求血セレナーデ
彼らは、闇に紛れて這い寄る。
彼らは、血を求めて這い寄る。
人々は、彼らを恐れる。
彼らの名は、吸血鬼。
不夜城と化した街で、人々は日が昇るまで杯を交わし合う。酔いつぶれて、路地で寝込む者もいれば、諍いに発展して、憲兵に連れ去られる者もいる。そんな、いつの時代にも、どこの国にもあるような、光景。
その酒は、人を狂わせる。視界は歪み、判断能力は落ち、喧騒も耳に入らなくなってくる。そうして、恐れるべき、忌避すべきような噂話に、“勇敢”にも立ち向かおうとする。
――吸血鬼が出た。
そんな話がこの街で広がり始めたのは、二週間程前だった。壁一面に肉片が飛び散る程の虐殺死体。辛うじて頭の半分のみが残っており、そこに彫られたタトゥーで、ここらでは有名なチンピラである事が解った。
彼は、顔面に禍々しいタトゥーを入れていた。凶悪な彼の人格に相まって、それを見たら最後、殺されるか有り金全てを持っていかれるか、と言われていた凶悪なチンピラ。
その彼が、変死体で見つかった。
話しによると、彼は近くにいた浮浪者に因縁をつけて、路地裏に連れ込んだらしい。それを見た一般市民が憲兵に連絡をし、憲兵が駆け付けたところ、彼は、その禍々しいタトゥー以外の全てを失っていた。
命も。身体も。そして、血も。
壁一面に肉片が飛び散る程の損傷にも関わらず、現場に残された血は極少量。現場には、怯えた、否、発狂した浮浪者が独り。
吸血鬼、吸血鬼。そう叫ぶ他はしなかったという。
「だいたい、どこもこんな話ばっかだなー」
喧騒にあふれる酒場で、フードを目深に被りながら、酒の入った容器を両手で持ち、ストローを使ってチビチビと飲む女。誰と会話をするでもなく、静かに、少しずつ酒を飲んでいる。同じカウンター席に座っている他の客達と違い、店主と話す訳でもなく、ただ一人で黙々と、モグモグと料理を口にする。
金属製のガントレットに長靴、腰に下げられた剣から、一般人ではない事が伺える。街中、おまけに夜の酒場でもフードを被っている事から、訳ありの流れ者のようだ。フードの淵から、幼い顔が見え隠れしているが、幼いのは顔つきだけで、目つきは少し疲れたような、怪しい雰囲気である。煌めく銀髪を後頭部で結び、それを前に垂らしている。
チューッ、と酒を吸っていると、いきなり背中を何かで強打される。その衝撃で、酒が零れて彼女の服が汚れる。
「……」
苛立たしげに、当たったものが何かを見ると泥酔した他の客だった。どうやら、口論の末に殴り合いを始めたようだが、両者ともに泥酔。ただお互いを押し合うばかりだった。だが、それを屈強な男達にやられると、それだけでも充分な被害になる。被害その一、テーブルが幾つか。被害その二、彼女の服。
やれやれ、と囃したてる他の客達。誰一人として、酒を被る羽目になった彼女に見向きもしない。彼女は、ひどく面白くなさ気だ。
「ねぇー、店主さんー」
「お嬢ちゃん、後で良いかな? 今コイツ等を鎮めないと」
「じゃ、あたしがしずめたらさ、お代チャラにしてくれる?」
「上等だよ、お嬢ちゃん。こらー! テメー等ーッ!いい加減に!」
叫んだ店主の鼻の前に、投げつけられた瓶がかすめる。店主は顔を青くしながら厄介な騒ぎになる事を理解し、他の店員に憲兵を呼んで来るよう言う。
「その必要はないよ」
彼女が立ち上がる。まったく、どうして酒を楽しく飲む事が出来ないのだろうか。まったく、これだから“人間”は。
ガシッ、と腕を掴まれて、彼女はたたらを踏む。何事かと思うと、すぐ隣に座っていた、やけに育ちの良さそうな男が、自分の手首を掴んでいた。童顔な彼は、まだ酒を飲めるような年には見えない。
