第5話
森の木々は高木が多く、枝で街灯を遮られる事は殆ど無かった。代りに専ら明りは幹に依って遮られた。
樹木は密生して生えて居り、進むのは難儀した。三人は出発してからずっと無言だった。風は無く、葉が揺れる事は無かった。只三人の草を踏み締める音だけが聞えて居た。
婀娜やかな女が立ち止った。釣られて年若い男と大男も立ち止る。何だと聞こうとする年若い男を制して、婀娜やかな女は自分の耳を指した。
幽かに足音が聞えた。動物では無かった。明らかに人間が草を踏み締める時の音だった。年若い男は即座に周囲の情報を収集し出した。
半径一〇〇米以内に人間は居なかった。其れ所か生物の存在自体が感じられなかった。然し足音は聞えて居た。音は少しずつ大きくなって居る。近附いて来て居る何よりの証拠だった。
街灯が有るとは云え周囲が暗闇に包まれて居る箇所も多かった。不意に足音がしなくなった。周囲を見ても何も居ない。
年若い男は大男を見た。男は首を振って肩を竦めた。婀娜やかな女は二人の肩を叩いてから街灯を指差した。年若い男と大男は頷き、三人は歩き始めた。
街灯を四つ通過した所で又立ち止った。足音がした。然し人間の足音では無かった。明らかに獣の其れだった。少しずつ大きくなる。近附いて居た。
然うして黙った儘で待って居ると、不意に聞えなくなった。又先に進んで行く。街灯を五つ通過した。立ち止る。今度は足音では無く、枝を揺らす音がした。
音が大きくなり不意に聞えなくなる。進み出す。街灯を七つ過ぎた所で森を抜けた。立ち止る。森を振返って見ると、先程迄有った筈の街灯が消えて居た。森林内に明りは見えなくなって居た。
暫く其の儘で待って居たが音は聞えなかった。森の先は野原に為って居る。其処を進んで行く。
婀娜やかな女が又立ち止った。後ろを振向く。街灯が消えて居た。代りに又音が聞えた。叢の中を走る音だった。
人なのか獣なのか分らない。草を切り裂いて居る様な、そんな音だった。然うして可成り近く迄来た時に音は消えた。
婀娜やかな女が年若い男を見た。男は直ぐに周囲の情報を集める。今度は念入りに半径三〇〇米以内の生物――丈で無く機械も含めた動く物体――を探索して見たが何も居なかった。
周囲には只管草原が拡がって居り其れ以外何も無かった。男は婀娜やかな女を見て首を横に振った。女は溜息を一つして先を歩き出した。
それから三つ街灯を過ぎると、工場に辿り着いた。天井が抜けて居て、工場内には照明が点いて居た。大きさや周囲の状況から考えると、明らかに出発する前迄居た工場と同じ物だった。
後ろを振返った。街灯が幾つも立ち並んで居た。足許を見た。先程迄は無かったアスファルトの石塊が転がって居た。
婀娜やかな女は男達の手を取って又先を進んで行った。草原を越えて森に這入り複雑に道を折れ曲って行く。
途中で立ち止り耳を澄ますと例の音が聞えた。其れは女が立ち止る度に聞えた。心做しか先程よりも近附いて居る様に思えた。
森を抜ける。振向いた。森の中の明りは悉く見えなかった。更に先に進む。女が止る。振向く。街灯が無い。音が聞える。已んだ。女は男を見る。調べた。半径五百米に亙って。雑草以外に何も無かった。
然うして男は気附いた。街灯に加えて森が消えて居る事を。男の様子を見て女は素早く二人を引っ張って先に進み出した。街灯を三つ通り過ぎると工場に着いた。天井が抜けて居た。照明が点いて居た。振返る。街灯が点々と伸びて居た。アスファルトの残骸が有った。
「何う思う?」と年若い男は言った。声が顫えて居た。
「道を間違えて戻って来て了ったとか然う云う事だと思うか?」
「勿論然うだろ」と大男は言った。声が上擦って居る。
「ほれ、あれだろ? あの森ん中の街灯ってよ、随分と複雑に折れ曲ってたしよ、屹度知らない間に戻って来ちまったんだよ。な? 然うだろう姐さん?」
