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第1話 美しき謎の逃亡者たち

 斉天(せいてん)大聖(たいせい)孫悟空(そんごくう)


 自らそう名乗った金髪赤目の少女。

 そして、ニルルティと呼ばれた銀髪碧眼にして角を生やした少女。

 どうやら彼女たちは、理由は分からないが敵対関係にある様子だった。


 そこかしこに破壊の爪痕が広がり、今や被災現場そのものと化したショッピングモール内をピリピリという緊張感が支配する。信二郎などが下手に身動きすれば、瞬時に炸裂してしまいそうな気配があった。


 と、大穴の穿たれた防火扉の向こう側で、ガタガタという物音が聞こえた。

 見れば、ついさっき孫悟空によって吹っ飛ばされたハズの牛の化け物が、破砕された山のような設備の残骸の中で、立ち上がろうとジタバタもがいていた。

 それを横目に、孫悟空はフフンと不敵な笑みを浮かべてみせた。


「ほらほら、ニルルティ。アンタの可愛いペットが、出してくれって騒いでますよ?」

「う、うぬぬ……おい、大丈夫かッ!?」

 ニルルティが一旦、信二郎の元から離れて牛の化け物のところへ駆けつけて行く。


「さて、今のうち今のうち」

 そう呟くや否や、孫悟空は信二郎目掛けて小走りになってやって来た。

 察するに孫悟空は、ニルルティを信二郎から引き離すべくあんなことを言ったらしかった。どうやら自分を助けてくれる意思があるようで、信二郎はひとまずホッとした。


「来るのが遅くなってしまって申し訳ない。そちらの御仁(ごじん)、お怪我は――」

 すると、どうしたことか。

 途中まで言いかけた孫悟空が、突然、ピタリと足を止めてしまったのだ。


 それどころか、大事そうに握っていたニョイロッドとかいう赤い棒をポロリと取り落とし、挙句に信二郎のことを指差して、さも驚いたかのように目を見開き、口をパクパクとさせ始めたのであった。


 え、急にどうしたの。

 信二郎がそんな率直な疑問を抱いていると、


「あ、あ、あ、ああああァ―――――――――――ッ!?」


 孫悟空が、さっきまでとは別人のように取り乱して叫んでいた。

 それからすぐ、大慌てで足元のニョイロッドを拾い上げると、孫悟空は何度もガレキに足を引っかけてつんのめりそうになりながら、信二郎の元へと駆けつけて来たのだった。


「だだだ、大丈夫ですか!? 怪我とかしてませんか!? ひとりで立てますか!?」

「え、あ、うん。一発殴られはしたけど、それ以外は特に……」

「よ、良かったぁ~~~~…………」


 自称・孫悟空の少女は信二郎に手を貸して助け起こすなり、ホッと胸を撫で下ろす仕草をしてみせていた。

 それでもまだ不充分だったのか、孫悟空は信二郎の全身をペタペタと触って念入りに怪我の有無を確認してから、更に服を軽く叩いて汚れまで落とそうとしてくれていた。


 しばらくして、信二郎からの怪訝な視線に気付いたのか、孫悟空はパッと手を放して取り繕うかのように慌てて言った。


「す、すみません。ちょっと知り合いに似てたものですから、つい……」

「いや、心配してくれたのは嬉しいけど……それより、さっき孫悟空とかって」

 信二郎は湧き上がった疑問をストレートに述べてみた。


 孫悟空は信二郎を見つめ返しながら、事も無げに言った。

「はい。斉天大聖・孫悟空……こちらの世界では他に、(とう)戦勝仏(せんしょうぶつ)とか、(そん)行者(ぎょうじゃ)なんて呼ぶ方もいらっしゃるみたいですがね」

西遊記(さいゆうき)に出てくる、あの有名な孫悟空?」

「その有名な孫悟空です」

「だけどアレって、フィクションだったんじゃ」

「それが実在してたんです」


 信二郎は次第に混乱してきた。こうして眼前にいるとはいえ、すぐには頭が追い付かない。


 そもそも、どうして孫悟空が年頃の少女で、しかも目鼻立ちのハッキリしたブロンドヘアという、何処からどう見ても西洋人にしか思えない容貌(ようぼう)なのだ。

 西遊記ってアジア発祥の物語じゃなかったか?


 止め処なく湧き上がってくる疑問の数々に信二郎は思わず、目の前の少女が(まと)った、赤地に金の装飾があしらわれた派手めのバトルスーツ姿をまじまじと眺めてしまった。何処となく、西洋人の好きそうな勘違いニンジャの衣装に、チャイナ服の(きら)びやかさを掛け合わせたような印象があった。

 これで、孫悟空って。


 信二郎が困惑を深め続けていると、急に一瞬、孫悟空の纏っていたバトルスーツに、まるでデータの改ざんを受けたが如くザザッとノイズが走ったような気がした。

 目の錯覚かと信二郎が思っていると、どうやら悟空本人も気付いていた様子で、


「っと……どうやら余り、時間は残っていないようですね……」

 急に真剣な顔つきに戻り、勢いよくバッとその場に立ちあがる。

 それと同時に、例の穴の開いた防火扉が今度こそ完全に蹴破られ、その奥からハンマーを手にした牛の化け物がまたしても姿を現した。


 信二郎が思わず身をすくめていると、孫悟空が信二郎を(かば)うように前に出た後に言った。

「失礼ですが、アナタのお名前は?」

「え? えっと……(はす)(かわ)信二郎(しんじろう)、だけど……」

「分かりました……信二郎、下がっていてください」

 今や完璧に凛々(りり)しさを取り戻した声でそう言われ、信二郎は素直に従った。


 一方、牛の化け物の背後からは例のニルルティという少女が再び姿を現してきていた。

「おのれ孫悟空……よくも我らをコケにしてくれたな!」

「コケにするぅ? ハッ、冗談言っちゃいけませんよ。アンタらにゃねぇ、そんな価値さえないんですから。もう、弱っちくて弱っちくて」

「なにぃ!?」

折角(せっかく)だから、ハンデをあげますよ。今から一分間、あたしゃ何の抵抗もしません。その間にあたしを倒してみてください。(もっと)も、傷一つでも負わせられりゃ(おん)の字でしょうがねぇ」

「ほざくな、この猿女がッ!」


 色白で、それなりに美しいニルルティの顔が怒りに歪み、青筋が立つ。

 おいおい、こんなに挑発して大丈夫なのか? 信二郎はひどく不安に駆られたが、今さら後の祭りである。とうとうニルルティが、牛の化け物に対し命令を下した。


「行けッ、牛魔(ぎゅうま)(じゅう)ハンマーホルスタイン!」


 ンモォォォォォォォォォォォォウッ!!


 見た目そのまんまな名前で呼ばれた牛の化け物・ハンマーホルスタインが絶叫と共に突っ込んできた。それを見ても悟空は両手を大きく広げ、無防備のまま。


 一瞬の後、コンクリートや鉄筋を粉々に砕いたハンマーホルスタインの殴打が悟空の顔面を直撃した。信二郎は思わず息を呑み、身をすくめる。

 死んだ、と思った。少なくともさっき信二郎を直撃していれば、確実に命を奪われていたであろう一撃だったからだ。

 それでも不思議なことに、孫悟空は身じろぎひとつしていなかった。


 ハンマーホルスタインの振り回すハンマーが二度、三度と繰り返し、繰り返し、悟空の顔や体を殴打する。信二郎はそのガツンガツンという音が恐ろしくて堪らず、次第に歯の根が合わなくなるほど震えて、その場にへたり込んでしまっていた。

 一分というのは、極めて長く感じられた。


 やがて、流石に殴り疲れたのかハンマーホルスタインの動きが止まる。

 濛々(もうもう)たる埃のブラインドが、破れた天窓から降り注ぐ日光で次第に霧散していく。


「ほう、それで?」

「な…………!?」

 果たして視界がクリアになったとき、そこにいたのは傷一つなく、先程までと何ら変わらぬ様子の孫悟空であった。

 余裕丸出しで突っ立っている悟空を見て、流石にニルルティも狼狽した様子だった。


「んじゃ、今度はこっちの番ですね」

 言うが早いか孫悟空は、手にした赤い棒――ニョイロッドをさながら野球のバットかゴルフクラブのような持ち方をしたうえで大きく振りかぶると、ひとことだけこう言い放った。


「――――レッツ、成仏」


 カッキーン!


