序 石猿参上す
一体何が起こっているのか、まるで分らなかった。
蓮河信二郎は、その記憶が正しければ、今の今まで大きなショッピングモールのエントランス部にいたはずだった。
タウンモール・ダオス。昔からよく慣れ親しんだガラス張りの、三階まで吹き抜けになっている広々とした入り口部分。そのハズだった。
しかし今、信二郎の周りに見えるのはガレキの山だった。
力任せに叩き壊された円柱やタイル、果てには階段の残骸などがそこらに散在し無残な光景を形作っている。辺り一面にはコンクリート片と思わしき灰色の粉塵が舞っていた。
何故、こんなことに?
答えは明白だった。いま信二郎の眼前に立ちはだかる、巨大な怪物の仕業だ。
その怪物は、ひとことで表現すれば、牛だった。
いわゆるホルスタインによく似た見た目をしていた。白を基調としたでっぷりした身体のそこかしこに黒いブチ模様があしらわれているまでは良いのだが、どういう理由か、それが直立二足歩行をやらかしていた。下半身には、古代ギリシャを思わせる鎧を纏っているが、上半身は裸で、合計四つの乳房がその動きに合わせて大きく揺れ動いていた。
それでも、気恥ずかしいなんて感情は微塵も湧いてはこない。
そのすぐ上に見える紛れもない牛の頭部が、その両眼をギラつかせ、口からはよだれをボタボタと垂らしながら、踏み砕いた足元のタイルを止め処なく汚していたからだ。
身長は推定二メートル弱。
そんな見るからにソレと分かる凶悪な化け物が、トゲのついた大きなハンマーを抱えて信二郎ににじり寄ってきていたのだ。
信二郎は恐怖のあまり腰を抜かし、ドッとその場にへたり込んでしまっていた。
傍から見れば十人中八、九人が賛同するであろう生来の端正な顔立ちも、パクパクと観賞魚の如く口を開け閉めしている所為で、すっかり台無しとなっていた。
ともあれ、こんな状況に陥れば誰もがそうなって当然であろう。
現に信二郎の背後では、老若男女を問わず、誰も彼もが予想だにしなかった異常事態に悲鳴を上げつつ右往左往していた。皆自分が逃げるのに必死になる余り、信二郎の存在に気付いている者は皆無であった。
ンモォォォォォォォォォォォォウッ!!
牛の姿をした化け物が、見た目にたがわぬ野太い雄たけびを上げた。
「来るな……来るな……来るなよぉッ!」
信二郎は外聞も構わずみっともない叫び声を上げると、やっとの思いで立ち上がり、よたよたとおぼつかない足取りをしながらその場から逃げ始めた。
直後、すぐ後ろで牛の化け物が長大なハンマーを振り回し、少し前まで信二郎がいた付近の建材を粉々にして吹っ飛ばした。高く舞い上がっては降り注ぐコンクリや鉄の破片の洗礼を受けながら、信二郎のみならずエントランスにまだ残っていた人々が一斉に逃げ惑う。
阿鼻叫喚。
地獄絵図。
そんな言葉がぴったりの状況だった。
信二郎は、後ろも振り返らずただ一目散に走った。
あの得体の知れない牛の化け物から、少しでも距離を取ろうと死に物狂いで。
ところがそんな努力も、たちまち水泡に帰すこととなった。
頭を使う余裕さえなく、ほの暗いショッピングモール内をただ無我夢中で駆け抜けるうち、信二郎は不覚にも袋小路に逃げ込んでしまったのだ。
自分がしばらく来ない間に、建物内が一部改装されていたらしい。
押しても引いてもビクともしない、分厚い防火扉に繰り返し拳を叩きつけながら、信二郎は虚しい絶叫を繰り返した。誰か開けてくれ、と。
それでも誰一人として、応える者はなかった。
信二郎の必死の息遣いが、狭い空間にこだまする。
どうして? どうしてボクがこんな目に?
