フリーダイビング ―水深100mで―
数年前、当時大学生だった僕が、久しぶりに海辺の街へ帰省したときのことです。
故郷の潮辛い風は、就活で疲弊していた僕の身体を、あまく慰めてくれるようでありました。
夕暮れ。あてもなく漁港あたりをさまよっていると、あれっ、と停まった自転車に声をかけていました。
―ヒロ兄?
濃い色の眼鏡をかけ、ラフな服装。ちょっと怖そうではありましたが、幼いころよく遊んでもらった、年の離れたヒロ兄に間違いありません。
酒でも飲むか、と、ふたりで近所の居酒屋へ。
乾杯すると、近況や思い出話に花が咲きます。
―そういえば
と、ハイボールですでに赤くなった僕が訊きました。
―ヒロ兄、フリーダイビングやってるんでしょ?
風の噂をふと思い出したのです。
フリーダイビングとは、海深く垂らされたロープに沿い、ボンベなしの身ひとつでどこまで潜れるかを競う競技です。たしか、ヒロ兄は、日本選手権か何かに出れるかもしれない実力選手だ、と。
と、彼の口が突如貝のように閉ざされ、それをこじ開けようとでもいうのか、グラスに口をつけます。
「やってた、だ。引退した」
色眼鏡を持ち上げた彼の声色は冷えていました。
そうか、と、僕はそれ以上を訊かず、ふたたび歓談が戻りましたが、やがてコークハイを飲み干したころ、ついに訊いていました。
―ちなみに、どうして引退したの? 怪我とか?
んん、とヒロ兄は低く唸って、「おれも酔った。風にあたろう」と、居酒屋を出て、港の堤防へ。
堤防へ上り下りする階段を上りきって腰を落とすと、そういえば海の夜とはこうだったな、と。
子守唄のような波音が岸壁を洗い、やがて沖へと帰ってゆきます。
その色は灯りのある岸から遠ざかるにつれ、徐々に失われてゆきます。
沖は、闇。
都会の夜は、視線は、すぐにどこかへぶつかります。看板、車、ビル。しかしここでは、視線ははるかに黒く抜けてゆき、それどころか、当たるはずのない幻影に出会うこともあるのです。
せり上がった波が何かの形に見えたり、月影が海面に何かの像を結んだり。
海は、美しくも恐ろしい。生きもののようにうごめく海原すら懐かしく感じる僕に、ヒロ兄が口を開きました。
「見ちゃいけねぇものを見た」
彼はいいはじました。フリーダイビングで潜る世界、水深数十メートルがどんな所かを。
陸上では、数十メートルなどほんのすぐそこ。しかし、それが海であったなら、50メートルを過ぎればもう光は失われはじめ、暗く呼吸のない紺碧の奥の静寂に身を置かれる。あらゆる生きもののふるさと。母に抱かれたようなもの懐かしさ。しかし、一瞬でも気を抜いたなら…
「あんなに残酷できれいな所はない。知ってるか? 月面に降り立った人類と、無酸素で100メートル潜った人類はほぼ同じ数なんだ。おれたちのふるさとである海の深くはそれくらい到達困難な場所なんだよ。ボンベや潜水艇を使ったのとは見える景色がまるで違う。地球最後の秘境といわれてる海底に身ひとつで挑む。それがフリーダイビングの醍醐味なんだ」
どこかで海鳥が鳴きました。彼は闇へむかったまま、
「海の中じゃ、余計な酸素を消費したほうが敗ける。いや、死ぬんだ。たとえば脳ってのは、雑念を思い浮かべるだけで酸素を使う。焦りとか、緊張とか、ましてや恐怖なんてのは論外だ。息のできない真っ暗闇の水底に自ら向かってゆく。その恐怖に打ち勝たなきゃいけない。そのための訓練をするんだけど、恐怖を抑えつけてると、却って幻覚を見る」
―幻覚?
「たとえばさ、寝てる時の夢って、脳が半分覚醒、半分睡眠みたいなとき、深層心理にあるものを夢として見るっていうだろ。潜ってるときもそれに近い感じになるんだ。生命維持以外の脳機能を眠らせるっていうのかな。実際に、地上では60くらいの脈拍が、40くらいに減るんだ」
―へぇ。
「そうするとさ、おれの場合、潜ってると、いろんなものを見たよ」
―いろんな幻覚を?
「いっとくが、あれが本当に幻覚かはわからん。が、少なくとも潜ってるときのおれは間違いなく見た。ウミヘビとかな」
―ウミヘビ?
