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月喰い  作者: 密室天使
第一章 犬は居ぬ
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第一話 始まりの歌

  

 日出ずるとき、月また没す。

 月出ずるとき、日また没す。

 元より、女性は日であり、男性は月であった。

 季節うつろい。

 時めぐろうとも。

 日、月、ともに空高く昇り、沈み、変わることなき世の法則。

 ああ。

 相反する日、月、伍して、二つを空に抱かれんことを。

 切に。




   *




 カチカチ。

 カチカチカチ。

 人さし指で押さえ、親指で操作する。カチカチ。カチカチカチ。黄色いグリップ。上下に移動するスライダー。窓から注がれる陽光。鮮やかに映える刃。薄く鋭いそれを、口笛に合わせて出し入れする。カチカチ。カチカチカチ。そのリズムに血肉躍らせる僕がいた。

 机上に紙の束がある。不要になったざら紙。僕はそれらを高く頭上にばら撒いた。

 まるで雪が降ったかのようだった。幾枚もの紙がさらさらと舞う。僕は目を閉じ、すーっとカッターナイフを前に掲げる。

 僕は狼だ。

 気配を探る狼。

 瞑目していても分かる。

 右手のカッターナイフの刃を徐々に上げていく。カチカチカチとまるで獲物を求める獣のような、獰猛な怒号。雄たけび。

 白刃の解放。

 それが合図だった。

 切る。

 切る切る切る。

 切る。

 紙の断面を通過するエッジ。まるで水を切っているかのようだ。抵抗なく入る。裁断と切断。僕は手当たり次第、滞空する紙をぶった切った。もう逃さない。おまえたちに畳は踏ませない。空中でおまえたちは死する。斬殺。細切れにしてやる。

 刹那とも永劫とも解釈できる一時だった。

 はぁはぁ……と息を整える。役目を終えた刃を鞘に戻した。

 周囲にはちりが堆積していた。細切れにされた紙の塵埃(じんあい)である。

 僕は舌打ちをした。何枚か切り残しがあった。微妙に切れて、微妙につながっている。中には無傷のものもいた。僕の目をかいくぐったらしい。

 湿り気を帯びた夕風が吹いてきた。

 この地は海が近い。窓を開ければ、鼻につくような浦のにおいがする。むき出しの二の腕に潮がまとわりついているようで、よろしくない。

 僕はふすまからほうきとちりとりを取り出した。清掃。畳の上に散らばってるから、後始末が少々面倒に感じた。

 無傷の奴は手で破り捨ててやった。手で丸めてゴミ箱にロングシュート。入らない。

 ノースリーブのインナーシャツを脱いで、窓の外を眺めた。

 海が広がっている。遊弋(ゆうよく)する船と海鳥の歌。縁に腰かけて、静穏な海原に思いを馳せた。

 相も変わらず、カッターナイフを握っている。

 カチカチ。

 カチカチカチ。

 いつから僕は、刃物に安らぎを覚えるようになったのか。




 紙も肉も、相違ない。侵食する感触は一緒。スパっと切れる。ただ肉は紙と違って、血が出る。刃の部分に血液が付着して凝固するから、切れ味が鈍くなる。そのつど拭き取れば問題ないが、放っておけば使い物にならなくなってしまうだろう。

 刃物も人も、同じだ。

 磨かなければ、にぶくなる。

 研がなければ、冴えなくなる。

 手入れをしないと、ダメだ。人も刃物も、手入れをしないとダメだ。

 切れ味なんだ。鋭利な切っ先。人は刃物同様、鋭く、尖ってないといけない。さび付いた刃じゃ何も切れない。鋭敏な気。そいつをまとって、光芒がふきだす剣先を、相手に突きつけなきゃいけない。

 鋭くない奴はキライだ。

 僕が刃物に魅せられたのも、きっとそのことに起因しているに違いない。

 その点、カッターナイフはいい。使い勝手がよく、色々なことができる。

 包丁とか日本刀とかは与えられた役目が一つしかない。

 包丁は食物を切る。

 日本刀は人を斬る。

 一つのことに特化した仕様で、ただ専一にその志を貫徹する姿には美しさすら感じる。まっすぐで、スマートで、クールだ。

 でも、カッターナイフは違う。

 こいつは雑多だ。なんでもする。紙を切ったり、ダンボールを切ったりできる、小回りのよさ。包丁や日本刀みたいな一意専心なところがない。浮気物っつーか、見境がない。何でも切りたがるんだよ。

