初候 葭始生 *あしはじめてしょうず*
第十六候 穀雨 初候
葭始生 *あじはじめてしょうず*
Approx. 4/20-4/24
「豊葦原の瑞穂の国」(豊かに葭の生い茂った、みずみずしい稲穂が実っている国)と呼ばれるほど、水辺のいたる所に葭が生えていた日本。
葉や茎は長くて丈夫。
しかも軽い。
故に、屋根葺きや垣根、すだれや紙、そして楽器にまで使われて来たとのこと。
古代人は、その若芽を食用にまでしていたみだいで、葭芽とか葭角と言う愛称で慣れ親しまれてきたそう。
綺麗な響きの名前。
和語の響は本当に素敵。心洗われる。
葭は強い植物なのね。
強いって良いよね、すっごく清々しい。
繊細な儚い美が日本では好まれるけれど、力強い美もありだと思う。
心の安定が得られると思う。
たったの3日前に、自分の人生においても大きな出来事があったなんて夢みたい。
逃げずに頑張って来た自分は、遂に学業をやり切った!
私の頑張りが認められた。
正直、I could do better, I could do more, と言う気持ちは残ってる。
仕事との両立で、私は間違いなく仕事に重きを置いて来たから、その分勉強は宙ぶらりんになった感は否めない。
論文は英語で読んでも、それの倍くらい日本語の本を読んでたしね、結局は。
でも、勉強は一生涯。
学問に終わりはない。
“学无止境”だから、ここで学位を頂いた後も、更に自分を磨くために勉強はし続けてく。
死ぬまで何がしかの学びの場には所属し続けるつもり。
私は生粋の日本人女性だけれど、大和撫子と言うような儚さの漂う表現は全く適合しなくて、芯の強い葭の方がずっとしっくり来る気がする。
でも、芯が強いのとデリカシーが無いってのは全くの別物。
人の心の機微に繊細な自分でありたいと強く思う。
そのためには、いっぱい傷ついて色んな事経験して乗り越えて、自らの身をもって経験してくしかないよね。
本を読んで疑似体験は出来ても、実際の経験に敵うものはないからね。
今週も寛容性、もしくは傲慢と言う概念についてで苦しんだ。
世の中には色んな人がいる。
アメリカなんて、日本のように抑圧される文化じゃない分、本能に素直な人が多い。
相手の視点に立つと言う心が著しく欠如した人もいる訳で。
自分の事だけ。自分の事でいっぱいいっぱい。
だから、何を言ってあげても聞く耳持たない。
人の話を素直に聞けないから、何も向上しない。
自分の弱さを見つめられない、結局は芯が弱い・自信がないって事の裏返しなんだけどね。
そういう人に対して、私はどう振る舞いたいのか。
ここ数週間、私はすっごく厳しく接した。
その方が、相手にとって良い事だって思ったってのもあるし、ただ単に我慢が限界を迎えたってのもある。
内心でイラッてしながら、それでもおだててヘラヘラしてる方がずっと楽なのは間違いない。
でも、それって最大に不誠実な振る舞いでもあると思う。
まして、私の責任は人を育てることにある訳だし。
自分の弱さから目を背けて他人に甘えて、何でもかんでも相手のせいにする。
自分が落ち込んでいるのも、人のせいにする。
いつ成長するの?
そんな人をどう育てるか。
自分だって大した人間でもないのに叱らなきゃいけないこの矛盾。
だから、常にすっごく疲れる。
精神的に消耗する。
割り切れたら楽なんだけど、アメリカ人のようにそれも上手にできない。
気にしちゃう。
疲れる。
でも、そこから逃げたら私も彼らと変わんない。
そして、グチグチ言ってても何も変わらない。
故にこそ、何がしかtake an actionすべきなんだよね。
葭は強い。
私も強い。
強くありたい。
人の心の繊細な襞に敏感でありつつも、
揺るぎない強さを秘めていたい。
故にこそ、何にだって使ってもらえる自分でいられる。
屋根葺きでも簾でも楽器でも、何でも。
これまでだって、葭のように強い自分でいられたからこそ
色んな職業に挑戦して、色んな学問にも挑戦して、色んなextracurricular activitiesにも参加して来た。
それって現実から目を背けずに、何か行動を起こしてきたからだよね。
その度に転んで強くなってきたからだよね。
今してる事って、過去の努力の積み重ねの上に成り立ってるんじゃんね。
だったら、更なる飛躍のためにも頑張んなきゃじゃんね。
ここで学ばなきゃ、この先も同じ問題で悩み続ける。
年だけ取ってね。
そんな勿体ない経験の仕方ってない。
学べ、学べ学べ自分。
一生涯、学び続けるんだ、自分。
今この一瞬から、最大限のものを抽出して掴み取って、そして吸収しろ。
すくすく育て、天まで育て、自分。