016: レシピ公開と王女からの招待状。そして迫りくる教会の影
※当作品は執筆にあたり「Gemini」、「NotebookLM」を補助として利用しています。
閉廷後の王都裁判所。
その長い回廊に、ドレスの裾を翻す音と、慌ただしい足音が響いていた。
「待って、エリーゼ!」
呼び止められたエリーゼが振り返る間もなく、駆け寄ってきたシルヴィアがその体をガシッと掴んだ。
「あっ……シルヴィアお姉様」
「無事か!? 怪我はないか!? ああ、こんなに肌が白くなって……頬も少しこけたのではないか?」
シルヴィアはエリーゼの二の腕、頬、背中と、身体の隅から隅までベタベタと触りながら検分を始めた。
その瞳は、さきほどドルゴンに向けた氷のような冷徹さとは打って変わり、熱烈な愛情で燃え上がっている。
「ドルゴンの奴……あとで牢屋に行って、三回くらい燃やしてやる……! 私の可愛い妹に、こんな心労をかけるなど……!」
「ふふ、くすぐったいです、お姉様。私は大丈夫ですから」
エリーゼは困ったように、けれど嬉しそうに微笑んだ。
姉妹というよりは、溺愛する姉と、それに苦笑する妹のような光景。
「ありがとう、お姉様。……でも、私を助けてくれたのは……」
エリーゼが振り返り、今まで隣にいたはずの青年の姿を探す。
「……あれ? アルス様?」
そこに、アルスの姿はなかった。
あるのは、ただ無人の廊下が続いているだけ。
「……逃げ足の速い男だ。礼も言わせんとはな」
シルヴィアは少し残念そうに、しかし鋭い眼光をその空間に向けた。
アルスは
「王族との感動の再会に、部外者が立ち入るのは野暮でしょう(巻き込まれると政治的に面倒だ)」
と判断し、シルヴィアが抱きついている隙に気配を消して退出していたのだ。
シルヴィアは、彼が消えた方向をじっと見つめる。
脳裏に蘇るのは、法廷で彼が見せた魔法――空間に描かれた、あの緻密な光の図形だ。
(……アルス・コードウェル、と言ったか)
彼女は王家の人間として、膨大な知識を有している。だが。
(あのような『光の図形(構造)』を描く魔法など、聞いたことがない。王家の禁書庫にも記録がないぞ……ただの商人ではないな)
シルヴィアは、護衛の騎士に短く命じた。
「……女王陛下に報告する。馬車を出せ」
その瞳には、獲物を狙う狩人のような色が宿っていた。
◇◆◇
プロミネ商会。
戻ってきた一行を待っていたのは、勝利の祝杯と、これからの未来についての話し合いだった。
「……それで、エリーゼ様。これからどうされるおつもりで?」
プロミネの問いに、エリーゼは迷いのない瞳で答えた。
「私、計算したの。……カステッロ商会の看板は下ろさない。その流通網を使って、プロミネ商会と業務提携を結ぶわ」
「て、提携ですか?」
「ええ。互いに独占して争うより、協力して市場を拡大した方が、利益率が300%向上するって計算が出たの」
かつての「歩く帳簿」としての才能が、今は「みんなを幸せにするための計算」に使われている。
その提案に、プロミネとミーナは顔を見合わせ、満面の笑みで頷いた。
「喜んで! 一緒に、王都一の商会を目指しましょう!」
そして、もう一つ。
今回の騒動の中心となった「マダラ根スープ」について、アルスからある提案がなされた。
「レシピを、一般公開しましょう」
「ええっ!? いいのアルス? これ、すごく売れるのに!」
驚くリエルに、アルスは穏やかに頷き、さらさらと羊皮紙にペンを走らせる。
「技術というものは、隠匿するよりも共有した方が、結果として全体の質が向上するものですから。それに……この調理法なら、模倣される心配よりも普及するメリットの方が大きい」
アルスが書き上げた『マダラ根スープ・調理法』の紙には、魔法を使わない一般向けの調理手順が記されていた。
【手順1】
皮を厚く剥いた後、濃い塩水に**半日間**漬け込み、苦味成分を完全に抜くこと。
【手順2】
その後、新しい水に変え、**弱火で4時間以上**コトコト煮込み、繊維を柔らかくすること。
【手順3】
仕上げにミルク(またはバター)を加えて煮込み、残ったえぐみをまろやかに包み込むこと。
