家庭の事情は常に複雑+雑談
自転車を十数分漕ぐ、それだけで我が家にたどり着く。
両親共働きのために、親は家にいないことが多い。遅くて深夜の一時などに帰ってくる時まである。
その間、家には俺と妹と、妹の友達くらいしかいない。
俺の悩みはその妹の友達だ。
玄関すぐ左の部屋から嬌声が聞こえる。
ああまたか、新学年早々、手の早い妹だ。
二階の自分の部屋に荷物を置いた俺は、すぐに晩飯の準備に取り掛かる。 あまり時間のかかるものは面倒くさいが、肉の一つも焼いてやらないと妹が駄々をこねる。
料理を準備している途中に、玄関が開く音が聞こえた。時間からして妹の客が出て行ったのだろう、ほどなくしてその妹、敬華が料理場にやってきた。
「おす」
「お帰りなさい、お兄様。本日は帰りが少し遅れたようですが?」
「テメェ、部屋でいちゃこらしてたくせに、俺がちょっと帰るの遅かっただけでそんな気にするか?」
敬華は頭に白いリボンだけをつけた全裸だ。黒い髪をサラッとかきあげる姿は、学校の誰かさんを思い出してしまった。あれは男だっつの。
しかし、実際に敬華はだいぶ可愛い。俺だって悪そうな顔をしていることを除けばだいぶいい線行くとは思うが、こいつほどではない。
ただ、見た目よりも性格の方が重要視すべきだろう、と妹については思う。
「あら、理由を説明してくださらないのね? 想い人でもできましたか?」
目ざといというか耳ざといというか、少しどころじゃないほどうっとうしい。
「あんまうっさいこと言ってると、殴るぞ?」
「あらあら、図星でしたのね?」
俺がグーを作ると、敬華は両手を挙げてさっと引いた。
ちなみに俺は女は殴らない。妹は特別である、特別に殴る。今は殴らないが。
「ともかく飯はできてるぞ。とっとと食え」
「え、ええ、ありがたく頂きます」
互いに四人掛けのテーブルを、向かい合うように座り箸を動かし始めた。
「ところで、結局はどうして帰るのが遅れたのですか?」
丁寧な箸使いは見ればわかる。全然動かさないようで、全然汚さないよう、ちまちま食ってて面倒くさそうだ。
以前はお兄ちゃんお兄ちゃんと情けないくらいの女の子だったのに、どうにも最近はこんな風にお嬢様ぶっている。目的は不明。
「ああ、部活決めたんだよ。たぶんこれからはもっと帰りが遅くなる」
「まあ、颯太さんは一緒?」
こいつときたらすぐこれだ。すぐ颯太さん、颯太さん、あのバカの何がいいのか。
「颯太は別、あいつは天文部、俺はなんかよくわからん部」
「……よくわからないのに入ったのですか?」
箸を咥える姿は不作法だ、しかもそれが可愛いと思ってしているからなおさら性質が悪い。
「よくわからんが、面白そうだった。それで十分だろ」
不服そうに箸を咥えたまま、敬華は無言で食事を進めた。
豚肉の生姜焼きを半分も食べ終わったときに、ようやく敬華が再び口を開いた。
「その部、女性はいますの?」
なんか棘のある言い方に引っかかる。女の一人や二人くらいいるだろ、普通。
「えっと、今日見たところでは俺以外に三人いて、一人女、一人男、一人、男?」
「どうして男性を分けたんですか?」
ユウこと坂上周一のことを思い出す。あれは、男だよな、男にカウントしていいんだよな。
「なに、女一人と男二人だ。その男の一人が髪長くてスカート履いてて女みてえな声してるだけだ」
敬華は絶句している。ま、そうなるわな、最初は。いや今でも俺、驚くけど。
「で、お兄様はそのお方をどう思っていらっしゃるのですか?」
「男らしくする、そのために部に入ったんだ」
薄い豚の生姜焼きでご飯を巻いて食うと旨い。俺がそれを実感していると敬華はまたとんでもないことを言い出す。
「お兄様、本当にそのお方のことをなんとも思っていないのですか?」
「どういう意味だ?」
「はっきり聞きます。美人ですか?」
箸をおいて、こちらの目を見据えて尋ねる真剣さを考えると、マドンナと呼んでいたことがバレたら厄介なことになりそうだ。
だが、嘘を吐くことはない。
「ああ、美人だ。お前が可愛い系なら周一は美人系ってやつなんだろな」
「そうですか、美人ですか」
