第十一章 事故の夜
「……あの人と話してた」
紗月の目が大きく開いた。
「話してた?」
私はうなずいた。
頭の奥で、止まっていた記憶が少しずつ動き出している。
桜のトンネル。
舞い落ちる花びら。
でも、見えているのは春じゃない。
——夜。
冷たい風。
街灯の少ない道路。
私はゆっくり言った。
「事故の日」
「俺、あの道を歩いてた」
紗月が静かに聞いている。
「なんで?」
私は少し笑った。
「覚えてない」
「ただ」
言葉を探す。
「なんか、すごく考え事してた」
紗月は小さくうなずいた。
私は続ける。
「そのとき」
胸がざわつく。
「声をかけられた」
紗月が息を止める。
「誰に?」
私はカメラの画面を見た。
そこに写る男。
「……この人」
風が吹いた。
桜の花びらが、ふわりと舞う。
私は記憶を追った。
——夜の道路。
私は歩いていた。
そして。
道の端に、男が立っていた。
街灯の下。
顔はよく見えない。
でも。
確かに、私を見ていた。
「……こんばんは」
その声は静かだった。
低くて、落ち着いた声。
私は少し驚いた。
「……こんばんは」
自然に返事をしていた。
男はゆっくり歩いてきた。
距離は二、三メートル。
それ以上近づかなかった。
「夜の散歩ですか」
男が言った。
私は笑った。
「そんな感じです」
男は少し空を見上げた。
「今日は」
男が言う。
「星がきれいですね」
私はつられて空を見た。
確かに。
星が見えていた。
でも。
そのとき、不思議なことを思った。
この人、誰だろう。
知らない人。
でも。
なぜか。
ずっと前から知っているような気がした。
男が言った。
「人は」
私は男を見る。
「時々」
男の目がこちらを見た。
「自分がどこにいるのか」
「わからなくなる」
その言葉は、なぜか胸に残った。
私は言った。
「……そうかもしれません」
男は小さく笑った。
「でも」
男が続ける。
「それでも、人は歩き続ける」
私は黙って聞いていた。
「なぜだと思います?」
私は少し考えた。
そして言った。
「……前に進むしかないから?」
男は少し驚いた顔をした。
それから、静かにうなずいた。
「いい答えです」
そのときだった。
遠くから音が聞こえた。
エンジン音。
車だ。
私は何気なく道路を見た。
その瞬間。
ヘッドライトが、強く光った。
まぶしい。
思わず目を細める。
そして。
男が、ふっと言った。
「……来ますね」
「え?」
私は振り向いた。
その瞬間。
記憶が、途切れる。
私は桜のトンネルの中で立ち尽くしていた。
息が荒い。
紗月が心配そうに言う。
「悠人くん」
「……」
私はゆっくり言った。
「そのあと」
喉が乾く。
「覚えてない」
紗月が小さく首を振る。
「でも」
紗月が言った。
「私、覚えてる」
私は顔を上げた。
紗月の目が揺れている。
「事故の瞬間」
「誰かが」
彼女の声が震える。
「私を押した」
胸が強く鳴った。
ドクン。
「押した?」
紗月はうなずいた。
「道路の外に」
風が吹く。
桜の花びらが一斉に舞う。
紗月は言った。
「その人が」
カメラの画面を指さす。
「……この人」




