第五話 ホロコースト
滅びゆくものに美意識を感じる。
朽ち、腐り、崩れ、果てる。死へと収束する過程。生あるものの行き着く先は死である。また、生なきものとて行き着く先は死である。
一際、強い。そう思う。僕はカッコいい言い方をすれば、終焉に悦を覚える人種であり、単純な言い方をすれば、ただの廃墟マニアだった。
その手の雑誌が棚にぎっしりと並べてある。古今東西、津々浦々に残る廃墟の記事や特集。紙面には廃棄された線路や駅なんかがあった。茫々と生える雑草や、錆付いた鉄の色具合はまだ見ぬ世界を想像させる。
行って見たいと思う。でも、行けない。一つはお金がないからで、一つは姉の世話をしないといけないからだ。
月明かりが差し込んできた。
窓の外には、皓々と照る月があった。
僕はいつものように窓の縁に腰かけて、月見がてら、紙上の朽ち果てた建造物を眺める。僕は不思議な感興を覚えた。虫のすだきが耳に心地よい。
長月の夜である。
潮騒の音はなく、寂々とそよぐ枯れ草が印象的だった。
涼んでいる。下方を見る。すると、月光に伸びる隻影があった。
目をひそめる。
影は何かを引きずっていた。細長いものだ。しかし引きずっているのだから、それなりに重量はあるのではないか、と推測する。
目で追っていたが、月明かりは急に弱々しくなり、影の正体は判然としない。窮しているとやがて、影は木々に隠れてしまった。
人の形をしていたように思う。
しばらくすると、邪魔になっていた木々が途切れた。雲間に隠れていた月が、再び姿をあらわす。同時に影の後姿が鮮明になった。
それは。
「……あんにゃろォ」
僕は引き出しにしまっておいたカッターナイフを懐にいれ、部屋から飛び出した。寝静まった屋内である。父を起こさないよう抜き足をする。靴を履くと、抜き足をといて走った。
閑寂な森。僕は物を曳いてできたわだちのような跡を追った。
しばらくすると森の深い部分に入った。この先は波濤を臨む崖になっている。
僕の耳朶が何かをかき混ぜるような卑猥な響きを拾った。胸騒ぎがひどくなる。僕は不安や焦心を押し殺して、先に進んだ。近づいていくごとに音が大きくなるのが分かった。
太い幹の向こう。木肌に手を置いて、音源のほうをそっと覗き見た。網膜が髪を振り乱してバットを振りあげる女の姿を映した。
女は月の光に潤むような綺麗な髪をしていた。四肢はしなやかであり、露出した肌は新雪のような色をしていた。返り血のついた顔は能面のように美しく、何度も赤錆びたバットを叩きつけている。
叩きつけられたそれは、初めは悲しげな遠吠えを上げていたが、すぐに抵抗らしい抵抗を見せなくなった。体は血で真っ赤に染まっていた。腸のように蠕動している。
すでに死んでいるようだったが、女は殴打をやめない。とりつかれたようにバットを握り締める。そして、振り下ろした。肉を絶ち、骨を砕く音がした。
女の表情は空虚だった。感情らしい感情はなく、情緒らしい情緒はない。人の感性とか、感応とかが、ぽっかりと抜け落ちている。ぐちゃぐちゃにする。
僕は腰砕けになった。その拍子に布擦れの音をさせてしまう。
それに気付いたのか、女はこちらのほうを向いた。
「ゆーくん」
女はぱぁーっと笑顔になった。
花開くように。
雲の立ち消えた青空のように。
「どうしたの、ゆーくん。そんな怖い顔して」
「亜麻姉」
「大丈夫だよ。怖くないよ」
「亜麻姉」僕は震える指で、それを。「それ、なんだ?」
「ああこれ」となんてことない風に笑って、「殺しちゃった」と無邪気に言った。
「殺した……?」