「…はっきり覚えてるさ。あの日は順調だった。おれは垂直に潜航していった…」
彼が見たというものを少しでも思い描こうと、僕も想像していました。
「海中は静かだった。あの日は青がとても濃くて、あたりには障害物も魚群もなく、遥か遠くまで見通せて、まるで宇宙と地球の境目を降りているようだった。泡は雲のようで、おれは鳥になったような爽快さだった」
僕にはまったくピンとこない話しでしたが、真っ青な空よりも上空。宇宙の闇と交わるあたりはそんな感じなのでしょうか。
「おれは手足の動きに集中し、視線は海底じゃなくてずっと沖のほうを、見るでもなく見ていた。そのときだった、遥か彼方、青い世界のとんでもなくむこうに、恐ろしいほど長い生き物がグルグルのたっくてるのが見えた」
僕はようやく、
―アナゴとか、ウツボとか、それか、リュウグウノツカイとか?
「もっともっと太くて長い。まちがいなくとんでもない彼方にいて、黒っぽいそれがとぐろを巻きながらこっちへ向かってくるんだ。それはゆっくりに見えたけど、時速では数十キロ出てたと思う。とにかくまっすぐ、長い長い胴体をまっすぐにして、おれへ向かってきた」
幻覚に決まってる。思えど、潮風に撫でられた僕のうなじはぞわりと逆立ちます。
「どうしたらいいのか、おれはすくんじまった。そうこうしてるうちにそれは近づいてくる。ウナギみたいなぬるっとしたぎらっとした皮までもが見えはじめてた。あいつはおれをどうしようってのか。まさか食うつもりなのか。そんなバカな。でももし… 恐怖より先に酸素の限界が来た。苦しくて恐ろしくて涙が出そうだった。それがさらに無駄な酸素を消費した。海面へ向かって必死に泳いだ。陸上を歩いたらたったわずかな距離。その海面へ出られなければおれは死ぬ。いや、出る前にあいつに襲われるのか。あいつはどこまで接近してる? 見てる余裕なんかない。あまりに苦しすぎて内臓が握り潰されるようだった。あいつはどんな生物なんだ? どんな顔なんだ? でもそれを見てしまったら、おれは叫びとともに最後の酸素を吐き出しちまう。一秒を無駄にしたら死ぬ。おだやかだった海中が荒れはじめてた。あいつがすぐそこに迫っていた」
ヒロ兄の声は震えはじめていました。
「海上から太陽の光を見た途端、おれは気を失ってクルーに助けてもらった。減圧症にならなくてよかったよ」
他にもある。彼はいいます。
「参ったのは、悲鳴だ。あれは曇ってて海中の視界が悪かった日、水深60メートルあたり、あたりに生物はおれだけって状態で、女か赤ん坊が叫んだみたいな、ギャーって悲鳴が聞こえた」
―悲鳴?
「おまえは知らないか。10年くらい前、おれは路上で痴漢を捕まえたんだよ。夜コンビニにいく途中、ギャーって女が叫んでな。こんな田舎だから、夜悲鳴が聞こえると響くだろ? おれは飛び上がるくらい驚いて、声のしたほうに走ってった。そしたらちょうど痴漢した奴が逃げるのに出くわして、ブン殴って取り押さえたんだよ」
―そうなんだ。
「あの夜よりもっと静かで暗い海中。悲鳴が聞こえたんだ。マジに何の前触れもない金切り声だ。助けを求めてるような。けど、何も見えない。海のなかじゃそれが近いのか遠いのかもわからない。おれは必死で平常心を保とうとした。大丈夫だ、イルカか何かだ。そういうこともある。森の中で鹿が鳴いたみたいなことだ。でも、二回目が聞こえた。視界も効かず、呼吸もできない状況での訳わからん悲鳴。人間じゃないのはたしかだ。人間は水中であんな声は出せない。じゃあ何だ? 幻聴かもしれない。おれの脳が音声付きの夢を見てるのかもしれない。でももしそうじゃなかったら? こんなに意識がはっきりしててあんな声が聞こえるのか? すぐ近くに何かがいるのか? だとしたらそれは何だ? 見えない。わからない。とても暗い。どうすることもできなかった」
沖を抜けてきた風が、すすり泣きに聞こえなくもありません。
「水中じゃ人間は無力だ。自分より小さな生物にも、泳ぎでも力でも勝てず、呼吸もできない。余計に動けば死ぬ。そういうおれの恐怖心が、変な体験をしたせいでより増幅されちまうっていう悪循環だ。
だから、おれはメンタルトレーニングをとり入れた。動じない肝っ玉を手に入れたかった」
―それで克服できた?
「妙なものを見ること自体を克服することはできなかった。けど、見ても慌てないようにはなれた。火の玉にも慣れた」
―火の玉?