「なに?」
「君、まさかあの二人を止めに行く気?」
「そうだよ? いけない?」
「止めた方が良い。あのアレスですら手を出さなかった、滅法喧嘩には強い連中だよ」
アレス、それはあの死んだタトゥー男の名前だったな、と彼女は思いだす。思いだしたが、それがどうした、というのが正直なところだった。そのアレスという男が暴れているところを見た事はないが、所詮それは“人間”という括りにすぎない。現に、彼らも、確かに喧嘩慣れはしているようだが、彼女には恐れるに足りない。所詮、喧嘩に慣れているだけだ。大人と子供の暴力の値が違う様に、彼女と彼らでは、明確な差がある。
「大丈夫―。まー、見てなさい」
ふわっと手を払っただけで、彼女は彼の拘束から逃れると、男達に歩み寄る。
ガッ!と、片方の首を、白い、細い手で掴んで、その屈強な身体を持ちあげる。
「ハァイ、お兄さん達?」
そして、もう片方の首も掴み、文字通り、持ちあげる。彼らの体重なんて誰も知らないが、どう見ても二人とも、一般的な成人男性よりも重い。軽く見積もっても八十キロは下らないだろう。それが、細い彼女に首を掴まれて、足が地についていない。
誰しもが、呆然と、その力に見入る。まるでバンザイをするように、彼女は二人の大男を片手ずつで持ちあげていた。
「あんまり騒がれるとさー、迷惑なんだ。だから……」
ゴッ!自らの頭上で二人の頭部で互いを穿つ。そのままもう一回、鈍い音をさせると、二人を、優に五メートル以上投げ、店の外に放り出す。
「外でやってよ?」
酒が入っていたのもあるだろうが、二人の男はそれで意識を断った。たった数秒の出来事。
ドォッ!と酒場が沸く。歓声が轟く。目の前の、現実を飛び越した現状なんてどうでも良い。とにかく、二人の大男を制した小さな彼女。酒場にいた男達はそれだけで、盛り上がる。
「なんだ、なんだ、姉ちゃん!」
「凄ぇなぁ、今のどうやったんだ!?」
「良いもん見せて貰ったぜ!」
「力技だろ!?」
「バッカ! あんのか細い腕のどこにんな力があんだよ!? 魔術かなんかだろ!?」
男達が強者に羨望の眼差しを送る。だが、彼女はそれを一切気にする事なく、チューッ、とストローで酒を飲む。しきりに酒がかかった部分を気にしている。
「君、凄いんだね」
隣に座っていた男が笑いかける。彼女はフードのふちから少しそちらを見たが、退屈そうに、つまみのハムを口に放り込む。こうやって“怪力”を発揮した後は、決まって持て囃される。そんなのは飽き飽きしていた。
「いったい、君みたいに可愛らしい子が、どうやったらあんな……」
「……可愛らしい?」
彼女は眉をしかめる。大袈裟ぐらいに、気持ちが悪そうだ。
「誰に向かって言ってるの? 可愛いって言葉に失礼だよ、謝んなよ」
「ごめんなさい」
「ぶっ」
本当に謝る奴がいるか、と彼女は吹き出す。
「あんた、変わってるね」
「そうなの?」
「あたしの“力”見た奴は、持て囃しはするけど、どうも距離を置きがちだからね。巻き込まれるのを嫌がって。無警戒に話しかけては来ても、こんな隣には座らないよ」
「君が、意味も無く暴力を振る人には見えないよ」
意味も無く暴力を振る人には見えない。その言葉の滑稽さに、彼女は再び噴き出す。
「アハハ、あんた、面白いね。あたしはレム・ノクターン。あんたは?」
「僕はヴィルム・フォン・バイルシュタイン。ヴィルって仲間内じゃ呼ばれてるんだ」
「ヴィルは、よくこの酒屋には来るの?」
「たまにかな。結構、あっちこっちの酒屋に行くよ。例えば、二本先のとこにある……」