なんかぶつぶつ言い出した敬華を無視し、俺は食事を進める。自分で作ってなんだが、サラダの中の玉葱はちょっと困る。涙が出る。
そろそろ食事も終わりそうだ、玉葱が束になってかかってきた時に、敬華が大きな声を出す。
「お兄様! 敬華は認めません!」
何を言っているか全然分からなくて、箸を落としてしまった。
「な、何が? 何を?」
「私、お兄様が男と付き合うなんてこと……」
「殴るぞ、テメェ」
ぐっと拳を握る。こいつは何を考えたらそういう結論に達したのか。
しかし敬華は俺の拳を見ても全く怯まない、どころか身を乗り出した。
「そんなにその人と離れられないの!? そんなにその人のことが……ぶっ!」
顔が傷つかないように、下顎を軽く打つ感じのアッパーを繰り出した。舌噛んでなけりゃいいけど。
顎と口を抑えた敬華は涙目で俺を睨む。俺はそれを面倒くさそうに見ていたと思う。
「じゃ、風呂入ってくるわ」
玉葱を残して俺が言うと、敬華は顎と口を抑えたままこくりと頷いた。
学校に来てみると、開口一番、颯太がのんきな声を出してくる。
「おー礼貴、昨日は平気だったかー?」
俺が黙って腹に抉りこむようなパンチを食らわせると、颯太は黙って膝から崩れ落ちた。
そして、無視して教室に入った。
後ろからばたばたと走る音がする。
「礼貴、お前、いきなり殴ることはねえじゃねえか!」
「悪い、俺も、いきなり殴ろうとは思ってなかったんだ。だが昨日、明日殴ってやろうって決意したから」
ばつの悪そうな顔で颯太がうろちょろしていると、思いついたように明るい顔で尋ねる。
「そいやさ、例の彼女とは仲良くできたの? 名前とか分かった?」
ちらり、と。
ユウと目が合った。
颯太を無視するように動かした俺の視線と、自分のことを話していると察し本から目を離したユウの目、なんだか気まずい空気だ。
相変わらずの射抜くような視線、まるで昨日のことは秘密にしろって言わんばかりだ。
「坂上周一だってよ。男だ、男」
「ははは、何言ってんだお前!? バッカでー!」
もう一度颯太の頬を殴りぬけて、俺は鞄を置いた。
本日も晴天なり、清々しく晴れ渡る空は雲を探すことが難しいほどだ。
授業中も昼休みもユウはずっと一人でいる。時たま話しかけてくる人間もいるが、相変わらず存在をまことしやかに囁かれる方が似合っているほどだ。
そして俺は、その囁きの性質が変わりつつあることに気付いた。
自己紹介なくして一週間、最初こそユウは『誰、あの美少女?』とめでたいものを愛でるような噂を叩かれただろう。
だが一週間で彼が誰なのかを知る者が生まれ、また今日も俺がクラスで口走ったため、いい加減ユウを変な奴、と思う人間が出てきたのだ。
ユウが周りの人間を遠ざける理由もわかる。そりゃまあ、気持ち悪がられるだろうしな。
でもあいつは気付いていないことがある。本当に気持ち悪いのはたぶん、その格好じゃなくて性格だ。
趣味が恥ずかしいなら隠せばいいし、隠したくないなら開き直ればいい。ただ陰湿に、自分のことも自分の趣味も守ろうとして、結果自分も趣味も貶めている。性なんとかって言ってたが、その性に固執しているのはユウ自身だ。
放課後、部室に来てみれば、ユウが一人で読書をしていた。
「よ、周一」
射抜くような視線は、多勢に無勢の教室と比べて強気に見える。
「ユウ、と呼んでくれないかしら? それより、教室で私の本名を呼ばないで。これは命令よ」
「なんで命令されなきゃいけねえんだよ。テメェに」
ムッとした表情で、ついにユウは本を閉じた。
「どうして、そんな風に人が嫌がることができるの? 道徳教育は受けてきた?」
「生憎、学校の成績は最高級だぜ。同じクラスだから分かんだろ」
皮肉に皮肉で返すと、ユウは口元を結ぶ。反論を考えているのが目に見える。
「ところで先輩達はいねえのか。やっぱ一年のが授業とか楽なんだな」
「話を変えないで。まだ途中よ」
この話をまだ続けるつもりなのかよ。負けず嫌いなんだろうが、分が悪い戦いからは身を引くのも大切だと思うぞ。
「はいはい、じゃ勝手にしろ」
俺は荷物だけを置くと、棚を物色し始める。
