第六話 犬がいなくなった物語の後日談&楽園の入り口
楽園はすぐそこにある。
*
時計の針。
チクタク動いている。一分一秒を丁寧に刻んで、円状に針が回っている。数字の刻まれた盤。休まない。延々と盤上で時を示している。
時間をのばしたい、と思う。
僕の生活は多忙を極めていて、食事の用意やら家事洗濯やら姉の世話なんかで相当の時間を潰してしまう。だから、時間をのばしたい。時間が、ほしいんだ。
もし時というものが飴みたいに伸縮自在な代物だとしたら、こねくり回すね。粘土みたいに。それで琴の弦みたいに、限界まで、伸長させてやる。糸状になる時間。爪を引っかけたら、いい音を響かせてくれる。女のあえぎ声みたいに。
でも、よくよく考えてみたら、時間をのばそうが、一日が長くなろうが、人生の時間ってのは固定されてるから、結局生きてる時間そのものは変わらない。三十時間だろうが百時間だろうが、変わんねェんだ。
寿命には勝てない。命尽きるまで、刻まれる針を眺めるしかない。両の手からこぼれ落ちる黄金の砂。それをすくい取ろうとか、アホみたいなことを考えている。
縁側でまどろんでいた。
野の草は露を置き、神域の木々は紅葉している。秋晴れの時候。庇に遮られて陰影ができるが、角度の都合で脚部には日が当たる。僕は板敷きの上に横臥して、ぼんやりと浦風にたなびく洗濯物を眺めた。
一時間ほど前に洗濯を終わらせて、物干し竿に衣服をかけた。パタパタとこいのぼりのようにはためいている。今日は空気が乾いていて、日差しも強い。天日干しに適した天候だった。
背後には一間の和室がある。水墨画の掛け軸が一幅、違い棚には彫金の施された箱が飾ってあった。畳床には、和紙をしつらえた行灯が置いてある。
壁にかけられた時計は午後一時を指し示していた。
チクタク動きやがる針を観察するのにも飽きて、さっきから粋人気取りに秋の景物を目の肥やしにしている。程よい脱力感。皿洗いもさっき済ませたし、夕餉のための米もしこんでおいた。いくつかある室の塵払いはあらかたしておいたし、出納の確認も済ませた。
我が家は相も変わらず財政難で、少しの支出もためらわれるほど、家計簿のそれは暗澹たるものだった。僕が安らかな顔で帳簿を閉じたのが、ちょうど三十分前のことだった。
心地よい疲労感と憂鬱な気分とが混ざり合っていた。
家事が片付くと、縁側で日向ぼっこをするか、自室でカッターナイフの素振りをするか、そのどちらかだった。疲れたときは前者で、心を空っぽにしたいときは後者を選択する。また、気が滅入るようなときは、明朗な陽光を浴びて、風通しをよくするのだった。
少しだけ、ひきずっている。
目を閉じると、あの日の記憶が再生される。無残に四散した肉、飛び散った血、鈍く光るバット、屈託のない笑顔……。あぁ、最悪だ。まぁーた思い出しちまった……思い出したくもねェのに。吐き気すら、催すというのに……。
善意でやった行いが必ずしも善行になるわけではない。
悪意でやった行いが必ずしも悪行になるわけではない。
例えそれが善意で発露した行為であっても、ボロ雑巾みたいに犬をぶっ殺すことが、善行であるはずもない。
あどけなく笑って、僕の言葉に手放しに喜ぶ、姉の笑顔。口付けを落とした後の、あだっぽく高潮した顔、憂いを帯びた上目遣い……僕は壊れ物を扱うみたいに優しく、姉を抱きしめた。艶やかな髪の毛に指を絡ませて、ぎゅっと抱きすくめてやると、「あ……」とはかなげな吐息を漏らす。華奢な体は少し力を込めれば、いとも簡単に折れてしまいそうで、血の巡りや心臓の脈動なんかが、皮膚越しに伝わってくるようで、なんとも愛しい。次いで、姉も応えるように僕の腰部に手を絡ませ、肩にあごを置いて、今にも途絶えてしまいそうな息遣いを切なそうにするものだから、ますます、血の還流が激しくなるのを感じた。この瞬間、眼前の人を姉ではなく、女として認識する自分がいた。
僕は普段の感情を忘れて、姉弟ゆえの同属嫌悪も忘れて、ただただ姉の体をさすったり、呼吸を同調させようとする。バターみたいに渾然と溶けてしまいそうで、そのまま一つになってしまいそうで。
元より、一つなのかもしれない。体を流れる血液は間違いなく同一で、ただ収まっている肉体が違うに過ぎない。同じ腹から生まれ、同じ血脈を有し、一つ屋根の下で起居を共にする。はたしてそこに、差異なんてものがあるのか?