 フルスイング。からのジャストミート。

 孫悟空よりも遥かに巨体を誇っていたハズのハンマーホルスタインは、気持ちのいい音を立てて打ち上げられ、哀れな絶叫を残しながら、悟空が入ってきたのとは別の天窓をぶち破ってあっという間に空の彼方へと消えていった。


「これが本当の、サヨナラホームランってやつですかね」

 信二郎やニルルティが唖然とする中、悟空は敵が飛んでいった方向を眺めて、そんな呑気なことを言ったりしている。


「お、お、お、憶えていろッ!」

 やがてニルルティは、定番の捨て台詞と共に何処かへと逃げ去ってしまった。


 それから間もなく、悟空の頭に(はま)った金の環が不可思議な明滅を開始し、やがて纏っていたバトルスーツに先程と同様のノイズらしき現象が再発すると、程なくして完全にソレは悟空の全身を覆い尽くしていった。


 ノイズが消えた後に現れたのは、紺色(こんいろ)のセーラー服を纏った金髪ポニテの少女。

 孫悟空を名乗る少女はそれまでの戦闘モードから、古典的女学生のようなセーラー服姿へと変貌を遂げていたのだった。


「ふうっ……なんとかギリギリ、時間内に片付けられました。上の連中も、もうちょっと融通利かせてくれりゃいいものを……あっ」

 セーラー服姿の美少女が慌ててこちらを振り返り、ニッコリと晴れやかな笑顔を見せた。


「お待たせしました。はて、どこまで話しましたっけ?」

 信二郎はそれからしばらくの間、自力で立つことが出来なかった。


*  *  *


 ウォンウォンという物騒なサイレンの音が、そこら中から響き渡ってくる。

 ハンマーホルスタインとか呼ばれていた謎の化け物の襲撃に遭ったショッピングモール周辺には、ここ陀緒須(だおす)市を統括する地元警察のパトカーが一斉に集結してきていた。


 孫悟空に連れられて退避してきた建物の屋上から身を乗り出すと、遠目にも極めて物々しい雰囲気が伝わってくる。

 負傷者が次から次へと運び出されて救急車で搬送されていく光景は、いつだったかテレビで特集が組まれていた前世紀末の地下鉄テロ事件のヘリ映像を、すぐ間近で目にしているような感さえあって、信二郎はとにかく胸が痛む思いだった。


「なるほど、アレがこっちの世界の警察機構ですか」

 一方で、孫悟空はというと信二郎と同じものを眺めながらも、どこかベクトルの違う同情を抱いているらしかった。

「彼らも苦労するでしょうねぇ……こんな非常識な事件、どうやって処理すりゃいいんだか。目撃証言そのままじゃ、まず間違いなく信憑性(しんぴょうせい)を疑われるでしょうし。担当者が(こん)詰めすぎて胃潰瘍(いかいよう)になったりしなきゃいいんですがね」

「……なんか、やけに現実的な心配だな」

「そりゃま、あたしも一応は役人の端くれですからね。事務処理やるのに比べりゃ、現場走り回って敵と戦ってる方が、まだマシってモンですよ」


 などということを、曲がりなりにも外観はセーラー服着た年頃の少女がブツブツ呟くので、極めてシュールな装いがあった。

 一体いま何歳なんだ、この自称・斉天大聖孫悟空は。

 いや、そもそも、そのことからして奇妙な話なのだが。


「なあ、キミがあの『西遊記』に出てくる孫悟空って、ホントなのか?」

「あれ、まだ疑ってらしたんですか」

「いきなり信じろって言われてもね。まぁ、戦ってるのはこの目で見たけどさ」


 信二郎のその言葉を聞いて、孫悟空はやれやれと首を振った。

 そしておもむろに、その美しい金髪を側頭部から一本引っこ抜くと右の人差し指に絡ませ、こう宣言した。


「モンキーマジック・シンガイシン!」


 そのまま指先にフウッと息を吹きかける悟空。

 すると、どうしたことだろう。彼女の指に絡まっていた金髪が粉々になってパラパラ足元に落下したと思いきや、見る見るうちに悟空と同じ顔をした計五匹の手のひらサイズの子ザルと化して、ウキキー! と騒ぎ始めたではないか。


 信二郎が目を丸くしていると、子ザルたちはウキウキ言いながら唐突に組体操を開始した。

 そして、頂上に立った子ザルが胸を張り、両手を広げてドヤ顔をする。

 デデーン! という効果音が聞こえてくるかのようだった。

 信二郎は思わずパチパチと拍手をしそうになった。

 それからすぐ、信二郎は自分で自分の横面を一発思い切り引っ叩いた。


「ちょちょちょ、何やってんです!?」

「あの、いや、何でもないんだ。忘れてくれ」


 危ない危ない。

 子ザル達の余りの可愛さに一瞬、一匹でいいから連れ帰って飼いたいとか思ってしまった。

 この場にハンマーホルスタインがいたら、自分を殴り殺して貰いたい。


 などと考えているうちに、子ザル五匹は煙を残して消失。

 誤魔化すように、ゴホンと信二郎はワザとらしく咳払いをした。


「キミが孫悟空だっていうのは、とりあえず信じることにする。なんで見た目とか他にも色々洋モノっぽいのかはよく知らないけど、ここまで見せつけられたらね」

「それはよかった。まあ、これぐらいだったらお茶の子さいさい、ってやつですよ」

「だけどまだ、分からないことがある」

「はて、何でしょう?」

「さっきも言ったけど『西遊記』って作り話じゃないのか? 実話が元ネタではあるけどさ」


 西遊記(さいゆうき)

 日本人だったら一度ぐらいは名前を聞いたことがあるであろう、有名な昔話だ。

 はるか昔、花果山(かかざん)という霊山にあった石の卵が割れ、無敵の石猿・孫悟空が誕生する。彼は大勢の部下たちと共に、天上界に逆らいあちこちで大暴れを繰り返すが、釈迦(しゃか)如来(にょらい)に敗北したことで山の下敷きとなり呆気なく封印されてしまう。


 それから五百年後、玄奘(げんじょう)三蔵法師(さんぞうほうし)と呼ばれる仏教のお坊さんがお経の巻物を求めて中国から天竺(てんじく)、すなわちインドへと旅をすることになった際、孫悟空は晴れて封印を解かれ三蔵法師のお供となり、行く手に立ち塞がる妖怪変化をバッタバッタと()ぎ倒していく。

 そんな痛快なストーリーが大いに人気を博し、これまで幾度となくそれを題材とした作品が生み出されてきた。中国では『水滸伝(すいこでん)』などとセットで、四大神書などとも呼ばれている。


 そしてこの物語には、モデルが存在する。

 七世紀の初頭、中国が(とう)と呼ばれていた時代に実在した僧侶・玄奘三蔵法師だ。


 彼は、仏教研究にはインドにある原典を知るべきだという考えの元、いわゆるシルクロードを往復十六年もの歳月をかけて行き来した末、唐に大量の経典を持ち帰って翻訳を敢行する。一説には、こうして生まれたのが我々の知る『般若心経(はんにゃしんぎょう)』だという。


 更に彼は、当時の皇帝・太宗(たいそう)の命令により、十六年間の旅で得た情報を詳細な見聞録(けんぶんろく)として編纂(へんさん)するに至る。こうして生まれたのがいわゆる『大唐(だいとう)西域記(さいいきき)』だ。

 同書に記された三蔵法師の西域への旅は後に伝説化し、十三世紀頃までには現在とほぼ同じ内容の『西遊記』が登場、十六世紀頃には呉承(ごしょう)(おん)なる人物の手で完成形になったとされるが、明確な結論は出ていない。


 よって孫悟空というのも今でこそは主役化しているが、史実上では千年近くに渡る伝説化の過程でインドの猿神ハヌマーンあたりがモデルとなって付け足されたと思われる、架空の存在に過ぎないのである。

