第二話 倒錯姉弟の錯綜
輪切りにしてやった。
滑り込ませてやる。切断に次ぐ切断。リズミカルに切っていく。
包丁はだいこんを通り過ぎ、まな板にぶち当たる。等間隔に切り落とされただいこん。
皿を取り出そうと食器棚を開いた。
「雪嗣」
膳に朝飯を盛り付け終わった合間を縫って、居間から低い声が聞こえてきた。
父だった。
ちゃぶ台の前で端座した父は、ちらと二階のほうを見上げた。
「調理が終わったら、亜麻音を起こしにいってあげなさい」
「分かった」
居間のほうに顔を向けて、諾した。野菜炒めだった。ご飯を椀に盛った後、階上に向かった。
姉の私室は僕と同じく、二階にある。奥が姉の部屋で、手前が僕の部屋。
階段を上がり、扉を叩いた。
返事はない。
予想の範疇。
「入るよ」
扉を開けた。
見るからに女の子っぽい部屋だ。内装は全体的に薄紅色をしている。棚にはデフォルメされた動物のぬいぐるみ。年端のいかない少女が夢見るファンタジーのようにふわふわした空間だった。
窓際の辺りに、それはいた。
朝日に照らされる中、昏々とベットに身を沈めている。キレイな髪は放物線上に伸び、子猫のように華奢な指でかけ布団の端をつかむ姿は、庇護欲に駆られるものだった。
「亜麻姉。朝だよ。起きなよ」僕は姉の体を揺り動かした。
「んん……」
亜麻姉は唇を尖らせるようにして、寝返りを打った。
少し声のボリュームを大きくした。「起きなってば」
さらに揺さぶった。
それでも起きない。
亜麻姉は一度寝付いたらなかなか起きない。睡眠優良児ってやつだ。過度に寝る。
起きたのかな、と思う。
しかし。
「あ……だ、ダメだよ……私たち、姉弟なのに、そんなことしちゃ……あん、舌までっ、いれちゃって……ん、ゆーくんッ!」
凛々としていた顔をすっかりやけさせながら、いやいやするバカ姉。頬を高潮させ、顔の前に手をかざす。全身をもだえさせるその様子は、奇々怪々としている。
その後、幸せそうにすぅすぅ寝息をたてた。
……この女ぁ。
僕は理性をかなぐり捨てた。
「起きやがれこの万年寝太郎がァーッ!」
烈々たる怒気を身に宿した僕は、姉のかけ布団を思い切り引き剥がしてやった。
長身の姉は身を縮こまらせて、「うぅ」だとか、「いやっ、寒い」だとか言っている。
「おまえはなんちゅうー夢を見てるンだッ! 想像するだけで背筋がぞわぞわするわッ! 背中に毛虫が這いずり回るイメージ――ッ!」
「……ゆーくん?」
混濁した意識から出力された、か細い声。
寝ぼけ眼をこすりながら、バカ姉は体を起こした。無邪気そうに僕を見る。口もとによだれが垂れている。
僕はもう、ポケットから取り出したハンカチでよだれをふいてやった。「ほら、しっかりしなよ……朝だよ、亜麻姉」
「また起こしにきてくれたの?」
「そうだよ」
「そうなんだ」
すると姉は見るからに相好を崩した。
「んだよ、いきなり笑ってェ」
「だってぇ……朝一番にゆーくんの顔見れて、お姉ちゃん、幸せ」亜麻姉はぽわぽわと僕を見やった。妖花のような微笑。見るものを狂わせる、艶っぽく、危うい耽美。「今日も楽しい一日が過ごせそう」
「僕はちっとも楽しくない」思わず不満を漏らした。
「むくれ顔しないの」
「してないよ」
「でも、そんなゆーくんのむくれ顔も、お姉ちゃん、大好きなンだよ」
僕の視界に、姉の無防備な肢体が入ってきた。惚れ惚れするくらいに魅力的な体つきだった。
よく見ればパジャマの第一ボタンが開いているのが分かった。
そこから豊満な胸の谷間がわずかに見えた。
「は、早く居間に来いよな」僕は踵を返そうとした。
した。
「ねーぇ」
手をつかまれる。
亜麻姉の柔らかい指が、僕の肌に吸い付いてきた。
振り向くと、悪戯っぽく笑う亜麻姉がいる。
