私の誕生日を忘れた彼が、女友達の誕生日には有給を取っていました
「金曜は有給取ったから、朝から行ける」
彼はそう言って、旅行の日程表を私に見せた。
「この辺、沙耶、詳しかったよね。ケーキ受け取れる店ないかな」
画面には、海沿いのホテルの名前があった。
六月十八日から、二泊三日。
「ケーキ?」
「莉子の誕生日。夕飯のあと、部屋で出そうって話になってて」
私は日付を見た。
金曜日だった。
「有給、取れたんだ」
「取れたよ。三月から調整してたから」
彼は楽しそうだった。
「店、沙耶なら知ってるかなって」
私は、彼のスマホをテーブルに置いた。
私の誕生日には、お祝いのメッセージが一通もなかった。
*
私の誕生日は、四月十八日だった。
二十九歳になる二週間前、悠征に夕飯を食べないかと誘った。
誕生日だから、とも言った。
悠征は、手帳を見て眉を寄せた。
「その週、納期が重なってるんだよね。当日は、何時に帰れるかわかんない」
「じゃあ、別の日でもいいよ」
「落ち着いたら行こう。ごめん」
付き合って三年。
彼が仕事で忙しい時期を、私も知っていた。
悠征はメーカーの生産管理で、連休前は特に慌ただしい。
私自身も、雑貨店で商品の発注を担当していた。
季節の入れ替えで遅くなることもあるし、お客さんが多い日に休むのが難しいこともある。
誕生日当日に会えなくても、仕方ないと思った。
その日は日曜で、私は休みだった。
悠征は出勤すると言っていた。
午前中に洗濯をして、昼は一人でうどんを食べた。
夜まで、特に連絡はなかった。
友達や母から届く「おめでとう」に返事をしながら、何度か彼とのメッセージを開いた。
最後のやり取りは、前日の夜。
『明日も早いから寝る。おやすみ』
私はその下に、「仕事頑張ってね」と送っていた。
夜十時過ぎ、ようやく通知が来た。
『終わった。今日ほんと疲れた』
私は、少し待った。
続きは来なかった。
『お疲れさま』
そう返すと、すぐに電話がかかってきた。
電話の向こうで、悠征は仕事の話をした。
予定が変わったこと、手配したものが届かなかったこと、上司とのやり取り。
私は相槌を打った。
「沙耶は、今日何してた?」
「洗濯とか、買い物」
「いいな、休み」
悪気のない声だった。
「……うん」
「じゃ、風呂入って寝るわ」
おやすみ、と言った。
通話が終わった。
日付が変わるまで、私は本を読んでいた。
同じページを、何度も読み直した。
*
翌日、こちらから伝えた。
『昨日、誕生日だったよ』
昼過ぎに返事が来た。
『あ、ごめん! ほんと余裕なかった』
『今度ご飯おごる。何食べたい?』
私は、少し泣いた。
それから、店の休憩室で目を冷やした。
忘れることだってある。
三年の間に、私も約束の時間を勘違いしたことがあった。
そのとき悠征は、怒らず待っていてくれた。
忘れたことだけで、今までの優しさがなくなるわけではない。
そう思って、前から行きたかった洋食屋の名前を送った。
『いいね。来週か再来週、予定見て決めよう』
その返事を見て、私はカレンダーを開いた。
休みが合う日が、二日あった。
その日を伝えた。
片方は彼に予定があった。
もう片方は、疲れが抜けないから家でゆっくりしたいと言われた。
『じゃあ、無理しないで』
送ったあとで、洋食屋のページを閉じた。
*
ケーキの相談をされたのは、五月の初めだった。
悠征の部屋へ遊びに行った日だ。
彼はノートパソコンで、旅行の予定を組んでいた。
それをスマホにも送り、私に見せた。
莉子は大学時代からの女友達で、私も二度会ったことがあった。
今回の旅行には、莉子とその婚約者、ほかに男女二人ずつの友人、それから悠征が参加するらしい。
七人の旅行だった。
莉子の婚約者が中心になって、誕生日も一緒に祝おうと計画したそうだ。
「俺、予約とか調べるの得意じゃん。だから、手伝ってて」
悠征はホテルのページを開いた。
「人数多いから、部屋どうするかも先に決めないと。莉子たちは二人部屋。俺ら男三人で一部屋、女子二人で一部屋」
私はうなずいた。
「花も、向こうで受け取れるかな。写真撮るとき、あるといいって」
「それも、悠征が調べるの?」
「ケーキと花は俺担当。あとは、店にプレート書いてもらえるかとか」
彼は、旅行の日程をスクロールした。
食事の予約時間、車を出す人、休憩する場所まで入っていた。
「みんな仕事あるから、早めに決めないとね」
私は、スマホから目を上げた。
「私のご飯は?」