 それが今、何故か洋モノっぽい美少女の姿で現れ「西遊記は実話だったんです、てへ」などと言ってきている。これは非常に奇妙なことなのだった。


「えーと、どっから説明したものでしょうか」

 信二郎の疑問に、孫悟空はしばらくの間、口元に手を当て考え込んでいた。

「まずですね、こちらで一般に『西遊記』として知られている内容と、そのモデルになったとされる『大唐西域記』の内容では、成立の順序が全くの正反対なんです」

「はい?」

「平たく言ってしまえば『西遊記』の内容こそが史実であり、玄奘三蔵法師が世に発表しようと考えていた本来の旅の出来事なんです」


 目の前の金髪美少女が、急にとんでもない爆弾発言をかましてきた。

 理解が追い付かずに信二郎がポカンとしていると、悟空がゆっくり補足説明を開始した。


「そもそもですね、当時の皇帝は何故『大唐西域記』なんていう報告書を、ワザワザ三蔵法師に書かせようとしたんだと思いますか?」

「え、そりゃ十六年間も外国を旅してきたんだから……」


「ハッキリ言えば、政治利用のためなんです。唐はあの頃、シルクロード方面の国々とも交易やってましたから、三蔵法師が旅してまわった地域の情報が(のど)から手が出るほど欲しかったんですね。実際、三蔵法師は帰国と同時に、皇帝直々に側近のひとりに加わって国政に参加しろって、オファーまで受けてるんです。断りましたけどね」


 見識やネームバリューのある人物を登用し、政権の安定を図った、ということらしい。

 まぁ今でもよくある話なので、そこまで驚きはしない。


「だけど、それがなんで事実を伏せる理由になるんだ?」

「政治利用したがってた人間が、皇帝ひとりじゃ済まなかったからですよ。西遊記に出てくる要素の中で、太上(たいじょう)(ろう)(くん)とか、五行(ごぎょう)思想(しそう)っていうのはご存知です?」

「まあ、かじった程度には」


 太上老君とは一般に、道教(どうきょう)の始祖である老子が神格化された存在と言われている。『西遊記』劇中でも、悟空が散々迷惑をかける天上界の重要人物の一人として、太上老君は幾度も名前が登場する。

 仏典の入手、という目的から見過ごされがちだが、作品としての『西遊記』には仏教と同じぐらい、道教の要素が多分に含まれている。孫悟空自身、道教では斉天大聖という神として、現実に信仰対象になっているぐらいなのだ。


「調べれば分かるんですが、三蔵法師が旅に出ていたころ、唐の都じゃ仏教と道教が勢力争い繰り広げてましてね。ちょっとしたことが火種になり兼ねなかったんですよ。そこへ来てあの内容ですから、もう火に油を注ぐようなモンじゃないですか」


 信二郎は次第に、顔も知らない三蔵法師に強い同情の念が湧いてくるのを感じた。

 どんな状況かは大よそ想像がつく。

 例えば、三蔵法師が旅を成功させられたのは果たして仏教と道教、どちらの加護によるものなのか、なんてことで無関係なハズの連中が勝手に(ののし)り合いを開始するのだ。

 当の三蔵法師の立場からしてみれば、(たま)ったものではないだろう。


「あの人も生来、生真面目(きまじめ)でしたからね……だいぶ思い詰めちゃってたんですよ。元々見識を広めたくって十六年も旅してきたのに、やっと帰って来てみりゃ、自分の体験談を話すだけで(みにく)い勢力争いに拍車をかけちまうってんですから。それで、見ていてあまりに気の毒だと思ったんで、そのうち思い切って、こちらから申し出たんです。いっそのこと、人間界についての事実以外は一切、報告書に書かなくていいですよって。最低限、交易に役立つ情報さえあれば皇帝の要求は満たしたことになるし、得体の知れない妖怪のお供なんざいなくとも、自国民の三蔵法師が個人で成し遂げた偉業ってことにしとけば、皇帝としても体裁(ていさい)がいいでしょって。その結果が、あの『大唐西域記』なんです」


「おいおいおい」

 信二郎はツッコみたくて仕方なかったが、あながち有り得ないとも言いきれないのが(かえ)って困りものだった。


 確かに、三蔵法師が翻訳したとされる『般若心経』にせよ、原典と比較した場合、意図的に訳さなかったと思しき部分がある、という話を聞いたことがある。だがまさか、旅の記録そのものまでもが、当時の世情に配慮して書かれているとは思わなかった。


「『西遊記』の明確な作者は不明って言われているでしょう? 結局アレも、後から各地に残る伝説を集めてったら、自然と原型に近づいたってだけの話なんです。(もっと)も、いつの間にか性別が逆転してたり、ところどころ違ってる部分はありますがね」

「…………なるほど分かった。分かりたくないけど分かった」

 信二郎は眉根を押さえつつも、この場は話を前に進めることにした。


「それじゃ質問を変えるけど、そんな昔の中国で活躍してたハズの孫悟空が、どうしてキミのような見た目してるんだ? 使ってる言葉にしても、全然アジアっぽくないよね」

「そりゃ簡単。あたしは元々この世界ではなく、『天状界(てんじょうかい)』と呼ばれる異世界の住人なんです。あたしだけじゃない。『西遊記』に記述のある仏だ仙人だ妖怪だってのは、基本的にはみんな、異世界から当時あの辺に移住してきて暮らしてた連中ですから」

 押し黙ってしまった信二郎に対し、孫悟空は詳細に説明をしてくれた。


 天状界。

 ここ人間界とは次元の壁を隔てた場所に存在している、神秘の異世界。

 かつてはこちらの世界と頻繁に往来があり、主に交流のあったアジア諸国の伝承においては仏教における『極楽(ごくらく)浄土(じょうど)』ないしは『(てん)上界(じょうかい)』などとして知られている。

 孫悟空をはじめとする住人たちは皆、何かしらの異能力を有し、殆ど魔法と見まがうような高度なテクノロジーさえ保有する。寿命は、人間の尺度で言えばほぼ無限大。そのため彼らの一部は、仏教や道教における神あるいは仏として名高いという。


 また天状界には『()(べつ)』と呼ばれるシステムが存在する。

 人間界で偉大な功績を残したと見做(みな)した人物を死後、天状界の住人として転生させ名誉市民扱いする制度で、釈迦(しゃか)如来(にょらい)や太上老君、取経の旅を終えた後の玄奘三蔵法師などが該当するのだという。孫悟空自身、天竺への旅を終えた後は天状界で改めて職を貰い、一種の警察業務を任されていたのだとかなんとか。


「先程アナタを襲った奴らは、ギューマ一族っていいましてね」

 孫悟空は屋上の手すりから身を乗り出し、階下でまだ慌ただしくしている警察官たちの様子を眺めながら言った。

「ひとことで言ってしまえば、(ぎゅう)魔王(まおう)が率いる反体制の武装勢力です。奴ら、天状界の現体制を引っくり返そうと、昔からあらゆる犯罪に手を染めてましてね。いわゆる火焔山(かえんざん)の戦いで、一族全員取っ捕まえたんですが、先日とうとう脱獄を成功させちゃったんです。ただ昔同様、人間界に潜伏してるって情報はあったんで、こうしてあたしが送り込まれた次第でして」


 牛魔王および火焔山の戦いといえば、西遊記でも屈指の人気エピソードである。

 なるほど、と信二郎はようやく全体像がつかめてきた感触を覚えた。

「孫悟空、さん。キミは……」

「悟空って呼んでいいですよ?」

「……悟空、キミは異世界の警察官みたいなもので、逃げ出した過激派を逮捕するためにもう一度この世界にやって来た、ってことで間違いないんだな?」

「大分遠回りしましたが、つまりはそういうことです」

「……一度、頭を整理してもいいかな」

「どうぞどうぞ」

 快く返事をされたので、信二郎は遠慮なしに屋上の手すりにもたれかかってため息を吐く。


 こんなことが、本当にありうるのか。

 余りにも一度に色々な情報をもたらされたので、頭がついて行かない。

 西遊記の真相に限ってみても、ハッキリ言って相当なキャパオーバーである。

 どうしてこんなことに巻き込まれた、自分。


 …………じーっ。


 そんな擬音が間近で聞こえてきた気がした。

 ふと気が付けば、悟空が体勢を微かにかがめて信二郎の顔を熱心に覗き込んできていた。

「……どうかした?」

「あっ、あのっ、いえっ! その……」

 バッと身を引いて、急速にあたふたし始める悟空。

 そして何故か脈絡(みゃくらく)もなく自身の髪の毛を指先で(いじく)り始めるのだった。え、何?