書類とフィギュア、いったいこれらに何の意味があるのか。書いてあることも聞きなれない単語が書いてあり、いまいち意味が分からない。
「ちょっと! 勝手に物色してはいけないわ!」
「いいじゃねえか、部員なんだし。部室に何があるか把握してても良いだろ」
「……厳密には、あなたは部員じゃないでしょう」
それは違いない。だがもう見てしまったものは仕方ない。
「っつーかダメだ。何書いてあるか全然分かんねえ」
見慣れぬ言葉に思わず弱音が出る。日本語どころか平仮名なんだが、四文字のそれはどこをどう切ればいいかも分からない。
「あら、語彙が貧困なのね。英語で書かれているの? それとも日本語?」
ピク、と顔が震える。一言皮肉でも言いたいが、こいつにわかるのならぜひ読んでもらおう。
「日本語だよ、坂上周一くんくらいの優等生なら、なんでも知っているんだろうなぁ!」
少し乱雑に書類の一束を机の上に置くと、みるみるうちにユウは顔を赤くして叫んだ。
「なーっ! な、何を、これ、お、お前ーっ!」
立ち上がらんばかりに凄い勢いで顔をあげて、ユウは真っ赤な顔でわなわな震えながら書類を指さしながら、俺を潤んだ瞳で睨む。何この反応。
「え、なに? どうしたんだよ?」
既にユウではなく坂上周一だった。
内容は、ふたなりとは男子であるか女子であるか、というものであった。
「礼貴っ! 君は、そこまでして僕を! な、なんてやつだ……」
「いや、俺には何が何だかさっぱり分からないんだが。ちょっと冷静になるくらい分からん」
ここまで狼狽されると、なんか少し引く。むしろ少し謝りたくなる。
「で、このふたなりってなんなんだよ。俺はてっきり石田三成的に人間の名前かと思ったんだが」
ユウは顔を真っ赤にしたまま口をパクパク動かして、しかも体は硬直していてまるで話を聞いている様子がない。
仕方なく、それを少し読んでみることにした。
ページの最初の最初にその言葉の注釈が敷かれていた。漢字で書くと二形、二成などであるらしく、一つの物が二つの形状を持ち合わせることを言うらしい。
ここまでは普通だが、ユウが顔を赤くしたのは、どうやら一人の人間に男女のほにゃほにゃを、っつうのが引っかかったらしい。
なるほど、一人に二つの性器、ね。そりゃまあ、安易に口に出した自分を恥じる程度には下品な言葉かもしれない。
だが、この解説文を見てしまえば既に答えは出ている。
「男子か女子か、じゃなくて両方なんだろ。何を論文にすることがあるんだ?」
両方って言っちゃってんじゃん、両方なんじゃん、とまとめることができる。
なんて軽く思っていると、おずおずとユウが、女性モードで反論をした。
「……それは正式な言葉としての使い方であって、実用的なスラングではないのよ」
まだおっかなびっくり、恐る恐るの発言だが、それでも確実に言葉を紡ぐ。
「その、それは、本来は先天的な病気や障害で起こるものが多いのだけれど、今では主に女性同士の恋愛や、女性が男性器を持っているのに興奮する人のための、そういったアダルト作品に使われているの。実写のビデオでも二次創作品にもあるわ」
「お前、なんでそんなこと知ってんだよ……」
ユウがアダルト作品に精通しているっていう事実、胸の中がもやもやする。
「そういう時にそれは、ほぼ全て女性がそれを行っているわ。必ず胸があって、顔が女性のもの。男の人に女性器がついたパターンはやおい穴っていうボーイズラブにしかないんじゃないかしら」
「いや、だからさ……。そもそもなんか抽象的な言葉が多くて分からないんだけど。何が女性が行っているんだよ」
「そ、それはその……分からない?」
「なに? エッチ?」
ユウは再び顔を真っ赤にした。
「どうしてお前はそんな平然と色々言うんだよぉ!? 今はそんな話してないだろ!? 僕はその、ふ、ふ、ふた……」
「ああ、ふたなりね。あーなるほど、二つ分の性器持ってりゃふたなりなのに、女中心になっちゃってる、って話か」
納得納得、と一人俺が満足している間、ユウはもう爆発せんばかりに赤くなって、泣きだしそうな様子にも見える。
