二人の三年生
明日の体育について怪しい計画を立てていると、ガラガラと大きな音を立てて扉が開く。
それと同時に。
「とうっ!」
という掛け声とともに、突然明るい茶髪の女が部室に転がり込んできた。
転がり込んできた、という言葉通りに、パンツが見えることもまるで気にせずでんぐり返りで入ってきて、そのままアクションスターのような動きで、昨日会長が座っていた席の隣にてその両手を高く挙げた。
「男無き世界に百合の祝福を……どうも、冷泉百合です!」
ビシィッと、赤いメガネと俺達に向けられた人差し指が光って見える。
個性が強すぎて言葉が出ない。なにこいつ、名前は知ったけど、なにこいつ。
見ればユウも絶句している、ユウが入学してからの一週間、この人はここに来ていなかったのだろうか。
不意に困った表情になった百合が告げる。
「……新入部員の子がいるって聞いて来たんだけど、君たちも自己紹介してもらっていい?」
「いや、それよりお前は何なんだよ?」
充分に当然の質問だと思うが、それでも百合は怒り出した。
「お前ですって!? 私は三年生の冷泉百合よ! 男は私に話しかけないで! この世は、女子だけで充分なのよ!」
どうやら危険思想の持主らしく、相手にするのも危ぶまれる。
俺を睨みつつ、しかし百合はユウの方にじりじり近づく。
「あっちの男なんてどうでもいいけど、あなたはなんて言う子なの? 凄く髪が綺麗ね、肌もよく手入れされている、あら、お化粧も凄い、手が込んでいるけどそれほどものを使っていない……自分の美しさを知りつつも妥協しないのね」
化粧のことなんか分からんけど大体こんなことを言っていた。
しかし近づいて肌とか髪を触る百合は変態にしか見えない。既に息が首筋にあたるほどの距離、ユウが嫌そうに目を閉じた。
と思った次の瞬間には、大きく目を口を開いて叫びだした。
同時に百合もだ。
「いやあああああああーーーーーっ!! れ、礼貴ぃっ!」
ユウが立ち上がって俺に抱き付いてくると同時に、百合が思い切り後ずさって背中を壁にぶつけた。
「おとーーーっ! おと、おと、男っ!?」
まるで汚い物に触ったかのように百合は信じられないものを見る目で自分の手をまじまじと見つめている。
っつうかユウが俺の胸の中ですんすん泣いていて、凄く扱いに困る。
「おい周一、一体何があった? 何された?」
「うう……僕、僕……」
俺に弟がいたらこんなのかもしれないな、と思ってすぐにないと悟る、弟に女装はさせない。
泣きそう、というか涙を流しながら、ユウはやっとこさ告げた。
「僕……触られちゃった……」
「なに、どこ? ちんちん?」
きゅっと周一は俺の胸に顔をうずめ、しかし首を縦に動かしたらしい。
冷静に状況を分析して、俺から百合に一言。
「あんた、変態か?」
「変態ですって!? こんな淑女を捕まえてよく言うわ! ……しかし周一って、その子、男の子なのね……」
五十代の爺がするみたいな皺を寄せて百合は困った表情を作る。
「なんてこと……ヒロちゃんから連絡貰って、時間つぶしに付き合ったげて、と言われただけなのよ。その、セクハラもしようとは思ったけど、女の子にしようと思っただけだから」
「さらっとクズみてえなこと言ってんじゃねえぞテメェ。まず謝れよ」
俺が拳を振り上げるまでもなく、百合は手の平を合わせる。
「ごめんなさい周一くん! そんなナイーヴな反応するとは思わなかったの。ところで自己紹介してくれない?」
謝罪からノータイムで自己紹介を求めるあたり、反省の色は見えない。こりゃ一発殴っておくか。
「おい周一、いつまでくっついてんだよ。もう大丈夫だろ、ほら、謝ってるし」
「ん……うん……」
今気付いたが、ユウって素の方が女っぽいぞ。普段殺伐とし過ぎなのだ。
「ま、落ち着くまで休んどけ。なんならお前の説明も俺がするから」
「大丈夫、もうちょっとで回復するから」
目を擦り、涙を拭いながら言う姿は、本当に女の子みたいだった。
俺も一つ吐息してから、言う。
「剣持礼貴だ。一Aでこいつと同じクラス。こいつを男らしくするため入部、でいいか?」
「あはー、オーケーケー! そっちの子は?」
まあ待て、と言おうとしたところで再び扉が開いた。
「……げ、百合婆」
