終章 帰還
屋敷の手前で、妙な感覚を受けた。
まるでぬるま湯にゆっくりと入り込んだような、不気味な感覚。
息苦しく、体に何かまとわりついているみたいだ。
初めての体感だが、絶対に良い前兆ではないのがわかる。
まさか、屋敷に何かあったのではないだろうか。
何者かに襲われたか、あるいはまたえんりが。
やばい、急がなくては。
慌てて玄関を抜け、応接間に駆け込むと、いつも通りリルミムが掃除をしていた。
取り越し苦労か、やれやれ。
「ただいま、リルミム」
「ひっ……」
僕の姿を見るなり、箒を落として震えている。まるで魔物か何かを見たように。
「ど、どうしたんだリルミム」
「あ、ああ……、あなたは一体誰なんですか!」
一体どういうことだ?
「僕だよ、ルゥだ。どうしたんだよ」
僕の言葉が届いていないのか、いきなり逃げ出してしまった。わけがわからない。
まさか僕を他の誰かと見間違えた?
いやいや、それはいくらなんでもおかしい。だとすると、僕の容姿が他のものに書き換えられているとか?
慌てて鏡を見たが、いつもの自分がそこに映っているだけだった。
とりあえず落ち着こうと部屋へ戻ろうとしたら、廊下をトルテが歩いているのを見つけた。これでリルミムが錯覚したのか、それとも異変が起こっているのかがわかる。
「おーい、トルテ」
僕が声をかけるとまるで敵を見るような顔をして、側にあるいろんなものを投げつけてきた。
「な、なにをするんだ!」
「うっさい、この詐欺師! 今までよくもあたしらを騙してくれたな!」
詐欺師? 騙していた? 僕が彼女らに対し、偽っていたことといえば……。
僕はようやく現状を理解した。
師匠……本物のルゥ・コーゲンが帰ってきたんだ。
屋敷に戻るときに感じた、妙な感覚。あの時に気付くべきだった。
そしてリルミムが見間違いをしていたわけではないと理解できた。
早いところ誤解を解かなくては。まずルゥに会おう。
いるのは多分、書斎だ。
二階へ駆け上がり書斎のドアを開けると、椅子に腰掛けているルゥの背中、その横にリルミムが立っているのが見えた。
「……帰ってくるなら、前もって言ってくれればいいのに」
そうつぶやくように言うと、ルゥとリルミムはこちらを向いた。
「ルゥ様、あの人は一体だれなんですか?」
「さあ。私にもよくわかりません」
あんたの弟子だ! しかも半分脅迫され連れてこられた!
「冗談はこの辺にして、ちゃんと彼女らに話してくださいよ」
「私が居ない間に、随分と好き勝手していたようですね。私になりすまし、大切な妻達でハーレム気取りとは」
お前が代われと言ったんだ! それに正体をばらすなと!
僕がどれだけ苦労したと思っているんだ。
あれだけ頑張ったのに、この野郎……っ。
もう、嫌だ!
「う、ううぅぅ……ああああああぁぁぁぁっ」
「あの、ロート」
「ああはいはい、そうですね。僕が全て勝手にやらかしました。もう二度としません。ここには永遠に近寄りません。さようなら!」
「まあまあ、そんな頭に血をのぼらせないで」
「うるっせえ、外道! 僕はもうあんたに関わりたくもないんだ!」
「わかりました。ではあなたのパムがどうなってもいいのですね」
「勝手にしろ! こんなところにいるくらいなら、パムを破壊されたほうがマシだ!」
言った。言ってやった。今まで溜め込んでいたものを吐き出した。
パムを失えば今まで魔術士として生きてきた全てが無駄になる。でも僕はこいつから離れられればそれだけで充分だ。
「……すみません、いたずらが過ぎたようです」
椅子から立ち上がり謝罪をしているが、もう遅い。
「すみませんで許されるとでも思っているのか! 今まで散々な目に合わせやがって、どれだけ僕が耐えていたと思っているんだ。金輪際あんたのそばにいたくない!」
「本当に申し訳ないことをしました。お詫びに私の妻から一人、あなたへ送りましょう」
「え?」
い、いいの?
選んじゃってもいいのかな。
ここはやっぱりリルミムか。色々とお世話になっているし、とてもいい子だ。
いやでも、トルテのエロボディも捨てられない。それに口は悪いけど、本当は真面目でしっかりしている。
クレテはちょっと苦手な性格だけど、彼女なりにみんなと仲良くしようと頑張っているし、面倒見もいい。意外といい奥さんになりそうだ。
えんりは…………、護ってやらないとな。
「誰が良いか決まりましたか?」
ハッ、僕は何を考えていたんだ。
「う、うるせえや! 誰もいらねえよ! そもそも彼女達は物じゃない」
「待ってください、ロート」
「ああ? この後に及んで、まだ何かあるっていうのか?」
「はい、これには深い理由があるんです」
ここにきて言い訳かよ。
「ほう、聞かせてもらおうじゃないか」
「…………今まで黙っていたのですが、恐らくあなたは人間ではありません」
へ?