「その……信二郎って、とっても綺麗(きれい)なお顔立ちをしているなぁ、と」

「そりゃどうも」

「失礼ですが、よく女性の方に間違われません?」

「やめてくれホント気にしてるんだから」


 信二郎は、さっきまでとは全く別の意味でため息が漏れた。

 生まれもっての中性的な顔立ちに加えて、黒い髪の毛をボブカットぐらいの長さで維持しているためか、信二郎は結構な頻度で性別を間違えられる。

 この間など、公衆トイレから出ようとした矢先に小さな男の子と遭遇、相手はすぐ「間違えちゃった」などと言って早急に引き返していった。間違ってないよ、少年……。


 どうにも、こういったものは贅沢(ぜいたく)な悩みと受け取られがちだが、当人にとっては結構重大な問題なのである。生まれという(たぐい)のものは、何故かくも厳しいのだろうか。


 それでも孫悟空は、信二郎の顔をまじまじと見つめてきていて、

「……信二郎、実は折り入ってお願いしたいことがあります」

 信二郎に向かって唐突に、真剣そのものの表情でそう言ってくるのだった。

 一転してそんな真面目な目を向けられたので、「えっ?」と思わず信二郎は居住まいを正してしまう。


 悟空はそれからしばし無言で信二郎とにらめっこしていたが、やがて意を決した様子でこう告げてきた。


「――このあたしの、マスターになって貰えませんか?」


 マスターになる。

 その言葉が、信二郎の脳内で反響しまくった。


「断る」

「実はですね、天状界の規定により――って、ええ!?」

「助けてくれてありがとう。じゃ、ボクは行くから」

「待って待って! まだ何も話してません!」

「マスターになれって言うんだろ? やだよ」

「まだマスターがどんなものかさえ説明してません!」

「どうせロクなものじゃないだろ」

「いいから、最後まで聞いてください! このままだと、あたしゃ戦うことが出来ないんです!」


 孫悟空が余りに必死そうなので、信二郎はつい足を止めてしまった。

 それを見てホッとしたのか、悟空はちょっとだけ落ち着いて話を再開する。


「実を言うと、これと似たような状況が以前にもあったんです。天状界で指名手配されていた罪人がこちらに逃亡してきて、担当の捜査員が送り込まれて……ただ、その時ちょっとばかし問題が発生しましてね」

「問題?」

「ええ。その担当の捜査員ってのが、犯人逮捕に執着するあまり、こっちの世界の常識や規範を思いっきり無視して活動しちゃいましてね。犯人逮捕は成功したんですが、その後こちらの政府と()めて、一種の外交問題みたいになっちゃいまして。それ以外、世界間交流そのものがめっきりと減ってしまうことになったんですよ」


「……さっきの過激派の話もそうだけど、次元の壁を隔ててもやってることって、大して差がないモンなんだね……」

「お恥ずかしい限りです。ともかく、そのことがキッカケで、天状界の捜査員にはリミッターの装着と現地協力員の確保が、原則義務付けられるようになったんです」

「リミッター……?」

「ええ、あたしの場合は頭に装着してある、コレですね」


 そう言って孫悟空は、自分の頭に嵌っている不思議なレリーフの彫られた金の環をコツコツと叩いてみせた。そういえば確かに、彼女がバトルスーツ姿から今のセーラー服姿に変化する直前、この金の環が明滅するのを見た気がする。


「キンコリミッターっていうんですが。これは天状界の住人の能力をある程度抑え込む機能がありまして、こちらで指定した現地協力員の許可がなければ、解除出来ない仕組みになってるんです。つまり人間界の常識の範囲内で、我々の手綱(たづな)を握って貰おうって訳なんです」

「だけどさっき、思いっきり戦ってたじゃないか」

「あれはパトロールというか、哨戒(しょうかい)作業(さぎょう)のために一時的に解除されてただけです。一定時間で天状界へと帰還すること前提の措置で、制限時間がくれば自動的にリミッターがオンになってしまう。さっきの戦いだって、あれ以上に長引いてたら危なかったんですよ?」


 言われてみれば当人も、戦闘直後にギリギリだったと呟いていた。

 一分間無抵抗でいてやる、などと敵を挑発した理由が分からなかったが、なるほど。アレはおそらく、敵を確実に引き付けるためのエサだったのだろう。

 今この場に留まっていることさえ、悟空にとっては想定外の事態に違いない。


「ですからね、あたしは信二郎にマスターになって貰って、この手綱を握っていただきたいとそう思うわけです」

「だが断る」

「何故!?」


 悟空が愕然(がくぜん)とした顔をしていたので、信二郎は気の毒とは思うがハッキリ言ってやることにする。


「元はといえば全部、キミらの世界の不始末じゃないか。過激派の脱獄を許した上に、こんだけ被害を出しておいて、また更にボクらに協力しろって? 大体、キミらのところの組織は何やってたんだ。ボクらにそのツケを回すなよ」

「……面目次第もありません」

「それに、仮に協力員を確保するとしても、ボクである必要がどこにあるんだ?」

「えっ? それは……その……」

「キミと似たような仕事をしてる人間なら、あそこにいくらでもいるだろ。彼らの中から探せばいい。むしろ、ボクなんかよりずっと有能で協力的なハズだからね」

 そう言って信二郎は、遥か下方に見える警察官たちを指差す。


 実際、一介の高校生でしかない信二郎に協力を頼むより、本職である彼らを頼るほうが遥かに有効的であるハズだった。信二郎がワザワザ協力しなくてはいけない理由はない。


「分かったら、そろそろ解放してくれ。ボクは帰りたい」

「……分かりました。長々と引き止めてしまって申し訳なかったです」

 ぺこり、と頭を下げてくるセーラー服姿の孫悟空。

 それを見ていると、自分で責めておいてなんだが、何となく気の毒だと思えてきた。

 信二郎は(きびす)を返して屋上から階下に降りようとしたが、その前に一言だけ、付け加えておくことにした。


「…………さっきは、助けてくれてありがとう。それは本当に感謝してる」

 そのまま信二郎は、振り返りもせず無言で階段を下りて行った。


*  *  *


 信二郎は、うす暗い路地裏をひとり歩きながら、煩悶(はんもん)とする気持ちを抑えられないでいた。


 思わず()ねつけてしまったが、果たしてアレで良かったのだろうか。

 そう思う度、悟空の悲しげな表情が幾度となく脳裏に(よみがえ)ってくるのである。


 いやいや、問題はなかったのだ。軽々しく引き受けたところで、自分に何が出来る?

 こういった選択には慎重であるべきなのだ。


 とはいったものの、やはり拭いきれない違和感があるのもまた事実で。

 何より不可解だったのは、あの孫悟空を名乗る異世界からの少女が、信二郎に対して奇妙なまでの既視感をもたらすことだった。


 分かりやすく言えば、以前どこかで出会ったような気がする。

 勿論、そんな記憶はカケラも無いのだが。

 何だろう、モヤモヤする。


 そんな状態で前を見ず歩いていたものだから、路地裏を出ようとしたその寸前、信二郎は目の前に現れた人影にドスン! と思いっきり衝突してしまった。

「あてっ! す、すみません。前見てな――」


 ウシィ~~~……。


 比喩とかではなく、実際にそうとしか聞こえない声が目の前から発された。

 信二郎は絶句した。

 そこに立っていたのは、黒い執事服(しつじふく)をきた高身長の人物だった。


 執事服については別にいい。

 だが問題は、その頭部がどっからどう見ても牛だったことである。

 何を咀嚼(そしゃく)しているのか知らないが口元をモソモソさせ、短い角を生やした牧歌的ともいえる牛の頭が、執事服を着た男性の胴体にそのまま乗っかっている。

 形容すると堪らなくシュールだった。


 そんなシュールな牛面の執事服が五、六体も、狭い路地裏にひしめくように立っていたのである。


 ウシウシウシィィィ~~~~~~ッ!!


