第四話 箱の中で溺れる
夕方になった。
廊下の窓からゴシック建築の尖塔が見える。天を摩するほど高い。荘厳な時計台があって、五時を知らせる鐘がおごそかに鳴った。
下には舗石が敷き詰められた庭があった。中央には噴水。橙色に染まった水が上に噴き出している。備え付けのベンチには何人かの生徒が談話に花を咲かせていた。
授業は終了している。
僕は部活動に所属していないから、このまま帰宅に相成る。
ポケットに手を突っ込んで、階段を下りた。左手はかばん。右手はポケットの中のカッターナイフをもてあそんでいる。
「ゆーくん、帰ろッ!」
角を曲がろうとしたら、姉が出てきた。
下駄箱の辺りである。
上履きを履き替えて、靴を取り出した。
「かーえろッ!」
満面の笑み。亜麻姉は僕の手を引いてしきりに、「かえろかえろ」と言い立ててくる。子供みたいだ。母親に構ってほしいと袖を引く子供。しかしながら姉は子供と言えるような年齢ではなく、立派な学生だった。高校二年生。十七回誕生日を迎えたとは思えないほど言動は幼く、表情には邪気がない。
「かーえろッ!」
「…………」
先ほどの浮永の言が想起される。あんまり仲よさげだと、周りに気持ち悪がられるから自粛しろ。その顔は思いのほか真剣で、思わず頷いてしまった。
浮永のいっていることはもっともで、僕の懸念しているところだった。
表だって嫌われているわけじゃない。
それでもなんとなく、爪弾きにされているような気がする。
目を逸らされる。
むしろ、浮永真の存在が稀有。進んで僕と交わろうとする人間は、主に浮永しかいない。
浮永は、情に厚い。
僕との交誼を絶とうとしない浮永はきっと、いい奴なのだろう。
「かーえろッ!」
亜麻姉が両の手で僕の手を包み込んだ。上下に激しく振る。
「ゆーくんは私と帰るのぉーッ!」
「……分かったよ」僕はポンポンと亜麻姉の頭をたたいた。「一緒に帰ろっか、亜麻姉」
「うんッ!」
姉と登下校をともにするのは抵抗があったが、どうせ行く道は同じ。一人で帰るよりは二人で帰るほうがいい。自明の理だった。それに帰る家も同一なのだから、別れて帰ることもない。
俎上にのぼった浮永だが、奴は体側服に着替えてグラウンドに向かっていた。同じ帰宅部だけど、運動神経に優れる浮永は、陸上部に参加することになっていた。大会が近いらしい。前にも浮永はたびたび陸上部の助太刀に出向いていた。だったらいっそ、陸上部に入部すればいいのに、と思う。
手を握り合い、軽く抱き合うような姿勢をといて、下駄箱から出た。
「亜麻姉は友達と帰らないの」
ふと疑問に思って、尋ねてみた。
「お姉ちゃんも、サキちゃんと一緒に帰ろうと思ってたんだけど、あいにく部活で、一緒に帰れなかったの」
サキちゃんというのは亜麻姉の友達で、本名を榎戸岬という。美術部に籍を置いている。
「そういえば榎戸先輩、どこぞのコンクールで受賞したらしいね」
「そうなんだよぉー、すっごいのッ! 一回美術の時間でサキちゃんの絵、見せてもらったけど、私よりもずーっとうまいんだから」
「亜麻姉のそれは文字通り、地獄絵図だからな」
「……ここは個性的な絵だねーってそれとなくぼやかすのが筋でしょ」
亜麻姉はむっと頬をふくらませた。
歩道橋を歩いている。
この先に僕たちが乗る駅がある。
「じゃ、じゃじゃぁゆーくんは? ゆーくんはお友達と一緒に帰らないの?」
「帰ろうと思ってた奴が、たまたま陸上部の助っ人に行って、一緒に帰れなかった」
「そうなんだ」亜麻姉は嫋と僕に微笑んだ。「友達あんまりいないんだね、ゆーくん」
僕は名状しがたい悲しみにとらわれた。
姉はなにげない風に続ける。「そのお友達って、浮永君のことでしょ? ゆーくん、浮永君以外にお友達いないっぽいしぃ」
バイクがエンジン音をいななかせて横切った。
この姉は見も蓋もないことを……。
「ななな、なんてことを言うんだこのポンコツ姉はァッ! そんなどうしようもないことを……ッ! それで苦しんでいる人がいるってのに……つらく思っている人がいるっていうのに……無神経ここにきわまれりだッ!」
