すぎる転入生」の扱いに悩まされ続ける羽目となったのだった。


*  *  *


 そうこうしている間に、気付けばもうお昼休み。

 信二郎が疲れた顔で購買(こうばい)からの帰り道を歩いていると、突然後ろから呼びつける者がいた。


「――おい待てよ、カルト野郎」


 またか……と、信二郎はなお一層げんなりした気分になる。

 こういう場合は返事をしてはいけない、のだが、それも相手によりけりである。

 よく言われるような、ただ自分が無視してさえいれば平穏無事に過ぎる、といった単純な話ばかりとは限らないものであり。

 その相手は、信二郎が立ち止まって密かにため息を吐いていると、ガッと肩を掴んで強引に自分の方に振り向かせ、更に怒鳴り散らすのだった。


「シカトこいてんじゃねーぞ、蓮河ァッ!」


 唐突に廊下に響いた大声に、すれ違う他の生徒たちがビクッと委縮(いしゅく)するのが分かる。

 鋭い目つきで信二郎を(にら)み付け、威嚇(いかく)する甲高い声の主。

 それは制服を酷く着崩し、染めた長髪をワックスで固めて広い額をさらけ出した、如何にも分かりやすい風貌をした、信二郎と同じぐらいの背丈の男子生徒だった。


 台場(だいば)犬司(けんじ)


 それが彼の名である。

 信二郎は先程までとは別の種類の疲労感を(にじ)ませ、犬司の顔を見返した。


「犬司……何の用だよ? ボク、急いでるんだけど……」

「気安く人の名前呼んでんじゃねーよ。それよりテメー、いま手に持ってるパン、どうやって買ったのか大きな声で言ってみろよ」

「……? いや、そこの購買部に行って普通に……」

「そうじゃねーよ、バカ野郎!」


 犬司は不意にまた大きな声を上げると、信二郎が今そこで買ってきたばかりの総菜パンと菓子パンを乱暴な手つきで奪い取り、これ見よがしに信二郎の眼前に突き付けてきた。


「こいつを買う金は一体、何処の誰から手に入れたのかって()いてんだよォ! どうせテメーの親父がまた、誰かを洗脳して巻き上げた金じゃねぇのか? あァン!?」

「……いい加減にしてくれよ、犬司」

 信二郎は無造作に犬司の手からパンを取り返すと、静かにそう言った。


「ボクは今は、この町でじいちゃんと一緒に暮らしてるんだ。生活費も小遣いも、学費だってじいちゃんと一緒に働いて稼いだ、キチンとした報酬だけで(まかな)ってる。汚い金なんか一円でも受け取った覚えは――」

「――るっせーよ! チョーシ乗って口答えしてんじゃねーぞ、犯罪者のガキが!」


 犬司は取り付く島もないと言わんばかりに喚き散らすと、またしても信二郎の手からパンを二つとも奪い取り、今度は廊下の隅目掛けて叩きつけるように投げ捨てた。

 信二郎の昼食があっという間にひしゃげて(ほこり)まみれになる。

 一応ラップで包まれているとはいえ、あまりいい気分のするものではなかった。


「たとえ、そうだったとしてもだ! テメーが本気で親父に責任感じてるんなら、昼飯なんか買ってねーで一円でも多く被害者のために使ってやれよ! それが筋ってもんだろ? 人並みの生活送る権利がテメーにあると思ってんじゃねえ! それが出来ねぇんだったら、早いとこ死んで()びろ! 汚ぇ便所で首くくるか、それが嫌なら屋上から飛び降りるとかな! いつも口酸っぱくして言ってんだろーがァ!」

「ボクだって、いつも言ってるよな。そこまで言うなら犬司、いっそキミがやってくれって」


 信二郎は、犬司を真正面から見つめ返してそう答えた。

 すると途端に犬司がグッと言葉に詰まり、大げさに目を()いて信二郎を()めつける。


 冷え切った空気が廊下の端から端までを満たしていった。

 近くを通りかかった無関係な生徒たちも、そそくさと逃げるように消えていく。


「ナイフでも、ピストルでも、メリケンサックでも構わないよ。犯人が見つかっても一切責任問いませんって遺書でも残しとくからさ、早いとこ闇討ちでも何でもやってくれよ。ずっと前からそう言ってるハズなのに、どうして何もしないんだ、犬司?」

「……るっせーよ、クソが!」


 忌々(いまいま)しそうに吐き捨てた犬司が、力任せに信二郎の胸を突き飛ばす。

 信二郎が廊下の壁に激突して顔をしかめていると、犬司は露骨に舌打ちして踵を返し、何処へともなく立ち去ろうとしていた。

 が、その前に改めて信二郎の方を振り返ると、


「いいか、よぉ~く憶えとけ。みんな口には出さねぇけどな、心の底ではテメーに早く消えてくれって思ってんだからな。存在自体がキショいってことを自覚しろ。分かったら、早いとこくたばりやがれ、このカルト野郎が!」


 それだけ言い残すと、犬司は肩を怒らせてサッサと何処かへ行ってしまった。

 状況を遠巻きにしていた他の生徒たちが、ようやく嵐が過ぎ去ったと知りチラチラと自分の方を見てくるようになる。


 信二郎は彼らの視線を痛いほど感じながら、制服の埃を払い、乱れを整えてから呟いた。

「みんな口には出さないけど……か……」

 確かにその通りだな、と信二郎は痛感した。


 犬司が昨年の中ごろ辺りから、そこかしこで言いふらして回っている影響で、今やこの王羅学園高校で、信二郎の父親がどういう人間か知らない者は殆どいなかった。

 そして、身近にそんな人間がいれば大抵は警戒するのが自然というものである。

 信二郎はもう一度深々とため息を吐くと、足元に転がっていた購買のパンを拾い上げ丹念(たんねん)に埃を払い落としてから歩き始めた。


*  *  *


 想定外のハプニングにより、信二郎は予定より大分遅れる形で教室へと戻った。

 すると知らぬ間に、悟空はクラス中の女子という女子から取り囲まれてしまっていた。

「――悟空さん、それで!? それで!?」


「それでねぇ……信二郎が言うんですよ。『キミは、ボクらと同じ食事で構わないの?』って。あたしゃ『そこまで神経質になられないで結構ですよ』って答えたんですがね、本音じゃ結構嬉しかったんですよ。 “ああ、ちゃんと気ぃ遣ってくれてるんだなぁ”って思って。なんせホラ、お父上のことで相当悩まれてますからね、信二郎は。宗教絡みのことにはドライだって不思議じゃありませんのに、そうやって配慮を忘れないんですから……」


 悟空の話に聞き入っていたクラスメイトの女子たちが、口々に「おぉ~」とか「ほほ~」などと感心するのが聞こえてきた。悟空を取り囲む輪に加わらない男子たちも、身体や顔の向きなどを見れば、大体が聞き耳を立てているのが分かる。


「やー、ホントね、ヘタレ気味だけど、ああ見えて優しい方ですよ、信二郎は」


 悟空は最後に腕を組んで目をつむると、さも尤もらしく、うんうんと何度も頷きながら話を締めくくっていた。これには信二郎も堪らず、


「――一体何をやっているのかな、キミは!?」

「あら信二郎、おかえりなさい! 姿が見えませんでしたが、今まで何処へ?」

「キミがみんなと話すのに夢中だから、キミの分まで昼飯を買いに行ってたんだよ……ほら」


 言いながら、信二郎は買ってきた菓子パンと豆乳パックを悟空目掛けて放る。

 それを上手く空中でキャッチした悟空は、実物を見て「ほほぅ!」と声を上げていた。


「バナナサンドですか!」

「……ジャムが入ったオリジナルのやつな。生クリームとか入ってる商品に比べると人気無いけど、キミにはこっちの方がいいだろ」


 相変わらず乳製品などには気を付けている信二郎である。

 実を言えば、犬司に叩き落とされたパンのひとつは悟空の分だったのだ。

 流石に、埃まみれの床に落としたやつを渡すわけにはいかないので、あの後もう一度購買に戻って買い直して来たのだが、そのことは悟空には内緒だった。


「ありがとうございます! 見ましたか皆さん? こうやってね、さりげなーい部分で気遣い示してくれるんですよ、信二郎は。その気持ちの温かいのなんのって」

「だからやめろよ、変にボクを持ち上げるのは!?」

「持ち上げてないですよー、事実を言ってるだけですもーん」


 信二郎の非難もどこ吹く風、という感じで悟空はジャムバナナサンドを開封し食べ始める。

 口いっぱいに頬張って咀嚼(そしゃく)しながら、目を細め表情をユルユルにしていた。

 相変わらず心底幸せそうに食事するな、と信二郎は思った。


 一方で、悟空の話を聞きに集まっていたクラスメイトたちは、大慌てでいる信二郎の様子を遠くから見て、揃ってニヤニヤ笑っていた。どうも面白がっているらしい。

 くそ、これでは非常にやりにくいではないか。

 その上更に、余計なことを(たず)ねてくれる女子もいたもので、


「だけど悟空さんって、ホント蓮河と仲良いみたいだよね……どうしてだっけ?」

「それがねぇ……聞いてくださいよ。あたしがこっち来たばっかりの頃、ちょいと性質(たち)の悪い連中に見つかって、追い回される羽目になっちゃいまして。ほとほと困り果ててたんですが、その時あたしに力を貸してくれたのが、信二郎だったんですよ」

