第九章 名前のない男
「……死んだって聞いた」
私の声は、自分でも驚くほど小さかった。
紗月は固まったまま、カメラの液晶を見つめている。
桜の花びらが一枚、ゆっくりと落ちてきた。
その花びらが、液晶の光の上に静かに触れる。
画面の中。
そこには、はっきりと写っていた。
桜のトンネル。
私と紗月。
そして——
もう一人の男。
顔はぼんやりしているけれど、確かに人の顔だった。
「……病院で見たって」
紗月が言った。
「いつ?」
私は記憶をたどった。
三年前。
白い天井。
消毒の匂い。
静かな病室。
「入院してたとき」
私は言った。
「目が覚めて、数日くらい」
紗月は黙って聞いている。
「廊下で見た」
「廊下?」
「うん」
私は目を閉じた。
少しずつ、記憶の断片が浮かんでくる。
白い病院の廊下。
夜だった。
人がほとんどいない時間。
私は水を飲みに行こうとして、部屋を出た。
そのとき。
廊下の奥に、人が立っていた。
「……男だった」
私は言った。
「背が高くて」
「ずっとこっちを見てた」
紗月の表情が少し強張る。
「声、かけた?」
私は首を振った。
「かけてない」
「なんで?」
「なんとなく」
言葉を探す。
そして、やっと言った。
「怖かった」
紗月はゆっくり息を吸った。
私は続けた。
「次の日」
「看護師に聞いた」
「昨日、廊下にいた人って誰ですかって」
紗月の目が、私をまっすぐ見ている。
私はゆっくり言った。
「そしたら」
桜の花びらが舞う。
風が静かに通り抜ける。
「そんな人、いないって言われた」
紗月が小さく息をのんだ。
「でも」
私はカメラの画面を指さした。
「この顔」
「その人に似てる」
紗月はもう一度写真を見た。
しばらく黙っている。
そして、ぽつりと言った。
「……この人」
「事故の日」
私は顔を上げた。
紗月の目が揺れている。
「私の前にいた」
胸が強く鳴る。
ドクン。
ドクン。
紗月は震える声で言った。
「車のライトが見えて」
「そのとき」
彼女は目を閉じた。
思い出そうとしている。
「誰かが……」
紗月の手が、カメラを強く握った。
「私の前に立った」
私は息を止めた。
「その人が」
紗月はゆっくり目を開けた。
「この人だった気がする」
風が強く吹いた。
桜の花びらが一斉に舞い上がる。
私は画面を見つめた。
もしそれが本当なら。
この男は——
事故の瞬間、紗月の前にいた。
そして。
私は言った。
「でも」
紗月がこちらを見る。
「その人」
「……」
「死んだって聞いた」
紗月の顔が青くなった。
「誰から?」
私は少し考えた。
「看護師じゃない」
「医者でもない」
「……」
「誰だろう」
思い出せない。
ただ、誰かが言った。
あの人は亡くなった、と。
そのとき。
カメラがまた鳴った。
ピッ。
二人同時に画面を見る。
新しい写真。
桜のトンネル。
私と紗月。
そして。
男の影。
でも——
今度の写真は、違った。
影が、こちらを見ていた。
まっすぐ。
はっきりと。
そして。
その男の口が、少し開いていた。
紗月が震える声で言った。
「……この人」
私は画面を見つめた。
そして、気づいた。
男の口の形。
それは、まるで。
何かを伝えようとしているようだった。