普段、用があって立ち寄った街で誰かと親しくなる事はあまりない。にもかかわらず、今ヴィルと話しているのは、彼が、あまりにも無警戒すぎたから。少し、普通の人間と、違う臭いを感じたから。
だから、きっとこうやって無警戒になれたのかもしれない。
何かを思う事も無く、自然に杯を交わせる相手が欲しいと、どこかで思っていたのかもしれない。だから、飲む量が増えるのは、仕方がない気がする。きっと、自然な事だ。
そう、こうやって、今二人で宿に居る事も、自然な事だ。
レムは翌日の夜も酒場に居た。ただし、昨日とは違う酒場だ。“情報”を集めて、この街を早く離れないといけない。長居してはならない。そう学んだのはいつだったか。
ああ、そうだった。
目の前に現れたヴィルを見て、思い出す。いつの間にか、長い事生きていたせいで忘れてしまっていた。
昨日みたいに、誰かと過ごした時だった。
「こんばんは、レム」
「こんばんは。昨日教えてくれた酒場にはいかないの?」
「なんか、どっか行けって言わんばかりの言い方だね」
「そう?」
思い上がりではないだろうが、ヴィルは自分の事を気に入ってしまったようだ。これは、ますます長居出来ない。好意をもたれると、執着される事が多々ある。正体がバレるのはなるべく避けたい。ただ、この酒場の料理はおいしいから、しばらくはまだ堪能しよう。うん。
レムは今日もストローで酒をチューチュー吸いながら飲んでいた。だが、大きなその器の中には、火を放り込めば燃えてしまうような強い火酒が入っている。見た目に反して可愛らしくない酒だ、とヴィルが笑う。確かに、両手で抱えてストローで飲むような酒ではない。
「レムは何をしている人なの?」
レムの隣に腰掛けながら、ヴィルが尋ねる。何をしている人、か。少し笑えて来る。自嘲気味な笑顔を浮かべて両の手をヒラヒラさせる。
「旅をしてるの。長い長い、終わりなんて長い旅」
「そうなの? 目的もなく?」
「ヴィルは、目的を持って生きているの?」
「え。まぁ……」
「目的って?」
「誰かの役に立つ事が目的、かな? 悩みを聞いてあげたり、解決する手助けとか」
ヴィルは少し悩んだ後、嘘偽りの無い本音を語る。そうやって生きて行きたいと、ずっと思っていた。
「その目的の為に、必死で生きてる? 誰かに殺されそうになった時、その目的のために、必死で抗える?」
「うーん、死ぬのは嫌だけど、今言った目的のために必死にはならない……と思うなー」
「ならヴィル、それは目的じゃない。ヴィル、あんたの人生は生きる事が目的なんだよ。死んででもいいからこれだけは、って訳でもないなら、それは生きる目的じゃないよ。
別にあたしはそれが悪い事だと言ってる訳じゃないよ。人間って、大体そうでしょ? ただ、そんなもんなんだよね。あたしも、旅をする事が目的。ただフラフラフラフラと、当てもなく、目的もなく、ただ彷徨うだけ。それが私の生き方、生きる目的」
「……レムは、どこかに居座ろうとは思わないの?」
「思った事はあるけど、あたしには無理」
「どうして?」
ヴィルが、やや前のめりになって尋ねる。何を必死になっているのやら、とレムは小さな溜息をつく。彼の両の頬に手を添えて、ズイッと顔を近づける。接触してしまいそうな至近距離。そこで、妖しげに、艶めかしく口を開く。
「――吸血鬼だから」
それを聞いた彼は、唖然としていた。視界に映る犬歯に目が奪われる。吸血鬼、血を吸う人ならざる者。悪魔の使いとも言われる彼ら。目の前の、可憐な少女にしか見えない彼女が、吸血鬼?