「へぇ~……」


「あの人ってば、自分は半泣きになってまで、あたしを助けてくれましてねぇ」

「っておい、ちょっと待て」


 何やら恥ずかしい情報が暴露されそうになっていたので、信二郎は余計に慌てる。

 だというのに、悟空ときたら全然お構いなしなのだ。


「あの時の言葉は今でもハッキリ覚えてますよ~。『ボクも一緒に戦うよ……。どこまで、何をやれるか分からないけど……』って。それをね! 目に涙滲ませながら言うんです! これが日本流に言う『萌え』ってやつかと思いましたね! くぅ~ッ!」

「頼むからやめてくれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」


 まるで酒に酔ったかのように、興奮気味で机をどんどんと拳で叩く悟空。

 それを見て床に突っ伏し、顔から火が出る思いでどんどんと拳を叩きつける信二郎。

 実にカオスな場面が展開されていた。


「アレはそもそもキミの方が、危険な目に()ってたボクを助けてくれたんじゃないか!」

「あ、ホラ、ああやってまた謙遜(けんそん)してるでしょ? まったくもう奥ゆかしいんですからね~、信二郎ってば~」

「美菜子さんかキミは!? もう、変な誤解されても知らないからな!?」


 教室内で止む気配を見せないクスクス笑い。

 もう本気で死にそうだった。


 出だしが出だしだけに一時はどうなることかと思った悟空であったが、結果的にはちょっと変わってる留学生、ぐらいの認識で受け入れられたらしいのだ。能力の割に相手を立てることを忘れなかったりするため、こうして同じ女子たちからも好評であった模様。


 なのに、口を開けばやたらと信二郎の称賛を繰り返しまくっているものだから、信二郎の中では最初とは全く別の種類の不安が生まれつつあったのだ。


 つまり、彼女が信二郎に洗脳されている可哀想な子、という悪評が広まりかねない不安。

 信二郎の事情が学校中に知られていることを思えば、充分あり得る話だった。


「……ってあれ、信二郎、どこに行くおつもりで?」

「散歩だよ、散歩! ボクはもう自分の分食べたからな!」


 その場を立ち去ろうとした信二郎だったが、バナナサンドを食べ終えた悟空に追いつかれ、咄嗟に(そで)(ぐち)を掴まれて引き止められてしまう。

 本音を言えば大した用事は無く、どちらかというと単に教室の空気に居づらくなったから、ほとぼりが冷めるまで校内をブラブラして来ようとしただけなのだが。


「要するに暇なんですね、信二郎」

「うるさいよ!」

「でしたら、是非あたしに、日本の学校を案内してくださいませんか?」


 心なしか上目遣いで信二郎を見つめながら、そんな提案をしてくる斉天大聖・孫悟空。


「日本の学校って初めてなもので……勝手が分からないと困りますから」

「……日本どうこう以前に、キミ学校なんて行ったことあるの?」

(れい)(だい)方寸山(ほうすんざん)にお住まいの()菩提(ぼだい)祖師(そし)のところで、仙術の授業ならば少々」

「何処だよ、っていうか誰だよ……」


 信二郎は段々、頭が痛くなってきた。


「要するに、義務教育的な場所には通ったことがないってことだね」

「面倒なので、通っていたということにしといてください」

「はいはい、分かった分かった……。それじゃ、案内してあげるよ」

「やたっ」


 ピョコッと小さく跳ねて、嬉しそうに手を叩く悟空。

 可愛いなと素直に思ったが、信二郎はそんな風に考えている自分の表情を見られるのが嫌で思わず背を向けてしまう。特に同級生たちには気取られたくなかった。


 するとその時、さっきまで会話していた女子の一人に、背後から呼び止められる。


「――あ、ちょっと待った。それならさ、もう一人連れて行きなよ」

「へ?」


 突然そう言われて、振り返ったはいいがキョトンとしてしまう信二郎たち。

 信二郎たちを呼び止めた彼女は、すぐさま教室の隅の方を見ると、そちらに向かって両手でメガホンのようなものを作って呼びかけていた。


千手(せんじゅ)~、アンタも二人と一緒に行ってきな~」

「――ふぇっ!?」


 素っ頓狂な声を上げ、慌てた様子で立ち上がったのは、長い栗色の髪を持つ少女だった。

 やや白っぽい肌に大きめのメガネ。

 そして制服の胸元は内側から著しく押し上げられている。

 まるでひと昔前の映画に出てくる、清純派学級委員のような装いである。

 改めて見ると何処となくニルルティと似た特徴を持っているようにも思えるが、彼女なんかよりも遥かに確実にたおやかで、包み込むような、母性的な魅力を(かも)し出した少女。

 その姿を見た途端、信二郎の胸の奥がズキンと(うず)くのが分かった。


 彼女の名前は、牧奈(まきな)千手(せんじゅ)

 信二郎たちのいるクラスの、まさに学級委員を務める()である。

 そして同時に、信二郎にとっては入学当初からの因縁浅からぬ相手でもあった。

 急な提案に千手はひどく慌てている様子だった。


「わわわ、わたし? わたしだよね? だけど今から蓮河くんが案内するって……」

「はぁ? 何言ってんの、アンタ学級委員でしょ。せっかく転入生が来たんだから、アンタが責任もって面倒見てあげないと。それに蓮河だけじゃ頼りないしね」


「ううう……それは……そうかもしれない……よね……うん……」

「……何故ボクが地味にディスられているんだ」


 信二郎が漏らした不満を他所(よそ)に、席を離れてこちらにやって来る千手。

が、そのぎこちない動きにはまだ何処か、躊躇(ためら)いや戸惑(とまど)いといったものが含まれているようだった。心なしか彼女の歩みは遅く、顔は終始伏せがちである。

 改めて、何てやりにくいんだ、と信二郎は思った。


「あのさ……だったら牧奈(まきな)に全部任せるから、ボクは――」

「――ダメに決まってんでしょ! 蓮河と千手で二人一緒に、悟空さんの案内してくるの! ……あらあら? よく考えたら蓮河千手っていい響きよね?」

「急に変なこと言うなよ!? しかも命令!?」

「いいから、ゴチャゴチャ言ってないで早く行きな!」


 お節介なうえに、無責任にぶん投げてくるという、この始末。

 余計なことを、と内心思ったがどの道、断れる空気ではなくなってきていた。

 念を押すようだが、クラスメイトの大半は信二郎の父親がどういう人間か、既に知っているハズなのである。ところがどうした訳なのか、時折こうして警戒するどころか、むしろ信二郎に対してある種の便宜(べんぎ)を図るような態度を見せる者がいるのだ。


 しかもその大多数は女子なのである。

 それが原因で玄道のことを思い出し、信二郎は一層気分が重たくなったりするのだが。


 信二郎たちの眼前で立ち止まる千手。

 が、彼女自身、まだ何か決心しきれない様子だった。


「う……あの……えっと……」


 少しだけ低い視点から一瞬、信二郎を見上げた千手は続いて、その真隣にいる悟空のことをチラチラと覗き見ていた。

 どうやら意識しているらしかったが、当の悟空はまるっきり気付いていない表情。

 しかもその直後、油断していたためか、信二郎は偶然にも千手と目を逢わせてしまった。


 信二郎は即座に、無言で視線をあさっての方角へと逸らした。

 実を言えば先程からずっとそうしていた。極力、千手とは目を逢わせないよう意識する。

 とはいえ、どうしよう。このままでは非常に気まずい。

 沈黙が少年たちの周囲を支配する中、悟空は急にスッと信二郎の前へ進み出てきて言った。


「……アナタのお名前、もう一度お(うかが)いしても?」

「え? あの、ま……牧奈千手……です……」

「なるほど……千手さん、ですね」


 悟空は言うなりニッコリと微笑んだかと思うと、目の前の千手に手を差し伸べるようにして穏やかにその後を紡いだ。


「あらためまして、孫悟空です。これから、よろしくお願いします」


 その瞬間、千手も、信二郎も、他のクラスメイトたちも全員、呆気に取られたようになってしまった。予想だにしなかった紳士的な態度に、瞬く間に、その場に張り詰めていた緊張の糸が途切れていく。