その疑問に答えたのは先程も耳にした猛牛の如き雄たけびだった。
信二郎の全身から冷や汗が噴き出る。
振り返ると、信二郎から十メートルもない位置に、例の二足歩行する牛の化け物が立ちはだかってジリジリとこちらへ向かってきていた。
退路は完全に塞がれている。
信二郎の頭の中が今度こそ完璧に真っ白になったように思えた。
と、そのとき、化け物の背後からススッと小さな人影が進み出てきた。
小さな、といってもそれは化け物と比較しての話で、実際には信二郎と同じぐらいの背丈があったように思える。
それは、銀髪碧眼の少女だった。
フレームが下半分しかない眼鏡をかけて、理知的な、ともすれば冷ややかとも取れる笑みを浮かべながらこちらを見てきている。その全身はゆったりとした紫色のローブに包まれ、半透明の水晶玉をほっそりとした指の中に携えるその姿は、さながらファンタジー世界に出てくる有能な占い師のようでもあった。
だがしかし、少女には他の何物をも凌ぐ最大の特徴が備わっていた。
角だ。
少女を彩る長い銀髪のその奥から、まるで悪魔の如き二本の角が生え伸び、顔の正面目掛けてギラリとその鋭い切っ先を向けてきているのである。
その特徴はあたかも、少女がすぐ目の前の牛の化け物の同族ですよ、と宣言してきているかのようであった。
いや実際、そうなのだろう。それが証拠に、少女は牛の化け物と横並びになって音もなく歩きながら、信二郎に向かってこのように告げてきた。
「恐れる必要はありません……」
聴く者の胸の奥に染み入ってくるような、透明感のある、しかしハッキリとした声だった。
「さあ、早く楽になりましょう。苦しみに別れを告げるのです」
その声を聴いていると、信二郎は不思議と恐怖が和らいでいく気がした。
気が付けば、牛の化け物が目の前にいた。
そのヒヅメで思い切り横面を殴りつけられる。
信二郎の身体が紙切れの様に吹っ飛んで、固いコンクリートの壁に激突した。
糸の切れた人形が如く、信二郎はズルズルと壁に背をもたれて崩れ落ちた。
角を生やした少女がキャハハッと笑い声を上げる。
ああ、これで御終いなんだ、とうっすら信二郎は思った。自分の命は今この瞬間、絶たれる。多分あっという間だろう。痛みは感じるのかな。もしも、苦しむ間もなく一瞬であの世に行けるのなら、いっそ抵抗しない方が良かったかもな、などと考えたりした。
いや、もう止めよう、悩むのは。
仁王立ちする牛の化け物が、柄の長いハンマーを大きく振りかぶった。
その動きが、やけにスローモーションに信二郎には感じられた。
化け物の背後に、天井から光が差し込んでいた。このショッピングモールは、エントランスに限らずあちこちが三階部分まで吹き抜けになっている。光は、天窓のガラス部分から降り注ぐものだった。馬鹿馬鹿しい話かもしれないが、信二郎にはそれが、間もなく命を落とす自分への、天からの手向けのように思われた。
猛烈な速度で、化け物の振り下ろすハンマーが迫ってくる。
フッと、天から差し込む光が途絶えた気がした。
ガッシャァァァァァァァン!!
「なに!?」
角を生やした少女が顔色を変え、バッと背後を振り返る。
信二郎に迫る凶器は、直撃寸前で止まっていた。牛の化け物も、少女につられて音のした方を振り返る。
ガラスの天窓をぶち破って、“何か”が建物内へと落下してきたようだった。
今はまだ、もうもうと舞い上がる埃に紛れて、その正体は判別できない。
が、信二郎は化け物越しにしっかりと見てしまっていた。
ソレは赤いシルエットだったが、間違いなく人の形をしていた。誰かが、天窓を突き破ってショッピングモール内に落ちてきたのだ。
一体何が起きているのか。目の前の化け物ともども、信二郎には理解が追い付かなかった。
ただひとつ分かったのは、信二郎が死に損ねたらしいということぐらいである。
「――伸びよ、ニョイロッド」
確かにそう呟くのが聞こえた。
次の瞬間、建物内に充満する埃の壁の向こう側から、棒状の何かが目にも止まらぬ速さで突き出して来て、信二郎の目の前に立っていた牛の化け物を直撃した。
棒状の何かは、伸びて、伸びて、どこまでも伸びて、あの分厚い防火扉にまでいとも簡単に穴を穿つと、化け物の巨体を通路の遥か彼方まで吹っ飛ばして瞬時に元へと戻った。
「は、ハンマーホルスタインッ!」
角を生やした少女は、一転して狼狽した様子を見せ始める。
信二郎が、一部始終をポカンとしながら見守っていると、やがて埃の壁を掻き分け、今しがた牛の化け物を排除したと思しき張本人が、つかつかとこちらに近づいてくるのが分かった。
それは、またしても美しい少女の姿をしていた。
ただし、眼前の角を生やした少女とは対照的に、金髪セミロングで赤い目をしていた。額の周囲には不思議なレリーフが彫られた金色の環を嵌めており、後頭部からはシュッとした印象のポニーテールが伸びて、歩調に合わせてゆらゆらと揺れていた。
更にその手には、身長と同じかそれ以上の長さを持つ真っ赤な棒を握っている。
見間違いでなければ、多分その棒が伸縮して化け物を吹っ飛ばしたのだろう。
だが、一体どうやって?
信二郎が訳も分からず見守っていると、赤目の少女は立ち止まり、角を生やした少女に向かって得物を突き付け悠々と言い放った。
「ようやく見つけましたよ、ニルルティ。アンタたちギューマの悪事もこれまでです」
「お、おのれ……やはり貴様か……」
「ご明察」
ニルルティと呼ばれた、角の生えた少女が悔しげに歯噛みするのを見て、赤目の少女は先程ぶち破ってきた天窓目掛けてサッと人差し指を突き上げると、こう宣言した。
「天に轟くモンキーマジック! 斉天大聖・孫悟空……ここに参上ッ!!」
埃の壁を引き裂いて天より降り注いだ光が、後光の如く少女を明るく照らし出す。
何故だろう。信二郎にはそれが、どこかとても懐かしい光景のように感じられた。