二度目のデブメガネ先輩の声は、やはり聞き取りづらい。
「ブタダくんじゃない? まだ生きてたの?」
「同じクラスだよね! 全く、君という人間はいつもいつもそうだ。つまり君はそういうやつだったんだな!」
デブメガネも百合も眼鏡を光らせてなんか言い合っている。
なんか面倒くさいことになってきたので、いい加減この場を退散したくなってきた。
「ユウ、今日はもう帰らないか」
「……どうしよう。……あれ、今僕のことユウって」
口が滑ったが、そこは上手にごまかす手段が俺にはある。
「ちげえよ、英語で言っただけだ。ヘイユー、みたいな」
ユウはぼんやりとした顔で、はぁ、とだけ言った。たぶん納得しただろう。……少なくとも、颯太ならこれで騙せんだがな。
だが、開け放たれた扉から会長がやってきて、俺の考えは止まってしまった。
「む、ヒロがいないのか。最近皆休みがちだな。おはよう、二人とも」
近況と挨拶、堂々とした立ち居振る舞いをしつつ、どこかこの人に親近感が沸く。
俺もユウも挨拶を返すと、会長は笑顔を見せた。
「百合と剛毅が揃っていると騒がしいだろう。今日は随分待たせて疲れているだろうから、活動は自由にしてくれて構わない。入部届はあるかな?」
「は、はい」
また敬語が出てしまった! 等木、と呼ぶことすら今の俺には憚られる。凄い奴とはわかるものなのだろう。だから先公に敬語を使うことはあまりない。
俺がプリントを手渡すと会長は満足そうに頷き、言う。
「確かに受理した。基本的に参加自由の部活だから、いつ来ても帰っても構わない。ただ、あまり休まれると寂しいので、その辺りを注意してくれ」
「はぁん、お姉様ぁ……」
百合がなんか気持ち悪いので帰ろうと提案すると、ユウはあっさり承諾した。どうやら百合が苦手らしい。ま、そりゃそうだろうが、俺も百合と同じことをこいつにしたのだがな。
俺とユウが荷物をまとめ始めると、会長が呼び止める。
「もう帰るのかい? だったら、自己紹介を……」
「済ませましたよ、それは」
もう会長には敬語でいい。が、俺は慇懃無礼に言った。
それでも会長は暖かな笑みを湛えていた。
「君のではなく、三年の二人の、だ。百合と剛毅の性癖というか、二人は嗜好を隠してはいないから、知っておいてほしい」
俺とユウが何かを言う前に、百合が突如言い出す。
「恋のトラブル! 百合とゆらぎり! 未知の世界への誘いを暗示する百合の女、それが私、冷泉百合よ。ところで礼貴はなんか一般人っぽいけど、百合って何か知ってる?」
まずゆらぎりってなんだよ、と尋ねたいが、流石に馬鹿げた挑発を無視することができない。
「テメェ、俺のことを馬鹿にしてんのか? 花だろうが、花。立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花ってな」
「その百合がセイド会に何の関係があると思う?」
そう会長に聞かれて言葉に詰まる。しまった、隠語か。
先の諺は日本人の美しい女性の例えだから、きっと女性に強く関係する話なのだろうが、知らんものは知らん。
と、そこでユウがきゅっと制服の袖口を掴んできた。
「……女性同士の恋愛、レズの異称よ。BLくらいにはメジャーな言い回しになってきたわ」
「ビーエル? 知らん。いや百合が何かは分かったが」
するとまだ泣いた後で顔が赤いのに、ユウは呆れた風に溜息を吐いた。やっぱムカつく。
「BLはボーイズラブ、つまりゲイの異称よ。昨今ではBLとゲイに微妙なニュアンスの違いも感じるけれどね。BLは百合と比較して薔薇と呼ぶこともあるわ。全部ホモと言えば片付くのだけれど」
「おうおうもう分かった分かった。それであいつはつまり」
と適当にまとめようとしてやっと異常に気付いた。
「テメェは女が好きなのかよ!? うへぇ、信じらんね」
百合に堂々と言ってやるも、百合は動じる様子がない、平気な顔をしている。
「ああ、はいはい、あなたみたいに平凡な人間はそういうこと言うのよねぇ。よくこの部活に入ったわね」
「女が女って、何がいいんだよ?」
「あんたみたいに腑抜けた男よりよっぽどお姉様の方が素敵よ?」
と百合はお姉様ぁ、などと言いながら会長に擦り寄るが。
「あの、やめてください」