「うわあああああああああああああッ!?」


 信二郎は、それが意味するところに気が付き、咄嗟(とっさ)に飛び退(すさ)った。

 しかし時すでに遅し。ギューマ一族と思しき牛面の執事服たちは、信二郎に向かって一斉に飛び掛かってきた。

 信二郎は再度Uターンすると、ハンマーホルスタインのとき同様全速力で逃げ出した。

 当然、敵も信二郎の後を追って全力疾走してくる。


 怖い。ひたすらに怖い。

 ハンマーホルスタインのときも恐怖はあったが、アレは見るからに化け物だったのに対し、今回の執事服たちは首から下に関しては普通の人間にしか見えない分、一種の変態性が強調されていてある意味余計に怖い。

 捕まったら死ぬよりひどい目に()わされそうな予感がした。


「助けてぇぇぇぇぇぇ誰かぁぁぁぁぁぁッ!!」

 夜道でストーカーに追われる女学生がごとく、掛け値なしの悲鳴を()らす信二郎。


 と、そのとき信二郎の行く手にある物陰から飛び出してくる者があった。

「ああもう、だから言わんこっちゃない!」


 他でもない、セーラー服姿の孫悟空であった。

「ホワッチャー!!」

 アクションスターもかくやな怪鳥音を発して、孫悟空が信二郎の頭上を飛び越え、背後から追ってきていた牛面の執事服たちに飛び蹴りを食らわす。


 路地裏にひしめく変態集団をまとめて()ぎ倒した孫悟空は宙返りして、思わず立ち止まっていた信二郎の間近へと着地してきた。

「ご、悟空……どうして……」

「心配になって、後をつけてきたんです。そしたら案の定ですよ。でも間に合ってよかった」

「う、うん。こいつらって……?」

「ギューマ一族の召使い・バトラーです。こちら流に言えば、戦闘員ってとこでしょうか」

「そうなのか……ありがとう、また助けてくれて……」

「いえ、どうやらまだ終わってないみたいです」

 悟空の言った通り、悪夢はまだ終わりを告げていなかった。


 五、六匹のバトラーを倒したのも束の間、その倍以上の人数が何処からともなく溢れ出してきたからである。

 路地裏の空間は瞬く間に、牛面執事服の変態集団に再度占領されてしまった。


 ウシウシウシィィィ~~~~~~ッ!!

「下がって!」

 悟空に言われるがまま、信二郎は彼女の背後に隠されるような形になる。


 直後、飛び掛かってきたバトラーたち相手に、悟空は徒手(としゅ)空拳(くうけん)の大立ち回りを演じ始めた。

 四方八方から襲い来る(じっ)把一(ぱひと)(から)げの雑魚どもを、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ。

 それはまるで、洗練された百人組手を見ているかのようで。

 信二郎は思わず、その動きの美しさに見惚(みほ)れてしまった。


「ッ! 信二郎、しゃがんで!」

「わっ……!」

 咄嗟に身をかがめた信二郎の頭上を、悟空の華麗な飛び回し蹴りが通過していく。

 と同時に、真後ろでウシィ~! という悲鳴が聞こえた。

 振り返ると、信二郎に掴みかかろうとしたバトラーがひっくり返ってのびていた。

 どうやら間一髪、悟空が気付いて対処したらしい。


 話は変わるが、悟空も外観はあくまでセーラー服の女学生。

 スカート姿で飛び回し蹴りを披露したりするので、一瞬だが、内側の白い聖域が信二郎の目にもバッチリと見えてしまっていた。

 そんな場合でないのは重々承知している。しかし、悲しいかな。信二郎とて思春期男子には違いない。先程の光景は、彼の(まぶた)の裏にしっかりと焼き付いて離れなかった。


 信二郎が自己嫌悪で、次はバトラーに殴り殺されようかと割と本気で思案していると、当の悟空が(ごう)を煮やしたように言った。

「ええい、このままじゃ(らち)明きませんね!」


 そして、言うが早いか突然、信二郎の手をギュッと握り締めたのである。

 これには信二郎も面食らってしまった。

「えっ……!?」

「一旦この場は離れましょう! キリがない!」


 返事も待たずに、悟空は狭い路地裏を全力疾走し始めた。

 信二郎は彼女に手を引かれるがまま、ひたすらにその後を追って同じ速度で走り続ける。

 本来なら有り得ないことだったろうが、まるで魔法でもかかっているかのように、信二郎の身体は悟空のペースに合わせて活動した。路地裏の風景が、ぐんぐんと背中側に流れて消えていく。


 顔に浴びる向かい風が伝えてくる涼しさと、繋いだ手から伝わる温かさが、信二郎の中では奇妙なコントラストを生じさせていた。


*  *  *


「ここら辺まで来れば、ひとまずは大丈夫でしょう。とにかく一旦休みましょうか」

 そう言って悟空は半ば強引に、逃げてきた先にあった小さな小屋へと信二郎を押し込んだ。

 そこはギューマ一族によって襲撃されたショッピングモールからほど近い、とある集合マンションの敷地内に設置された児童公園だった。


 今のところ、目立って人影はない。

 丸太や板を組んだだけで、戸も窓も開きっぱなしの小屋は簡素なつくりだったが、これから夏場に入れば子供や老人には貴重な避暑地(ひしょち)となる。一時休息にはこの上なかった。


「……信二郎、怪我とかしてませんよね」

 狭い小屋の中で真隣に座り込んだ悟空が、まるで両手で包み込むようにして、信二郎の顔を覗いてきた。

 互いの息さえかかりそうな距離。間近に見える赤い瞳に、今にも吸い込まれそうになる。


 信二郎は一瞬、心臓がドキンと跳ねたような気がして、慌てて目線を逸らした。

「べ、別になんともないよ」

「そうですか? ならいいんですが……」


 これはきっとアレだ、いわゆる吊り橋効果とかいうものではないのか。

 恐怖や緊張から感じる鼓動の高鳴りを、異性に対する感情と錯覚するとかいう例の。

 考えてみれば、ここに来るまでに大分走ってきた。その所為で信二郎の鼓動も随分と早まっている。その影響だろう。

 何より信二郎は、こんな出会ってから間もない相手に、簡単にときめきを覚えている自分がひどく許せなかったのだ。そんな軽薄でいいハズがないだろう、と。


「それはそうと信二郎、これでハッキリ分かったでしょう。奴らは一度標的と決めたが最後、地の果てまでも襲ってくる。このままでは非常に危険なんですよ。信二郎のことは、あたしが命に代えても守り抜きます。だから、どうかマスターに」

「やだ!」

「この状況で尚、拒否るんですか!? ちょっと頑固すぎやしませんか……?」


「やだったらやだ! マスターなんて呼ばれるのはまっぴらゴメンだ! 大体何度も言ってるだろ……どうしてボクでなきゃいけないんだよ!?」

「う、そ、それは……」


 この質問になると、やっぱり口ごもり歯切れの悪くなる孫悟空。

 間違いないと信二郎は思った。

 この少女、何か大切なことを隠している。


 一度そう感じると頭の中が急に冷静になってくるもので、目の前の少女と今までに交わしたやり取りを、信二郎は片っ端から思い出していった。

 その中に含まれる情報から、ひとつでも多くの矛盾を(あぶ)り出してやると言わんばかりに。

 そうした末に信二郎は、遂にある事実へと思い至った。


「そうだ……三蔵法師」

「はい?」

「三蔵法師は、いま何処で何してるんだ? 確かキミと一緒に、天状界とかってところに移住して、今でも元気に暮らしてるんだろ? あの人ならこっちの世界出身なんだし、ある程度は常識だってあるハズだ。ボクなんかをマスターにするより、三蔵法師を呼んできて頼んだ方がよっぽど早いんじゃないのか?」


 そう指摘した瞬間、悟空が雷に打たれたような顔をするのが分かった。


 それから見る見るうちに、表情が陰っていく。

 余りにも急激な変化だったので、むしろ信二郎の方が当惑を覚えるぐらいだった。

 とうとう顔まで伏せてしまって、一体どうしたというんだ?