問われた女は然し、答える事無く思案顔で黙って居た。奇妙な沈黙が周囲を支配した。
「若し仮に道を間違えて居たとして、其れで先刻迄消えて居た街灯が突然現れたりする?」
「それは……あれじゃねぇの? 電球が切れて居たとか何かそんな感じの……」
「無かったんでしょ?」と婀娜やかな女は落ち着いた声で年若い男に尋ねた。
「二周目に草原で聞えた音が聞えなくなった時、周囲の情報を調べろって合図した時、其の時に此の工場は疎か街灯や森さえもあんたの能力には引っ掛らなかった――ううん、あんたは明確にあの周辺には叢が拡がって居る丈だったと気附いた。違う? だからあんたは先刻から相当に動揺して居る。何度調べても音の正体は攫めないし、消えた街灯が突如復活して居るし、無い筈の工場に突然戻って来た……予め言って置くけど、あたしはあたしの勘に従った丈さ。然うしてあたし達は茲に辿り着いた訣だけど、今其のあたしの勘が何て言ってるか教えて上げようか? 街灯を道標に道なりに進んで行け、だよ。三回目なのに変らない」
「完全に元の場所に戻って了ったのか?」
「分らないさ。あたしの勘は先刻から茲を出るには何処に向えば好いかを指し示して居る。けれど何う云う訣か、指示に従っても元の場所――か何うかは未だ分らないけど兎に角此の工場――に帰って来て了う。恐らくもう一度勘に従って街灯に沿って進んで行った所で結果は同じだろうね。又茲に戻って了う」
「勘か?」
「違うさ。あたしの考え。あたしの勘は先刻から何う進めば好いかしか指し示して居ないんだ」
然う言って自嘲的に笑い、「全く、こんな事は初めてだよ」と言った。
「で、何うする? あたしの勘はもう当てに為らない。勘に従うのは諦めて、手当り次第に探って見るかい? それとも三手に別れて――って云うのは危険過ぎるか。何が起るか分らないしねぇ……。あんたの情報収集も茲じゃ殆ど役に立たないんだろう?」
「ああ、収集しようにも何うも情報が錯綜して居ると云うか、正常に使えないと云うか……無い筈の物が目の前に有ったり消えて居た筈の物が突然現れたり気が狂って了いそうだ」
「よぉ、今は何うなんだ? 此の工場、今は収集出来んのか?」
「其れは……うん、可能だ。工場丈じゃなくて街灯や森の様子迄完璧に取得出来る。先刻迄は全く採取出来なかったのが丸で嘘みたいだ。本当に何うなって居るのやら」
三人は其処で押し黙った。周囲には音が無く、何も聞えなかった。周囲に目を向ける。此の辺り丈は工場の照明が有って明るかった。
工場内の明りは街灯と違って照度が高く、又幾つも点いて居た為、工場全体を完璧に照し出して居た。
工場は以前と全く同じ姿をして居た。何も変って居なかった。天井・壁・床・照明・機械類……凡てが同じだった。
「音」と大男が言った。
「森ん中とか森出た後の草原で唐突に聞えて来るあの音って何なんだ?」
「知るか。僕も何度も調べて見ようとしたが叶わなかった。音が聞えた直後、周囲の情報を集めて見たが何も居ない。大体、音が違うと云うのが解せん。最初は人間、其の後は動物の足音の様に聞える。次は木の枝を揺らす音で、草原では切り裂く様な音だった。誰か、何かが追って来て居るのは確実だが、毎回音が違うのは何なんだ。別の奴が順々に追って居るとでも言うのか? 一体何が何うなって居るんだ」
「確認するんだがよぉ、あんたが調べたのは音が聞え始めた後……だよな?」
年若い男は大男の目を見詰めた。何時に無く真剣な表情が其処には有った。
「音が聞える前に調べて見ろと、然う云う事か? あの音の主と直接対峙する積りか?」
「仕方無ぇだろ? 俺だって――ああ然うだよ。俺だって怖ぇよ。ってかこん中で多分俺が一番びびってるよ。出来れば逃げ出してぇよ。ってか逃げ出す為には何うしてもあれと対峙しなきゃならねぇ……仕方無ぇさ。腹ぁ括ったぜ。任せろ」