 千手はしばらくして「は、はい……」と思わず悟空の手を取っていた。

 そこで信二郎はふと、悟空と初めて出会った時の状況を記憶から呼び起こした。


 そういえば、自分に対してもこんな風だったよな、と。


*  *  *


 結局、一部クラスメイトの思惑(おもわく)(どお)り、悟空のための学園案内は信二郎と千手を含む計三人で行われる運びとなった。

 教室を出た一同は、ひとまずは二階の廊下を、窓の外を眺めながら歩み出した。


「しっかし、こうして見ると中々に風情(ふぜい)のある学校ですよね。緑も多いみたいですし」

「風情って……そんな大げさなモンじゃないけどな」


 悟空に合わせて、信二郎も窓枠からちょっとだけ身を乗り出してみる。

 信二郎たちのいる二階部分からは、木々の植わった中庭と、木造二階建ての旧校舎、そしてその向こう側にある裏山の様子が一度に見渡せた。王羅学園高校では中庭を挟んで、新校舎と旧校舎が向かい合うようにして建っている。

 ちなみに信二郎たちが今いる新校舎は、鉄筋コンクリート造の三階建てだ。


「まぁ、田舎独特の雰囲気があるのは確かだけどさ。ここら辺は畑もいっぱいあるし」

「そういえば、今日この学校へ来る途中、風に乗って野焼きの臭いがしてきましたよ」

「アレって原則禁止なハズなのに、割と何処も平気でやってるんだよなぁ」

「……あの、悟空さん」


 と、ここで千手が初めて口を開いた。

 悟空が振り返って小首を傾げると、彼女は一瞬間を置いてから、何故か妙にオズオズとした様子でその先を訊ねるのだった。


「中国から来たって言ってたけど……もしかして、都会の方に住んでたの?」

「え? えーと、はい、そうです。厳密には生まれも育ちも岩山なんですが、ここんところはずっと、都市部の方で務めさせられる羽目になってましたので」

「い、岩山?」


 千手が目を白黒させているのを見て、信二郎は思わず(ひじ)で悟空を小突いた。


「……バカ」

「あ、いえ、違うんです。ほら……あの国って内陸部と沿岸部じゃ言葉も違うし、全然別の国みたいなモンなんですよ。あたしの故郷自体は内陸の方なんですが、もう長いこと帰れてなくてですね。沿岸の都市部でいわゆる……(かぎ)()? みたいな生活してました」


 よくもまぁ、これだけ咄嗟にアドリブが効くものである。

 それ自体は評価してあげたいと思う、が……。


「……残念だけどさ、悟空。今は『鍵っ子』って表現古いからね」

「えッ!?」


 割と素でショックを受けたような顔している悟空だった。

 ごく当たり前のように死語を使ってしまうあたり、やっぱり世代が違うんだなぁと信二郎は遠い目になる。まぁそれでも、見た目的には自分や千手とほぼ変わらないのだが。

 一方で千手は、何故か先程よりも元気が戻ったような表情をしていた。


「そっか……そうだよね……悟空さんは外国の、しかも都会の女の子なんだもんね。考えたらわたしたちより、コミュニケーションもフランクで当たり前だよね……」

「そ、そうなんです、都会の女の子なんです。あ、でもあたし、この町の風景も大好きですよ。流石に故郷の代わりにゃなりませんけど、何となく懐かしい香りがして、心が落ち着く感じがするんです」

「そっか、良かった……」


 そう言って千手は、今日会ってから初めての笑顔を悟空に向かって浮かべた。

天使のような、もとい菩薩(ぼさつ)のような柔らかな微笑み。

 そんな彼女を知らず知らずのうちに見つめている自分に気が付いて、信二郎はハッとなって顔を背ける。幸い、千手本人にも悟空にも悟られてはいないようだった。


折角(せっかく)だから、外に出てみよっか?」


 千手の提案により、一同は階段を下りて中庭へと向かう。

 信二郎としても今しがたの行動を誤魔化せるので、非常に有難かった。

 そうして鉄筋コンクリート造の新校舎を出てくると、春の日差しに彩られた中庭の芝生では男女を問わず、何組かのグループがレジャーシートなど敷きつつ、のんびりお弁当を広げたりして時間を過ごしていた。実にのどかな風景である。


 また、信二郎たちがいるのと反対側の中庭の端では、活動熱心な演劇部が体育館を背にして発声練習をしたりしていた。

 それらを一望した悟空は、改めて大きく伸びをしながら言う。


「ん~、やっぱりこの雰囲気が何とも堪りません」

「……キミってホント、色んなものへの感動を素直すぎるぐらい表に出すよな」

「だってその方が人生豊かになりますもの」

「そういうもんかな」


「そういえばね、悟空さん知ってる? この学校って一度、アニメに出てくる学校のモデルになったことあるんだよ。聖地(せいち)巡礼(じゅんれい)だ~って言って、沢山の人が学校の見学に来ちゃって、大変だったんだって」

「へぇ、そんなことが?」


 千手の話に、思わず目を丸くしている悟空。

 信二郎も一度ぐらいは聞いたことがあった。数年前にやっていた深夜アニメで、王羅高校を外観のモチーフにした舞台が登場したため、その作品のファンが次々に訪問してきて、対応に追われる羽目になったことがあるのだとか。


「まだ、最低限のルールは守る人たちだったから良かったけど、他所(よそ)じゃ学校の敷地に無断で入ってくるような人もいるって聞いて、ビックリしちゃった」

「まー、聖地巡礼っていうぐらいですし、その人らにとってはある意味で、熱烈な信仰の対象だったんでしょうけど。節度を守らない信仰って、ホントに恐ろしいモンですからね」


 言ってから悟空は、チラッと信二郎の方を見て心配そうな表情をしてきた。

 彼女の言わんとしていることは分かる。

 いいよ気にするな、という仕草で信二郎は返した。


 おそらくは、美菜子さん辺りを思い出しているのだろうが、曲がりなりにも多神教で神扱いされている張本人がいうと、それだけで妙な説得力があるのだった。


「……あ、というか千手さん、信仰云々で思い出したんですが」

「へっ?」

「千手さんのご家庭って、もしかして仏教と関係のあるお(うち)だったりします? 千手っていうお名前自体、千手観音(せんじゅかんのん)が由来じゃないかと思うのですが。あ、いえ、あたし自身が昔、観音(かんのん)菩薩(ぼさつ)に散々世話になってるものですから、ちょいと気になりましてね」


 観音菩薩、あるいは観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)とは智慧や慈悲をつかさどる仏の一種である。

 原典の『西遊記』では玄奘三蔵法師を見出した張本人でもあり、その後も物語に幾度となく登場しては、悟空の助太刀をしたり、あるいは不始末をしでかした彼女に対して再三お説教を垂れたりと、非常に重要な役割を果たす。


 また、千手観音はその化身とされる存在であり、名前の通り、無数の手を持った存在として描かれる。いわゆる六道(りくどう)輪廻(りんね)では、餓鬼(がき)(どう)にいる者を救済するらしい。

 悟空の指摘に、千手は静かに頷いてみせた。


「……うん、そうだよ。わたしの家、この町のお寺なんだ。お父さんが住職(じゅうしょく)やってて」

「ははぁ、そういうことですか」


 悟空が、得心がいったようにポンと手を打った。


「言われてみれば、この国の僧侶は肉食妻帯(にくしょくさいたい)も許されているんでしたっけね」


 千手は、王羅町に古くからある由緒正しい寺の娘である。

 しかも今のところは兄妹などの存在を聞いた覚えがないので、このままいけば将来的には、彼女は父親の後を継いで自動的に、その寺の女住職に就任することとなる。


 尤も、そういった寺の世継ぎシステムは、日本独特のものらしい。

 千手は悟空の言葉を聞いて、少しばかり申し訳なさそうな顔になっていた。


「……やっぱり変かな? 外国人の悟空さんから見ると」

「いえいえ、滅相(めっそう)もない。大体中国の仏教だって、インドから輸入されたその時点で形が相当変わってるんですから。特に世界宗教ってのは、時代や場所によってどんどん形を変えていくのが当たり前です。この国の制度でそうなっているのなら、何ら問題じゃないとあたしゃ思いますよ?」


「そっか……そうなんだよね。ありがとう、悟空さん」


 千手に真面目にお礼を言われて、照れたように肩をすくめ、頭をかく悟空。


 それからしばらく、悟空と千手は歩きながら、プチ仏教トークに花を咲かせていた。

 女子高生二人(片方は外見だけだが)の会話としては余りにも渋いので、傍から見ていると実にシュールだったが、最初は妙にぎこちなかった二人が段々と打ち解けてきたのは何よりの成果だと信二郎は思った。


 そうこうしている間に、一同は旧校舎の裏側にやって来ていた。


「ほら見て悟空さん、すっごく綺麗な風景でしょ?」

「……ええ、確かに!」


 千手の言葉に頷く形で、悟空は目をキラキラと輝かせていた。

 実のところ、信二郎も全く同じ意見である。

 この時間帯、王羅高校の旧校舎裏側には殆ど全く人の姿はない。


 そのような場所で彼らが一体何を眺めているのかというと、すぐ目の前にそびえ立つ山の(ふもと)部分であった。そこには一面なんと、桜の花が咲き誇っていたのである。

 本来なら開花シーズンはとっくに過ぎているハズなのだが、どういう訳なのか、この裏山に植えられた桜はいわゆる遅咲きの品種であった。そのため、新学期開始からひと月ほど経ったこのタイミングでこの場所に来ると、実に美しい桃色の景色が一望できるのである。