 するとやがて孫悟空が、こちらを見ることなく重々しく口を開いた。

「――りました」

「え?」

「お師匠さん……つまりあたしの以前のマスター・玄奘三蔵法師は……今から半月ほど前に、天状界にて亡くなられました……」

「…………えっ」

 いきなりすぎる展開に、信二郎は自分で(たず)ねておきながら、そんな言葉しか返せなかった。


 亡くなった?

 天状界の住人と化して、事実上無限の寿命を与えられたハズの三蔵法師が?

 信二郎が困惑しきっていると、悟空は絞り出すようにして、ひとつひとつ口にしていった。


「……あまりに突然の出来事でした。ついこの間まで元気に笑いあって、軽口だって叩いてたぐらいなのに……それなのに……急に……」

「……ごめん」

「いえ、知らなかったんですから当然です……天状界でさえ大騒ぎになりましたから……」

「そうだったのか」

「……ええ。その際のゴタゴタに乗じて、ギューマ一族は脱獄したんです。でも、そんなのは言い訳に過ぎません。信二郎の言う通り、天状界の不始末には違いないですから」


 孫悟空の心中は察するに余りあった。

 自身が長年仕え、慕ってきた相手がある日急に死んでしまう。

 それがどれだけ苦しく、寂しいことだっただろう。


 西遊記に描かれていたような大波乱を、本当に幾度となく共に乗り越えてきた仲ならば、その絆は普通よりも遥かにずっと強くて固いものだっただろう。

 それがこんなにも唐突に断ち切られる。

 そして、その悲しみの整理もつかないうちに、かつて共に戦い退治したハズの過激派討伐に再び駆り出されているのだ。


 信二郎は、今度こそ本当に、自分は殴り殺されたほうがいいのではないか、という気がしてきていた。


「悟空、あのさ……」

 信二郎が励ましか、あるいは()びを口にすることを考えた、その時である。


 何処からともなく、絹を裂くような悲鳴が聞こえてきた。

 悟空と信二郎の隠れている公園から、そう遠くない距離のように思えた。

 ふたりは咄嗟に顔を見合わせ、それから慌てて小屋を飛び出し、声のした方に走った。


 並び建つ建物の向こう側から、激しい物音と悲鳴が断続的に轟く。

 建物が途切れる直前で立ち止まった信二郎と悟空は、物陰に隠れながら外の様子を(うかが)って、そして息を呑んだ。


「――早く出てくるがいい、孫悟空ッ! この近くに隠れていることは分かっているのだ!」

 ンモォォォォォォォォォォォォウッ!!

 ウシウシウシィィィ~~~~~~ッ!!


「…………アイツらッ!」


 銀髪碧眼にして角を持つ少女・ニルルティ。

 ハンマーホルスタインと呼ばれる半裸の牛の化け物。

 そして、あの牛面に執事服スタイルの変態的戦闘員・バトラー軍団。

 これまでに現れたギューマ一族がいつの間にか集結を果たし、マンションの棟と棟を隔てる幅の広い車道に溢れ返って、完全に占拠してしまっていた。


 恐るべきは、この一団に取り囲まれる形で老若男女三十人ばかりが人質になっていることである。おそらくは、このマンションの住人たちだろう。遠目にも、ひどく怯えて縮こまっているのが分かる。

 助けなければ命が危ない。そんなのは、小さな子供でさえ分かることだった。


 悟空が咄嗟に振り返り、傍らにいる信二郎に訴えかけるような眼差しを送ってきた。

「…………信二郎!」

「う……あ……」


 どうしよう。

 戦わなければならない。それは言われなくても分かる。

 特に自分がやる必要はない、などと言うことさえ、他に誰もいない今の状況では出来ない。

 この瞬間、この場所には、自分しかいないのだから。


 それでも尚、踏ん切りがつかなかった。

 どうしても最後の一歩を踏み出す勇気が持てなかった。

 怖くて怖くて堪らない。

 本当に、どうしてこんなことに巻き込まれてしまったのだ。

 そうして信二郎が(うつむ)いて黙りこくっていると、それを答えと受け取ったのか、悟空がどこか寂しげな表情をしながらもゆっくりと言ってきた。


「……分かりました、無理ばかり言ってすみません」

「悟空……ボクは……」

「いいんですよ。信二郎が悪いんじゃありません……」

 そう言うと悟空は、信二郎の髪にクシャリと手を乗せて、優しげに()でてきた。


 信二郎の胸の奥が、ギュッと締め付けられるようになる。

 不思議と、嫌ではなかったが、同時にこんな風にされている自分が不甲斐(ふがい)なくもあった。

 そうして信二郎を慰めていた悟空は、最後にこう言ってきた。


「ねえ信二郎……あたしがどうして、信二郎をマスターにしようと思ったか分かりますか?」

「え……?」

 呆けたように前を向いた信二郎の顔に、そっと触れながら悟空は言う。


「生き写しなんです、信二郎とお師匠さんは……まるで生き返ったのかと思うほどに」

「…………!!」

「さっき、初めて会ったときから、運命だと感じていました……けど、それがそもそも間違いの元だったんです」


 言うなり、悟空は信二郎の顔から手を放してくるりと背を向ける。

 まるで、大切だった人への未練を振り切るかのように。


「身勝手な話ですよね……一方的に期待したりして。信二郎は、信二郎でしかない……お師匠さんとは、まったく別の人間なのに。あたしのワガママが、信二郎をこんなところまで連れて来てしまったんです」

「悟空……」

「どうか、あたしのことは忘れてください。信二郎は、信二郎の人生を歩むべきです」

 言い終えた直後、悟空は信二郎の返事も待たずに飛び出していった。


 車道の真ん中に(おど)り出た悟空は、この世に顕現(けんげん)した悪夢の軍団にビッと指を突き付け、堂々と宣戦布告する。

「やいこらギューマぁっ!」

「……孫悟空ッ! そんなところに隠れていたのか!」

「お望み通り、出てきてやりましたよ! 無関係な人たちを解放するんですね!」


「自分が命令できる立場だと思っているのか? そういえば、あの三蔵法師そっくりの小僧が見当たらないなぁ……さしずめ、死んだ元・主人の面影(おもかげ)を頼ったはいいが、撥ねつけられたといったところか? かの斉天大聖もヤキが回ったものよな!」

「ハッ、笑わせんじゃないですよ!」

 それでも尚、悟空は自信満々にニルルティ相手に啖呵(たんか)を切っていた。


「アンタらの相手なんざ、あたし一人で充分ってだけの話です! どっからでもかかってくるがいいですよ、この反芻(はんすう)だけが取り柄のゲロまみれ集団!」

「大口を叩いていられるのも今のうちだ! やってしまえ、お前たちッ!」


 ウシウシウシィィィ~~~~~~ッ!!

 ニルルティの号令によって、何十体ものバトラーが一斉に悟空に飛び掛かってくる。

 それによって再び始まる、徒手空拳の組手地獄。

 現在の悟空は、セーラー服を身に纏っただけの非戦闘モード。

 とはいえ路地裏のとき同様、十把一絡げの雑魚程度では何体束になろうと、苦戦するようなことはあり得ない。そのハズだったのだが。


 ンモォォォォォォォォォォォォウッ!!

