第八話 ドS
買い物を終えて、カゴに食料の詰まった袋をぶちこんで、ペダルを目一杯踏み込んで、帰路を疾走した。母屋の裏側に自転車を停める。亜麻姉は今にも死にそうな目をしていた。
スーパーの袋を持とうとすると、どこからか声が聞こえた。拝殿のほうからだった。二人いる。一つは低く渋い声、もう一つはエッジの切れた若い声。「お客さんかな」
「うぅ、死にそう」亜麻姉は僕の肩に手を置いて、呼吸を整えていた。「なに? 誰か来てるの?」
「らしい」
「珍しいね。参拝客かな」と首を傾げる。
時刻は昼過ぎ。日差しは穏やかで、木々の影の隙間に、陽だまりがある。山気を含んだ涼風が、土ぼこりをさらっていく。
僕たちはスーパーの袋を携えたまま、注連縄の結ばれたご神木のそばを通り過ぎる。柱間の高欄に手を添え、透き廊を沿うように進んだ。敷き詰められた玉砂利を踏む。ジャリジャリと小気味良い音が響いた。
角を曲がると、開けた場所に出た。社務所や手水舎が見え、賽銭箱の前に二つの影があった。
どうやら僕たちに気づいたらしく、「ん」と息を呑むような音がした。「雪嗣」
その子は切れ長の双眸を僕に向けた。強靭な意志を宿した眼圧。初見の人はそれだけでひるんでしまうのだが、というのも、単に目が悪いというだけであって、それが彼女の常態であった。
しかしながら、彼女の玲瓏な貌も相まって、氷のような冷たさと炎のような激しさが同居した、妖しげな雰囲気を醸成している。
僕が賽銭箱の近くまで行くと、彼女が漆を塗りこめたような品のいい黒い箱を携えているのが分かった。
凝然とみているのに気付いたのか、「お土産よ」と彼女は言った。「祖父母が旅行先で買った奴。おすそ分けに来たの」
祖父母のことを想起した。確かに祖父母は旅が趣味で、外国にまで足を伸ばしたことが何度もあると聞く。
「ありがたいことだよ。わざわざ持ってきてくれて。……にしても、あの道楽じいさんばあさんは年甲斐もなく、まだ旅だなんだといっているのかね」父は申しわけなさそうにした。彼女の言う祖父母とはすなわち、父の両親にあたる。彼女と話していた低い声は、父のものだった。
彼女は丁寧な口調を崩さず、箱を差し出した。「いえ、そのような遠慮は……。それに祖父母は気のよい人たちです」
「そうか。そういってくれると肩の荷が下りる。では、謹んで承ろうか」
父はお菓子が入っているらしい箱を受け取った。
その様子を眺めていると、「もう、置いていかないでよぉー、お姉ちゃん、体力ないんだから、そんなに急がれると息、切れちゃう」と愚痴るような声音。
バカ姉だった。
バカ姉は乱れた呼吸を整えるようにして、拝殿の階段に座り込もうとした。
と。
「あぁーッ!」
姉は甲高い声を上げた。
その拍子に、鳥がいっせいに羽ばたいた。
「ななな、なんであんたがここにいるのよッ!」姉は忌々しげに彼女を指差した。「ここはわたしとゆーくんの聖域、サンクチュアリなのにッ! あんたみたいなにわか者が立ち入っていいところじゃないのよ!」
「……このブラコンクソ女」と一転して荒っぽい口調になった。酷薄な表情。「ホントに気持ち悪いわ。弟に劣情を抱くだなんて……人として、女として、最低」冷え冷えとした口調。そばにいるだけで凍えてしまいそうになる。「それにあたしをにわか者扱いする辺り、低俗な頭を露呈させているわ」
「てて、低俗ですってぇッ! わたしのどこが低俗だってのよッ! 述べてみなさい! 三十文字以外で簡潔に述べてみなさいッ!」
彼女はやれやれと亜麻姉を揶揄するような手振りをした。「これだからブラコンは……」
「ブラコンの何が悪いってのよっ! 家族が好きで何かいけないわけ? ゆーくんを愛して、何かいけないわけ?」
「さだめはさ、亜麻姉に限度ってもンをわきまえろって言ってンじゃねェの?」すかさず、緩衝の一手を入れた。二人が逢着したとき、必ずといっていいほど紛然たる舌戦が起こる。不毛な戦い。それを仲裁するのはいつも弟の僕の役目だった。