 でも、どこか不器用な感じがする。器用貧乏。そんなところが好きだ。僕みたいでさ。カッターナイフだって、それなりにクールな奴なんだぜ。刃がこぼれてもきちんと代えがあったりするところとか、用意周到だろ。こういう狡猾さも、僕の好むところなんだ。

 もちろん、包丁とか日本刀とかも好きだ。あの洗練されたフォルムは誰も真似できない。流れてるんだ。空気抵抗が少ない。何より、オレ、一つのことだけに生きてますってところがいいと思うんだよ。

 でも、そいつらに言わせれば、カッターナイフは、雑食なキチン野郎なんだろうな。

 波の穏やかな碧海をあとにして、机の上にカッターナイフを置いた。椅子に座る。僕は書架から雑誌の、「廃墟――身近な異空間」を取ろうとした。……あァ、実は僕、カッターナイフもさることながら、廃墟も好きなんだ。色々趣味があってさ、カッターナイフを愛でたり、こういう雑誌を講読してたりする。これらが一般的な学生の感性から、いささかズレていることは承知している。 

 と。

 足音。

 あわただしい。僕は雑誌を取るのをやめて、頭を抱えた。

 そいつはどたどたと階段をのぼってくるのが分かった。

 足音は僕の自室の前でとまった。 

「ゆーくんッ!」

 ちょうつがいの開く音。それを打ち消すような馬鹿でかい人の声が耳を(つんざ)く。どこか甘えるような響きが含まれている。

 声の主はまず、僕が脱衣したインナーシャツに視線を定めた。鼻息荒く、ぽたぽたとよだれをこぼしている。

「あぁー、ゆーくんの服だッ!」

 インナーシャツに飛びついた。僕の頭の中に憎むべき犬の姿が想起された。まさに思い描いた犬そっくりな行動。そして、犬のようにくんくんとにおいをかぐ。次いで、大切そうに抱きしめた。

「うぅ、いいにおいぃ……」

 美しい黒髪を畳表に垂らして、目を潤ませる様はとても艶やかだった。でもあれだ。『変態』ってやつだ。

「ゆーくん、ゆーくん、ゆーくん……」

 眼の焦点はあっていない。インナーシャツによだれを垂らし、恍惚の極に達している。

 乱脈を極めるその艶姿に、呆れ半分、恐れ半分の困却を抱く。衆目の面前でセックスするカップルを見たときの気分だ。理性の殻が敗れて、中から粘性の糸を引いた貪欲が現れる。

「ゆーくん、ゆーくん、愛してるよ……」

 インナーシャツを口に含む。もごもごと咀嚼しようとしている姿がエロティックにも、滑稽にも見える。

 僕はたまらない心持ちになった。

「……もうそこら辺にしてくンねェかな、亜麻姉(あまねぇ)

「……ゆーくん」

 僕の声で正気に戻る。ぱっとインナーシャツから手を離した。その後、あわあわと恥ずかしそうに顔を真っ赤にした。顔を俯ける。

「みっ、見てたの……?」

「見てたッつーか、ここ、僕の部屋だしよォ」

「だっ、だよね……ってゆーくんッ!」とちらと横目をやった後、がばっと顔を上げて僕を凝視した。「ななっ、なによぉ、そっ、その格好はぁ!」

 僕は上半身裸だった。もちろんズボンははいている。丈の長い奴。「少し運動してさ、汗かいたから脱いだ」

「そそっ、そうじゃなくてッ! そんな格好して……! お姉ちゃん、勘違いしちゃうよ」と手で目隠しをして言った。ちらちらと指の隙間から僕を覗き見てはいるが。「なによっ、ゆーくんはお姉ちゃんを誘惑するつもり?」

「……どうなったらそうなンのさ」

「だっ、だってぇ……ゆーくんにそんな格好されたら私、その気になっちゃうよ……」

 潮した面を恥ずかしそうにそむけた。それでもやはり、インナーシャツは胸に抱いている。

 僕もいまさらながらに羞恥心を感じ、両手で己が体を抱きしめた。いわれのない含羞(がんしゅう)

 言葉の消えた場に、互いの息遣いが漏れる。  

 沖亜麻音(おきあまね)