「……そうかなぁ。私もお友達はあんまりいないけど、苦しいって思ったことも、つらいって思ったこともないよ。お姉ちゃんにはゆーくんがいれば、いいから。……あはは、私もゆーくんと一緒だね。お友達、いないや」
ケタケタと笑っている。
その原因は軌を一にするものだ。僕も姉も閉じている。社会との懸隔、違和。諸人からの不審。枚挙に暇がない。僕と世界をつなぐ糸は、浮永と実姉くらいしか存在しない。これは忌むべきことなのか……。
手慰みにポケットのカッターナイフに触れる。
指でつーっと冷たい刃をなぞった。
答えはでない。
「私も二年生になって、お友達作ろう思ってたんだけどね、なんだか私、変なものでも見るような目で見られるの。サベツとかヘンケンとか、いけないってガッコーで習ってるはずなのにね」
不思議そうに首を傾げた。
人の往来が激しくなる。駅前の広場。財布に手を忍び込ませ、定期券をさぐる。
駅舎でしばらく待っていると、電車が来た。僕と姉は人ごみにもまれながら電車に乗った。
往路は比較的乗客は少ないが、復路となると一気に人口密度が高くなる。僕たちのような学生はもちろん、会社帰りのサラリーマン、帽子をかぶった老人など、雑多な人間が狭い箱に閉じ込められる。
「うぅ、人が多いにゃー……」
姉は人ごみが苦手だ。
膨大な人の群れは、心に一種の無力感を落とす。逆らおうとしても、巨大な波に飲み込まれてしまう。時流や流行にもこのことがいえるんじゃないか、と思う。途方もないうねりを前にして、人は無力なのか。
亜麻姉は目をクルクルさせて、すっかり辟易していた。
「……ほら、姉ちゃん。つかまって」
いたたまれなくなって、自分のわきの辺りを示した。
ぱぁーっと顔を明るくした姉は、僕にしがみついた。
周囲の目を気にせず、「きゅー」と僕の背中に手を回す。鼻を鳴らして、においを吸った。
「……亜麻姉」
「くるしゅうない。くるしゅうない」
「きつく抱きしめられると、こっちの息が苦しくなるンだが」
「ごめんね。でも、このままでいさせてよ……。ゆーくんの体、あったかくて、気持ちいいの……」
まるで恋人の会話みたいだ、と思った。思って、閉口する。こいつは弟に向かってなんてことを言うんだ。
幸い、僕たちは乗客の一群にまぎれている。人の壁。この奇態に気付いている人は、意外に少ない。
「それとねそれとね……あんまり耳元でいわれるとそのッ、おなかのちょっと下のとこが熱くてっ、切なくてっ、はっ、恥ずかしいよぉ……」
「も、もだえるな気持ち悪い」
「ふえぇぇぇ……いじめないでぇ、お姉ちゃんをいじめないでぇ……気持ち悪いとか、いわないでぇ……」
ガタンゴトン。
揺れている。電車が揺れている。姉は哀願するように何かを言っている。花を思わせるような芳醇なかおりが鼻腔に入る。姉から香ってくる。柔らかい肉の感触。僕がその体に触れると、電流が流れるように姉は身もだえた。手入れのされた黒髪に指を通すと、目をうるうるさせて僕を見た。そして、ぎゅっと身をさらに寄せた。白魚のような華奢な指が服の隙間から侵入してきた。服の上からでは飽きたらず、直接素肌に触れようとする。舐めるようにのたくる指。僕の背をなでさすった。心地よい、ひんやりとした感覚がした。
同じ血が流れている。皮膚を這う指の内には、僕と一様の血が流れている。沖家の血脈。血をわけた姉弟。電車の中で体をまさぐられている。沖という名の鋳型。中身は違っても、材料は違っても、同質の鋳型を使用している。相違は男女の別のみ。
ぷしゅーと間抜けな音がする。
電車がとまった。
「……ついたよ」
「うん……」
姉はまさぐるのをやめ、しおらしいぐらいに僕から一歩引いた。顔を伏せて、ふらふらと降りる。後ろから見ても、姉の顔が紅潮しているのが分かった。
普段と違って群衆の中だったから、興奮が早く達して、長く持続するのだろう。僕の心臓は釣り鐘のようにバクバク鳴っている。いくら血がつながっていても、女の子に触れられたら、肉は耐えがたい快感を覚える。
ったく、気持ち悪ィ。
高鳴る心臓を押さえ、舌打ちする。