沈黙。
「アッハッハ! 何真に受けてるの!? ここ笑うとこでしょ!?」
レムが笑い出す。ヴィルはやや困り顔をする。
「そりゃ……驚くよ。今この街は吸血鬼が出たって騒いでるんだから」
「だからこそ。あたしがアレスみたいな筋肉だるまさんの首筋に噛みつくと思う? 彼の事、見た事ないけど」
「確かにアレスは筋肉だるまだったな」
思い出すと、笑えて来る。確かにアレスは筋肉だるまと呼ぶにふさわしいくらいだった。
二人は楽しく言葉を交わすと、晩酌を続けた。
酒を飲んで、良い気分でヴィルは帰路についた。暗い空とは打って変った明るい街並み。人の活気にあふれたこの街は、そこらかしこに明りが燈っていて、とても明るい。
ヴィルは路地裏に入っていく。ここを通る方が、彼の家までのショートカットになるからだ。
光があれば、影ができる。暗い路地は、不気味以外のなんでもないが、ヴィルには慣れた景色。
慣れた景色と、高揚感。それが、ヴィルの警戒心を機能させなかったのだろう。
彼は、気付かない。すぐ目の前にある、人影に。ふと手を伸ばせば届くような距離になって、ようやくその人影の存在に気付く。細い路地だが、すれ違えない程じゃないな、と判断し、さっとその脇を通り抜け。
浮遊感。衝撃。激痛。
「……ッ!?」
何が起きたのか、理解できない。とにかく今は苦しいだけだった。痛覚の限界値を超えて、身体の感覚がなくなっている。今、自分の身体がどうなっているのかも、理解できないでいた。それでも、投げられたと気付いたのは、自分が空を見ている事に、気付いてからだった。
立ち上がろうとするが、身体がうまい事動かない。そのまま再び崩れ落ちる。
一体誰が、と顔を地面につけながらも上を向くと、先程すれ違おうとした人影が立っていた。
ゆっくりと、“彼”が近づいてくる。男なのか、女なのか。それすらも理解できない。自分が投げられた理由も解らない。
“彼”の口が裂けるように開く。三日月のようにツィッ、と口の端を釣り上げた、邪悪な笑い。だが、ヴィルの目は、その中に釘つけになっていた。
異常なまでに、太く、長い犬歯。いや、それはもはや牙だ。まるで、肉食動物のような牙。
巷の噂が脳裏を過る。
「……なるほ、ど……。……き、みが……」
――吸血鬼か。
その言葉に弾けるように、“彼”はヴィルに飛びかかる。
僕は死ぬんだろう。アレスみたいに、バラバラの肉片にされて。
抗う力も残されていないと、抗う気も起きないものか、と苦笑してしまう。ふと、別れ際に、彼女が言った事を思い出す。
『死にそうになったら、誰かに助けを呼ぶんだよ。今のこの街は、物騒だからね』
「……レム」
空白。無音。浮遊感。
不気味なくらい、静かだった。死とは、こんなにも静かなものなのだろうか。
「アハハ」
笑い声が聞こえた。この二日で耳に馴染んだ声。少し淡々としている、不思議な彼女の声。気付くと、ヴィルはレムに抱きかかえられていた。
「誰かに助けを呼べって言ったのに。あたしの名前呼ぶ?」
彼女はひどく楽しそうに笑っていた。月を背にしたレムは、凄く美しかった。ヴィルはそれだけ思うと、意識を手放した。
ガクッと力尽きたヴィルをそっと路地の脇に置く。獲物を横取りされた“彼”は随分と憤っているようで、レムを血眼で睨む。
「はいはい、睨まない、睨まない」
レムはそんなのもお構いなしに、ヴィルの胸に手をかざすと、祝詞を唱える。聞きかじりの治癒魔術。そんなものでも、ないよりかは幾分かマシだろう。彼の顔から、険しさが抜けたのを確認すると、“彼”に向き直る。