「そういえば、ゆーくん。私たち、ここで二人っきりだね」
二人っきり、と言う単語に危険なものを覚える。
思わず、一歩後退した。「な、なんだよ亜麻姉。目が怖いぞ」
「ふふ……ゆーくん、逃げちゃ、イヤ」
掛け布団を手元に引きながら、すかさず僕の手を引っ張った。姉の手はかすかに汗ばんでいて、体温がこちらにまで伝播するかのようだった。
「なんで、逃げるの」姉は濡れた瞳をしていた。「これからお姉ちゃんと、気持ちいいこと、しよ」
姉は僕の肌に指を這わせて、しなを作った。実の弟に、しなを作った。あぁもう、と思った。なんちゅー目をするんだ。ヤバイってこれ。この構図、家族に見られたらどうすんだよ。いやいや待て待て落ち着け落ち着けよ僕。力は僕のほうが強いんだからいざとなればお姉ちゃんを無理矢理にでもほどいて脱出できる。でも本気っぽくなった亜麻姉は普段と違って一筋縄ではいかないのが難点だから色々と大変なのです。
目を閉じる。
考える。
目を開ける。
考える。
「亜麻姉」
「なぁに」
僕は姉の手を握った。
握って、手前に引き寄せた。
「あっ……」
亜麻姉のあられのない姿。ぽふっ……と僕の胸元に収容される。顔は赤い。
「ゆーくん……」
いざこういうことになったら、少しはテンパるものらしい。亜麻姉の体はがちがちに硬直している。糸を張るような緊張。亜麻姉は困惑と期待を半ばする視線を向けてきた。萎縮するように火照った顔を伏せ、僕の胸にうずめた。
おずおずと僕の背中に手を回す。
「痛く、しないでね……」
「分かってるよ……」
僕は亜麻姉の耳元でなるたけ優しく、ささやいた。
力がするすると抜けていっている。手足をだらりと弛緩させて、僕に全体重を預けた。
物分りの悪い僕でも分かる。
女の子が体を許すときのサイン。
「ふむ」
姉の下肢に手を這わせた。ほどよく弾力のある脚部。姉が歯を食いしばっているのが分かる。
膝の辺り。そして、わきの下。手を滑らせる。
僕はよっと持ち上げた。
「さァーて。朝ごはんの時間ですよー」
僕は姉をお姫様抱っこして、室から出た。
「ええぇぇぇぇーッ!」
暫時目をつぶっていた姉は、自分が階段を下りていることにやっと気付いた。
「なっ、なっ、なん、で……ッ! だっ、だましたなぁッ! ゆーくんッ!」
ぽかぽかと僕の胸を叩く姉。ハムスターのように頬を膨らませて、不満を表した。
「ひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいッ! 乙女心をもてあそんで……お姉ちゃん、本気の本気、だったのに……ゆーくんに私の体、あげるつもりだったのに……このバカッ! 悪魔ッ! 詐欺師ッ!」
「ン――なッ凶行に及ぶわけないだろ! 僕は理知的な人間なの」間隙を逃すことなく、別の話題を挿入する。「それよりも亜麻姉。ひょっとして痩せた?」
「あっ、分かる?」と亜麻姉、あっさり食いつくのだった。「やっぱりゆーくんにはなんでもお見通しなんだね。こうみえてもお姉ちゃん、ひそかにダイエット計画を進行中なのだぁー」
「昨日の夕飯に、飯二杯もおかわりしてた奴の言うセリフかよ」
「だってぇ、ゆーくんのご飯、おいしいんだもん……」
亜麻姉は唇をへの字にしてぶーたれた。
ポンコツな姉は基本、何もできない。勉強、運動、ゲーム、何もできない。包丁を持たせれば刃傷沙汰になる。フライパンを持たせれば修理屋に出さなきゃいけない。お皿を持たせれば定期的に割る。保護者がいないと何にもできない。だから、姉の世話は弟の僕がやってきた。飯炊きも主に僕がやっている。姉は何もしない。
「そっか」
「お姉ちゃんに褒められて、嬉しい?」
返答に少し迷ったが、首肯した。事実、嬉しいし。
「いい子いい子」