これは俺が悪いのか? 男子中学生男子高校生が今更うんこちんこで恥ずかしがるのもおかしいと思うが。二人きりだし、男子同士だし。
ふと、妹の言葉が頭をよぎった。
こうして顔を真っ赤にするユウをからかうのは、本当に男子だからと安心しているからなのだろうか。
こいつの見た目は完全に女だ。喋り方が崩れようと、周一と呼ぼうと、見た目は今も変わらぬ我らがマドンナ。
……ねえな、ないない、女じゃない、男、男。
「して、ふたなりとは女なのか、男なのか。ははーん、なるほど確かに奥深い問題に思えてきたぜ」
「もうその話はよせ! なんか、別の話をしないか?」
恥ずかしそうに口元を抑える姿は、ああやっぱり美人さんって感じがした。
「じゃ、このわけ分からんフィギュアでも見るか」
書類はとんでもない地雷と無駄な知識がついてしまう恐れと、ユウがなんか可愛くなるという罠があるため保留だ。興味深そうな内容の書類もあるにはあったが。
俺が素手で金髪の小娘のフィギュアを引っ掴むと、それをでんとユウの前に置いた。
「ほら、女のフィギュアだぞ、喜べ」
「……色々とツッコミどころがあるけれど、まず素手で造形物に触るのは感心しないわ」
おっと、女性に戻っていた。しかもツッコミどころはそこかよ。
生憎プラスチックみたいなマスクライダーの人形くらいしか持ってなかったため、こういう固い壊れそうなフィギュアは初めての体験だ。
まるで絵をそのまま立体にしてみたかのような、颯太がロボのプラモデルとか作ってたことがあるけど、それともまた違う感じだ。
「で、これは単純に等木の趣味なんかね? いやあのデブメガネか。女のフィギュアなんて、まあそれっぽい」
馬鹿にしまくって言うと、ユウの目が少し見開かれた。
「違うわ、これ」
どうやらデブメガネに対する謝罪は求められていない。ドンマイ、デブメガネ。
「違うって、何が?」
「女のフィギュア、とは違うということよ」
何を言っているのやら、髪が長いし、顔は女顔だし、スカート履いているし……。
まるでこの部室の誰かさんと同じような感覚を受けて、俺もようやく察した。
「ああはいはい、お前と同じってことか、この娘、じゃなくて男は」
ユウが静かにうなずく。どうやら当たりらしい。
「じゃあなんか? ここにあるフィギュアは全部お前のお仲間さんか」
「おそらくはそうだけど、あなたの言い方は凄く癇に障るわ」
そりゃ、癇に障るように言ってんだからな。障ってもらえないと困る。
……やることがなくなってしまった。
「お前、これが何の作品の何のキャラとか分かんの?」
「ええ、『太陽よりも蒼き輝き』に出てくる東雲千歳ね。コスプレイヤーで」
「もういい。お前凄いな、キモイな」
一瞬、ユウの腕が震えたがすぐに止まった。少し悔しそうに唇をかみしめていたのが見えたが、もう諦めたらしい。や、本当に急にべらべら喋りだしたからさ、嫌だなって。
なんかユウが凹んで少し申し訳なくも思ったが、ともかくフィギュアはしまって、とりあえず気になった書類『男児と女児は銭湯でそれぞれ何歳くらいまで異性のお風呂に入っていいか』というものに手を出した。
が、それを読む間もなく扉が開かれた。
「こんにちわー!」
野球帽をかぶった、黒髪短髪、紫柄に髑髏の絵が描かれた服の上に革ジャンを羽織ったジーンズの、女らしき人間だ。
「誰だテメェ? ここに何しにきやがった?」
「礼貴くん、この人は先輩で、あなたとは違って部員よ?」
ユウの冷たい状況説明があって、その先輩は困った風に頬を掻いていた。
「いや、柄の悪い子が入部するって会長から聞いたけど、想像以上だね……」
声は女性のもの、のど仏は出ていない、となるとおそらくは女だろう。この部活で身についた男女判定法はかなり有効になっている。滅多に使えないだろうが。
「で、何者だ?」
「だから礼貴くん、それは角藤先輩の言葉……」
「いやいやいいよ! まずは僕から自己紹介するね」
朗らかな笑顔で、薄い胸を張ってそいつは言った。
「角藤祐、みんなからはヒロって呼ばれているよ。さて問題、僕は男でしょうか、女でしょうか」
「俺は剣持礼貴だ。よろしくな、女のヒロさん」
