第九話 傾いた教室
僕が夕飯の準備をしていると、「もう二度と、あの女には近づかないで」と亜麻姉に忠告された。
あの女というのは、十中八九、さだめのことだろう。
炊飯ジャーから飯を盛る。三つ分の椀をちゃぶ台の上に置いて、ふっと息をはいた。「んなの無理に決まってンだろ亜麻姉」食器を配膳する。僕、姉、父。「僕とさだめはいとこなんだから、近づくとか近づかないとか、そんな次元じゃない。半分血がつながってンだ。血縁は切っても切れねェ。だろ」
「勘当したらいいじゃん」
正直言えば、おまえと勘当したい。「そんな簡単な話じゃない」
「にゅー、ゆーくんの分からず屋」亜麻姉は頬を膨らませて、抗議の意を表した。「いけず。腹黒。鬼。悪魔。変態」
「いや、最後のは腑に落ちないのだが」というか、それは亜麻姉のほうだろ、と思う。亜麻姉より変態な奴なんて、それはもう尋常の遣い手ではない。国士無双のド変態、といっても過言じゃねェ。
「雪嗣」
と。
父の声。
僕は父の声音だけで、飯を催促しているのだと分かった。あるいは、無駄話を切り上げろ、と言う意味もある。僕は口を閉ざした。
その旨を姉も感得したのか、渋々引き下がる。なんだかんだ、僕たち姉弟は父に逆らえない。
しかし、僕の作った料理を目にすると、一転、嬉々とした顔つきとなり、よだれを垂らした。バカ姉の食欲は無尽蔵。意識は短絡的だった。簡単に関心が動く。
「いただきます」
こうして沖家の食事が始まる――。
焼き魚の骨を抜く最中、さだめの顔が思い出された。
阿賀妻さだめは父方の血縁で、僕の父の弟の娘に当たる。前述の通り、血が半分つながっている。歳は僕より一つ下。中学三年生であり、受験を控えているのだった。
さだめの家はここから徒歩十分程度のところにある。僕たちにとっての実家でもあった。さだめは実家に居を構えており、祖父母もそこで暮らしている。先ほどの会話で出た祖父母と言うのは実は、さだめにとっても僕にとっても、同一人物であった。
小さい頃はよくさだめと遊んでいた。幼少期のさだめは子供らしい純真さで、僕を慕うかわいらしい女の子だった。「あたし、雪お兄ちゃんのお嫁さんになるッ」とか嬉しいことを言ってくれたような気もする。しかしながら、日に日に大人びていくさだめを見て、変な感慨を抱くようになった。なんと言うか、精神年齢の低い姉とばかり付き合っているからか、思慮浅い姉と思慮深いさだめとに落差を覚えるようになったんだ。……って、なんかジジくせェこと言ってるな、僕。
性格は苛烈の一言に尽きた。冷然としていて、泰然としていて、凛然としている。容赦はしない。無駄を好まず、実を好む。僕や姉よりも数倍しっかりしている。
涼しげな口元、鼻筋の通った顔は整っており、背筋は針金を通したようにピンとしている。抜き身の日本刀みたいな風で、触れたら切れてしまいそうで、その容姿は黄金の彫像のようだった。
亜麻姉は途切れなく口に食い物を運んでいる。それを見て、さだめが持ってきてくれた土産に思い至った。そんなに食べたら、土産のお菓子が腹に入らないんじゃないかな、と思う。ま、亜麻姉に言わせれば、お菓子は別腹なのかもしれないけど。
土産は冷蔵庫に保管してある。さっき中を覗いたら、うまそうなお饅頭だった。
ふと、さだめがここに来たのは、何も土産を届けることだけが目的ではないのかもしれない、と思った。さだめの態度は、何か、変だった。
雑念を無視して、ポリポリと漬け物をかむ。
つけっぱなしのテレビから、ニュースキャスターの淡白な声が聞こえてきた。
――近頃、隠森村にて老若男女問わず、村民が行方不明になるという奇妙な事件が頻発しております。ちまたでは神隠しのようなものではないかと取り沙汰されており――。
それは地方局の報道だった。画面にはこれまでの被害者三名の顔写真が映っていた。
犬殺しと平行して報じられていた、薄気味悪い事件。神隠しと称され、村民に不安と話題の種を提供している。そういうこともあって、当神社でも参拝客が漸増するという慶事。ありがたい話。不謹慎か。
*
三四時間目は美術だった。
いくつかの班に分けて、静物をデッサンするっていう授業。六人一組で中央のテーブルを囲む。バケットにいれられたリンゴ。同じ班に浮永がいた。
浮永は運動能力もさることながら、デッサンも巧妙を極めていた。精緻。いつもの浮ついた態度はなりを潜め、真剣な表情で描出している。浮永は美術の時間に限って、静かになる。静かになって、洗練された絵を描く。感性が豊かなのか、空間把握能力が高いのか……。
僕はまっさらのスケッチブックを持て余していた。渡されたクロッキーを手すさびにして、対象のリンゴを見るともなしに見る。
退屈していた。