大男の瞳には強い決意が漲って居た。婀娜やかな女を先頭にして進む。今度は黙って歩かず打ち合せをしながら歩いて行く。街灯を追って森に至り、這入って猶会話を続けた。
「然し好いのかね? 大声で喋りながら歩いて居て。周りが静かだから可成り響くぜ?」
「別に構うまい。之で来なければ四周目は黙した儘で来れば好い丈の事だ」
「ふふっ、開き直ると強いもんだねぇ……先刻迄は怯えてた癖にさ」
「茲まで来たらもう何が起ろうが構わん。精々想像を絶する事でも起きて呉れ」
「おいおい、俺としちゃ、余りにとんでも無い事が起きるのは勘辨して欲しいんだがな……」
「腹を据えたんじゃ無かったのか? ありゃ嘘か? 言って置くが、今更中止は無しだぞ。其れに考えて見れば僕が相手の情報を捉えられたとしても其れが即、相手と接触する事に為るか何うかは分らない。相手が逃走する可能性は有るし、あの少年の様に姿が見えない可能性だって有る。何より、僕が相手の情報をどれだけ収集出来るか分らないんだ。若しかすると何も分らないかも知れない。然うなったら此の作戦も意味を為さない。まぁ余り期待せずに置く事だ。どれだけ御期待に添える活躍が出来るか分らないからな」
「へへ、そりゃこっちの台詞だぜ。俺じゃ何うしようも無い様なのだったら逃げるしかねぇぜ?」
「其の時は君を盾にして逃げるとしよう。出来る限り時間を稼いで死ね」
「其れが仲間に向って言う言葉か? もう少し何か斯う……言い様が有るだろ?」
「戦術的撤退の為の犠牲に為って貰う」
「済まん。矢っ張り簡潔明瞭に言って呉れて好いや。……そろそろか? 姐さん」
然う問うと婀娜やかな女は頷いた。
「街灯を二つ過ぎたら例の場所だから始めて置いた方が好いよ。しくじったら承知しないよ」
「出来る範囲内で善処する」と年若い男は答えた。
一つ目の街灯を過ぎる。年若い男は周囲の情報を探索し始める。歩きながらだと然う遠く迄は調べられないが此の場合は半径一〇〇米も有れば充分だった。
加えて周りは森だらけで生物が全く居ない。何か動いて居る物が有れば直ぐに探知出来る。今の所、周りには樹木が生えて居る丈で其れ以外の物は何も無かった。
只、予想はして居たが通り過ぎた街灯が悉く無くなって居る事が不気味と云えば不気味だった。
二つ目の街灯を過ぎる。背後で街灯の存在が消失するかと思われたが何故か消えずに残った。未だ何も遣って来ない。婀娜やかな女も立ち止らない。
街灯を過ぎてから一〇米程歩いた所で婀娜やかな女は立ち止った。音は聞えない。大男が年若い男を覗き込んだ。首を振って年若い男は答えた。何も起らない。
「一つ目の街灯を過ぎた時点で情報の取得を開始したのが不味かったのか? それとも喋りながら茲まで来た事が仇と為ったのか?」
「あの街灯、消えてねぇんだな。情報として捉えると消えないって事か。此の状況で出て来れば捕まっちまうって事が分って、どっかに逃げちまったんかね? なぁ姐さん?」
「分んないさ。音を立てずに何処かに潜んで居る可能性も有る。もう少し待つよ」
婀娜やかな女に然う言われ、黙って待つ事に為った。通り過ぎた街灯は消えて居らず、ぼんやりとした光が木々の間を縫って見えた。
樹木に遮られて灯自体は見えないが、光だけは幹に反射して僅か乍らに確認出来る。周りに目を向けた。暗い。茲で戦闘に為ったら不利だろうと年若い男は思った。
此方にも光を発する水が有るから或る程度は動き廻れる。然し明るい所と同じ様に活動する事はよもや出来まい。
其れに斯う云った物を所持して居ると云う事は、相手にして見れば恰好の目印に為って了う。大変不利な状況と言える。尤も相手が来ないのならば無用の心配でも有ったが。
「来ないな……矢張り僕の情報収集が早過ぎた様だ」
「喋ってたってのも原因かも知れないぜ。あれで向うにもばれちまったんじゃねぇか」