悠征がこちらを見た。
「え?」
「誕生日の。洋食屋、行こうって話」
「ああ。行こうよ」
「いつ?」
彼は手帳を取りに立った。
ぱらぱらとめくって、戻ってきた。
「今月、結構埋まってるんだよね。沙耶のシフト、どうだっけ」
二日前に送った。
そう言いかけて、やめた。
「送ってあるよ」
「あ、そうか」
彼がスマホを操作した。
「この日、どう?」
「私、遅番」
「じゃあ、六月入ってからでもいい?」
画面には、六月十八日の旅行の予定があった。
誕生日を忘れられたときより、胸が痛くなった。
「……ケーキ屋、私じゃなくて、ホテルに相談したほうがいいと思う。持ち込みできるかもあるし」
声が少し硬くなった。
「あ、それもそうか。ありがとう」
悠征は、メモに何か打ち込んだ。
私が知りたかったのは、彼に計画を立てる余裕があるかどうかではなかった。
もう、あるとわかってしまった。
*
その日は、泊まらずに帰った。
「明日、早い?」
「ううん。ちょっと、一人でいたい」
悠征は不思議そうな顔をしたが、玄関まで見送ってくれた。
帰りの電車で、スマホを開いた。
彼とのメッセージを遡った。
『今日、何時に来る?』
『夕飯どうする?』
『今度どこ行く?』
私から始めた話が、多かった。
彼も返してくれていた。
一緒に行けば楽しそうだったし、おいしいものを食べると喜んだ。
ずっと、私が予定を立てるのが好きだからだと思っていた。
私が何も言わなかったら、どうなるのだろう。
試したい気持ちが、少し湧いた。
何日、何週間、彼から誘われるまで待てばいいのだろう。
そんなことを数え始めるのは嫌だった。
『旅行の話を聞いて、寂しくなった。私の誕生日は忘れて、その後の食事もまだ決まってないのに、友達のためにはずっと前から準備してるんだね』
家に着いてから送った。
返事は、十分ほどで来た。
『え、旅行が嫌だった?』
私は画面を見た。
『旅行に行くなとは言ってないよ。私との約束を後回しにしてることが悲しい』
既読がついた。
電話がかかってきた。
*
「ごめん。そんなに気にしてたと思わなくて」
悠征は最初に謝った。
「誕生日、忘れたのは悪かった。でも、四月と六月じゃ、忙しさが違うよ」
「うん。それはわかる。当日休んでほしかったわけじゃない」
「あの旅行、俺が勝手に決めたんじゃないし。みんなで前から調整してたから」
私はベッドの端に座った。
「私のことも、前からわかってたよね。二週間前に話したし」
「だから、忘れたのは謝ってるって」
息が止まりそうになった。
同じ話を、また最初からしている。
「悠征、私との食事、日を決めようとしてくれた?」
「今日、手帳見たじゃん」
「私が聞いたからだよね」
「そりゃ、沙耶の予定もあるし」
「シフト、送ってる」
彼が黙った。
「花もケーキも旅行も、欲しいって言ってない。ただ、あの日は、おめでとうって言ってほしかった。そのあとでも、食事に行くなら、悠征から日にちを聞いてほしかった」
途中で声が震えた。
「それまで、私が頼まないと駄目なのかな」
電話の向こうで、椅子がきしんだ。
「沙耶なら、言ってくれればいいのにって思うよ。莉子たちには、俺からちゃんとしないと」
「どうして?」
「友達の約束、適当にしたら付き合い悪いってなるだろ」
私は、足元を見た。
「私との約束は、適当でも大丈夫?」
「そういう意味じゃないって」
わかっていた。
彼はきっと、そんなひどい意味で言ったつもりはない。
でも、実際にそうなっていた。
「友達は予定変えるの大変だけど、沙耶とはいつでも会えるじゃん」
私はスマホを持ち替えた。
「いつでも会えるように、私が空けてたんだよ」
彼が黙った。
「誕生日の食事も、休みが合う日、二日送った。断られたから、次のシフトも送った。いつでも暇だったんじゃないよ」
返事は、すぐには来なかった。
「……そこまで、考えてなかった」
正直な声だった。
私は、涙を拭いた。
「うん。そうだと思う」
*
翌日、悠征が洋食屋を予約したと連絡してきた。
『来週の水曜、十九時。休みだったよね。今度は俺がちゃんとやる』
その日は、確かに私の休みだった。
私は少し迷ってから、行くと返した。
ちゃんと話したから変わるかもしれない。
そう思いたかった。
水曜、彼は十五分ほど遅れてきた。
電車が止まっていたと、途中で連絡があった。
それは仕方ないことだったし、彼も着くなり謝った。
料理はおいしかった。