「ゆーくんもそんなこと言うんだっ……! べべ、別に弟と手ぇつないだり、ハグしたりするくらい、普通の姉弟なら当たり前にすることじゃん。そそ、それのどこがいけないのよバカぁ!」
「……分かった」僕は弁を激しくするバカ姉を見た。「亜麻姉はブラコンなんかじゃなくて、単に非常識なだけなんじゃねェかって、僕、そう思ったね。常識が足りてねェンだ。いっそ小学生からやり直しゃァーいいんだよ」
「えぇ、年上のわたしが小学生で、年下のゆーくんが高校生だなんて、そんなのおかしいよぉ。それにゆーくんは嬉しくないわけ? お姉ちゃんとの愛を深めることができるんだよ? むしろ喜ぼうよ!」
「意味分かンねェ」
「誰か、有能な翻訳家を連れてきてちょうだい」彼女は本気でそんなことを言っているようだった。
一人劣勢に追いやられた亜麻姉は、のべつ幕なしに弟への愛をうたったが、体裁をなしてはいなかった。クスリを最高にハイに決めた中毒者みたいだ。
唯一父だけは、いつも通りの表情を浮かべている。高価そうなお土産をもらって、なんか嬉しそうだった。
……この男は娘の狂態を見て、何も思わんのか。
僕は不敬にも、父親に不審のまなざしを向けた。
「雪嗣」僕を呼ぶ声がする。「こっち、向いて」彼女は僕の手を握った。汗ばんだ彼女の手のひらが、優しく僕の両の手を包んだ。
目を眇めて彼女を見ると、その頬に赤みが差した。これは何も、まばゆい日射が原因ではないような気がした。
彼女は常から剛の気概を持ち合わせ、他に屈するを潔しとしない気質であった。そのたゆまぬ姿勢は一種、居丈高とも取れる態をなしており、彼女を孤高に見せた。豪胆で、きりりとしている。
そんな彼女の目がふいに、親密な情を内包するものとなる。「今週の土曜日、暇でしょ? 街に行きましょう」としかし、有無を言わせぬ口調。
「街ィ? なんでェ」と素っ頓狂な声。僕は彼女の真摯な態度に、奇妙なものを感じた。
彼女は僕の言葉を遮るように言った。「行きましょう。……いいわね?」
「……んだよ、おまえ、受験だろ」僕は暗に、この時期に遊んでいいのか? と問うたのだった。
「……参考書! 参考書を買いにいくのよ。それで、高校受験を経験した雪嗣に助言っていうか……ついてきてもらいたいのよ」
彼女の言はまぁ、理にかなってはいた。僕は彼女より一つ年上で、高校受験をすでに経験している。経験者に学ぶというのは、合理的な手だった。
しかしながら、彼女は僕よりもずっと賢い才女で、僕がついていくメリットはあまりない。恥ずかしい話、僕の勉強の成績は凡の一言に尽きた。
「おまえに参考書なんか、いらないだろ」
「いるったらいるッ! あたしには必要なのよ。だから、さっさと首を縦に振りなさい!」彼女は僕の襟をつかんだ。すごい力だった。
「く、首が、しまる」
「首を縦に振れって言ってるでしょう? ほら、返事は?」
「いや、だから」僕は彼女の腕を叩いた。「首が、しまって……動かせねェんだよ」
「あ」彼女は一瞬、ほうけたような顔をしたが、「あたしに付き合うってんなら、放してあげてもいいわよ」と理不尽な要求を突きつけた。
「つ、付き合う……! 付き合うから……」
「なに? 聞こえなかったわ」
このドS女め……。「付き合うッ! 付き合ってやっから離してくださいお願いしますこの通りですさだめ様」
「……しょうがないわね」彼女は僕を解放した。ご満悦な笑顔。
「……いつからおまえ、こんな女王様みたいな性格になったんだよ」
少なくとも、幼少期のさだめはこんな意地悪い性格ではなかった。
「元からよ」彼女は涼しげに言い放った。
「あぁーッ! なぁーにわたしのゆーくんとべちゃくちゃしゃべってんのよ淫乱女ぁ! わたしのゆーくんを誘惑するなんて万死に値するわ! あんたの手管なんてお見通しなのよ!」
「それじゃ、雪嗣。またね」彼女は亜麻姉の罵言を完全に無視した。「土曜日、楽しみにしてるわ」
「あっ、あァ」僕は彼女の笑顔があまりに純に見えて、いささか面食らった。
彼女は長い髪を優雅になびかせて、参道を歩いていった。
その後姿を目で追う。ポケットに手を突っ込む。
阿賀妻さだめ。
僕たちのいとこである。