「ザ・日本って感じの風景ですね。素晴らしいです!」

「ふふっ、喜んで貰えて良かった」


 活発に堂々と笑う悟空と、しとやかに控えめに笑う千手。

 月並みな表現だろうが、こうして並ぶと眼前の桜も霞むような組み合わせだった。

 そんな彼女たちの姿をひとまず目の端に捉えたはいいが、ほどなく自分を心中で叱りつけ、再び無関係な方向を見ようと努力する信二郎。


 特に千手には気を付けなくてはいけなかった。

 だが、そのとき、


「あ、いけない。あたし職員室に用事があったんでした。うっかりしてました、てへ」

「…………ん?」


 悟空がいきなり、そんなことを言い出した。

 普通なら違和感を覚える必要も無かったのだろうが……。

 余りにも棒読み口調なのが気になった。


「という訳であたしは少し席を外しますねー。戻るまで、二人はずっとここにいてください」

「え? でもそれなら、わたしたちが案内……」


「心配ご無用! ここに来るまでに、ちゃんと場所を確認しましたから。今のあたしだったら職員室は勿論、保健室から理科室から保健室に至るまで無問題(モーマンタイ)!」

「どうして急に広東語(かんとんご)なんだ!? あと保健室が二回あったような……」

「あの、そもそも校舎の中って、殆ど歩いてなかったと思うんだけど……悟空さん?」


 千手までもが不安を感じ始めたようだった。

 だが悟空は「大丈夫、大丈夫!」などと言って、足早に立ち去ろうとするばかり。

 そして遂に、彼女が信二郎の眼前を通り過ぎて行く際、不意に肩に手を置いたかと思うと、耳元でハッキリとこう(ささや)かれた。


「…………しっかりやるんですよ」

「悟空!? キミは……!」


 信二郎は確かに見た。悟空の口元がニヤリと笑みに歪んでいるのを。

 さながら、企みが成功したことを喜ぶ悪人のようで。

 まさかアイツ……気付いてた!?


 信二郎たちが愕然とする中、悟空は「あっははー」などと露骨に芝居臭い笑いを上げながら呼び止める間も与えずに、何処へともなく退散していってしまった。

 静まり返った旧校舎裏に残されたのは、未だ混乱の只中にある信二郎と千手のふたりだけ。


 かくして彼らは、悟空の策謀にまんまとハメられてしまったのであった。


「な……何だったんだろうね……?」

「……あのバカ」


 困惑しきった顔で悟空の消えていった方向を見つめ続ける千手と、疲労感を溢れさせた顔で眉根(まゆね)を指で押さえる信二郎。

 クラスメイトの女子といい、悟空といい、信二郎の周囲には何故こうも余計な気を回す者が多いのか、一度ハッキリと問いただしてやりたかった。


 そして何となしに顔を上げた瞬間、信二郎と千手はまたしても目が逢ってしまう。

 瞬時にバッと、どちらからともなく目線を逸らし合い沈黙する二人。

 先ほどの気まずさが再燃する。

 こんな状態で一体、どうやって間を持たせればいいというのだろうか。

 すぐにでもこの場から逃げ出したい気分であった。


「…………久しぶり、だよね」


 そんな中で突然、会話の端緒(たんしょ)を開いたのは千手の方だった。

 信二郎がチラリと彼女を見やると、まだ顔は伏せていて目は逢わなかったが、その様子から(うかが)えるに、かなり意識的に大きめの声を出しているようだった。


「こうやって、二人だけで話すの…………」

「……ああ、うん。いつ以来だったかな……」

「どうだろ……? ごめんね、忘れちゃった……もうずっと、喋ってなかったから……」

「…………」


 そうやってまた、どちらからともなく沈黙が始まる。

 信二郎は上を向き、千手は下を向いて、双方ともに黙りこくる。

 気まずさ再び。いやむしろ、先程よりも痛さが倍増している感さえあった。


 ふと、何処からともなく吹いてきた生暖かい五月の風が、数ある木々の(こずえ)と一緒に、千手の生まれつきの長い栗毛を揺らめかせる。遅咲きの桜の花びらと併せて、鼻孔をくすぐるような少女の香りがほんの少しだけ、運ばれてくるのが分かった。

 それに気づいた瞬間、信二郎の胸の奥の痛みが一気に加速した気がした。


「だ、だけどビックリしちゃったなぁ。蓮河くんが、留学してきたばっかりの女の子と、最初からもう仲良くなってるんだもん……ちょっとだけ、焦っちゃった……」

「…………」


「だ、だけどイイ人だよね、悟空さんって! 人見知りなわたしでも、仲良くなれるかもって思ったぐらいだもん!」

「…………あの、さ」


「あっ、そうだ。モンブラン号って今でも元気? もう生まれてきてから一年か~……馬って結構、成長早いからなぁ、久々に会ったら大きくなってるんだろうな~。今ぐらいまではまだ基礎体力作りだよね? 調教は確かこれからで――――」

「――――あのさ、牧奈」


 今度は信二郎の方が、意識的に大きな声を出す番だった。

 千手がビクッとしたように話すのを中断して、おそるおそる信二郎の顔を見てくる。

 信二郎はあえて、その目を真っ直ぐ見つめ返すと、深呼吸してから言った。


「もう……やめにしよう。ボクは元々、キミが思ってるような人間じゃない……誤解なんだ。だからもう……悪いことは言わない。二度とボクには近づかないほうがいい」


 その言葉を聞いた途端、千手の顔色がサッと変わるのが分かった。

 見る見るうちに明らかに血の気が引いて、呼吸も次第に荒くなっていく。

 そんな彼女の表情を見るのが辛くて、信二郎は思わずあさっての方向に目を背けた。


「やめて……やめてよ、蓮河くん……どうしてそんなこと言うの……?」

「…………」

「もし蓮河くんが、お父さんのことで悩んでるんだとしても……わたしは、わたしはそんなの絶対に気にしない! 蓮河くんは蓮河くん、お父さんはお父さんだよ……!!」

「……たとえ、キミが気にしなくたって、世間の人たちが気にするんだ」


 信二郎は千手と顔を合わせぬまま、首を横に振った。

 きっと、絶望的な表情をしているんだろうと思うと、とても千手の顔を直視する気にはなれなかった。そんな顔にさせてしまった自分と向き合うのもまた、心底恐ろしい。


「ボクはどこまで行っても所詮、訳の分からない理屈で金をだまし取るインチキ宗教の教祖の息子で……キミはこの町の、本当に由緒正しいお寺の跡継ぎ娘なんだ。ただでさえ今だって、犬司みたいに色々言ってくる奴がいるのに……これから先、そういう人間は数えきれないほど増えてくる。キミにそんな迷惑はかけられない……」

「そんなの……そんなの、わたしは……ッ!」


 千手の、必死に絞り出すような声が信二郎の耳朶(じだ)を打つ。

 苦しかった。

 千手の悲しげな声を聞くことも、彼女を振り払わねばならないことそれ自体も、何もかもが苦しくて、苦しくて堪らなかった。


 だけど、彼女のためにはこうするしかないのだ。

 自分の近くにいることが、彼女の幸せに繋がるなどとは到底思えないから。

 だから今は、一時的に辛い思いをしてでも、突き放すしかない。

 それに何より、自分に、蓮河信二郎に、人並みの幸せを追求する権利は、多分ない。


 だから……。


「――――おぅおぅ、なーに言い争ってんだよォ!?」


 突如としてその場に響く、聞き慣れたガラの悪い声に、信二郎はハッとして顔を上げた。

 千手も咄嗟に、一緒になって声のした方を見る。

 噂をすれば何とやら。


 あの台場犬司が、いつの間にか校舎裏にその姿を現していた。


 敵意剥き出しの、挑みかかるような目つきを信二郎に向けながら、やたらと横幅を占拠するチンピラ特有の歩き方で犬司はこちらへとやって来る。

 何て嫌なタイミングで現れるんだ、と信二郎は内心舌打ちした。

 大方、そこら辺に隠れてタバコでも吸っていたのだろうが。


「犬司……こんなところで何してるんだ?」

「そりゃーこっちが聞きてーよ! たまたま偶然通りかかったら? なーんか()めてるみてーだったから、わざわざ止めに来てやったのによー」


 犬司は無意識のうちに数歩後ずさりした信二郎と千手の眼前で立ち止まると、二人を交互に()めまわすように見てから、突如として「あっ、わかった!」などとワザとらしい大きな声を出して下卑(げび)た笑みを浮かべると、信二郎を指差すようにして言った。