「私はね、前々からゆーくんの力になりたいって思ってたんだけど、私ってなんにもできないじゃん? ゆーくんにまかせっきりで、私は幸せだけど、それはやっぱりゆーくんが大変だもんね。それで、私もゆーくんのために一肌脱ごうって。考えたんだ。色々。でもお姉ちゃん、頭悪いから、なーんにも思い浮かばなかった。けど……思い出したの。ゆーくんの犬嫌いのコト」
亜麻姉は一旦言葉を切った。
「ゆーくんはさ、犬嫌いでしょ? それで、ピコーンって思いついたの。嫌いなものは、なくせばいいってッ! 苦手なものを克服する苦労は、苦手なものだらけのお姉ちゃんには身にしみるほど分かるもん。私、ゆーくんにあんまり苦労かけたくないから、ゆーくんの苦手なものを克服じゃなくて、消しちゃおうって、考えた。我ながら名案だって、思った」
血濡れたバットで遺骸を打ち叩く。
バットが重いのか、千鳥足になっている。
犬の胴体は悲しいほどに薄くなっていて、内臓器官が飛び出していた。それを亜麻姉は問答無用にバットでぐりぐりした。潰した。頭も丁寧に潰した。
「ちりも積もれば山となるって、ことわざ、お姉ちゃんには似合わないよね。でもまあ、だいぶん数をこなしてきたなぁ。テレビにも載ったし。犬殺しだって。ヘンなネーミングセンス。リョーキテキナーとか、イジョウシンリガーとか、バカみたい。そんなんじゃないのに」
天衣無縫に笑う。
肉の破片が辺りに散らばっている。
「一匹一匹潰すのは効率的じゃないけど、お姉ちゃん、力技しかできないから。えへへ、雑だなぁ。こんなんなっちゃった」
亜麻姉はもはや物と化してしまったそれを親指と人差し指で摘んだ。摘めるくらい、小さくなっていた。
「臭いね。気持ち悪い」
鼻をつまんだ亜麻姉は眉間にしわを寄せて、ポイ捨てする。
「それでさ、ゆーくん。お姉ちゃん、えらい? 嬉しいかな。ゆーくん、お姉ちゃんにいい子いい子してくれる?」
亜麻姉は砂糖菓子のような甘い顔をして、表情を緩めた。
深更である。
幹に手を置いて、立ち上がった。ゆっくりとした歩調で亜麻姉に近づいていく。
僕はボロ雑巾のようになってしまった犬の背中の皮をつかんだ。嫌悪感はなく、ただ吐き気をもよおす醜悪があった。これまで犬に抱いていた嫌悪の念はすっかり失せていた。
僕は犬の背中をなでた。反応はない。「僕はもう、大丈夫、だから。犬、ヘイキになったから……」
「そうなの?」
「亜麻姉のおかげでほら、ヘイキへイキ。ぜんぜん怖くないから。すンごいよ、犬に、サワレルようになってるよ、僕」
「私のおかげ?」
首肯した。「亜麻姉はイイ子だよ」
「えへ……お姉ちゃん、いい子?」
「イイ子」
「ん。ゆーくん、犬嫌いは直った?」
「直ったから……もう、やめてね。犬がカワイソウだよ。ザンコクでキモチワルイ。僕はお姉ちゃんに、こんなことしてほしくない」
「んー、そうなんだ」
亜麻姉はどこか面白くなさそうだった。自分の功績を否定されたような心持ちなのだろうか。
僕は犬を放り捨てて姉の頭に手を置いた。
なでなでする。
「亜麻姉はいい子だよ。亜麻姉は僕のために犬をコロシたんでしょ? 僕がやめてっていったら、やめればいいンだよ」
姉はすっかり顔をにやけさせて、されるがままになっていた。なでなでした頭部は、僕の手同様、犬の血にまみれていた。
僕に体を預けている。
亜麻姉の体を軽く抱きしめた。
耳に、口を寄せて、言う。「いいよね」
「……いい、よ。やめる、から」亜麻姉はあえぎ声を上げて、僕の腰に手を回した。「やめるから、お姉ちゃんに……ご褒美、ちょうだい」
姉はすっかり脱力して、陶然となっていた。
柔らかい頬に右手を添える。
僕は亜麻姉の額に口づけを落とした。