悠征は、メニューを見ながら、私が好きそうだと言って一品選んでくれた。
少し、ほっとした。
デザートの前に、彼が小さな紙袋を出した。
「遅くなったけど、おめでとう」
中には、柔らかい色のハンカチが入っていた。
「ありがとう」
嬉しかった。
嬉しくないことにしたくはなかった。
「会社の近くの店で見つけて。沙耶、こういうの使うかなって」
「使う。きれいだね」
私は袋へ戻そうとして、開いたままにした。
もう少し見ていたかった。
「これで、機嫌直った?」
悠征が笑って言った。
ハンカチを持つ手が止まった。
「……機嫌?」
「いや。やっと埋め合わせできたと思って」
彼は私の顔を見て、笑うのをやめた。
「そんな言い方しないほうがよかった?」
私は布を畳んだ。
「謝ってくれたのも、予約してくれたのも、プレゼントも嬉しいよ」
「うん」
「でも、機嫌を直すために来たんじゃない」
悠征は困った顔をした。
「じゃあ、どうすればいいの」
「私も、一緒に出かけるのを楽しみにしてほしい。今度はここに行こうって、悠征からも誘ってほしい」
「行きたくないわけじゃないよ。でも、沙耶が決めるほうが、外さないし」
私は、彼が作っていた旅行の日程表を思い出した。
七人分の予定を確かめて、誰かが喜ぶものを探していた。私なら何をしても怒らないから、調べる必要がなかったのだろうか。
デザートが運ばれてきた。
店員が離れるまで、私たちは黙っていた。
彼が何をしたら正解になるのか、もう私にも説明できなかった。
ただ、また次に寂しくなったら、最初から同じ話をするのだと思った。
言って、謝られて、日を決めて、機嫌を確かめられる。
私が黙っていれば、何も起きなかったことになる。
「少し、考えたい」
その夜は、そう伝えた。
*
帰ってから、ハンカチを机に置いた。
前の年の誕生日も、彼は祝ってくれた。
だから、最初から私に関心がなかったわけではない。
近頃は、仕事も忙しかった。
私も、三年前と同じようには浮かれていない。
そうやって理由を並べても、六月の予定表が浮かんだ。
喜ぶ顔を考えて、花を選び、ケーキを調べる。
友達が相手ならできることだった。
私の誕生日を忘れたことは、もう責めたいと思わなかった。
けれど、そのあと何度も日を空けて待った自分には、帰っておいでと言ってやりたかった。
土曜、私は悠征に、別れたいと伝えた。
駅近くの公園で会った。
店だと、泣いてもすぐ席を立てないと思ったからだった。
「あれから、何度も考えたんだけど」
悠征は、私が話し終わる前に言った。
「莉子の旅行、行かないほうがいい?」
私は首を振った。
「その旅行をやめてほしいんじゃない」
「じゃあ、誕生日のこと?」
「私との約束を、私が何度も頼んで守ってもらうのが、もうつらい」
悠征はベンチに座ったまま、両手を組んだ。
「この前、ちゃんとやったじゃん」
「うん。ありがとう」
「プレゼントも、嬉しいって」
「嬉しかったよ」
彼は顔を上げた。
「だったら、何が駄目なの」
私は手のひらに爪を立てかけて、やめた。
「あの食事で、すぐ元どおりになれなかった。これからも付き合っていたいって、思い直せなかった」
悠征が俯いた。
「もうしない。ちゃんと、気をつける」
私は、うなずけなかった。
「私も、もっと早く嫌だって言えばよかった。大丈夫じゃないのに、無理しないでって言ったこともある」
彼がこちらを見た。
「でも、言ったあとも、面倒な機嫌を直す話になるのは、嫌だった」
悠征は唇を結んだ。
「私、来年の誕生日まで、待ちながら確かめたくない」
木の葉が揺れた。
公園の反対側で、子どもがボールを追いかけていた。
「俺、そんなに大事にしてなかった?」
悠征が聞いた。
私は、少し考えた。
「大事にしてくれた日も、あったよ」
それは、本当だった。
だから、声が詰まった。
「でも今は、一緒にいるのに、寂しい日のほうが多い」
悠征は、それ以上何も言わなかった。
*
六月、私は友達と二人で温泉へ行った。
友達の仁美が平日に休みを取れると聞いて、一緒に予定を立てた。
宿も、食事も、二人で決めた。
「海鮮のコースと、お肉のコース、どっちにする?」
「海鮮。あ、でも仁美、お肉食べたい?」
「私も海鮮」
「じゃあ、それ」
決まってから、私は少し笑った。
「何?」
「一緒に考えてくれるの、嬉しいなって」
「そりゃ、自分も行くんだから」
仁美は不思議そうだった。
それから、少しだけ声を柔らかくした。
「楽しい旅行にしようよ」