「さーては! さてはさては! 妊娠か? 妊娠させちゃった? そーだろ、そーなんだろ! なんてったって、カルト教団の跡継ぎだもんな! ハーレム作るんだもんな! その一発目に牧奈に手ぇ出したら運悪く当たっちゃったと! ひゅ~流石鬼畜ぅ~!」


 犬司から不意に飛び出してきた下世話すぎる(あお)り。

 それを聞いた千手は、思わず顔を真っ赤にして俯いてしまった。


 信二郎の脳内にカッと血液が逆流する。

 自分に対しての攻撃だけならともかく、流石にこれは看過する気になれなかった。


「おい、やめろ犬司……!」

「……るっせーよ、このカルト野郎! 元はと言えば、テメーの親父が他人を(だま)すようなことばっかしてっから悪いんじゃねーか! 所詮テメーにだって詐欺師(さぎし)の血が流れてるクセによ! 身から出た(さび)ってやつだろーが! 勝手に被害者面してんじゃねーぞ、ボケ!」

「ボクが言ってるのはそういうことじゃ……!」

「あーうるせー! カルト野郎うるせー! 話しかけんなー! 洗脳されるー!」


 両手で耳を塞ぎながら、あからさまな大声を上げて信二郎の言葉を(さえぎ)る犬司。

 分かっていたこととはいえ、話が通じないにも程があった。

 ゲンドー会の美菜子とは別ベクトルで性質が悪い。


 信二郎は早くも途方に暮れかけていたが、千手が巻き込まれている以上、簡単に諦める気にはならなかった。無駄かもしれないと知りつつ、尚も説得を試みようとする。

 だがその時である。それまでずっと俯いていた千手が、微かに顔を上げて言った。


「や、やめてよ、台場くん……」


 平素は気弱なハズの彼女が、ここにきて懸命な様子で犬司相手に抗議の姿勢を示していた。


「蓮河くんは……蓮河くんはそんな人じゃないよ……ッ!」

「……牧奈……」


 彼女の必死そうな姿を見て、信二郎は思わず胸がいっぱいになる。

 その影響か分からないが、犬司も一瞬だけ、戸惑うような表情を垣間見せた。


 が、それでも結局はほんの刹那の出来事に過ぎず、


「…………あーあー、可哀想によ!」


 犬司はすぐさま、何事も無かったかのように攻撃を再開するのだった。


「牧奈はすっかり洗脳されちまってるワケだ! 気の毒なモンだなー、ちゃぁんと立派な家に生まれたってのによ! 流石はカルト野郎ってことだな!」

「だ、だからそんなんじゃ……」

「おいカルト野郎、どーやって牧奈を洗脳したか言ってみろよ。親父譲りのテクニックか何か持ってんだろ? あァ? なんせテメーの名前からして『蓮河信じろ~!』だもんな! あー、怖ぇ怖ぇ!」

「…………」


 信二郎はどう返してよいのか分からなかった。

 ともすれば、このまま半永久的に噛みつかれ続けるのではないだろうか。

 隣にいる千手も、すっかり参ってしまっているように見えた。

 本当に一体どうすれば?


 いずれ戻ってくるであろう悟空には申し訳ないが、この場は一旦、千手を連れて退散すべきだろうか。そう思った矢先に、




「くぉら――――――――なにやっとんじゃおのれは――――――――ッ!!」




 校舎裏に満ちた閉塞感をあっという間に切り裂く、頼もしすぎる声。

 信二郎も千手も、それから犬司も、何事だ? という顔になって周囲を見回す。


 すると、見つけた。

 ほんの数分前に去っていったのと同じ方角から、セーラー服着た孫悟空が鬼の形相をして、こちら目掛けて全速力ですっ飛んでくるのが分かった。


「……悟空!」

「悟空さん……!」

「ハァ……ハァ……無事ですかお二人とも!?」


 珍しく息を切らした様子で、信二郎たちの目の前で急速に立ち止まった悟空は、僅かの間に息を整えたかと思うと、今度こそハッキリと、先程はいなかった犬司のことを真っ向から睨み付けて言った。


「過干渉は野暮かなぁとか思って、()えて黙って見てましたが……ああもう我慢なりません!さっきから何なんですか、アンタは! せっかく二人の青春の一ページをセッティングしたというのに、いきなり横から現れてゴチャゴチャと!」


 そもそもそのセッティング自体が過干渉には当たらないのか……と思ったが、空気を読んで黙る信二郎。片や犬司は、大いに混乱をきたしている様子であった。


「いや……オメーこそ誰だよ……? 一度も学校で見覚えねーけど……」

「あたしゃ、今日からこの学校に通い始めた転入生ですよ!」

「てん……? ってああ、今丁度ウワサになってる奴か……。聞いてるぜ、転入してきて早々カルト野郎の自慢ばっかりして回ってるそうじゃねーか」


 ようやく合点がいったと見える犬司。

 一方の信二郎は、彼の言葉を聞くなりドキッとしてしまっていた。

 やっぱり思った通り、悟空に早くもそういうウワサが立ち始めてしまっているのか。

 嫌な予感ほど当たるものだ、とはよく言ったもので。

 信二郎は元からあった罪悪感が、更に数倍に(ふく)れ上がっていくのを感じていた。


 犬司は先程と同様、悟空のことをも頭から爪先までジロジロと舐めるように見回してから、嫌味たっぷりに言ってのけた。


「ホント気の毒でたまんねーよなー。こーんなカワイイ娘なのによ、よりにもよって気色悪いカルト野郎が、とっくの昔に洗脳済みなんだからなぁ~」

「……気の毒なのはアンタの方でしょうが」


 次の瞬間、ドスッ、という何かが何かにめり込む非常に鈍い音がした。

 僅かに遅れて、犬司が両目を押さえながら後ろ向きにひっくり返り、

 それを冷たい目で見下ろす悟空は、右手にチョキを作って正面に突き出していた。


「うっぎゃあああああああああああああああああああああッ!?」

「これは信二郎と、それから千手さんの分です」


 まさかの目つぶし。

 それも不意打ち気味に。

 これには信二郎も思わず仰天するしかなかった。


「悟空、何してんの!?」

「なにって、目つぶしですが……」

「いや、そういうことじゃなくて!」

「いいいいいいい、いきなり何しやがるッ!?」

「あ、(つぶ)(そこ)ねた」


 犬司が情けなく、いや状況的に情けなくはないのだが、とにかく両目を盛大に(うる)ませながらよたよたと立ち上がってきていた。千手を(はずかし)めた以上は自業自得というべきなのだろうが、不思議と本当に気の毒な感じがしてしまった。


「テメー本気でやりやがったな!?」

「ハッ! アンタみたいな負け犬野郎には、嗅覚(きゅうかく)だけで充分と思ったまでですよ!」

「誰が負け犬だコノヤロー! ぶっ殺すぞ!」

「アンタが負け犬でなきゃ、一体何だっていうんです? 外から見れば一目瞭然(いちもくりょうぜん)なんですよ」


 そこで悟空は、今まで見たことも無い冷笑を浮かべて犬司を見下ろした。

 文字通り見下しているといった様子で、そんな表情の出現を予期していなかった信二郎は、割と本気で驚いてしまった。


「犬司……とか言いましたっけ? アンタ、千手さんのこと好きなんでしょう。だけど自分の実力じゃ振り向かせられないから、腹いせに信二郎の評判落とすようなことばっか騒ぎ立てて誤魔化してる……違いますか?」

「なっ…………!?」


「ま、端っから望み薄だったでしょうね。自分を磨くより他人を(おとし)めることに熱中するような人間じゃあ……。希少価値、という意味では誇ってもいい気がしますが。だって中々いないと思いますよ? アンタみたく、それこそ絵に描いたような負け犬野郎はね!」


 あちゃー……と信二郎は思わず額を押さえて俯いた。


 知っていた、知っていたさ。

 だけど、それでも敢えて今までは指摘せずにおいたのだ。

 それを面と向かって指摘すれば、犬司のプライドはズタズタに引き裂かれるから。

 いくらなんでも、それは残酷に過ぎるのではないかと思ったから。


 だがしかし、悟空にとっては何の関係もなかったのだ。

 図星を突かれ、徹底して(あざけ)り倒された張本人は、拳を握りしめワナワナと震えていた。


「…………ざっけんなこのヤロォォォォォォォォォォォッ!!」

「悟空さん、危ない!」


 遂に逆上して殴り掛かろうとする犬司の姿に、千手が思わず悲鳴を上げる。

 が、そんな心配は文字通りの杞憂(きゆう)であった。

 悟空は眉一つ動かさずにヒラリと体をかわすと、その隙に複雑な印を結んで犬司に指を突き付け、一言こう叫んだ。


「モンキーマジック・テーシン!」


 少女の宣言が旧校舎裏に響き渡った瞬間、ガチッという何かの固結するような音がした。

 そしてその直後から、犬司の様子が明らかにおかしくなる。


 簡単に言えば、一切の身動きをしなくなったのだ。

 それも、悟空に殴り掛かろうとするモーションの途中で、強引に一時停止したかのような、極めて不自然かつ無理のある体勢で。

 まるで金縛りにでも遭ったかのようであった。


「な、なんだ……これ……動かな……!?」

「アンタのような負け犬はねぇ――――」


 悟空がゆっくりと、親指に中指を引っかけた状態の右手を犬司の眼前に持っていく。

 さながら見せつけるかの如く、ギリギリと威力を溜めに溜めて。

 打って変わって静まり返った犬司の額に、一筋の汗だけがツゥッと流れ落ちていった。


「――――その辺で一生、ひっくり返ってなさい!」


 バチコーン! と盛大に炸裂するデコピン一閃。

 腹の底から絞り出された悲鳴で軽いドップラー効果を生み出しながら、犬司はボウリングのピンの如き大回転と共に空中に舞い上がった。やがてそれは、信二郎たちよりもずっと遠くにある花壇の植え込みに落下すると、勢いよく突き刺さってそのまま沈黙した。