「“生前”の名前はアルフレッド・ヘットフィールツ。“享年”26歳。彷徨った年月は大体20年だったかな?」
“彼”は聞き覚えある自分のステータスに、少し驚いたようだ。その口が、小さく開く。
『……俺の、名前、知ってる、のか?』
「知性に劣化が見受けられるね。“生前”もまぁ、まともな人間じゃなかったみたいだけど」
レムは冷静にアルフレッドの状態を見てとる。そして、クスクスと笑う。
「どう? 吸血鬼になった感想は? 随分生前は強くありたいと願ってたみたいだけど」
『……最高、だ』
最高、その言葉には、僅かな歓喜の色が滲む。
『こんなに素晴らしい生命体が他にあるか? どれだけ傷を負っても朽ちる事なく、闇夜で人間を狩る。それだけで、いいんだからな』
「吸血衝動という欠点があるでしょ? 血を吸わなければ、大した力も発揮出来やしない」
『人間の食欲と、そう変わらない。俺は、強く、強くなったんだ!!』
「なーるーほーど?」
レムは顎に手を当て結論をまとめた。そして、それを目の前の吸血鬼に告げる。
「知能の劣化に対して、そこだけはやけにスムーズに出て来たね。つまり、それはあんたが長年考えた“言い訳”だってことだよ」
『なに?』
アルフレッドが、怒気の籠った視線を送る。人間ならば、それだけで動けなくなるような、強烈な殺気。
「吸血衝動っていうのは、性欲としかそう変わらないのさ。強迫観念に近いかな。依存性も高い。一度血を吸った吸血鬼は、二度と血を吸わずにはいられない。まるで足元が崩れ去っていくような、恐怖に襲われるんだ。だけど、吸血鬼が生きて行く上で必要なのは生気。殺す、食べる、人間と交わる、そして吸血ってだけ。あんたは、その内の吸血しか手段をとっていない。そのうえで、死体をバラバラにして弄んでいる。
何故? あんたは吸血衝動を抑えられないから。何故わざわざ街を移動する? それは、あんたが誰かに狩られるのを恐れているから。
それをあんたは理論武装して、さも自分は強いって思いこんでいるに」
ドガッ! アルフレッドの拳が地面に突き刺さる。大した威力だと、レムは称賛を心の中で送る。だが、無駄が多い。一歩退いただけで、余裕で避けられるような一撃。
『知ったような口を!』
「知ってるんだよ、これが」
アルフレッドのハンマーを振り回すような攻撃をしかける。左右からブンブン、と不吉な風切音が鳴るそれらを、レムは軽々避ける。その一撃、一撃が、当たればレンガだって粉砕する程の威力を秘めているにも関わらず、レムは、口笛を吹き始めるのでは、と思える程に余裕だ。
アルフレッドが振り切った時に、レムは右の拳を、軽く当てる。軽やかなその仕草一つで、アルフレッドは優に十メートルは吹き飛ぶ。
「あんた、ちょっとやりすぎなんだ。人の血を吸うなとは言わないから、せめて綺麗に証拠隠滅くらいしてよ。……あ、魔術、使えないよね、あんたは」
『なん、なんだ、お前はァァッ!?』
激昂したアルフレッドが、レムに突っ込む。右の拳を握りしめて、渾身の一撃を見舞ってやろうと、狙う。
「あたし?」
対して、レムは右手をかざす。そして、祝詞を紡ぐ。
「ギガ・グラヴィティ」
ズンッ、とアルフレッドの周りの空間が歪む。空間が、アルフレッドに重くのしかかる。まるで背中に山でも背負っているのでは、という重圧。それは、徐々に徐々に、そして確実に、重さを増していき、レムに届くか届かないか、という距離で、地面に倒れ込む。
身体が持ち上がらない。指一つ動かせない。身体が地面に吸いついてしまったような感覚。否、地面に身体が引き寄せられている?