ヒロの表情は少し凍り付いた、少しは驚いたのかもしれない。
「即答だね、合ってるけどさ」
とヒロはサクサク進んで、昨日デブメガネが座っていた場所の手前に座った。少し俺と席が近い。
「今日は入部届を出しに来たんだよね? まあ僕は二年だから受け取れないんだけど、暇つぶしのためにやってきたんだ」
自己紹介じゃねえのか。ヒロはにこにこ笑顔でこちらを見ている。
「暇つぶし、何をしてくれるんだ? 言っとくがつまらんかったら周一と服を交換してもらうからな」
「勝手に巻き込まないでくれる? 今の話に私は何も関係ない……というか周一と呼ばないで」
しかし俺もヒロもユウをまるで無視して、話を進めた。
「それじゃ、僕の性別以外に唯一もってきたクイズでも出そうか……」
少し不適な笑顔を見せるヒロに、俺は思わず生唾を飲み込む。
「……この世には、オーサカという国があり、そこにはオバチャンという民族が住んでいた……」
「ユウ、まずスカートを脱げ」
そう言ってもユウが読書をしたまま無視するし、ヒロは愛想笑いをするので、俺が勝手にスカートを引っ張ることにした。
「なっ! 何するんだよ! お前馬鹿じゃねーの!? 馬鹿じゃねーの!? やめろっ!!」
「もうただの周一じゃねえか!? いいから普通の格好に着替えろ! ヒロの服を先に脱がすわけにはいかねえだろうが!」
俺だってちゃんと物を考えている。女性の先輩の服を脱がすなんて暴挙に出るほど犯罪慣れしていない。そもそも犯罪は多分したことがない。人は殴るが信号は守る。人類の敵かもしれない。
「あーあー、もうその辺で止しなって。話の続きがあるから」
そうヒロが宥めてきて、俺とユウの力が緩む。
その瞬間に思い切りスカートを下に引っ張った。
「っ!!」
声にならない叫びを聞いた。
「……お前、なぁ」
俺はユウの、白いレースの、女物の下着を見て思わず溜息が零れた。
「こら礼貴くん! やっていいことと悪いことがあるだろ!?」
ヒロに叱られるが、どうにも腑に落ちない。
「それは俺が悪いのか? こいつが……」
そこまで言ったところで、ぱちんとユウに叩かれた。
やっぱり弱弱しい力だったが、顔を真っ赤にして涙をこぼすユウを見て、流石に良心が痛んだ。
「……悪かったよ」
それを聞いてユウは机に突っ伏して、寝るみたいな姿勢を取った。まあ泣き顔を見られたくないんだろう。
「……で、どうすんだ? その唯一のクイズとやら」
「……帰られても困るから、続けるよ」
一人の人間が泣く中、非常に気まずい空気、ヒロも先ほどのような明るい雰囲気でのクイズはできそうにないらしい。
「簡単に言うと、テレビでやってたんだけど、大阪のおばちゃんって、混んでるからって男子トイレに平然と入る人がいるんだって」
「はぁ」
気のない返事をすると、ヒロが火が付いたように話を始める。
「今、世間は男女雇用機会均等法などで、男女の格差がどんどん減っている。男性が家事をして、女性が働く家庭だってあるくらいにね。そこで、男子と女子のトイレを分ける必要はあるかな? そのことを一緒に考えよう」
話の導入がひどかったが、要点をまとめると男女の格差の是正についての話らしい。
つっても話の最中もいただけない。雇用労働と性別の問題は根本的に違うだろう。等木会長を見習え。
まあ、この部でポピュラーな話題であることも確かだ。
「考えるまでもなく分けるべきだろ。レイプ事件が起きるっつの」
「トイレは個室で密室だよ?」
「馬鹿か? 個室で密室だからだろ。鍵がかかっても、あんなもん乗り越えられるからな」
実際そのトイレにもよるが、よじ登って中に入れるようなものもある。それによじ登らずとも、女性が入った後ろからついていき、強引に押し入ってしまえば、逆に中の二人がしたい放題になってしまう。
「ジェンダーってやつ? 多少調べたが、生物学的なのはダメなんだろ? 力仕事は男、それを癒すのは女、それくらいの区別は必要だろ。女に働かせるほど柔じゃねえよ」
「……そこまで言われると、僕も反論できないかな」
あっさりとヒロは身を引いた。こいつ、何考えてんだ?
