第一章 春の入り口
春の朝は、少しだけ静かだ。
まだ人の少ない小道に、淡い光が差し込んでいた。
風が吹くたびに、頭上の桜の枝がやさしく揺れ、花びらがふわりと舞う。
まるで、空から雪が降っているみたいだった。
道の両側には古い桜の木が並んでいる。
その枝は長い年月を重ねて互いに伸び、空の上で交差し、ひとつの大きなアーチを作っていた。
この場所は、町の人たちから「桜のトンネル」と呼ばれている。
四月になると、ここはまるで別世界になる。
淡いピンクの光に包まれて、どこまでも続く夢のような道になるのだ。
だけど、この時間はまだ誰もいない。
ただ風だけが通り抜けていく。
私はその道を、ゆっくり歩いていた。
靴の先が、落ちた花びらを踏む。
かすかな音がした。
しゃり、と。
まるで砂糖菓子を砕いたような、やさしい音。
「……今年も咲いたな」
小さくつぶやく。
誰に聞かせるでもない言葉だった。
私はこの場所に、毎年必ず来ている。
理由は単純だ。
ここに来れば、思い出すからだ。
——三年前の春のことを。
その日も、今日みたいな朝だった。
まだ人の少ない時間で、桜の花びらが風に流されていた。
私はこの道を歩いていた。
特別な理由があったわけじゃない。
ただ、散歩の途中で見つけただけだった。
「うわ……すごい」
思わず声が出た。
そのときだった。
「でしょ?」
後ろから、声がした。
振り向くと、一人の女性が立っていた。
年はたぶん、私と同じくらい。
二十代半ばくらいだろうか。
長い黒髪を後ろでまとめて、白いカーディガンを羽織っている。
手には小さなカメラ。
どうやら写真を撮っていたらしい。
「この道、初めて?」
彼女はそう言って笑った。
私は少し戸惑いながら頷いた。
「はい……偶然見つけました」
「ラッキーだね。ここ、町の人でも知らない人多いんだよ」
そう言いながら、彼女は桜の枝を見上げた。
花びらが一枚、彼女の肩に落ちる。
その瞬間、朝の光が差し込んで、彼女の髪がほんのり桜色に染まった。
きれいだな、と思った。
桜よりも。
「写真、撮りに来たんですか?」
私が聞くと、彼女はカメラを軽く持ち上げた。
「うん。毎年来てる」
「毎年?」
「ここ、特別なんだ」
そう言って、少しだけ遠くを見る。
「なんかね、この道歩くと、未来に続いてる感じがするんだよね」
未来に続く道。
その言葉が、妙に印象に残った。
私は少し考えてから言った。
「確かに……トンネルみたいですね」
「でしょ?」
彼女は嬉しそうに笑った。
そして、少し歩き出した。
「せっかくだし、一緒に歩く?」
思いがけない言葉だった。
私は少し驚いたけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ——
なぜか、断りたくなかった。
「……じゃあ、少しだけ」
そう言うと、彼女は満足そうに頷いた。
私たちは並んで歩き始めた。
桜の花びらが、静かに降っている。
しばらく無言だった。
だけど、不思議と気まずくない。
「そういえば、名前聞いてなかった」
彼女が言った。
「僕は悠人です」
「悠人くんか」
彼女は少し考えてから言った。
「私は、紗月」
その名前は、桜の季節にぴったりだった。
「いい名前ですね」
「ありがと」
紗月は笑う。
「悠人くんは、この町の人?」
「はい。生まれも育ちも」
「そっか。私は違うんだ」
「え?」
「今年で最後かもしれないし」
そう言って、紗月は空を見上げた。
桜の花びらが風に舞う。
「最後って?」
私が聞くと、紗月は少しだけ黙った。
それから、軽く笑った。
「夢、追いかけるから」
その言葉には、不思議な強さがあった。
春の光の中で、彼女の横顔が少しだけ遠く見えた。
「また来年、ここ来る?」
紗月が突然聞いた。
「え?」
「この桜の道」
私は少し考えた。
そして答えた。
「……来ます」
「じゃあ約束ね」
紗月はそう言って笑った。
「また桜が咲いたら、ここで会おう」
花びらが一枚、二人の間を通り過ぎていった。
そのときはまだ、知らなかった。
この約束が——
三年間、私の心に残り続けることを。
風が吹く。
現在の桜の道に、花びらが舞う。
私は立ち止まった。
三年前と同じ場所。
だけど、紗月はいない。
毎年ここに来ているのは、
もしかしたらまだ、約束を信じているからなのかもしれない。
私は苦笑した。
「さすがに、もう来ないよな」
そうつぶやいた、そのとき。
風が強く吹いた。
桜の花びらが、一斉に舞い上がる。
そして——
トンネルの奥に、人影が見えた。
誰かが、こちらへ歩いてくる。
逆光で顔は見えない。
だけど、長い髪が風に揺れていた。
胸が、小さく跳ねた。
まさか。
そんなはずはない。
それでも私は、動けなかった。
桜のトンネルの向こうから、
その人影はゆっくり近づいてくる。
春の光の中で。
まるで——
三年前の続きのように。