私はうなずいた。
悠征が旅行へ行ったかは、聞かなかった。
莉子にも、何も伝えていない。
誰かに祝いをやめてもらえば、私が嬉しくなる話ではなかった。
*
秋、同僚に誘われて、地域の写真サークルに参加した。
店の商品写真を撮るのが苦手で、少し勉強したかった。
初心者向けの日もあるというので、スマホだけ持って行った。
そこで知り合ったのが、佐伯修吾さんだった。
私より二つ年上で、印刷会社に勤めていた。
カメラは趣味で、休みの日によく川沿いを歩くという。
「最初、何を撮ればいいのかわからなくて」
私が言うと、彼はテーブルの上の紙コップを指した。
「これでもいいですよ。光の当たる側を変えるだけで、結構違います」
言われたとおりに撮ると、少しだけ上手になった気がした。
「ほんとだ」
「いちばん大きな声が出ましたね」
「すみません」
「嬉しいときは、いいんじゃないですか」
彼は笑った。
何度か集まりに出るうち、話すことが増えた。
私が見せたマグカップの写真を、次に会ったときも覚えていた。
「あれ、お店の商品なんですよね。まだあります?」
「あります。気になりました?」
「母に送ろうかなと思って。持ち手、大きそうだったから」
母親の手に合うものを探しているのだと言った。
私は型番を送った。
後日、彼から、届いたと連絡が来た。
『喜んでました。ありがとうございました』
私は、その文を二回読んだ。
私に対する優しさではないことも、嬉しかった。
*
初めて二人で出かけたのは、十二月だった。
彼が写真展に誘ってくれた。
私が行きたいと言っていた作家の、小さな展示だった。
「休み、いつですか」
聞かれて、候補を二日送った。
彼は、片方なら空いていると返した。
当日、待ち合わせの駅で、少し早く着いた私は落ち着かなかった。
服を選び直して、マフラーまで変えたことを、彼が知るはずもない。
「藤崎さん」
呼ばれて振り向くと、佐伯さんが小走りで来た。
まだ約束の五分前だった。
「お待たせしました」
「私も今です」
言いかけて、少し笑った。
「……嘘です。ちょっと早く来ました」
彼が目を丸くして、それから笑った。
「僕も、朝早く起きすぎました」
写真展を見たあと、喫茶店に入った。
気に入った写真を言い合うだけで、一時間が過ぎた。
帰り道、彼が、次も二人で会いたいと言った。
私は、はいと答えた。
その声が思ったより弾んでいて、恥ずかしくなった。
*
付き合い始めたのは、年が明けてすぐだった。
三月のある日、修吾から、四月の予定を聞かれた。
「十八日、休み?」
私は顔を上げた。
「まだシフト出てないけど。何かある?」
彼が少し困ったように笑った。
「誕生日、合ってるよね」
一月に、互いの誕生日の話をした。
一度だけ。
「……うん」
「当日が仕事なら、別の日でいいんだけど。ご飯、行かない?」
私は、膝の上で手を握った。
「どこか、行きたいところある?」
聞かれて、すぐに答えられなかった。
「修吾は、何食べたい?」
「今日は沙耶に聞いてる」
彼は笑った。
「俺の誕生日は、俺が決めるから」
私は笑おうとして、目の奥が熱くなった。
「どうした?」
「ううん。ちょっと、嬉しくて」
彼は慌てて、ポケットからハンカチを出した。
「まだ何もしてないけど」
私は、それを受け取った。
「うん。してくれたよ」
*
四月十八日は、日曜ではなかった。
二人とも仕事があり、夜に会うことにした。
朝、修吾から「おめでとう」が届いた。
私はベッドの中で返事をして、もう一度その文を読んだ。
夜、店の前に着くと、彼が先に待っていた。
大げさな花束も、旅行の荷物もなかった。
仕事帰りの鞄を肩にかけて、私を見つけると手を上げた。
「お疲れさま。三十歳、おめでとう」
私は、彼の前で足を止めた。
「ありがとう」
修吾が手を伸ばして、私の指先を握った。
「寒かった?」
「少し」
「入ろう」
扉を開ける前に、私からその手を引いた。
「待って」
振り向いた彼の頬に、背伸びしてキスをした。
修吾が固まった。
私も、急に恥ずかしくなった。
「……誕生日だから」
「それ、理由になる?」
「今日は、なることにして」
彼は笑って、私の手を握り直した。
耳が、少し赤かった。
「来年も、覚えておく」
私も笑った。
「来年だけじゃ、困るよ」
店の中から、焼いたバターの匂いがした。
今夜は何を食べよう。
もう、私から一人で日付を探さなくてよかった。
~完~