「うぐっ……!」


 味方のバトラーをも蹴散らし突撃してきたハンマーホルスタインの一撃によって、とうとう悟空が吹っ飛ばされ、固いアスファルトの上に鈍い音を立てて転がった。

 これには、信二郎のみならず、人質と化していたマンションの住人たちもが息を呑んだ。


 ある意味では当然であった。

 あれだけ超人的な能力を繰り返し見せつけられたとはいえ、外見は一介の女子高生。

 少なくとも、何も知らない人々からすれば、非力な少女が一方的に痛めつけられているようにしか見えないだろう。そして、そんな状況を作り出すのに信二郎も、ある意味では加担してしまっているのだ。


 罪悪感で信二郎の胸がうずく。しかし、出て行こうとするとやはり足がすくんで動かない。

 なんて情けないんだ自分は、と信二郎は思った。

 その上、更にニルルティは追い打ちを掛けるように、恐ろしいことを口にしていた。


「フフフッ、どうした猿女。今度も、しばらくは無抵抗でいてくれるのか?」

「……ええそうですとも。言ったでしょう、アンタらなんざ弱っちくて弱っちくて」

「強がりも大概(たいがい)にするがいい!」

 ニルルティが(あざけ)るように悟空を()めつけて言った。


「私が気付いてないとでも思っているのか? 貴様はいま! 頭に装着したそのリミッターの影響で! 通常の一パーセントの力しか発揮できていないハズだ!」

「……ッ!」

「弱っちいのは、果たしてどっちだろうなぁ? その身体に教えてやるッ!」


 一瞬、聞き間違いではないかと思った。

 だが確かにニルルティは言った、今の悟空が一パーセントの力しか出せていないと。

 一パーセントということは、百分の一。

 そんなもの、人間の感覚でいったら実質的に、ゼロと同じだ。

 おそらくはああしてただ身動きすることでさえ、相当な消耗のハズ。

 そんな状態で戦っているというのか。


「…………なんでだよ」

 信二郎は、気が付けば声を漏らしていた。

 知らず知らずのうちに物陰からフラフラ歩み出して、敵の視界の真っ只中に現れて。

 でも、そんなことは今、まったく気にならなかった。

 信二郎は目の前で戦う少女の健気な背中に、思わず言葉を浴びせる。


「なんで…………そんな状況で戦おうなんて思えるんだよ!? 絶対に負けるって、やる前から分かり切ってるのに!」

「し、信二郎……」

「ハハァ、そこに隠れていたか! バトラー!」


 ウシウシウシィィィ~~~~~~ッ!!

 バトラーたちが、膝をついた悟空をスルーして信二郎目掛けて殺到してくる。

 思わず身をすくめてしまう信二郎だったが、そこへ悟空が立ち上がるなりすっ飛んできた。

 跳躍して空中から執事服の変態どもを蹴り散らし、敵と信二郎の間に立ちはだかる。


「信二郎には指一本、触れさせやしません……!」

「ご、悟空……なんで……」

「……いいですか信二郎、よく聞いてください。あたしはね、こう思うんです……」

 悟空はこちらを振り返らない。

 ただ一直線に敵を見据えながら、背中越しに信二郎に語り掛けてくる。


「今そこにある問題から目を背けたって……現実が変わる訳じゃない。現実ってやつは、それこそどこまでも、どこまでも、ストーカーみたく追っかけてくるんです。逃げられやしない。だったらもう、乗り越えようと努力をする以外にないじゃないですか」

「…………ッ」

「それがきっと! 生きるってことですからね!」


 話し終えるなり、悟空はまたしても敵の渦中に飛び込んでいく。

 バトラーに(なぶ)られ、ハンマーホルスタインに打ち据えられ、ニルルティに(わら)われる。

 こんな勝ち目のない状況にたった一人で。

 これが、生きるということ?

 やはり分からない。

 信二郎には、それが本当なのかどうかは分からなかったが、だが……。


「――――う、うわああああああッ!」

 信二郎は絶叫を響かせ、がむしゃらに走り出す。

 理由は上手く説明できない。気が付いたときには、体が勝手に動いていた。

 目の前では今しも、動きの鈍った悟空にハンマーホルスタインの得物が振り下ろされようとしているところだった。そこへ、頭の中が真っ白になりながらも突っ込む。


 まさに間一髪。

 グシャッという音がしてアスファルトが陥没(かんぼつ)したが、その寸前に信二郎はセーラー服姿の悟空を抱えたまま少し離れた地面を転がっていた。

 息が荒かった。全身がガクガクと震え続けている。

 そんな信二郎の様子を見て、助け出された当の悟空はひどく驚いた顔をしていた。


「信二郎、アナタ……」

「…………ボクも、一緒に戦うよ」

 そう告げて、信二郎は必死の思いでその場に立ちあがる。

 身体の震えは一向に消える気配がなかったが、それでも言うべきことは分かっていた。

「どこまで、何をやれるか分からないけど……それでも……」


「……充分ですよ、信二郎」

 そう言って、後を追うように立ち上がった悟空が、ギュッと信二郎の手を握ってくる。


 温かかった。

 もういっそ感激して泣き出してしまいそうなほどに、温かった。


「今は、その気持ちがあれば充分です……。力を合わせて、コイツらをやっつけましょう」

「…………ああ!」

 悟空の向けてくる、赤く()んだ瞳を見つめ返し、信二郎はしっかりと頷く。

 やってやる。こうなったら、やるしかないんだ。


「それでは、コレを」

 悟空が即座にセーラー服の内側から取り出して、見せてきたもの。


 それは金色をした、ボールペンぐらいの大きさがある不思議なスティックだった。

 何やら、ファンタジーに出てくる魔法使いの杖のようにも思える。

 悟空はまず、それをキンコリミッター――自身の頭の金の環に触れさせてから、続いて信二郎の手の中にそっと渡してきた。


 するとどうだろう。驚くべきことに、金色のスティックは光を放ちながら急激に伸長していき、やがて光が収まると、電子回路にも似たメカニカルなディティールのある、一本の豪奢(ごうしゃ)な金の(しゃく)(じょう)へと生まれ変わっていた。


「かつてお師匠さんが使っていた制御装置――カッカライザーです。使い方は杖自身が教えてくれるハズ……いけますか?」

「……ああ、バッチリだ!」


 信二郎の背丈よりも長いその金色の錫杖は、触れたそばから、信二郎の脳内へと情報を流し込んできていた。悟空にかけられているリミッターを解除する手順も、一切合(いっさいがっ)(さい)が非言語的なプロセスで伝わってくる。今すぐにでも使いこなせそうだった。


 その頃、周囲を取り巻くギューマ一族はようやく行動を再開しようとしていた。

 どうやら、急に信二郎が戦場の真っ只中に突っ込んできたので、丸腰に見えるとはいえ警戒していたらしい。だが、それも杞憂(きゆう)と分かり勢いを回復させたようだった。


「ええい、怯むな! やれ、やってしまえッ!」

 ニルルティに命じられるまま、バトラーたちとハンマーホルスタインが一斉に襲い掛かってくる。

 そんな敵たちから庇うように、悟空が信二郎の眼前に進み出た。


 と同時に信二郎は、カッカライザーと呼ばれる錫杖を景気づけも兼ねて大きく振りまわした後、長い柄の先端を足元の地面に突き立て、それから目を閉じた。

 意識の全てを錫杖の操作に集中させる。

 悟空の全パワーを解放するキーワード。今が、それを唱える時だった。


「――――カッカライジング!!」


 錫杖の先端に備わったいくつもの金属の環がフッと浮かび上がり、たちまち灼光を発した。

 それから間もなく、呼応するかのように悟空の頭に嵌った金の環が明滅を始める。

 悟空の間近に迫っていたバトラーたちが、その光にやられて一瞬立ち止まった。

 激しい光に塗り潰され、誰も目を開けていられない。


 直後、何処からともなく出現した真っ赤な棒が凄まじい速度で一閃し、身動きできなくなっていたバトラーを一人残らず撥ね飛ばした。


「――――レッツ、成仏」


 光の中から出現し、居並ぶギューマ一族にそう告げたのは、今しがた振るった棒を軽々と肩に担ぎながら、ニヤリと得意げな笑みを浮かべる金髪赤目の美少女。

 身体の稜線(りょうせん)()をクッキリと浮かび上がらせる赤と金の薄いバトルスーツを身に纏い、才色と知勇、その全てを兼ね備えて立つ万能の(いくさ)乙女(おとめ)


 斉天大聖・孫悟空。

 その能力の全てが、今ここに復活していた。


「悟空ッ!」

「グッジョブですよ、信二郎」

 そう言って悟空は信二郎のほうを振り返り、親指と人差し指でマルを作ってみせる。

 信二郎は未だかつて、こんなにも安心感のある光景を目にしたことはなかった、と思った。


 一方、ニルルティは心底腹を立てた様子で、

「うぬぬぬ……おのれ小癪(こしゃく)な猿女。あのまま大人しく、くたばっていれば良かったものを!」

生憎(あいにく)でしたねぇ! あたしゃ知っての通り、頑丈なのが取り()なんですよ。たとえ薄手の服を着ていたところで、モーモー鳴いてるだけの牛女なんかにゃ――っと、失礼」


