003話
※当作品は執筆にあたり「Gemini」、「NotebookLM」を補助として利用しています。
「はぁ〜……。幸せ……」
リエルがとろんとした目で、空っぽになった木皿を眺めている。
その頬はバラ色に染まり、先ほどまでの怯えた表情はどこにもない。まるで極上の宝石でも手に入れたかのような恍惚とした表情だ。
「こんな美味しいもの、生まれて初めて飲んだよぉ……。ありがとう、アルス!」
彼女は私の手を両手でぎゅっと握りしめ、ブンブンと上下に振った。柔らかく温かい感触。だが、その手は日々の労働のせいか、年頃の少女にしては少し荒れていた。
「口に合ったならよかった。急ごしらえだったから、味の保証はできなかったしな」
私は肩をすくめて答えた。内心では、合成したグルタミン酸の配合比率がこの世界の人間にも適していたことに安堵していた。
「本当に、なんてお礼を言ったらいいか……。こんなすごい魔法使い様には、こんな粗末な食事しか出せなくて申し訳ないねぇ」
レイルおばさんが、申し訳なさそうに眉を寄せる。
ふと視線を鍋に向けると、そこにはもう一滴のスープも残っていない。リエルたちが夢中で飲み干したからだ。そして、部屋の隅にある食材棚は、寒々しいほどに空虚だった。
「謝る必要はありませんよ。……それより、村の食糧事情はそこまで深刻なんですか?」
私が尋ねると、レイルおばさんの表情が曇った。
「ああ、今年は特にひどくてね。日照りが続いて作物が全然育たないんだよ。ほとんどの商人さんも『売るものがない村には用がない』って寄り付かなくなっちまって……。このままじゃ、冬を越せるかどうか」
重い沈黙が流れる。
リエルの笑顔も消え、不安げに俯いてしまった。
(エコー、この家の備蓄状況はどうなってる?)
『スキャン完了。対象:木箱および麻袋。中身は黒パンの残り二つと、乾燥した根菜が少量のみ。塩分、糖分ともに枯渇。現在の消費ペースにおける飢餓リスク判定……極めて「高」です』
脳内に表示された赤い警告文字。
これが、この世界の現実か。
魔法があり、精霊がいる世界。だが、その恩恵は末端までは届いていないようだ。非効率な農業、未発達な流通、そして情報の断絶。
(……見過ごすわけにはいかないな)
私は研究者だ。目の前に「解決可能なエラー」があるのに、それを放置するのは私の美学に反する。それに、この世界に来て最初に私を受け入れてくれたのは彼女たちだ。
「レイルさん、リエル。明日の朝、畑を見せてくれないか?」
「畑を? 見るのは構わないけど、ぺんぺん草も生えてないよ?」
「構わないさ。何か力になれるかもしれない」
私がそう告げると、二人は顔を見合わせ、不思議そうに、しかし僅かな期待を込めて頷いた。
◇◆◇
夜が更けた。
窓の外からは、虫の音が静かに響いている。
リエルは粗末なベッドの上で、毛布を鼻まで引き上げていた。
目は冴え渡り、眠気など少しもやってこない。
(美味しかったなぁ……)
口の中に、まだあのスープの味が残っている気がした。
野菜の優しさと、お肉の力強い味。それらが複雑に絡み合って、喉を通るたびに体に力が湧いてくるような、不思議な料理。
「アルス……」
小さく名前を呟いてみる。
今日、森で出会った不思議な少年。
彼は詠唱もなしに狼を消し飛ばし、何もないところから黄金のスープを作り出した。
銀色の髪に、深い群青色の瞳。
その目は、村の男の子たちのような感情がすぐにわかる目とは違って、もっとずっと奥底を見ているようで、少し怖いくらいに綺麗だった。
(魔法使いって言ってたけど……本当に人間なのかな?)
おとぎ話に出てくる、神様の使いなんじゃないだろうか。
そうでなければ、あんな絶望的な状況で現れて、こんなに幸せな気持ちにしてくれるなんて、説明がつかない。
「あたし、アルスのこと、もっと知りたいな」
彼が料理を作っている時の背中を思い出す。
何か難しい顔をして、空中に指を走らせていた。その横顔は真剣で、でもどこか楽しそうで。
胸の奥が、トクンと鳴った。
これはスープのせい? それとも、あの狼に襲われた時の恐怖の残り?