徒歩二十分で自宅に到着する。
駅をでれば、畑の一帯。畔が広がっている。その向こうには湾に面した海があった。
「ゆーくん……」
蚊の鳴くような声だった。
姉は僕の制服の裾をつかんだ。弱い力で引っ張られる。
僕の体にしなだれた。
「ったく、ほかの連中に見られたらどうするんだよ……」
とはいっても突き放すことはできずにいた。
実弟に迷惑しかかけないポンコツだけど、潤ませた瞳は魔性だった。妖美だった。
……変な男が引っかからなきゃいいけど。
今後とも、亜麻姉の体や目にやられてしまう奴がいないとも限らない。中身は欠陥品でも、見てくれは優良品なのだ。姉に惚れる連中もいるに違いない。やめておけといっても、やめないだろう。姉の介護は想像を絶するほど大変だと言うのに。
姉の男関係を心配する辺り、やはり僕はシスコンなのか。
さっさと嫁に行ってほしいとは思うけど、貰い手は僕以上の苦労を負う羽目になるだろう。
「……そういや亜麻姉は、いつになったら結婚するんだ?」僕は軽い気持ちで問うた。「いや、姉ちゃんは一応結婚年齢には達してるからさ、はたしてこんな調子で輿入れできるかどうか怪しいもんだから、弟ながら心配してるんだよ。ハハ」
「結婚、しない」
「しない?」
「ゆーくんと結婚するのッ!」
存外、大音声だった。
幸か不幸か、田園地帯。人気はない。
姉はマジ顔だった。マジ顔で怒った風に僕を睨みつけた。「お姉ちゃんはずっと、ゆーくんと一緒に暮らすんだからねッ!」
「……あのなァ」僕はもう、頭を抱えた。「何度も言ってっけどよォー、姉弟は結婚できねェーよーになってるの。それを知らない亜麻姉でもねェーだろ」
「できるッ!」姉は豪語した。「できるったらできるッ! 法を捻じ曲げてでもッ!」
「捻じ曲げる、だとォ」
「そうッ! 捻じ曲げてでもッ、法を捻じ曲げてでもッ、お姉ちゃんはゆーくんと一緒にいるんだからぁッ!」
ビシッ! と指を突きつけられる。
たじろぐが、身長は僕のほうが上だから、あまり迫力はない。
しかし……。
さりげなく弟離れを示唆しようものなら、全力で否定される。僕に依存することを望む。依存し、依存し合う関係を望む。それははたから見ても、ともすれば当事者から見ても異常なことのように思えた。一種の従属、隷属ではないか。そう思った。
家族とは元より、そうした恋々と連なる感情に信拠するものではない。
それは理解していた。
でも。
あるいは。
畑道の脇にはこんもりとした森がある。古来よりの神域。木立の奥に僕たちの居住地でもある隠森神社がある。
猩々緋に照り映える鳥居が見えてきた。
木々のざわめきがする。
繁茂したすすきがあった。石垣に沿うように群生している。
視界の端に入ったそれに気付いて、じーっと見た。
風にたなびいている。
僕は歩幅一歩分ほど後退した。亜麻姉と触れ合える距離。視線を研いで、ポケットにあるカッターナイフを確認する。
「え……ちょっとゆーくん、こんなところで」姉は体をくねくねさせたが、僕の真顔を見て表情を改めた。
「……亜麻姉」
「どうしたの?」
僕は茫漠たるすすきのそよぎを指で示した。その一群が揺れる。風ではない。
姉は僕の言わんとすることを感得した。
そいつは憎たらしいくらい間抜けた面をして、路傍に前足を投げ出した。犬だ。茶色の毛並みを持つ獣。体を伏せている。動く気配はなかった。のっそりしている。
暢気そうな奴だ。
温厚な性格らしいそれは、僕たちなどいないかのように路辺で寝そべった。
通り過ぎる。
拝殿へと続く階段をのぼる最中、「やっぱり、犬、嫌い?」と聞いてきた。
僕は言った。「嫌い」
姉は含みのある顔をした。「ふぅーん」
振り返るとこれまでのぼってきた石段があった。今は木の影になって見えないが、あの犬はいまだ寝そべっているはずだった。
嫌悪と同情の入り混じった、不思議な心持ちになった。
ここら辺には犬殺しが出るってうわさだぜ。
心の中でそうつぶやいた。誰に向けて言ったのか、自分でも分からない。
はたして、三日後。
その犬は路傍で冷たくなって見つかった。