 衝撃は吸収されたハズだから、おそらくは死ななかった、と思う。


 というか、悟空の術を受けた犬司は、緑色の平面から下半身だけが一定のポーズで硬直したまま突き出しているという、極めてシュールな体勢になっていた。

 その光景は、なんというかまるで……。


「アッハハ、見てください信二郎! あれぞ名付けて、負け犬神家!」

「…………キミも大概ヒドいよな」


 当該物体を指差して容赦なくケタケタと笑い転げる悟空。

 まぁ、信二郎だって同じものを連想したけれども。

 繰り返すようだが、多分死んではいないから、これぐらいは自業自得と思ってもらうことにしよう。


「あ、あの、今のって……?」


 後ろからした声に、ハッと振り向く悟空と信二郎。

 そう、この場には千手もいたのである。悟空の超人的な能力を初めて目の当たりにした彼女は、出会った当初の信二郎のように思わず目を丸くしてしまっていた。

 それに気がつき慌てて誤魔化そうとする悟空。


「あ、いえ、これは違うんです! その……そう! あたし、実はこう見えて中国で発展した特殊忍術・猿回し流忍法道の使い手でして!」

「に、忍法……?」

「おい悟空、思い付きで適当な設定作るなよ。あとで困るぞ」

「え? いや、しかし」


 これまた珍しく慌てふためいた様子の悟空。

 しかし、これを見ていた千手はやがて、フフッと小さく笑みを漏らしたのだった。


「せ、千手さん……?」

「ううん……気にしないで。とにかく、悟空さんはわたしたちのこと助けてくれたんだよね。本当にありがとう………」

「いえいえ! こちらこそ、どういたしまして!」


 千手は一連のアクションをあまり追及しないことにしたらしい。

 悟空もそれを知ってホッと胸を撫で下ろしている。

 本当にこれ以上ないぐらい、いい娘だった。

 信二郎としてもその方が有り難い。


 ところで、ひと安心したので気を緩めてしまっていた信二郎だが、少しして千手がこちらをジッと見ているのに気がついたため、慌てて目を逸らし背中を向けることとなった。

 千手が再び、その態度を前に切なげな声を漏らす。


「蓮河くん……」

「……こ、これで分かっただろ牧奈」


 信二郎は、何が何でも千手を言い含めなければと必死だった。


「ボクなんかと関わると、それだけでロクな目に遭わない。これからもずっと、こういう嫌な思いをし続けるんだ。次はもしかしたら、からかい程度じゃ済まないかもしれないし……そうなってからじゃ遅いんだ。だから、もう……」

「…………」

「お言葉ですがね、信二郎」


 そのとき突如として、それまでは近くでやり取りを聞いているだけだった悟空が、耐え切れなくなったかのように口を挟んできた。


「あたしゃ今日一日、信二郎の周囲の状況にずっと目を光らせてました。それこそ今みたいな状況が、もっと頻繁に起きてるんじゃないかと思いまして……。ですがハッキリ申しまして、信二郎のことを陰でゴチャゴチャ言ってるような人間なんざ、殆ど誰もいなかったんですよ。てかむしろ、あの負け犬野郎を除けば皆無に等しかったですね。失礼を承知で申し上げれば、大変驚いたのですが」

「……それは」


「だからこそね、イマイチ分からないんですよ……信二郎が何故、そんなにもご自身のことを卑下(ひげ)なさるのか。そりゃ、お父上のことが重たいのは分かりますよ。だけど、クラスメイトの方々の反応なんか見るに、むしろ信二郎に対しては好意的なご様子じゃないですか」

「…………」


「あたしゃ思うんですがね……信二郎のことを一番誤解なさっているのは、他の誰でもない、ひょっとすると信二郎ご自身なんじゃないですかね?」

「……それこそ、誤解だよ」

「はい? なんですって?」


 悟空が、訳が分からない、といった体で実にとぼけた声を上げる。

 それを聞いた信二郎は苛立ちのあまり、勢いよく振り向き彼女のことをキッと睨んだ。


「だったら逆に聞くけどな! こんなボクが、どうして他人から好かれていいと思うんだよ! 家の事情だけじゃない……人間性だってそうだ。キミだってこの間、ボクのみっともない姿を散々見ただろ!? 今も同じだよ! もしボクみたいなのが、みんなに好かれてるっていうなら……それはきっと、みんながボクに騙されてるんだよ!」

「いや、騙されてる、て……」


 悟空が呆れ顔になる中、信二郎は、今度は自らが俯いてしまう。

 恥ずかしさと、罪悪感とで胸がいっぱいになり、誰の目も直視することが出来なかった。


「……ボクなんか所詮……犬司と何も変わらないよ……」

「――――そんなことない!」


 呟いた瞬間、突然、千手が声を張り上げるようにしてそう言った。


 信二郎は恐る恐る、顔を上げる。

 千手がそれまでにない、決意を秘めた表情をして信二郎を見つめてきていた。

 呆然とする信二郎と、今度こそ真正面から向き合い彼女は告げる。


「そんなことない……わたし……わたし……蓮河くんのいいところ、いっぱい知ってるよ!」


 信二郎は息が止まるかと思った。

 千手は、よく見れば微かに瞳を潤ませてさえいた。

 そんな二人の姿を、悟空は微笑みながら見ている。


 再び、何処からともなくザアッと、生暖かい春の風が吹き付けてきた。風は、信二郎たちの周囲を通り過ぎて山から校舎の方へと、流れるようにして運ばれていく。

 限られたハズの時の流れが、いつしか永久になったかのようであった。

 間もなく昼休みも終わる。


 このままチャイムが鳴らないでほしい。そう思わせるには充分な雰囲気だった。

 だが、そのとき――、




「うわああああああああああああああああああああああッ!?」




 旧校舎裏の静けさを切り裂いたのは、今度は犬司の恐怖に駆られた悲鳴であった。


 信二郎たちがふと我に返ると、いつの間にか金縛りの解けたらしい犬司が、地べたにへたり込みながら、猛烈な勢いでこちらへ向かって後ずさりしてくる。

 その姿を見た悟空は、何とも残念そうな顔になっていた。


「あれ、もう動けるんですか……。もしや術のかけ具合が甘かったですかね?」

「……そんなこと言ってる場合じゃないみたいだぞ、悟空!」


 信二郎たちの眼前に今まさに広がっている光景。

 それは、まるで人気のなかったハズの旧校舎裏を埋め尽くすようにして突如出現した、牛面執事服の怪軍団であった。


 すなわち、ギューマ一族の変態的戦闘員・バトラー兵たち。

 奴らが学校の裏山方面からその姿を現し、学校の敷地内へと侵入してきていたのだ。


 ウシウシウシィィィ~~~~~~ッ!!

 奇っ怪な叫び声を耳にして、即座に千手は青ざめていた。


「こ、この人たちってもしかして、昨日のニュースでやってた……!?」

「信二郎、二人を連れて下がって!」


 悟空に言われるまでもなく、信二郎は咄嗟の判断で動き出していた。

 もう半ば腰が抜けた状態になってしまっている犬司に駆け寄ると、彼の両脇から手を回して強引に悟空の後ろへと引きずって連れてくる。犬司は哀れ、自力では立てなくなってしまっていた。


 すれ違いざま、悟空と目線を交わし合う。

 信二郎からの無言の問いかけに、悟空は首を横に振って答えた。

 流石に二人がいる目の前での戦いは避けたいらしく、リミッターを解除して本気で応戦するには、どうやら彼らをこの場から逃がす必要があるようだった。


 がしかし、信二郎たちの背後には旧校舎が立ちはだかっており、正面と左前方からは同時にバトラー兵たちが押し寄せてきている。退路に使えそうなのは一箇所だけだった。

 なんとかして、敵の隙を見つけねばなるまい。


「…………ッ!?」

 不意に、身構えていた悟空の表情が一変した。

 まるで何か心底嫌なものを見つけたような、そんな雰囲気を(かも)し出している。

 信二郎は、思わず彼女の視線の先を追いかけて、そしてまた自らも絶句することとなった。


 バトラー兵たちに囲まれるようにして、こちらに歩いてくる男。

 その人物は一言で言うならば、西欧の軍人であった。

 それも近代というよりかは、むしろ十九世紀半ばから二十世紀前半ぐらいの印象を受ける、金糸で縁取られた深緑色のフロックコート姿をしている。

 異様にがっしりとした体格で、彫りが深い白人風の、プラチナブロンドヘアを持った男。

 男の頭上には二本の角が生え並び、天に向かってギラギラと輝いていた。


 ニルルティや、牛魔獣などとは明らかに格が違う。

 ひと目でそうと分かる、恐るべきオーラの持ち主であった。

 そんな軍人風の大男は(おもむろ)に両手を広げると、まるで親しい友人を出迎えに来たかのような気軽さで、渋みのある声音を校舎裏いっぱいに響かせるのだった。


「……実に! 実に(ひさ)しいではないか、孫悟空よ!」

「牛魔王……ッ!」


 悟空は彼を見て、露骨なまでに嫌悪感を露わにしていた。

 その瞬間、信二郎の中の警戒レベルも一気にMAXにまで跳ね上がる。


 こいつが、牛魔王だって!?