「えっと……どうしよう、時間、余っちゃったね」
困ったようにヒロは笑った。こいつ、何も考えてなかったんだ。
「周一、着替えるか?」
腕の隙間から、射抜くような、それすら超えた凍てつくような視線がこちらを覗いた。
力は弱く、心も弱そうなのに、視線だけは一級品の殺し屋だな、こいつ。
ヒロは本当にやることをなくしたらしく、ついに暇な時間がやってきてしまった。
仕方ないのでユウで遊ぶことにした。だって暇だから。
「しっかしまあ、下着まで女性用とは恐れ入ったぜ。お前の本気度合は分かったよ。認めねえけど」
言いながら、俺はユウに近づいて、その髪を手に取った。
「これもカツラだったりすんのか? なんかカツラってウン十万して高いんだろ? すっげえすべすべで滑らかだし、なんか特注だったりすんの?」
カツラは動物の毛だったり人毛だったりするらしい、触り心地はでも絹みたいで、匂いも相当な手入れをしているとうかがえる。少なくとも男の髪じゃない。
「……これは、地毛よ」
ピクっと、腕を止めてしまった。
「……マジ?」
もう一度髪を手で梳いてみた。さらっさらで何にも引っかからない。何度梳いても言葉にできない快感が走るほど気持ちのいい髪だ。この気持ち良さは例えるなら、掃除機のコードをしまうボタンを一度押しっぱなしにしただけでシュパンと戻ってくるような。
「恥ずかしいから、あまり触らないで……」
今度、腕の隙間から見えた瞳は、妙に妖しく潤んでいた。
心臓が、とくんと高鳴った。
ないないないない。ないって、本当に。
おずおずと身を引いて、俺は元いた席に戻った。
……まだドキドキしている、ユウの方を見ると心臓に悪い。
「……青春だねえ」
「あ? 何見てんだこら! テメェぶん殴んぞ!?」
つい照れ隠しをしてしまうというのも、やはり焦っているからか。
ヒロはすっかり萎縮しているが、俺は俺で気まずかった。はぁ……、ない、よな?
まんじりともしない時間が少し過ぎたが、やっぱ退屈だ。
ヒロはうーんうーんと何かを悩み、ユウは相変わらず突っ伏したまま、寝てんのか?