「……なに?」

「あ、いえ……ねぇ。いくらギューマ一族の娘だからって、それほどボリュームの貧相な方を牛呼ばわりするのは、流石にどうかなぁと思いまして。ほら、あたしのでさえ人並みにある訳でしょ? 当て付けになっちゃいますからねぇ」

「………………」

「この場を借りて、謝罪申し上げまーす」



「――――貴ッッッッッッッッッッッッッッ様ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」



 あれ、気のせいかな。

 なんだかニルルティの怒り具合が今までと段違いのような。

 確かに、悟空のソレと見比べてもニルルティのはなんというかこう、アレだけれども。

 気のせいだよな。

 気のせいということにしておこう。


「さーてと、気持ちよくサゲがついたところで、そろそろ終わりにしましょうかね」

 ニルルティをからかい溜飲(りゅういん)が下がったのか、悟空はケラケラ笑っていた。

 それからすぐ、彼女は側頭部から金髪を一本引き抜くと、指に絡ませ宣言する。


「モンキーマジック・シンガイシン!」


 屋上のとき同様、フウッと指先に息を吹きかける悟空。

 またしても分身の子ザルを生み出すのか、と信二郎が思っていると、悟空はその指を敵軍団に突き付け、不敵に笑いながら言った。


「――チビよ、()け!」

 次の瞬間、悟空の指先から一斉に、無数の子ザルがブワァッと溢れ出すようにして出現すると、その全てが恐るべき勢いで敵目掛けて突撃を開始していった。


 信二郎は絶句した。その数が、屋上で見たときの比でなかったからだ。

 ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、とても数えきれない。

 多分だが、全部で五百匹ぐらいいる。屋上で見たのが五匹だから、その百倍。

 能力値が一パーセントから百パーセントに戻ったというのは、どうやらハッタリでも何でもないらしかった。


 推定総勢五百匹の子ザルたちは、途中で五匹から六匹の小集団に分裂すると、それぞれ各自が手近なバトラーへと群がっていく。そして彼らは噛みついたり引っかいたり、殴ったり目玉を突いたりと、心底やりたい放題に暴れまくっていた。

 ウシィ~~~! ウシィ~~~! ウシウシィ~~~! 

 哀れっぽい悲鳴を上げながら、大勢いたバトラーはたちまち地面に倒れていった。

 やがて人質になっていたマンションの住人たちも包囲網から解放され、手の空いた子ザルの誘導によって危険のないところへと避難していく。


「あ……あ……あ……!?」

 あれよあれよという間の展開に、ニルルティが呆然としてしまっていた。

 車道を埋め尽くしていたハズのバトラーは、もはや一匹残らず倒れて消え失せていた。

 役目を終えた子ザルたちも、次々と煙になって消えていく。

 こうして戦場に残されたニルルティの味方は、ハンマーホルスタインただ一体となった。


「こ、こんな……こんな馬鹿なことがッ!」

「目の前の現実を受け入れることですね! もう間もなくアンタもお縄ですよ?」

「……ッ! 後は任せたぞ、ハンマーホルスタイン!」

 ンモォォォォォォォォォォォォウッ!!

 踵を返し、脱兎(だっと)の如く駆け出したニルルティを支援するかのように、ハンマーホルスタインがその柄の長いハンマーを振りかざしながら、悟空目掛けて突撃してくる。


 それを見た悟空はやれやれ、とため息を吐くと、手にした赤い棒――ニョイロッドの表面を手でツウッとなぞりながら一声こう叫んだ。


「――――ニョイロッド・ライトブレード!!」


 途端に、バチバチという物凄い炸裂音(さくれつおん)が断続的に響き渡った。

 悟空が手にしたニョイロッドは、いつの間にか中央部の狭い範囲を除いて、その柄の両端が青く光り輝く灼熱の刃と化していた。それを体の周囲でビュンビュン振り回してから、悟空はハンマーホルスタイン目掛けて自らも走り出していく。


 悟空が振るう光刃と、ハンマーホルスタインのハンマーとが激しく交叉(こうさ)した。

 体格差を(かんが)みれば圧倒的であるハズのハンマーホルスタインの一撃は、しかし悟空のしなやかな(たい)(さば)きによって殆ど意味を為していなかった。

 両者がすれ違う刹那(せつな)、バシュッ! という鋭い音が何処からともなく響き渡った。


 やがて訪れる一瞬の静寂(せいじゃく)

 直後、ハンマーホルスタインは手にした得物ごと、縦方向に真っ二つになっていた。

 絶叫を上げながら牛の化け物はアスファルトの上に倒れ伏し、遂に大爆発。

しばらくすると、跡形もなく消え去っていた。


「…………フゥ~ッ」

「悟空、大丈夫か!?」

 爆発の勢いが収まったのを見計らい、信二郎は悟空の元へと駆けつける。

 光刃の消失したニョイロッドを軽く振るったのち肩に担いだ悟空は、信二郎の方を振り向きそしてニッコリと笑った。


「あたしなら大丈夫ですよ。それよか、ニルルティの奴に逃げられちゃいましたねぇ」

 悟空の言う通り、あの(わず)かの間にニルルティの姿は影も形もなくなっていた。

「……アイツ、また襲ってくるのかな」

「おそらくはそうでしょうね。奴ら、ホント諦め悪いですから」

「そっか……あのさ、悟空」

 信二郎は、改めて悟空のことを見つめると、心から頭を下げて自分の不甲斐なさを詫びた。


「決断が遅くなって、ごめん……これからよろしく頼む」

「いえいえそんな、こちらこそ。むしろ決断してくれて感謝してるんですから」

 悟空が慌てて信二郎を促し、顔を上げさせる。

 その赤い瞳は、心から目の前の少年の門出を祝福しているかのようだった。


不束者(ふつつかもの)ですが、よろしくお願いします。色々と苦労もあるでしょうが、これから可能な限りサポートさせて頂きますので。一緒に頑張っていきましょうね」

「……ああ、そうだね」

「さて、今はひとまず、人質だった方々の無事を確認しましょうか」

「うん」

 悟空に促されて、信二郎はマンションの住人たちが避難していった方角を振り向いた。


 丁度その時である。

 遠くの方から、信二郎たちに手を振り近づいてくる数名の人影があった。

 どうやら先ほど避難していった人々の一部が、決着に気付いて戻ってきたようである。


 しかし、心なしか、どこかで見覚えのある顔が複数名、混じっているような。

 まさか。


「――若様、やっぱり若様だったんですね!」

「…………うわ」

 自分に向けられた不気味なぐらい晴れやかな笑顔の正体に気が付いて、信二郎は、心の中が急速に冷え切っていくのを感じた。


 おそらくは人生で最大級の決断をし、戦いを終え、少なからず全身を包み込んでいたハズの高揚感(こうようかん)のようなものが雲散霧消(うんさんむしょう)し、たちまち現実へと引き戻される。

 信二郎は露骨に顔をしかめて目を背ける。

 だが当人たちはそれにも気づかぬまま、あっという間に信二郎を取り囲み、まるで小学生の子供の如きテンションで、ワイワイとはしゃぐ様子を見せてきていた。


「若様、若様、ありがとうございます!」

「お陰で助かりました! いやあ、やっぱり素晴らしいなぁ若様は!」

「いつ戻られたのですか? 今日は本部にはいらっしゃるのですか!?」

「ああ、いや、まあ……その……」

 信二郎が対応に苦慮(くりょ)して、遂に大きなため息をついていると、隣では悟空がキョトンとした表情をしてこちらを見てきていた。


「……信二郎、この方たちは一体?」

「コイツらは……その……」

 信二郎は思わず言いよどんだ。何と説明すればいい?

 しかし先んじて彼らに見つかってしまった以上、程なく知られてしまうだろう。


 信二郎の元に親しげに集まってきた数名の人々。

 彼らは実は、全員がある特別な集団に属しているという共通項があった。

 すなわち、宗教法人・ゲンドー会。


 他でもない、信二郎の父親が教祖を務める新興(しんこう)宗教(しゅうきょう)団体(だんたい)

 その信者たちであった。


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