 ということはつまり、この男が恐るべきギューマ一族の頭領なのか。

 ニルルティを従え、牛魔獣やバトラー兵たちの頂点に君臨するという……。


 牛魔王と呼ばれた男は、しばらく目の前の悟空を眺めて愉快そうな表情を浮かべていたが、やがてその後ろで身構える信二郎の存在に気がつくと、ほほぅ、と不敵とも形容出来るような笑顔でこっちを見てきた。

 何となくだが、信二郎は馬鹿にされているような感じを覚えた。


「話には聞いていたが……なるほど、こうして見ると、実に三蔵法師に生き写しよ。だがそれでも所詮は、まだちっぽけな小僧。このような者にまで頼らざるを得ないとは孫悟空……斉天大聖と呼ばれたオマエにも、いよいよヤキが回ったのではないかな?」


「……親子揃って、似たような安い挑発してんじゃないですよ! むしろアンタら、それしかレパートリーが無いんじゃないですか? この脳みそスポンジ親子!」

「そう、すぐいきり立つ必要もあるまい……久方ぶりの再会なのだ、会話のキャッチボールを楽しもうではないか。なぁ、我が(いと)しの義妹(ぎまい)よ……」

「……ひいいい!」


 悟空がゾゾッとした表情で鳥肌……もとい猿肌を立てていた。

 それを見て牛魔王はハッハッハと鷹揚に笑い声を上げる。

 なんというか、今日は悟空の色々な表情が見られる日だなと信二郎は思った。


「こうして会うのは初めてになるな、人間よ? 改めて名を名乗ろうではないか……我が名は牛魔王ダルマ! ギューマ一族の頭領にして、天状界の現体制に異を唱えし者! 極酪壌土(ごくらくじょうど)の実現を目指し闘い続ける、(かい)(たく)戦士(せんし)たちの盟主である!」


 牛魔王は再び大仰に両手を広げ、低く渋い声で朗々と、信二郎たちに向かって言い放った。

 その中で明らかにいくつか、聞き慣れない単語が混じっていた気がした。

 発音だけなら一度は何処かで聞いたことのある言葉だが、どうも雰囲気から察するに、全く別の意味の言葉であろうと信二郎は直感した。極酪壌土(ごくらくじょうど)はともかく、(かい)(たく)戦士(せんし)って一体、何のことだ……。


「は、反体制組織の首領が前線に出てくるとは、いい度胸してるじゃないですか! 自分らの負けを認めて、いよいよ自首しに来たって訳ですか!?」


「まさか。愛しの我が娘が、同じく愛しの義妹に世話になったと聞いてな……一度、その礼をしなければと思ったまでのことだ」

「……アンタねぇ、さっきから愛しの義妹愛しの義妹って気色悪いんですよ! いい加減に、やめてくれませんか、その呼び方!」


 悟空が心の底からといった具合に抗議するが、牛魔王はそれを聞いても悠々と笑うばかり。


「フハハハッ、()い! 相変わらず実に()い奴よ、孫悟空!」

「……相変わらずムカつく奴ですね、牛魔王……!」


 牛魔王を睨み付ける悟空の表情は、本気の嫌悪感で満ち満ちているようだった。

 以前、牛魔王と義兄妹であったことを恥じているかのような発言をしていた悟空だったが、成程それもそうだろう、と信二郎は思った。反体制がどうこうとかいう以前に、こんな義兄がいたら黒歴史にしたくなるのも必然の感情である。

 信二郎は、悟空に強烈な同情の念が湧いてくるのを感じた。


「フフ……まぁいい、児戯(じぎ)はこのぐらいにして、そろそろ本題に入ろうではないか」


 一方的に悟空のことを愛でるだけ愛でた牛魔王は、これまた一方的にやり取りを打ち切ると今度はやや真剣味のある顔をして、再度悟空を見つめて言った。


「斉天大聖・孫悟空よ……今一度、改心の機会を与えようではないか。この場で再び(かい)拓的(たくてき)精神(せいしん)を取り戻し……我が軍門に下り、共に天状界の現体制に立ち向かうのだ!」

「……どうやら獄中生活が長すぎて、頭のおかしさに磨きがかかっちまったみたいですね! アンタ本気で狂牛病なんじゃないですか?」


 悟空は牛魔王を睨み返すと、吐き捨てるようにそう言った。


「お断りに決まってるでしょーが、考えるまでもなくね! こちとら、お師匠さんに託されたものを一生かけて守り続けるって、心に誓ってるんですよ。今更アンタらにつく道理なんか、何無量大数分の一の確率だって、ありゃしませんよ!」

「ほう……あくまで義兄(あに)に刃向かおうという心づもりか?」

「だから、義兄妹(きょうだい)じゃないっつってんでしょーが! てかそもそも、アンタらに勝ち目なんてあると本気で思ってんですか!?」

「思っているともさ! 我らはこれより人間界の! この街で! 天状界の打破を目的とする、新たな軍隊の創設を目指すのだからな!」


 天を見上げて、これ以上ないというぐらいに堂々たる態度で言い放つ牛魔王ダルマ。

 が、それを聞いた途端、悟空はむしろ「は?」という顔つきになっていた。


「軍隊を作るって……アンタまさか、牛魔獣のことを言ってるんじゃないでしょうね?」

「他に何があるという?」

「……だとしたら尚の事、話にならないですね」


 悟空は言いながら、今度こそ本格的に戦闘に備えた構えを取り始めた。

 未だにセーラー服姿のままではあるが、信二郎と初めて会った時のように、徒手空拳で対処するつもりなのか、そこはかとなく拳法の型を思わせる挙動が垣間見える。

 そうするのは、会話の終了を予期しているからかもしれなかった。


「あの(しつけ)がなってないペット一匹作り出すのに、アンタらがどれだけ手間暇かけてるか、知らないとでも思ってるんですか? しかも、そうやって誕生させた奴らは片っ端から、あたしにやられて木端(こっぱ)微塵(みじん)が精々(せいぜい)です。効率悪いにも程があるんですよ。軍隊? そんなモンが出来るころには、一万年の末法だってとっくの昔に過ぎ去っちまってますよ」


 そのとき、信二郎はしまった、と大変なことに気付かされた。

 考えてみれば、この隙に逃げてしまえば良かったのだ。牛魔王が悟空と会話するのに夢中になっている今のうちに、千手と犬司を連れてそそくさと退散していればよかったのだ。


 その機を失したのは、ひとえに牛魔王の訳の分からない発言に気を取られ過ぎたのが原因に他ならない。それはそうだろう。警戒心MAXでいるところに、愛しの義妹がどうだとか変な発言が連発したら拍子抜けもするというものだ。

 だがこの状況でそれは、信二郎にとって最大級の失策と言ってもよかった。

 クソ、なんてことだ。


「フハハハッ、知らぬが仏とは正にこのことよ!」

「さっきからイチイチ意味深に笑うんじゃないですよ! 何が言いたいんですか!?」


「その答え合わせはまたの機会にしようではないか、悟空よ。出来ることなら、もう少し話をしていたいところだが……生憎とワタシの部下たちは、早く戦いたくてウズウズしている様子でな。兵士たちの士気を下げないのも、指導者たる者の務めということなのだよ」


 牛魔王はスッと片手を上げると、悟空と、その背後にいる信二郎たちのことを指差し静かに命じた。


「――――行け、オマエたち」


 ウシウシウシィィィ~~~~~~ッ!!