月夜の森で抱き合うという、一種の儀式めいた行いが終わると、僕は姉の手を引いて、突き出した腕木の下にいざなった。
姉は始終、無言だった。顔を伏せ、流れに任せているように見えた。ただ、長い前髪の隙間から見せる面貌は、熟れた果実のように赤く染まっていた。
秋の月明かりで見る姉は、魔性だった。嫋々と濡れた髪は月に映え、能面のように白く綺麗な顔は美しく、柳腰もたおやかに据えられている。滾々と水を蓄えたような瞳は、纏綿たる情緒を帯びていて、細くしなやかな手はきゅっと握られていた。
森閑と更ける木立から、夜風が吹いてきた。
潮のにおいと、獣のにおいの混じった、不思議な風である。
それが合図であるかのように、「お布団」と姉はつぶやいた。「お布団、いこ」
服には血がこびり付いている。漆黒のワンピース。浮き上がった鎖骨や、望月に照る肌が生々しい色気を発している。
「そうだね」僕は柱に背を預けて言った。「お布団、いこっか」
「……うん」姉は気恥ずかしさからか、体を縮こまらせた。期待と不安の入り混じった瞳。
「亜麻姉が寝付くまで、子守唄を、歌ってあげるから。ねんねんころりよ、おころりよ……って。亜麻姉も、ちゃんと、一人で寝られるようになるんだよ」
「え」
「寝室までいこっか」僕は有無を言わさぬ口調で言った。
姉は何か言いたそうな表情をしていたが、僕がきびすを返すと、黙ってついてきた。
そのさい、一瞬だけ姉の唇を動きを盗み見た。
ちがう。
言葉にならない想い。はたして、姉は何が言いたかったのか? 何がちがうのか?
……子守唄だけじゃ、不服なのかもしれない。
布団の中で寝息をたてた姉を見て、ふと思う。
姉はしおらしいままでいた。
まるでつつましい淑女のように。
愛しい人からの夜這いを待つ乙女のように。
僕は自室に戻った。
接吻も、房事も、何もせず、ただ子守唄だけを歌った。
窓からは、穏やかな月明かりが差している。
僕は壁にもたれて、この胸の鼓動を鎮めようと、天井の木目を数えている。
*
「あちゃー」
冷蔵庫の中に何も食料が入ってないことに気付いた。
冷蔵庫の中に頭を突っ込む。肉、魚、野菜、一切ない。消失している。おかしいな、と思った。僕の計算では後五日間は持つはずだが……。
と。
計算式から抜け落ちた要素があることに思い至る。姉だ。確信する。十中八九、姉の大食のせいだ。
姉はよく食べる。何でも食べる。ご飯は必ずお代わりするし、僕の分の魚を横から取ったりするし、味噌汁を飲み物のように嚥下したりする。夜中にお菓子の袋を開け、ジュースを一息に飲む姉の姿はまさに、暴食の化身だった。
しかし、これも稀代の天性なのか、食いすぎが原因で姉が太ることはない。ししおきは豊かだが、一定の基準よりもぶくぶくと肥えることはなかった。むしろ男受けのよい肢体を誇っており、抱き心地もふかふかの布団みたいに柔らかくて、気持ちいい(変な意味じゃない)。
亜麻姉と交誼を結んでいる榎戸岬先輩が言うには、「栄養が全部胸にいっているのだろうね」とのことだった。
そういうことで、我が家の食糧事情は風雲急を告げる事態だった。
「食料を調達せねば」
冷蔵庫の扉を閉めて、敢然と立ち上がった。沖家の財政を一手に担ってる身として、この問題は早急に処決すべきことだ。
買い物袋を携えた僕は、縁側から靴を履いて、物置の近くに移動した。そこには使い古した自転車がある。長年の愛車。
僕は自転車の鍵をぶちこんで、サドルに乗った。
本日は快晴。
風は良好。
「さて」
「レッツラゴー!」
「え」背後から声が聞こえてきた。聞き覚えのある声だ。
僕はイヤな予感を抱いた。
この世に生を受けて十五年、悪い予感が外れたことは一度もない。
僕の腰に手が回される。「うーん、こっからスーパー田島まで、約十分ってとこかな。それじゃ、ゆーくんロボ、しゅっぱーつッ!」
「……僕はロボットじゃねェよ」
「ロケットパンチがついてないタイプ?」
「ついてねェよ」
「そうだよね、後で回収が大変だもんね」
僕は自分で飛ばした腕を、腰を曲げて拾うという滑稽な光景を想像してしまった。「間抜けすぎて笑えねェ」僕は笑いたくなった。なんというか、あきれ果てた末の苦笑。
僕は執拗に絡みつく亜麻姉をふりほどいた。僕の背中に顔をべったりくっつけていた亜麻姉は、悲鳴を上げて荷台から転げ落ちた。
亜麻姉はしりもちをついたらしく、臀部の辺りをさすっている。そして、ぶすっとした目で僕を見上げた。「なんか、最近のゆーくん、お姉ちゃんに対して冷たいね」