「工場の煙突からチラチラ火が出てるのを見たことあるだろ。あんな感じで、深海に炎が見えるんだ。底の見えない真っ暗闇の海底に、まるで煙突が埋まってて火が噴きだしてるように、ぼうっとな」
―海底火山? そんな訳ないか…
「火の玉、人魂、そういうものに近い。火を噴いたらそいつらは移動する。ふわーっと、ゆらーっと。ひとつだけのときもあるし、何十もの火の玉が見えることもある」
僕は絶句していました。
「人に殴られたりすると視界に星が飛ぶだろ? それに近いのかもとも思った。酸素の低下した脳がダメージを受け、チカチカしたものを見せてるって… しかし、あいつらはおれを誘うような動きもする。ゆらり、ゆらり。深海へ誘うような。それはなんだか… ついていきたくなるようで、慌てて我に返る…
そういや、昔知り合いのサーファーがな、変な死に方をした。同行者によりゃ、波を待ってる間に突然潜っていったそうだ。リーシュコードを切ってな。死んだそいつもいってた。"海の記憶ってあるよね。海に誘われることってあるよね"って。死体は浮いてこなかった」
―海に、誘われる… でも、でも、ヒロ兄は火の玉を見ても平気になったんでしょ?
「おれが引退したのは別の理由だ… もう、あんなことがあったら、無理だ」
僕は生唾を飲み下していました。
「大会に向け、おれは心技体すべてを鍛え上げていた。神の領域、100メートルの深海を目指していた。決して不可能な数字じゃない記録まで来ていた。あの日の練習も調子がよかった。なのに… なのに…
おれはふとした、本当にふとした拍子に、行けるかも、行ってみようって思った。直感的に、本来の予定にない100メートルを目指したんだ…」
光の届かない、水面まで100メートルもある水底に置かれる様を想像すると、僕の身は寒気にすくみます。
ヒロ兄ははるか沖、堤防から向かって少し左のほうを指します。
「あのあたり。あそこの海底はノコギリの刃みたいにギザギザなんだ。あるいは何かに食い荒らされたみたいにボロボロで複雑。その海底まで平均約110~120メートル。その100メートル地点を目指しておれは降りていった…
もういままでのおれじゃなかった。強い肺、しなやかな身体、動じない心。すべてを高いレベルまで引き上げてきたおれは海底に挑んでいった。順調だった。おれは海の生物にな還っていた。肺で呼吸してないようにさえ思えた。
夢中でいると、あたりがどんどん光を失っていった。見たことのない色がそこにあった。青い闇、グランブルー。その神の領域に立ち入ることを許されたように思えた。色は、地上に溢れるほとんどのものが失われ、見たことのない色が残っていた。気泡すら闇色だった。なにもかもが暗く、静寂に沈んでいた…
岩が見えてきた。海底からノコギリのように岩が突き出ていた。やがて、地上では決して見ることのできない複雑な奇景がグランブルーの底に落ちていた。神殿のように神々しかったよ。太古の記憶に到達したようだった。だが、見とれてる暇はない。ロープの100メートル地点にタッチして戻るんだ… そう… そうだったんだ… そこまでは… そうだったんだ」
彼の声が震えはじめます。尋常ではありません。
「あそこまでは… あそこまでは…」
―ど、どうした、の?
「見たんだ。見たんだよ」
―な、何をさ?
「眼」
―め?
「眼だ。眼を見た」
―さ、さ、魚の?
「巨大な眼が、暗い暗い海底の岩の割れ目から、おれを見ていたんだ」
―な…
「目が合うなんてもんじゃない。おれの身長より巨大な直径。魚のように丸くまぶたのない眼球が、闇の割れ目からわずかな光に見えた。それはおれの全身を捉えていた」
―そんなバカな!
「あいつは… あいつは… おれを待ってた。やがて来るおれをずっと待ってたんだ、あのサーファーと同じように… 青い闇の底で。奇形の神殿で。おれにはそれがわかった。わかっちまった、選ばれたんだと。だからおれは引退した。海の生き物にされる前にな」
声も出ません。
「おまえも海には気をつけろ。これは他人事じゃない。いちど選ばれたら陸に上がっても逃げられやしないんだ」
―な、どういう意味?
「あいつはどこにでもいる。逃げ帰ったおれを見つめ続けてる。とうとう家の中にも現れた。クローゼットの隙間、カーテンの陰、天井の角。あの眼がおれを見ている。おれはどこからでも見られてる。いまこうしてる時もだ」
嘘だ! じゃなきゃあんた酔ってる! おれもう帰るよ!
「信じないんだな。あの月を見ろ。まさにあれがそうじゃないか」
―つ、月!? ただの月だよ! あんたおかしいって! しっかりしろよ!
いやしかし妙に黄色い。今日の月ってあんなに丸かったか?
無言のヒロ兄が、ゆっくりと、色眼鏡を外していきます。
「これでもか?」
魚眼。
人ではない眼が、ぎらりと照らされました。
僕は絶叫しました。それ以来、地元には帰っていません。