『オグ、オオ、オォォオォォッッ!?』
身体が潰れて行く。まるでハンマーで殴られたような感覚が、永遠に続いている。身体が、地面にめり込んで行く。潰れて、消える。
「あたしは、もう四百年くらいは生きたかなー?」
呻く事しか出来ないアルフレッドの目の前に、レムがしゃがみ込む。その顔は、やっぱり表情に乏しくて。
「あたしも、吸血鬼なんだ。……バイバイ、新参者?」
アルフレッドは、塵すらも押しつぶされて消え去って行った。強化重力の結界は、すべてを押し潰し、そこにはもう何も残っていなかった。否、一つだけ、レムの魔術に耐えて残ったもの。丸い球体の形をしたそれは、黒く禍々しい、宝石のようにも見える。中で、模様がうねうねと形を変えている。
“核”と呼ばれる、魔力、生命力の源。神や精霊、魔物や悪魔といった、術的生命体の心臓とも言える物体。
「うわー、汚っ。……まぁ、こんなでもないよりマシかな?」
掌サイズのそれを持ちあげると、口に運ぶ。
「食べるの!? それ!?」
と、ヴィルが声を上げる。どうやら目を覚ましたようだった。レムはそちらを振り向く。
「食べるよ。あたしは血を吸わないから、こーゆー連中殺して、“核”を食べるのが、生命力を集めるには一番効率的なんだ」
「……でかすぎない?」
「喉に詰まるとかそういう物じゃないから」
言うと、そのままそれをペロリと飲み込んでしまう。
「うん! 不味い!」
「不味いんだ!?」
「不味いよー。心、みたいなものだからね……。ああやって歪んだ奴のは本当に不味い。神様でも殺しに行こうかな。きっと美味しい……、いや、返り討ちか……」
「……レム」
「うん?」
独りで馬鹿な事を考えついたレムに、ヴィルが声をかける。
「君は、本当に?」
ヴィルの瞳に映る色を見て、レムは嘆息する。ああ、またか。吸血鬼という正体は、決して人が歓迎するものではない。忌避すべき存在。レムはそんな目を、何度も見てきた。
「うん、あたしは吸血鬼。協会からも追われてる、ちょっとばかり有名な吸血鬼。人類の害悪だよ」
ヴィルの顔が伏せられる。後悔に満ちたその表情を、レムは胸に刻み込む。人と吸血鬼は、相容れる存在ではないのだ。
「……隠してたの?」
「聞かれなかったし、あたし吸血鬼ですって言って、誰も信じるわけないし」
沈黙。ヴィルは何かを言い淀んでいるようだ。レムは、その言葉を待つ。やがて、ヴィルの口が開く。よわよわしく、言い辛そうに。
「……レム、僕も、君に隠していた事があるんだ」
「そう」
「僕は」
「王子!」
どこからともなく声がしたかと思うと、鎧を身にまとった強面の騎士と、神官らしき女性が駆け寄ってくる。その後ろに、十数名の騎士が控えている。レムはフードを被り直す。
「王子様だったんだ?」
「……うん、騙すつもりは……」
「お互い様でしょ」
レムはその場から立ち去ろうと踵を返す。一国の王子ともなれば、確かに不味い。自分は、自分たちは昨日一晩ともにいたのだ。
「待て、貴様っ!」
凛っ、と鈴を転がしたような透き通る女性の声。レムは足を止めて一瞥するが、またそのまま歩きだす。
「待てと言っている! 王子が怪我をしている。貴様の仕業か!?」
「待って、アイシャ。彼女は」
「あたしはヴィルを助けただけ。ついでに用事をすませたの」
「……用事、だと?」
強面の騎士が反応する。レムが行使した魔力の残滓はまだこの場に残っている。ここで戦闘があった事は一目瞭然だろう。
「貴様、ここでどのような用事を済ませた。王子の前で、戦闘をしたというのか」