模写ができない。
僕は生まれつき、絵心がない奴だった。廃墟のスケッチならお手の物なんだけどね。それ以外のものは描けないんだ。これも感性が貧しいのか、空間把握能力が低いのか……。
無聊に周囲を見渡した。みな、思い思いにクロッキーを走らせている。それを見て、言いようもない焦燥感。
ともすれば。
ふいに。
僕は後ろに陳列してある首像に目を奪われた。
石膏だ。塗り固めてある。白い。無機質。でも、清新な躍動感を感じさせる。今にも動きそうだ。そして……禍々しい。高尚な美と清冽な醜とが並存している。不気味なことだった。交じり合うことのない両者が交じり合っているように思えた。
あれは入学して間もない頃のことだった。僕は放課後、夕映えの校舎の中に迷った。入学したばかりで、校内の地理に疎かったからだ。不案内な地と見知らぬ人の群れ。惑乱され、どこをどうしてよいものか、悩んだ。玄関が果たしてどこにあるのか分からず、言いようのない不安を覚えたのである。
そんなときに目にとまったものがあった。それはとある教室で、扉から穏やかな夕日が伸びているのが分かった。
導かれるように入室した。教室の中は清澄な夕日に満ちていた。机を照らしていて、棚を照らしていて、像を照らしている。神秘的な空間。傾いて見える。教室が、傾いて見える。立っている床が斜めにずれている。僕は偏倚なものを感じた。謎めいた空気に気圧されていた。その空気を醸成していたのは紛れもない、一体の石膏像だった。
導かれるように触れていた。手に艶めいた感触が残る。おかしい、と思った。僕が触れているものはただのカルシウムの塊に過ぎない。なのに、ここまで動的な妖しさを隠し持っている……。
「惑ったね」
と。
残響。
教室の前方である。僕はぎょっとして振り向いた。冷たい汗が背につたった。
はたして、少女がいた。
背格好や雰囲気から推すに、一つ上の学年のようだった。
「わたしが作ったものだ」
少女はしどけなく言った。化生を思わせる艶な美貌だった。
僕は慌てて彫像から手を離した。いけないことをしているような気分になった。他人の妻を寝取ってしまったかのような背徳感。
「恐れることはない。恐れることはないぞ。わたしを気にせず、もっと、強く、触るといい」
そして、この世の外を感じ取るといい。
少女は顔の右半分を手で隠した。体を前傾させる。粘性を含んだ左目が、鋭く僕を貫いた。
僕は恐る恐る石膏像を向き直った。
古人の面立ちが彫られていた。くりぬかれた眼窩。あるはずのない虹彩を絞って、僕を見つめている。僕はゆっくりと、手を伸ばした。
と。
ぬめるような感触。おかしかった。石膏の硬質とは違った、ぬめりのある感じ。それは奇妙なほどに粘性があり、指の腹に付着するのが分かった。
それは。
それは――。
「それ、榎戸先輩が彫った奴だろ? すげぇよ。こういうのを天才っていうんだろうな」浮永は手を休めて、例の首像を眺めた。「もう賞賛しか浮かばねぇ。これを塑造、彫刻した人は天才だって、万人に思わせる作品だぜ。有無を言わせねぇ」
浮永はうっとりとしている。
像。
うねる髪が光源となり、薄く開いた唇、白く照る皮膚……艶かしい。狂気の沙汰だ。これを生み出した人間、まさに狂気の塊……。
「にしても」浮永は唐突に切り出した。「最近、随分と物騒になったもんだな。犬殺しに続いて、行方不明者続出たぁ、穏やかじゃねぇ」
僕は犬殺しが身内であると知ってるもんだから、「そそそ、そうだな」と気が気じゃなかった。「こえェーよなァ、こえェようん、その意見には賛同するよ浮永。僕、日本の安全神話完全に信頼してたから――っていうか、妄信してたから僕、むっちゃこえェわ」
「だろ。なんか最近おかしいよな。犬殺しも神隠しも、確かおまえんとこの村が被害の中心なんだろ? 犬殺しは静かにしてるらしいけどよぉー、神隠しのほうはつい最近、出たんだろ? 行方不明者。大丈夫なのか、沖?」と浮永は存外に心配そうだった。
「多分、大丈夫、だと思う……」
「まぁ、おまえの家は神社らしいからな」
「……なんか含みある言い方してンな」
「よもやおまえんとこの人間が真犯人とか、笑えねぇとか思っただけさ」
ま、そんなことはないって分かってるんだけどな、と浮永。
あながち間違ってない、と心中でどぎまぎする僕。
すっかり話し込んでしまったから、「静かにしなさい」と先生に怒鳴られた。
首をすくめる僕たち。
「あら、沖君はまだ何も描いてないじゃない」
加えて、さらなる注意を食らった。んで、心の思うままやればいいのよ、と優しく諭される。先生は優しく、僕にクロッキーを握らせた。
美術の授業は二時間ぶちぬきで行われる。
僕はその二時間を、彫刻の鑑賞に費やした。