「魔法を使わないなら、これだけの時間が必要です。……ですが、誰にでも再現可能です」
◇◆◇
後日、その紙が店の外に張り出されると、集まった主婦たちがどよめいた。
「半日もかかるの!? そんなに手間がかかる料理だったなんて……」
「でも、あの味が家で作れるなら……!」
「今まで『家畜のエサ』だと思ってたけど、私たちが調理法を知らなかっただけなんだわ」
手間と時間がかかる。
その事実は、マダラ根の価値を下げるどころか、逆に高める結果となった。
「貧乏人の食事」ではなく、「手間暇かけたご馳走」としての地位を確立したのだ。
「いい匂い……」
夕暮れの王都に、甘く温かいスープの香りが広がり始める。
その光景を見て、エリーゼとリエルは顔を見合わせ、幸せそうに微笑んでいた。
◇◆◇
商会の応接室。
「わたし、もっと美味しいものをいっぱい食べたい!」
テーブルの上でバシッとガイドブックを叩き、リエルが声を上げた。
「これ見て! ここ! 『商業公国ゼファー』! 世界中の食材が集まる『食の都』があるんだって!」
アルスは手元の茶器を置き、地図を覗き込む。 「商業公国、ですか……」
アルスは顎に手を当て、思考の奥で相棒に呼びかけた。
(エコー。検索ワード『商業公国ゼファー』。交易情報について照会せよ)
『――了解。検索結果を表示します』
脳内に、無機質な女性の声が響く。 視界の端に、アルスにしか見えないウィンドウが展開され、高速で文字が流れた。
『当該国は大陸最大の物流拠点として機能しており、あらゆる物資が集積されます。特に古書・魔導書の流通量は、周辺諸国と比較して約400%と推計。……また、未鑑定の出土品が闇市に流れる事例も多数報告あり』
(……ふむ。世界中の物流が集まるハブなら、色んな情報も手に入りやすいか。効率的だ)
エコーの提示したデータに満足し、アルスは頷いた。
「いいですね。そこを次の目的地にしましょう」
「やったー! アルス大好き!」
リエルがアルスに抱きつこうとした、その時だった。
ガシャン、ガシャン。
重厚な金属音が店内に響き、煌びやかな鎧をまとった一団が入ってきた。
胸には、王家の紋章。
「――失礼する」
張り詰めた空気の中、先頭の騎士が進み出る。
「アルス・コードウェル殿。およびカステッロ商会当主、エリーゼ殿にお目にかかりたい」
「わ、私ですが……」
アルスが立ち上がると、騎士は恭しく一通の書状を差し出した。
そこに押された封蝋を見て、プロミネが「ひっ」と息を呑む。
「エテルナ王国女王、エリメディア陛下より、王城への招待状をお持ちしました。……直ちに登城されたし」
「えええええええっ!? じょ、女王陛下から!?」
ミーナたちの絶叫が響く中、アルスだけは静かに肩をすくめた。
(……やれやれ。シルヴィア王女の差し金か。どうやら、簡単には逃がしてくれないようですね)
旅立ちは一時お預け。
物語の舞台は、政治の中枢である王城へと移ろうとしていた。
◇◆◇
◇◆◇
夕闇に沈む裁判所の裏手では、ドス黒い悪意が蠢いていた。
人けのない路地裏。
白い僧衣を着崩した、背の高い男が一人。
彼は、不自然に長い手足と猫背で、壁に近づく。
そこは昨日、アルスが魔法を行使した場所だった。
「…………」
男は壁に残った、目に見えないほどの微かな魔力の煤を、人差し指でぬぐい取った。
そして、その指を口元へ運び――
長い舌で、ベロリと舐めとる。
「……んん~」
恍惚と、嫌悪が入り混じったような吐息。
「……合理的で、無機質で……実に不快な鉄の味がしますねぇ」
彼は指の関節をポキポキと、生理的な不快感を煽る音で鳴らした。
爬虫類のような濁った黄色い瞳が、細められる。
「逃げてくださいね、異端者。……捕まえたら、その頭蓋を割って、中身の構造をゆっくり検分して差し上げますから」
ぬらりと歪んだその笑顔は、明確な「捕食者」のそれだった。
幸せなスープの香りが漂う王都の片隅で、冷たい「浸食」が始まろうとしていた。
彼の名は、ネブラ。
聖典教会の異端審問官である。