(ううん、違う)
リエルは毛布の中で首を振った。
彼が明日もまた、あの不思議な魔法を見せてくれるなら。
枯れ果てたこの村にも、何か凄いことが起こる気がする。
そしてこの国を、世界を、救ってくれるような。
いえ、それは言いすぎかしらね。
「神様……。彼に合わせてくれて、ありがとう」
リエルは祈るように手を組み、ようやく訪れた睡魔に身を委ねた。
◇◆◇
翌朝。
空気は冷たく澄んでおり、東の空が白み始めていた。
私はリエルに案内され、村の共同畑に立っていた。
眠い目をこすりながらついてきたリエルが、大きなあくびをする。
「ふわぁ……アルス、早起きだねぇ」
「調査は朝の方がはかどるんだ。光の加減で見えるものも変わるからな」
「よくわかんないけど、さすがアルス!」
リエルの全肯定を受け流し、私は目の前の光景に意識を向けた。
そこは、畑というより荒野だった。
土は白く乾ききり、ひび割れている。植えられた小麦は背丈が伸びず、黄色く変色して、風が吹けば折れてしまいそうなほど弱々しい。
村人たちが通りがかり、私たちを遠巻きに見ている。「昨日の魔法使いか?」「あんな子供に何ができるんだ」というひそひそ話が聞こえるが、同じようなことは言われ慣れているので気にならない。
「エコー、解析頼む。何が足りない?」
私は荒野に手をかざし、さっそく作業を始める。
『了解。スキャンモード、広域展開』
目の前の視界が一変した。
灰色の荒野に、無数のグリッド線が走る。視線を向けた土壌の区画ごとに、詳細なパラメータがポップアップしていく。
【水分含有量:8%(危険域)】
【pH値:5.2(酸性過多)】
【土壌硬度:測定限界突破(根張り不可)】
「ひどいな。これじゃ雑草だって逃げ出すレベルだ」
『報告。土壌内の必須元素が著しく欠乏しています。特に窒素、リン酸、カリウムの主要三要素が、基準値を90%下回っています』
視界に表示された元素記号のグラフは、どれも地面を這うような低い数値を示していた。
植物が育つための「食事」が、土の中に何一つ残っていない状態だ。人間で言えば、水だけで生きろと言われているようなものだろう。
「リエル、これは病気や呪いじゃないぞ」
私はしゃがみ込み、カサカサの土を指ですくい上げた。
「えっ? じゃあ、なんなの?」
「単純な栄養不足だ。土が痩せすぎて、作物が腹ペコで倒れそうになってるんだよ」
リエルはきょとんとして首を傾げた。
「お腹が空いてるってこと? だったら、精霊魔法で水を出せばいいの? あたし、頑張っちゃうよ!」
リエルが杖を構えようとするのを、私は手で制した。
「いや、魔法であっても水で一時的に元気にするだけだと意味がない。それは瀕死の病人の口に無理やりご飯をつっこむようなものだ。根本的な解決にはならない」
「うぅ……じゃあ、どうすればいいの?」
リエルの顔が曇る。彼女にとって魔法は万能の解決策だったのだろう。だが、物理現象には物理的なアプローチが必要だ。
私は立ち上がり、乾いた風にローブをなびかせながら、ニヤリと笑った。
「ないなら、足してやればいい。この土に必要な『栄養』を、私が作って加える」
「つくる……?」
「ああ。見ていろリエル。ここからが、私の魔法の見せ場だ」
私は右手を空に掲げた。
大気中に漂うマナを感知する。この世界にきて新たに感じるものだが、不思議と扱い慣れているような感覚があった。
窒素はある。水素も、酸素も。材料はすべて、この空気の中に満ちている。
(構築開始。化学肥料生成プログラム、ロード)
私の周囲に、青白い光の数式が螺旋を描いて展開された。