会長はむしろ他人行儀過ぎるほど丁寧に断っていた。反応がリアルすぎて、俺が反応に困る。
「ま、そっちはいいや。で、そっちのデブメガネは?」
「君はー! 小生は屯田剛毅、これでも副会長をしてるんだぞ! そして小生、ショタコンでござる」
豊富な腹肉をぶるんぶるん揺らしながら屯田は言う。が、再び聞きなれない言葉が出てきた。
「なにショタコンって。シスコンとかマザコンの仲間?」
語感からはそういった雰囲気がある。だがショタってなんだ。所帯しか思いつかねえ。
服の袖口を掴んでいたユウの力が強まる。どうやらその言葉に反応したらしい。
デブメガネはメガネを整えて、自信気に言う。
「ショタとは正太郎、つまりは少年愛である。小生、小さな男の子を見るとむらむらして股間がむくむくするでござる」
「ホモってレベルでも変態ってレベルでもねえぞ!? そいつ逮捕した方がいいんじゃねえか!?」
このデブが男好きって聞いただけで充分鳥肌もんだろうに、しかも子供って、どういう生き方をしてきたらそうなるんだよ。人生で一番納得できねえよ。
「むはは、御仁のようなものが、よくセイド会に入ったな。ほめて遣わす」
「しかもテメェ、キャラぶれてんだよ……」
なんかもうツッコミ入れる気力もない。気分すら悪くなってきた。
「……まあ、衝撃的だろうな、君にとっては」
「ッ足りめえだろうが! 会長はよくこんなん相手にしてられんな!?」
ユウの力が再び強まる、がそれは会長に不作法だったからだろう、後ろの強気な視線に気づいたから。
「確かに彼らは、今現在の社会から見れば変人として迫害され、忌避されるだろう。だからこそ私は彼らの力になりたいんだ」
「はぁ? なんで?」
「二人の愛は本物だからだよ。本当にそれが好きで、本当にそれを大切にしたい。一般で言うところの愛がある。愛したいものを愛することを禁止にするなんて、悲しいと思わないかい」
「その言葉だけ聞きゃあな? だがどう考えてもそいつらは変だ。っつうか屯田はマジでおかしいんじゃねえの? そのショタコンって普通は女がなるもんじゃねえのか?」
「普通とか、女とか、そういう考えは家や教室に置いてきなさい。今この場、セイド会には必要ない概念だ」
会長は淡々と言い続けるが、俺はもはや激昂と言っていいほどに荒れていた。
「んなもん隠しているだけじゃねえか!? 誰にも言えず一人で苦しんでいたことを、この場でだけ発散させて満足してるだけだろ!? 声を大にして言ってみろよ、みんな変態扱いだ! テメェらは所詮、傷なめ合ってるだけの……」
ぐいっと、腕を引っ張られた。
後ろを見ると、それは周一の目だった。
涙目になりながら、悔しそうな、それでも強い瞳に、俺は圧倒されていた。
「……謝れよ」
「な……」
ユウの瞳が、まっすぐな瞳が、俺の目をしっかり捉えていた。
「会長に、謝れよ!」
涙を流しながらでも、ユウの決意の籠った視線は決して濁らない。
俺はその視線から逃げるように、会長に向き合う。
「……すんません」
そう、頭を下げた、腰だって折った。久しぶりに堂々と謝った気がする。
「あまり気にしなくていい。確かにここでこうしているだけなら君の言う通りだからな。だが、我々はちゃんと活動している、あまり見くびらないでくれ」
顔をあげた時、会長はまだ温かい笑みを浮かべていた。
あれだけ悪口を言われたのに、こんな気まずい空気なのに、だ。
どうしてそんなに、揺るがないのか。
「今日はもう居辛いだろう? 帰った方が良い。何をしているか、とかはそのうちに話そう。水曜日はどの学年も授業が早く終わる……あ、一年は特別早かったな、うーんどうしよう」
腕を組んで悩む様子を見せるが、すぐに会長はまた笑顔を見せる。
「ま、今日は帰りなさい。明後日でもいつでも、時間のある時に話すさ」
そういう会長の顔を見れず、俺は早歩きでその場を後にした。
夕焼けの茜色は徐々に宵闇の紫に飲み込まれている。その中で一番星が一際大きく輝いていた。
「……ただいま」
「お帰りなさい、お兄様、今日はさらに遅かったですね。それで周一さんは?」
敬華の言葉で、周一の顔を思い出した。
強い目をしていた。自分の正しさに確信を持った強い目だ。
どうしてあんな目ができるのに、あいつは女装なんてしているんだろう?