 一度聴いたら忘れ得ない奇怪な叫び声を発して、待機していたバトラー兵たちが一斉に飛び掛かってきた。


「――――信二郎、逃げて!」


 言うが早いか、悟空は敵目掛けて突撃していくと、その最前列にいた兵士数体へと蹴り技を浴びせかけ、一撃のもとに彼らを紙くずのように吹き飛ばした。

 リミッター解除をしないままでもこの戦闘力、やはり頼もしい。


 けれども信二郎は知っている。

 その力は強制的に、全力全開時の百分の一にまで抑え込まれているのだ。

 彼女が本気で戦うには信二郎がリミッターを解く以外に方法は無い。

 そしてそのためには、まず千手と犬司をこの場から避難させなくてはならないのだ。


「二人とも、走れるか!?」

「わ、わたしは平気だけど、悟空さんが……!」

「分かってる! だけど今は急ぐんだ! 大丈夫だから!」


 単独でバトラー兵たちとの大立ち回りを繰り広げる悟空を見て、しばし呆気に取られていた千手だったが、次の瞬間には彼女の身を案じてさえいた。

 本当に、彼女は余りにもいい娘だ。だがこの場は、悟空に任せるのが正解なのだ。


 一方、犬司はようやく自力で立てるようになったこともあって、むしろ率先してその場から逃げ出そうとしているように見えた。しかしこれも、ある意味で仕方がない。

 信二郎、千手、そして犬司の三人は連れ立って、全速力で旧校舎裏を走り出した。

 異形の怪人たちの姿がない、唯一の方角を目掛けて急ぎ駆ける。


 ところがその行く手にも、あっという間にバトラー兵たちは立ち塞がった。

 ウシウシウシィィィ~~~~~~ッ!!


「ひいいいいいいいいいいいッ!?」

「……クソ、先回りされた!」


 思わず悪態をつく信二郎。

 その眼前でまたしても、犬司が情けない声を上げてへたり込んでいた。


 牛面執事服の変態集団が、壁を作ってジリジリとこちらに向かって近づいてきている。

 離れて戦っていた悟空もそれに気がつき、慌てて駆けつけようとしたが……。


「……余所見(よそみ)をしている暇などないぞ!」

「うおわぁっ!?」


 牛魔王が突然腰から下げていたサーベルを抜き放ち、悟空に斬りかかる。

 即座に接近に気付いて回避運動を取った悟空だったが、やはり全力時に比べてかなり動きが鈍い。直撃は避けたが、悟空が着ていたセーラー服の一部が斬撃に巻き込まれて切り裂かれてしまった。


「ハハハッ、どうした悟空よ。ワタシが知っているオマエの力は、まだまだ、そんなものではなかったぞ。もっとワタシを楽しませるがいい!」

「……ッ! この変態オヤジが……ッ!」

「称賛と受け取ることにしよう! あらゆる趣味! あらゆる嗜好! そしてあらゆる種族と年齢に対応するのが、指導者たる者の甲斐性というもの!」

「アンタのは甲斐性じゃなくて、節操(せっそう)ナシっていうんですよ!」


 悟空は余裕の調子で言い返しつつも、実際には次第に追い詰められつつあった。

 牛魔王相手にリミッターを解除出来なければ、自分は負ける。

 それだけでなく、信二郎たちを助けに行けなければ二重の意味で戦いに負ける。


 どうすればいい? どうすれば?

 そう思っていたとき、悟空の遥か後方で信二郎が叫び声を上げた。


「……悟空ッ! もう四の五の言ってる場合じゃない、全力を出そう!」

「信二郎!? ですが、しかし……!」

「いくら秘密を守ったって、やられたら元も子もないだろ!」

「……クッ! 仕方ありません!」


 悟空が不本意そうながら同意を示したことで、信二郎は即座にポケットからボールペン大の金色のスティックを取り出すと、それを伸長させカッカライザーとして起動。呆気に取られる千手と犬司に向かって、すぐ目を閉じるよう言うと、一瞬待ってから大声でキーワードを宣言した。


「カッカライジング!!」


 信二郎が手にしたカッカライザーの先端から、瞬く間に灼光が放たれる。

 と同時に明滅を起こす、悟空の額に(はま)った金の()・キンコリミッター。

 辺り一面が強い光に塗り潰される。


 しばらくして眩しさが鳴りを潜めた時、悟空はセーラー服姿から赤地に金の派手めなバトルスーツ姿へと変化を遂げていた。その手には自在棒・ニョイロッドを携えている。

 本来の力を取り戻した悟空は、そのまま凄まじいスピードで跳躍すると信二郎たちの眼前に颯爽(さっそう)と舞い降り、近辺にいたバトラー兵たちを一匹残らず弾き飛ばした。


「ご、悟空さん……!?」

「なァ…………ッ!?」


 千手と、犬司が、自分たちの眼前で起こった出来事に呆然とする。

 悟空はそれにはお構いなしに「行って!」と安全な方向を指差すと、自分は再び牛魔王との戦いに舞い戻った。

 しばし放心状態の二人であったが、カッカライザーを持った信二郎が彼らを正気に返すと、やがて言われた通りに、悟空が作った退路を全速力で再度走り出した。


 ウシウシウシィィィ~~~~~~ッ!!

 しつこい一部のバトラー兵たちは、それでも尚、後ろから追いすがってくる。

 悟空が近くにいれば何の問題もなかったのだが、生憎と彼女は今、牛魔王との戦いに集中を余儀なくされてしまっていた。


 悟空はニョイロッドを振るい、サーベルを持った牛魔王と幾重にも斬り結ぶ。


「フハハハッ、孫悟空! たとえそのように目を血走らせて体制の擁護(ようご)に回ったとて……この世の不合理から目を背けることは不可能と知れ!」


「鼻息荒くして反体制やってるだけのアンタに言われたかないですよ! つーか、あたしの目が真っ赤なのはむしろ太上老君の責任ですから!」


 十代半ばの良い子のみんなには、若干理解の難しそうなハイレベルな罵り合いまで繰り広げつつ、尚も一進一退の攻防を繰り広げる悟空と牛魔王。到底、信二郎たちの救援に来れる状況ではなかった。


「キャッ…………!!」

「牧奈ッ!?」


 そのとき悪いことに、最後尾を走っていた千手が足元に(つまづ)き、勢い余って転んでしまった。

 背後から迫りくるバトラー兵たち。

 信二郎は青ざめ、急ブレーキをかけてその場に立ち止まった。

 片や、前方を行く犬司は、何にも気付くことなくただ必死に全速力で逃亡していく。


 ウシウシウシィィィ~~~~~~ッ!!

 身動きの取れない、千手に接近する危機。

 信二郎は、自分でもよく分からないうちに彼女の眼前に飛び出していた。


「うおああああああああああああッ!!」


 絶叫と共に、ガツンッ! と固いものの叩きつけられる音がする。

 信二郎はその手にしたカッカライザーで、バトラー兵の顔面を思い切り殴りつけていた。

 やられた一体のバトラー兵が地面に倒れ伏し、ピクピクと痙攣(けいれん)を起こす。



「――――――――牧奈に近づくなッ!!」



 その姿を前にして、若干尻込みした後続のバトラー兵たちに向かって、信二郎は無我夢中で怒鳴りつけていた。

 それを見て、鍔迫(つばぜ)り合いを繰り広げていた悟空と牛魔王までもが一瞬、沈黙に包まれる。

 その場の誰もが息を呑むそんな光景だった。


「…………カァ――――――――ッ!!」


 不意に牛魔王がクワッと開けた口の中から、紫色のイナズマが(ほとばし)り悟空に命中した。

 辛うじてニョイロッドで防いだものの、悟空は激しく後退させられ、周囲の地面には無数の着弾が発生する。もうもうと舞い上がる砂煙。


 それが収まった時、牛魔王は残りのバトラー兵たちと共に忽然と姿を消してしまっていた。


 ――――今日のところはこれぐらいにしておこう、孫悟空よ!


 何処からともなく、辺り一帯に響き渡る牛魔王の声。

 悟空は「あの野郎、何処へ逃げた!?」とキョロキョロしていたが、もはや影も形もない。


 ――――だが覚えておくがいい、我々の作戦は確実に進行している!

 ――――間もなくギューマに新たな軍が誕生する! その時を楽しみにしていろ!

 ――――ハァーッハッハッハッハッハッハッハ!


 そうして、いつしか何も聞こえなくなり、旧校舎裏は再び静寂を取り戻した。


「……あのバカ、一体何考えてんですかね」


 悟空は少なからず苛立ちを覚えつつも、とにかくこの場を切り抜けられたことには、ホッと胸を撫で下ろしているようだった。

 本当に久しぶりに牛魔王と戦う羽目になったが、記憶以上の強敵であった。

 次こそは絶対に勝たなければ………と。


 まあ、それはさておき。

 悟空は少し離れた位置にいる、信二郎と千手に目を向けた。


 今やひどく息を切らして、得物を抱えたまま、全身を大きく浮き沈みさせている信二郎。

 彼がふと我に返って振り返ったとき、そこにあったもの。

 それは地面にへたり込んだまま頬を微かに上気させ、彼のことをじっと見上げる牧奈千手の姿であった。


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