 漆を流したような黒髪。丹花の唇。肌は雪のように白く、滑らか。凛然とした居住まいは大和撫子を思わせる。しかし幸か不幸か、変態である。白壁の微瑕。見てくれは綺麗なのに、中身はクルクルパー。何よりも残念なのが、僕と血続きの関係にあるという一点に尽きる。沖亜麻音は純然たる僕の実姉であった。

 姉は自分の肩を抱いている。

 体を小刻みに震わせている。

「……亜麻姉?」

「もももう我慢できないぃーッ!」

 ばねのように立ち上がった姉は、いのししのように僕に突進した。僕は背中に机の角をぶつけて悶絶しながらも、姉を受け止める。

 姉は僕の胸板に手を這わせた。長い胴を持て余した蛇。すべすべした感触がする。「ゆーくんの胸、たくましいなぁ。すりすり」姉は頬ずりした。柔らかい。そして髪でちくちくする。

 かーっと全身が沸騰するような熱を覚えた僕は、必死に姉を剥がそうと躍起になった。姉の頭に手を置いて、力任せに離れさせる。指に艶やかな髪が絡みついた。「や、やめろッてば亜麻姉!」 

「ゆーくんの胸と、お腹と、背中……ほら、お姉ちゃんの指とゆーくんの肌が、触れ合ってるよ……」

 姉はむき出しの上半身を手でなで回した。ちろちろと赤い舌を出している。

 僕はインナーシャツを脱ぎ捨てたことを心から後悔した。 

「ふざけるのもッ! いい加減にッ! しろッ!」

 僕は姉を突き飛ばすことに成功した。

 姉はしりもちをついた。スカートから伸びる太ももが悩ましげだった。姉は目を潤ませて僕を見た。「うぅ、痛いよぉ……ゆーくんひどいよぉ……」

「ひどいッて……亜麻姉がふざけるからだろ」

 僕はふすまから代えのシャツを取り出して着衣した。

 その様を指をくわえて恨めしそうに見ている姉。文字通り、指をくわえて。どうやら腰の辺りを打って、動けないらしい。

「なによぉ……ただのスキンシップじゃない。突き飛ばさなくてもいいのにぃ」とバカ姉は不満そうに頬を膨らませた。

「あれのどこがスキンシップなんだよッ! 姉ちゃん頭おかしいんじゃねェのッ!」

「おかしいって……私はただ、ゆーくんのことが好きなだけで……」

「そこなんだッ! その部分がおかしいんだッ!」僕は身振り手振りを加えて力説した。「亜麻姉の好きは姉弟間の好きを越えてンだよッ!」

「普通姉弟だったら、抱擁ぐらいするよ。少なくともアメリカでは」

「残念ながら、ここはアメリカじゃァねーんだ……イヤマジで……ここ日本だから。それとな、弟のインナーシャツに欲情する姉がどこにいるんだよこのパーチクリンがぁッ!」僕は普段から溜め込んでいたものをぶちまけた。

 対する姉は(てん)としている。

 平然としている。

 まるで言ってるこっちが異常みたいだ。

「ゆーくんの服のにおいってぇ、すっごく興奮するんだよね」

「……ジーザス! これも神の思し召しだというのかッ!」

「何英語言ってるのー、ゆーくん。私たちの家は神社だよー、神道(しんとう)なんだよー」

 論点のずれたバカ姉はけたけたと笑った。

「でも、ゆーくんの体、思ってた以上にごつごつしてた。ゆーくんも成長してるんだねぇ」と姉は感慨深そうに呟いた。「子供の頃はすべすべだったのに」

「僕も亜麻姉ももう子供じゃないんだ。大人の分別をわきまえろよな」

 すると姉は肩をふるわせた。怒髪天につく……といった風。「そそそうやって、私とゆーくんのスキンシップを邪魔するんだ。そんなのいいっ、言い訳にもなってならないんだからッ!」

「あ、亜麻姉……」

「そうやって私を遠ざけないでよ……私を拒まないでよ……私を嫌がったりしないでよ……だったら私、子供でいいッ! 壁を作っちゃいや……。私、ゆーくんとお話したいだけなのに……」

 姉は顔を手で覆っている。

 変な沈黙が降りた。

 気まずく側頭部をかく僕。

「それで、本音は?」

「それはもうゆーくんといっぱいいちゃいちゃしてべたべたしていけない大人の階段何段ものぼりたいですよ本当ッ!」

「ガッデムッ!」

 僕はバカ姉に拳骨……もとい天誅を加えてやった。




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