神官とは打って変わった低い声。レムはため息をつくと、祝詞を紡ぐ。面倒な事態になった。
「メガ・グラヴィティ」
ズンッ、と空間が騎士たちに襲いかかる。鎧を身にまとっている分、強化重力の結界は絶大な足止め効果を発揮するだろう、と見越す。
「別に。あたしは巷で騒がれてる吸血鬼を狩っただけ。そこの王子には、興味もないよ」
「……これほどの魔術……。貴様、何者だ」
「あたしは吸血鬼。バイバイ、王子様とその仲間たち」
「そうか、吸血鬼か。……ならば」
「レム! 逃げて!」
逃げるも何も、彼らは結界の力で動けないのだ。そんなにあわてるようなことではないと、レムは肩をすくめる。
「――滅ぼさなくてはな」
悪寒。身の危険を感じて身体を捻る。刹那、先程まで自分の首があったところを刃が通過する。
「――ヒュッ」
冷や汗が吹き出る。確実に殺す気で繰り出された一撃。見れば、強面の騎士が自分のすぐ後ろに立っていた。振り抜いた勢いそのまま、さらに踏み込んでくる。あの重力結界をものともしないって事は中々のやり手だね、レムは油断すれば自分の身が危ない事を認識する。
「冗談」
レムは左手を、腰に下げた剣の柄に添えると、刃を少しだけ抜き、踏み込む。騎士の一撃を、威力が乗りきる直前で殺す。
ギィンッ、と激しい金属音。両手で柄を握り締める騎士と、片手を柄に添えるだけのレム。騎士独りをいなすのは難しくはないが、後ろにいる神官たちが動き出したら厄介だと悟ったレムは、後ろに飛び退く。
「あたし、その王子様の命の恩人なんだけど?」
「王子の危ないところを助けたのならば、それなりの恩情をくれてやろう。……だが、それは相手が人間に限った話だ」
人外には容赦しない。取り合わない。それが、人のやり方。
重力結界が効果を切らせて、神官と、他の騎士たちが駆け寄ってくる。強面の騎士を中心とした、戦闘陣形。
「滅べ、人に仇なす者よ」
「……あーあ、面倒臭-い」
レムが肩の力をスッと抜いて、両手を広げる。その、戦場にあるまじき行為に、騎士が侮蔑の視線を送る。戦場に礼儀を重んずる騎士ならば仕方ないだろうが、レムはそんな事を一向に気にませず、ふてくされたようにフードの上から乱雑に頭をかく。こうなってしまっては、仕方がない。この騎士の実力を見抜けなかった自分が悪いのだと、言い聞かせる。
「戦場で、そのような行動をとるか」
「戦場? 馬鹿言わないの、騎士さん」
酷く小馬鹿にした態度。その態度に、周りにいる騎士たちは気分を害したようだが、強面の騎士だけは、警戒の色しか見えない。
「ここは、戦場なんかじゃない。ここはね」
ツィッ、と三日月のように口を釣り上げた、邪悪な笑顔。赤い瞳。
「狩り場だよ」
怒号。絶叫。悲鳴。怒声。悲鳴。悲鳴。
「ふぅ」
レムは額にへばりついた汗を拭う――かのように血を拭う。身体中返り血塗れの彼女は、死屍累々と転がる騎士たちに、目もやらない。ほんの一瞬の出来事。ものの一分足らずで、20人近い騎士たち全員を地に沈めた。
これが、吸血鬼と人間の差である。もっとも、レムも代償を払う事になった。先程摂取した“核”の力、全てを消費してしまった。いや、むしろ足りない。さすがに、殺さない加減をすると難しい。
こうも力を使いきってしまうと、どうしても吸血衝動が疼き、訴えてくる。
――血を吸え。力を蓄えろ、と。
レムは目を瞑ってその欲求を抑え込む。やや乱れた呼吸を落ち着かせる。近くの民家の壁に寄りかかり、気を落ち着かせる。
「レム!」
「……」
ああ、どうして。
「レム! 大丈夫!? 怪我は!?」
ああ、どうして、あんたはあたしの心配なんてするんだ?