「相手が言語を解せるとは限るまい。恐らくだが街灯を残して了った事で音の主が此方の手に気附いた……そんな所だろう。四周目に這入る事に為るのだろうが、其の場合こっちの手を警戒して向うが来ない可能性も高い。新たな手を考えるべきか」
「待った!」と婀娜やかな女が叫んだ。
突然何だと訊こうとする男を制して、女は自分の耳を示した。幽かだが音が聞えた。直ぐに音の聞えた周辺を丹念に調べる。
居た。人間だった。正確な年齢は取得出来ないが、幼い。女の子だった。街灯とは別方向。現在地からの距離は十四米。
少女は静かに、ゆっくりと近附いて来た。音はその度に大きくなる。段々と判切と聞えて来る様に為った。
距離は一〇米。逃げ出す気配は全く無い。確りとした足取りで此方に向って来て居た。
残り四米迄近附いた所でじっとして動かなくなった。様子見の為に年若い男も其の場で待機し、少女が何う行動するかを見極めようとした。
然し少女は何時迄経っても坐り込んだ儘で居た。先程とは打って変って今は一歩も動く気配を見せない。
少女の姿は木に阻まれて視認出来ないが害意は持って居ない様に思えた。と云うより、相手が幼い少女である為に何うしても警戒心がゆるまざるを得なかった。
子供だ、とだけ言って、年若い男は少女の居る場所へと足を運ぼうとした。大男が肩を攫んで其れを止めた。俺が先に行く、と言って大男が前へ出た。
歩き乍ら大男は肩から提げた水を手に取り、槍に変化させた。大男は足音を殺して向って行く。年若い男と婀娜やかな女も後を追った。
大木を二本過ぎた所で、其処の木の後ろに居る、と小声で指差した。比較的幹の細い物だった。男は槍を前に突き出して何時でも突き刺せる様な体勢を取って、木の後ろに廻り込んだ。後に続く。
少女が目を閉じて坐り込んで居た。槍を前にしても――と云うより目の前に人が来た事に気附いて居ないらしく、完璧に目を閉じてじっとして居た。大男が戸惑って居ると、少女が目を明けた。
「だぁれ?」と少女は言った。
「若しかして、先刻から何回も此の辺をうろうろしてた人?」
何う答えたら好い物か分らず沈黙して居ると、少女は手提鞄から袋入の洋菓子を取り出して、食べる? と訊いた。
食べないが……と答えると、美味しいのに、と少し不満そうな声で音を立ててばりばりと菓子を口に含んだ。食べ終えると少女は鞄から水筒を取り出して飲んだ。
「だぁれ?」と少女はもう一度訊いた。
「こんな所でこんな時間に何を遣ってるの?」
「いや、あのな嬢ちゃん、寧ろ其れを訊きてぇのはこっちのほうなんだが……」
「捜しに来たの。居なくなっちゃったから。私のペット。見なかった?」
「いや俺等は見なか――」
大男は言葉を切って年若い男を見詰めた。年若い男は頷き、大男を後ろに追い遣って少女の眼前に立った。少女は坐した儘で年若い男を見詰めた。
「見ては居ないけど捜せるかも知れない」と年若い男は言った。
「で、一つ訊きたいのだが、君は何処に住んで居るんだ? 此の辺りでは無いだろう?」
「うん、此の森を抜けて野原を抜けた先」と少女は指差した。
「其れでお兄ちゃん達は茲で何遣ってるの? 先刻から森の中に何回も来てるよね」
「君は僕達が何度も茲に来て居る事を知って居るのか?」
然う訊くと少女は頷き、「うん、だって足音がしたもん。あの子達かなって思って追っ掛けてたんだけど、見たら違うし、又したから今度こそあの子かなって思ったら違って。もう疲れちゃった。其れで何で何回も森の中に這入ったり出たりしてるの? 迷子?」と言った。
「然うさ」と婀娜やかな女が言って、少女の頭を撫でた。
「実はお姉さん達は迷っちゃってねぇ……何う遣って出たら好いのか分らないのさ。教えて呉れるかい? あたし等であんたの其のペットとやらを探して上げるからさ」
「本当? 有難うお姉ちゃん!」と少女は嬉しそうに言い、「じゃ、はい」と両手を差し出した。