亜麻姉は手を伸ばして、僕の頭をなでなでした。
くすぐったくなる。
いやな気持ちじゃない。
もうすぐで階段を抜ける。
「下ろすよ」
「えぇー、イヤッ! もうちょっとだけこうしてよぉ」
「わがまま言うと、朝ごはんぬきにすンぞ」
「……ぐすん、朝ごはんを人質にとるなんて、ゆーくん人間じゃないよぉ」
亜麻姉は強情にじたばたするけど、強引に下ろした。
僕の肌にはまだ、亜麻姉の体の火照りが残っている。
ふいに体の底から、かぁーっと溶岩のような熱が沸きあがった。
*
姉はおそらく、僕のことが好きだ。
家族間の親愛ではない。
むしろ性的な、生々しいそれ。まぁ、家族としての絆はあるだろうけど、それ以上に、異性としての情を抱いている。
姉と弟である前に、男と女だと言う論理。
男と女である前に、姉と弟だという論理。
姉は前者。
僕は後者。
姉は時々、ねっとりした目で僕を見る。粘性のある、ねぶるような視線だ。肉食動物が舌なめずりするような奴。幸い僕と姉はよく漫画なんかであるような二人暮しではなく、父親が厳といる。肉親の目があるから、大事に至ったことは……うん、ない。でも、父親という暗中の監視の目が消えれば、姉は、獣になる。そんな予感がする。
僕の勘違いであればいい。
暗愚な認識であればいい。
でもきっと、姉は肉体に流れる血をさして気にも留めてないに違いなかった。男女の仲になるには邪魔な、忌々しい鎖である。それでも姉は、たやすく砕くだろう。なんてことないように、尖った牙で引きちぎるだろう。
常識というはばかりを、姉は平然と打ち破る。
人は心の中に獣を飼っている。
姿形は違えど、根源の感情を核にしていることに、変わりはない。
姉の場合は、唾液のしたたる牙ではないか、と思う。噛み付かれたら決して離れない。肉を裂き、骨まで絶つ強力な武器。それに純な恋慕が加わると、あら不思議、醜悪なそれになる。
そんな姉も、僕がいなければ何もできない。僕に依存した生活を営んでいる。僕に世話されて、扶養されて、介護されるような日々を送っている。姉はそのことにかこつけて、すっかり怠惰な人間に成り下がってしまった。
でも、姉はそれでいいらしかった。僕の意識が自然と自分のほうに向くから、いいらしかった。姉は僕のことが好きだから、独占したいんだと思う。僕がなまじ世話焼きなもんだから、きっと意図してやっている。こういうところは抜け目ないし憎めない。僕はなにもいやいや、家事の一切を引き受けてるわけじゃない。
僕の場合は、切れたカッターナイフなのである。
鋭くてカッコよくて、壊れても、代わりがある。切れ具合がにぶれば、新しいのにする。使い物にならなくなったら、別の刃に変える。
まるで僕の人生みたいじゃないか。
つらいと思った記憶を捨てて、悲しいと思った記憶を捨てる。まっさらな刃になるんだ。イヤなことも、たくさん寝て忘れたらいい。それで、ふと起きると、廃墟があるんだ。忘れようとしてろ過しても、ろ過しきれなかった何かの残骸。それが朽ちた建造物の形をとって、現出するのだった。
とある記憶を何重にも曲げて、何回も歪めて、残ったのがこの廃墟。僕はそれを眺めて、名状しがたい感慨を覚える。振り返ってみても闇しかなくて、目の前の道も迷路のようにおぼつかない。だから僕は、すぐ横に通り過ぎてしまう廃墟に目を移し、何かを学び取ろうとするのかもしれない。
切れた生き方がしたい、と思っていた。
道程には、薄もやのかかった暗がりしかない。
暗中。
そういったものを切り裂きたい、と思った。眼前の暗闇を颯と切り割る、明朗な光になりたいって、思ってたんだ。小気味よい刀。足の爪から髪の毛一本に至るまで、一本の刃物。全身が刃物。研ぎ抜かれている。そんな存在に、なりたい。