目を開けると、心配そうな顔をした、童顔男。レムはその肩を軽く押して、距離を作る。
そう、拒絶するように。
ヴィルが悲しそうな顔をするものだから、胸がチクリと痛む。
「……わかったでしょ。あたしは、こうやって忌み嫌われるんだ。だから、あんたも近寄らない方が良い。昨日から今日までの事は、おかしな女につかまったって思って、忘れた方が良い。あたしも、この街での用事は済んだから、もう出ていく。早い事忘れる事が一番だ」
「レム! 僕がみんなを説得する! そうすれば、きっと解ってくれる!」
「あんたって、本当に馬鹿だね。吸血鬼に魅了されたって思われるだけで、なんにも事態は進展しないよ」
吸血鬼が魅了の魔術を使うのは、古くから良く言われている。その原因は特に『目』であると言われる事が多い。だから、レムはフードで目を隠そうとする。魅了という魔術が大っ嫌いだったから。
「だったら、僕は王になったら、君みたいな闇夜に連なる者たちを受け入れる政策を作る。だから」
「ハハ、それは傑作だね。そんな国、周辺各国から攻め込まれてすぐに滅びるよ」
そんな法案が通る訳がない。他国から攻められる前に、反乱で処刑されるだろう。どっちにせよ、不可能なのだ。
「レム! 僕は、君の事が好きなんだ!」
ああ、本当に、なんて馬鹿なんだろう、この王子は。
そんな事言って良い訳がない。不可能に決まっているのだ。人間と、吸血鬼が結ばれるなんて。
なのに、どうしてだろう。
こんなにも、胸が熱いのは、どうしてなんだろう。
「ダメ、ヴィル。いい加減、あたしの魅了から目を覚まして」
「僕は正気だ。昨日、酒場で君を見かけたときから気になっていた。話して、君の事をもっと知りたいって思ったんだ。魅了とか、そういうのは関係なく、君は凄く魅力的だ。考え方も、話し方も……君という全てが僕には新鮮で、もっともっと、知りたいんだよ!」
「……仕方、ないなー」
認めるしかない。嬉しい事を。自分も、彼の事が好きだという事を。
誰もが距離を置きたがるような怪力。近づき難い姿恰好。それらをまるで無視して近寄ってくる、この男。あまつさえ、忌むべき存在であるのに、これだけの力を、これだけの惨劇を見せられても、堂々と自分の前に立つその姿に、好意を覚えてしまっている。
だけど、それは許されない。
彼は一国の王子なのだ。
「ヴィル。よく聞いて。あたしも、あんたの事は好きだよ。だけど、あんたは一国の王子だ」
「知ってる。解ってる。それでも」
レムはヴィルの頬に手を添える。そして、顔を近づける。
「ヴィル、よく聞いて」
「……うん」
ヴィルの目が、酔っ払ったように、とろける。レムは頬に添えた両手から魔力を流し込む。暗示をかける。
「あんたは、夢を見ていたんだ。幸福な、夢」
「……夢」
「誰かと酒を飲む夢。誰かと一晩過ごす夢。誰かを、好きになる夢」
「……ゆ、め」
「そう、夢だ。……だから、もう目覚めなよ?」
そっと小さく口づけをする。ヴィルは、安らかな寝息を立て、眠る。レムはその身体をそっと横たえた。
レムは町の外に向かって歩き出す。しばらくは、どこに行くのも危ないだろう。大きな街ならば、この国の息のかかった者も多くいる危険性がある。適当に、放浪するしかなさそうだ。
そう、これで良いのだ。
これで、誰も傷つかない。
後はそっと、自分がこの思いにふたをするだけ。
そう、あたしもまた、夢を見ていたんだ。
淡くて、切ない、夢。
夢ならば、また見れば良い。
今度は本物の夢で。
ヴィルム王子はし数日の間放心状態が続いた。だが、彼は意識を取り戻すと、人探しを始めた。
夢に出た女を探している。
そう言いだした彼を、国民は皆王子が狂ったと噂した。
だが、彼はいつまでも、いつまでも銀髪赤目の女を探し続けた。
そうして、毎晩決まって同じ酒場にお忍びで出入りした。
だが、いつまで経っても、彼女が現れる事は決してなかった。