「お兄様、どうかなさいましたか?」
「……なあ敬華、男が女の格好する時って、何を考えてんだろうな」
「そんなの女の私にはわかりません。男の格好をするとしたら、男らしさ、つまりは強さを主張したり、そういう魅力を感じさせることでしょうか」
「そういう魅力?」
キッチンに着くと、飯だけが用意されていた。
「親父とおかんは?」
「部屋で仕事。と、そういう魅力というのは、ギャップでしょうか。このお嬢様のような私がラフな男性の格好をしていたら、そそるでしょう?」
深く聞いて時間を無駄にした気分だ。あいつは全身全霊で女になっている、そういうギャップを作ろうとはしていない。
確かに今の敬華は中学の制服、真っ白なスカートとブレザーはお嬢様っぽい。それが男性の格好になったらよいものかもしれない。
女性は男装をしても魅力が惹きたてられるが、男性が女装をしても滑稽にしか映らない。
それが今はどうにももどかしく、理不尽なことに思えた。
――あいつは、滑稽なんかじゃない。
自分に言い聞かせた。だがそれは事実だ。
あいつの格好を見て笑う奴はいない、まず目を奪われる。
あいつが男だと知って笑う奴はいない、まず目を見開く。
あいつのあの目を見て笑う奴はいない、思わず目をそらす。
「敬華、俺が女装してお前より可愛くなったら、どう考える?」
「……は?」
流石に敬華の容量オーバーの質問だったらしく、何やらぶつぶつ言っている。
女性から見れば嫉妬だろうか、嫌悪だろうか、強い男が女になった時、感じるものはただの忌避か?
分からないことがあると、昔から知りたくなる性質なのだ。
明日、ユウに直接聞いてみよう。
――それは、ただの好奇心か?
自問自答が始まる。
事実だけを言うと、俺は初めマドンナに一目惚れしていた。
非常に理知的で他を寄せ付けない雰囲気に惹かれていた。
強い自分にはあれくらい強い女性が合うと思っていた。
どれもこれも、わずか一週間で自惚れだと思ってしまうほど陳腐な恋に終わったが。
いまだに俺は引きずっているのかもしれない、だからこんなにあいつのことを考えるのかもしれない。
席に腰掛け、俺は用意された食事に箸をつけた。
今は一人で悩むだけ無駄だ。ともかく落ち着こう。
「……お兄様、そのような事態になった場合、敬華はお兄様を犯して私も死にます」
「お前はいきなり何を言っているんだ?」
俺に似て賢い妹だったはずなのに、なんでこんな突拍子もないことを言っているんだろう。
水曜日、体操服の準備はOK、今日はユウに体育をさせる良い方法がある。
「お兄様、もうお出かけですのね?」
「そりゃな。お前早起きだな。どうかしたか?」
高校は近いが中学はそれ以上に近い、だから敬華はまだまだ時間に余裕があって、起きるのはもう五分後くらいだったりするはず。
「見送りとは感心だな。そんなに兄ちゃんが愛しいか?」
眠そうに眼を擦りながら、敬華はぶしつけに質問をしてきた。
「お兄様の高校は、あの近くのあそこですよね?」
「おう。指示語が多いぞ、しっかりしろ」
「ええ、大丈夫です、大丈夫ですわ」
全然大丈夫じゃなさそうだな、それより遅刻が怖いので俺は自転車を走らせた。