「これが常識的な反応なんだよ、亜麻姉」
「お姉ちゃんに冷たくすることが常識的なの? そんな常識、つまらないよ。……そうよ、ゆーくんがこうなったのもジョーシキとかシャカイーとかがいけないんだ! ゆーくんに変なこと吹き込むから、お姉ちゃんといちゃいちゃしないんだッ! お姉ちゃん、納得ッ! だったらぁ……わたしがゆーくんを正しい方向に導いてあげないと……にゅふふ、ゆーくぅんーッ! お姉ちゃんが、いけない授業をぉー、ゆーくんにしてあ・げ・る」
僕は肘を伸ばして、拳を握った。「それ以上ふざけたこと言うと、僕のロケットパンチが火をふくぜ」
「ひぃ……」
亜麻姉は悶絶した。
もはや、姉に対する暴力が日常茶飯事になってしまっているこの現状。……DVなんかじゃないよ。テヘっ。
「うぅ……すみません。調子乗りました。お姉ちゃん、ついつい調子に乗っちゃいました……。ごめんなさいもうしません許してくださいぃッ!」と姉は猛烈な勢いで頭を下げた。姉としての尊厳なんて、かけらもなかった。弟として、なんか複雑な心境。
さすがにやりすぎたかな、とちょっぴり反省して、「いや、僕もちょっとやりすぎた」と謝った。
すると姉は目を潤ませて、「だからゆーくんのことが好きッ!」と僕に抱きついてくる。「もう、素直じゃないんだからぁ」
僕はきっと、渋い顔をしているに違いない。
「だーかーらー」
「ごっ、ごめんなさいぃ! ……出来心なのッ! 魔がさしただけッ!」姉は慌ててごめんなさいをした。「だってぇ、ゆーくんがかわいくてかわいくてしょうがないんだもん……」
「……僕はさ、一刻も早く買い物に行きたいんだ。とっとと僕を解放しろよポンコツ姉貴」
「わたしも行く! ゆーくんのお手伝いするの!」姉は決然とした顔つきだった。
「……亜麻姉がァ?」
「ばっ、バカにしたなぁー! なによ、お姉ちゃんなんて使いものにもなりませんわほほほ、ってことなのーッ! いらなくなったら噛み終わったガムみたいにポイってわけね。お払い箱ってわけね。……そうやってゆーくんはお姉ちゃんを捨てていくんだぁーッ!」
「……いや、そういうことじゃないんだ。亜麻姉の気持ちは嬉しいよ……でも」と一旦口を切る。「でも、ほら、お姉ちゃん、買い物もろくにできないだろ。すっごく言いにくいんだけど……いてもあんまり意味がない、みたいな」
「うぅ……返す言葉もございませんよお代官様ぁ」
姉は悲しそうにうなだれた。
その様子があまりに不憫で、思わず僕は亜麻姉の背中をさすってしまう。
「それに我が家の食料の六割は、亜麻姉が消費してンだ。それだけ亜麻姉が大食だってことで……そんな健啖家が買い物なんかしたら、ものすごい量の食料がスーパーのカゴの中にぶちこまれるのは目に見えてる。だろ?」
「おっしゃるとおりでごぜぇます。つまりは、おいらがいけねぇんですねぇ……」
「そういうことだからさ、これ以上食費で家計を圧迫させるわけにもいかねェんだ」
だから。
僕は亜麻姉から目を逸らすようにして、「だから、あんまり僕の買い物の邪魔、すんじゃねェぞ」と言った。
「……え」姉は驚いたように僕を見た。「それはさ、それはさ……お姉ちゃんが、買い物についていってもいいって……こと?」
「邪魔しなければ、の話だけどな」
「邪魔しないッ! 邪魔しないからッ、お姉ちゃんもッ、買い物行くッ!」
姉は嬉々として自転車の荷台にしりを乗っけた。「早く早く」と催促してくる。
……二人乗りする気満々だこの人。
条例やら道路交通法の細則なんかに、二人乗りはいけませんよーって書いてあったような気もするが、姉の暴挙を前にしては、ささいなことだった。
僕はもしかしたら、無邪気でアホな姉と一緒にいれるのが、嬉しいのかもしれない。
サドルにまたがると、姉の腕が腰に伸びてきた。ぎゅっとされる。頬に赤いものを潮してしまう僕。
ふりほどくことはしない。今度は。
亜麻姉の豊満な胸が背中に押さえつけられて、恥ずかしくなる。意図してやっているのだろうか。ったく、小悪魔な女め……おっと。はたしてこれは、弟が姉に抱く感想なのか……? 絶対違う、と心底から思う。でも、そんなに悪い気持ちではなかった。
「しっかりつかまってろよォ」と高鳴った気分を、走行に向ける。
「バイクに乗ってるノリってわけね」
亜麻姉が合いの手をいれてきたが、ま、そういうことにしておくさ。