いやまて、もう一度。へ?
こいつは一体何を言っているのか、さっぱりわからん。
「何を言っているのか理解できないんだが」
「予想でしかないのですが、普通の人間ではないはずなのですよ」
「確証も無しに、僕を人外にしないでくれ」
「では何故私があなたを弟子として側に置いたのか、という理由なのですが」
ああそれだそれだ。それは聞いておきたい。
「どんなわけがあったんだよ」
「実はですね……」
言おうか言うまいか躊躇っているように口を手で覆うルゥ。何を今になって。
「もったいぶらないでくれよ」
「実は、あなたのパムが拡張しているのです」
…………。
……は?
「パムが、拡張……?」
「はい」
そんな話、聞いたことない。
パムは生まれた時からその大きさは不変であり、変化をさせることは不可能である。
これは何百年も昔から研究され尽くして出た結論であり、今更そうではないと異を唱えたところで、バカにされるだけだ。
「気付いていなかったようですね。あなたがここに来る前、数値はいくつありましたか」
「えっと、確か二八〇〇」
「あなたは今、三六〇〇あります」
……えええ?
「で、でもさ、パムって生まれた時から変わらないはずだろ?」
「ええ。何百年も例外無く、そうなっています」
僕の知っている知識とは何ら変わりのない返答をするルゥ。
だけど、言われてみれば思い当たるふしがある。
先日えんりの力を抑えた時、僕の容量を完全に越えていたはずだ。にもかかわらず、止めることができた。あの時は何かの偶然で、魔力が急激に回復していたのかと思って納得していたんだけど、もしその話が本当なら、辻褄が合う。
「一体何が原因で、そんなことが起こるんだ?」
「私が調べたところによると、あなたの心に大きな揺らぎがある時に、少しずつ広がっていくみたいです」
「それって、誰でもそうなのか?」
「先ほど言ったように、何百年もそういった事例はありませんでした」
だよな。心の揺らぎなんて誰にでもあることだし。
「じゃ、じゃあ今まで僕に散々やってきた仕打ちって」
「それを検証するために、ですよ」
「ちょっと待ってくれよ、それならそうと言ってくれればよかったのに。無断で人を実験台にしないでくれ!」
「もしそれをあなたに話したら、意識してしまうでしょう。それによって実験を阻害されてしまうかと思ったので」
畜生。
僕だって魔術師として学んでいた以上、研究者でもある。
探究心はそれなりに持っている。
逆の立場だったら、僕も調べてみたいと思う。
だからこれ以上ルゥに文句は言えない。
それに今の話が本当なら、僕が人間であるかどうかも疑わしい。
となると一体なんだというんだ。
そして多分ルゥがここを空けた理由もこれなのだろう。
「じゃあ、あんたが暫く留守にしていたのって」
「少々厄介な仕事を片付けるのと、ついでにその件について調べるためです」
やっぱりそうだ。むしろ今まで行かずにいたのが不思議なくらいだ。
多分僕が代理としてやっていけるまで時間がかかったからだろう。
「戻ってきたってことは、何かわかったのか?」
「いいえ、全然。ひょっとしたらと思い、国交が無い国まで足を伸ばしたのですが、収穫無しでした」
「じゃあなんで戻ってきたんだ?」
「ちゃんと仕事をこなせているか、心配になったんですよ。パムが成長するとはいっても、まだまだ私の足元にも及びませんからね」
あんたに比べれば王属の魔術師団だって足元程度だ。
「もう暫く留守にしますので、引続き代理をしてください」
「それは、できない」
「何故ですか?」
「正直、彼女らと今後どう接していいものか……」
「大丈夫です。今動いている彼女らはただの木偶です。本物は地下で眠っていただいていますから」
な、なんだと? そんな魔法をいつの間に開発していたんだ。
色んな意味で画期的な魔法じゃないか。本当にこいつは恐ろしい。
「さっき屋敷に戻るとき、妙な感覚があったんだけど、その魔法の影響だったのか」
「まだ不完全な魔法なので、そこは追々改善しなくてはいけませんね」
完成したら是非覚えよう。妄想だけで満足できない時とか最高じゃないか。
……じゃなくて、僕はここで続けていく気分にはなれない。
「それでもなんていうか、気持ちの整理がつかなくて」
「そうですか、残念です。それではこちらにサインをお願いします」
「サイン?」
「はい。あなたは先日、家を購入しましたね。これはこちらの意図しないものなので、当然請求させていただきますよ。本来だったら不問にしたかったのですが、私と無関係になるというのならば、払って頂かないと」