俺は少し落ち着いた後、結局暇つぶしに何かないかと物を探した。
すると、おあつらえ向きにユウの傍に彼が普段読んでいる本を発見した。
というのも彼は普段、常に本を読んでいる。クラス内で他人と会話することなく、授業時間にはトイレに行くこともなく、オールタイム読書。何をそんなに読むのやら。
少し気になったので、適当に放り出されたその一冊に手を伸ばした。
が、それを手元に引き寄せる直前に止められた。
机に突っ伏したままのユウの腕が、本を掴んでいる。
……第三の目を疑ったが、純粋にソナーのように張り巡らされた髪の毛アンテナに引っかかったらしい。どこのゲゲゲだよ。
俺とユウの腕が硬直すること数秒、ぐいっと引っ張ると、ユウの体がどんどん机の上に侵食する。
「……起きてんならなんか言えよ」
机の上に寝そべるような体勢で、ユウは顔だけをこっちに向けた。
既にユウは平気な顔をしているが、机に頬をくっつけている感じは妙にキュート。
「勝手に本を、取らないでくれる?」
「暇なんだよ、貸してくれたっていいじゃねえか」
少し横暴な物言いだとは思うが、ユウのせいで居辛い空気になっているのも事実。冷静に考えれば考えるほど横暴なことを言っているが、そこは大目に見てもらう。
「やることがないなら帰ればいいでしょう? 部員ではないあなたにここにいる義務はないのだから」
「テメェこそ、ここでメソメソしてんなら、帰りゃいいじゃねえか」
また視線だけ強気な奴と火花を散らせていると、じゃあごめん、とヒロが何か言い出した。
「いや、二人の暇つぶしに付き合って、って言われたんだけどさ、僕ちょっとやりたいことがあって……」
ヒロが、なんか宴会を途中で抜ける課長さんみたいな顔で申し訳なさそうに立ち上がった。
「じゃ、そゆことで」
「お疲れ様です」
とユウが言ったため、俺も合わせて。
「あ、おつっす、じゃねえよ!」
俺としては珍しいほどの乗りツッコミだが、残念ながら反応する者はいなかった。
再び二人きりとなり、今度はユウも机に突っ伏すような真似はせず、淡々と読書を再開した。
もう空気を気まずいとは思わないが、暇は変わらない。はてさて何をするべきか。
「周一、暇、なんかない?」
「あなたも帰ったら? 何もないなら話しかけないで」
こいつのこういうところを見て一発殴って素に戻したいと思うのは人心というものだろう。
何もないなら話しかけるな、ということは、何かあれば話しかけていいわけだ。
「なあユウ、お前って男子トイレ、女子トイレ、どっちに入んの?」
ピクリと、ユウの腕が震えた。読書の手も自然と止まり、視線も止まっている。
「……食事の時間と体調を鑑みて、学校ではトイレに行かないようにしているわ」
「そういうことを聞いているんじゃなくてだな、トイレに行くとしたら、だ」
「……学校ではトイレに行かないようにしているわ」
「お前は壊れた玩具か」
っつうか、そこまで考えているのに緊急時のことは考えてねえのかよ。いざという時にヤバいだろ。
「別に、あなたに心配されるようなことはないわ。自分のことくらい、自分でできるもの」
「言うじゃねえか。いざという時に手ぇ貸さねえぞ?」
「結構よ、溺れていたとして、あなたの手を掴むくらいならこの手で天を掴むわ」
「せめて藁掴めよ。自決すんなよ」
こいつは冗談も言えるんだな。再びユウが読書に戻ろうとした。
そこで、俺は気になったもう一つの話題をぶつけてみる。
「お前さ、体育どうすんの?」
再びユウの視線がこちらに向いた。
体育は基本的に二人一組で行われる。一応内容は選択で、テニスとかサッカーとかなのだが、サッカーでもボールの蹴り合いやドリブル練習パス練習はまず二人だし、野球のキャッチボールもそうだ。
まだ体力テストだけで実際の授業はやってないんだが、こいつは水金の二回の体育両方とも休みやがった。十中八九しばらく休んでいくだろう。
「体育……」
呟いて、ぼーっとしてから、ユウは本に視線を戻した。
「いや、なに本読んでんだよ。体育の授業どうすんだよ」
「体操服を忘れてしまっては仕方がないでしょう? テストとレポートで先生には許してもらうわ」
はなから忘れる前提かよ。
「……クズだな」
「私と組んでくれる人なんていないもの」
「俺は?」
「あなたは仲良しの人がいるじゃない」
「いんだよ、颯太は別にどうでも」
ぶっちゃけ、あいつは馬鹿で周りから浮くことが多いが、それでも順応しようと思えばいくらでも周りと仲良くできる器用さがある。頭は悪いが成績と世渡りは俺よりも優秀だ。
「……悪いわ。それに、正直あなたとはあまり組みたくないし」
そしてまた、ユウは本に視線を戻す。
ユウがそう言うなら、それでいいんだろう、無理強いはしない。
なんて呑気なこと、俺は言わない。そっちにやる気がないなら、やらざるを得ない状況を作り出せばいいだけだ。明日のこいつの驚く顔が目に浮かぶ、それだけで笑っちまいそうだ。