……げっ、リルミムの両親へ送った家のことか。
値段を見ずに決めてしまったからな。場所も建物もそれなりに良い物件だったし、かなりの金額であろうことは察することができる。
「えっと、そのーですね。あのー……あの家、いくらだったんですか?」
「二二〇〇万ストネです」
無理! 無理無理! そんな莫大な借金を背負って生きられない。
王宮魔術師でも年収一〇〇万ストネくらいらしいし、全部使って支払っていたら生活ができない。一体何十年かけて払い続けないといけないのか。
「ごめんなさい、続けさせてください」
「はい、助かります」
このド鬼畜め。
結局こうなってしまう自分が情けない。
せっかく優位な立場になれたと思ったのに、再び最下層だ。
「それじゃあ一つ、聞きたいんですけど」
「なんでしょうか」
「魔王マレッカについて」
「……気付きましたか」
「ちょっとしたハプニングがあって、えんりの力が暴走したんで」
「それはいつの話ですか?」
「フェフェ退治に行った時に」
「えんりを連れていったんですか? あなたのことだから、トルテティア辺りを連れて行ったと思ったのですが」
今まで見られていたと思っていたのに、全部勘で手紙とかよこしていたのか。想像以上に恐ろしい男だ。
「トルテを連れて行ったんですけど、荷物に紛れてえんりも来ちゃったんですよ」
「なるほど、それは予想していませんでしたね」
「僕もまさかと思ったけど」
「知っての通り、マレッカは昔滅ぼされた魔王です。しかしそれを復活させようとする組織が、生まれる前の彼女を器とし転生を謀ったわけです。彼女に罪はありません」
生まれる前、つまり母親の胎内にいた時にか。酷い話だ。
「だけど胎内に宿させるなんて、本人が協力してくれないと無理じゃないですか?」
「手紙を読まれたのでしょう?」
「ん、ええ」
「彼女の両親が、魔王信仰だったのですよ。そして親族というのも、同じ信仰者関連かと思います」
えんりが持っていた遺産というのは、恐らくその報酬に支払われていたものか、あるいは彼女の両親が代表で、かき集めていたお布施とかだったのだろう。
しかし魔王信仰なんてしている連中は、いわば狂信者だ。遺産として金品を求めたりしないだろう。
つまり、そこに付帯して手に入れられるものが欲しいわけだ。
「じゃあ奪い合っていたというのは、巨額の財産じゃなくて」
「はい。彼女そのものです」
やはりそうだった。そしてそんな連中に彼女を引き渡すことなんてできやしない。
「だからえんりを報酬として選んだということですか」
「そういうことですね。私としても子供の扱いは苦手なので、本来ならば信用のおける人物に養女として預かって頂きたかったところですが」
ルゥがルゥであるために、他人と関係を持てずにいた弊害か。
「まさかえんりにも、僕みたいに色々と実験を?」
「魔王の研究なんて、一〇〇年も昔に決着がついているではないですか。今更新しく何かを掘り出すようなことはしませんよ」
だよな。
「他にも実は力があったり……なんてことはないか。そうじゃなかったら僕はとっくに死んでいただろうし」
「今のあなたに、魔王の力はどうにもできないでしょう」
「でも先日はなんとかなったんだ」
「まだ幼いために、魔王の力も成長していなかったのでしょう。それに、彼女自身が抑えようとしていたからじゃないですか?」
確かに魔王と呼ばれるほどのものを、たかが一人の人間の力でなんとかできるとは思ってはいない。
「だけど、僕だって……」
「ええ、いずれはなんとかできるようになるでしょうね。あなたなら」
いつかきっと。
それにはもっと修行や経験、そして研究を重ねないと。
あと拡張するパムを、もっと育てなくてはいけない。
「もう少し、がんばってみるかな」
「助かります。これでも一応、あなたのことを見込んでいるのですよ」
本当かどうか疑わしいが、あんなに大変な仕事をそうそう他人に任せられるものじゃないから、信用してもいいだろう。
「それはいいんですが、でも、できればその、ちょっとくらい、先端だけでも」
って、いねぇ!
まだ聞きたいことは山ほどあるというのに、全部投げっぱなしかよ。本当に勘弁して欲しい。
そしていつの間にか体にまとわりついていた不快な空気が晴れ、いつもの空間がそこにあった。本当に立ち去ってしまったようだ。
だけど頑張ると言った手前、やってみよう。
一人じゃないし、少しは楽しく過ごせるだろうし……。
「しまった、みんなが起きる前に地下から出しておかなくては!」
僕は慌てて地下への階段を駆け下りた。
了




