第2話
不図気附くと、周囲は暗闇に閉ざされて居た。年若い男は現在地を急ぎ把握する。場所は探知して居た洞窟内の一室。位置は巨大湖の場所から推定して恐らく建物の真下。
然し頭上の、先程まで居た建物の情報を取得しようとしても出来なかった。と云うより無くなって居た。年若い男は現在地から地上までの距離を測定する。約三〇米。そして三〇米より上には何も無かった。
否、何もと云うより公園に為って居た。分析結果によると、此の公園が出来たのは今から二七年と三箇月前だった。
公園の周囲の情報を取得する。該当する建物は半径五〇〇米以内には無かった。それどころか、年若い男の知る町とは微妙に異なって居た。建物の位置が移動して居たり無くなって居たり、ある筈の無い場所に建物があったりした。それも十年二十年前からあったと云う分析結果が出て居た。
年若い男は自分の周囲に目を向けた。暗闇で何も見えない。然し情報は容易く手に這入った。年若い男から見て左側に婀娜やかな女が、右側に大男が居た。
婀娜やかな女に就いては腕組をして居ると云う事以外分らなかった。大男は予想通り困惑を浮べて居る。年若い男は婀娜やかな女に向き直り、どう云う事かと問うた。婀娜やかな女は答えなかった。只、ふふっ、と云う笑い声だけを漏らした。
「これはお前の仕業なのか」
年若い男の声は思いの外、洞窟内で反響した。答える女の声も反響して聞える。
「あたしじゃ無いさ。訊いて御覧よ。横に居る男にさ」
年若い男は大男に向き直った。相手は動きだけで察したらしく慎重に言葉を重ねた。
「いや……正直に言って、俺には何が何だか、分らないんだ。あんたが石柱に手を当て始めて、少し、経ってからだ。その姐さんが、あんたに触れろと言ったんだ。で、俺と姐さんはあんたの肩に手を置いた――あんたは気附いて居なかったみたいだがな。其れから直ぐだ。いつの間にか、俺達は此の暗闇の中に居た。なぁ、茲は一体何処なんだ? 何で行き成りこんな所に遣って来たんだ?」
年若い男は答えず婀娜やかな女に向き直った。女の小さな笑い声が木霊した。
「笑って居ないで答えて貰いたいんだが」
「いやいや、別にあたしだって意地悪で答えないんじゃないのさ。只ね、あたしにも好く分らなくてねぇ。ふふっ、そう敵意満々の目を人に向けるもんじゃないよ。あたしはね、只あの建物から脱出する為にはどうすれば好いのかを教えて呉れた勘に従ったまでさ。あんたをあの場所に連れて行って、情報を収集させろ、然る後にあんたに手を触れれば、あの建物内部から脱出出来るだろう、とね。あたしの勘がそう教えて呉れたって訣だ。勿論あたしにはどこに移動するかなんて分りゃしない。あたしの勘に分るのは飽くまでも脱出するまで。どこに出るのかまでは分らない」
「此の場所に出る事も分らなかったと云う事か? ……此の真上、位置的には僕達はあの建物の真下に居る。然し此の上にある筈のあの建物が無い。公園に為って居る。然も町の様子も僕の知って居る物とは違って居る。ここは一体何処なんだ?」
「さぁねぇ? あたしに訊かれてもねぇ。収集と分析はあんたの十八番じゃないのかい?」
「此の期に及んで恍惚ける積りか? 言って置くが僕は其処までお人好しじゃないぞ」
「ふふっ、何うするの? あたしに触れて直接情報を取得する? 其れとも拷問でもして見る積りかい? 前者なら大歓迎だけど、後者は鳥渡ねぇ。場所的に御遠慮願いたい」
「場所さえ調えれば好いのかよ?」
大男の問掛けに婀娜やかな女は事も無げに答えた。
「こう見えてもあたしは結構特殊な趣味の持ち主なのさ。意外かい?」
「いや……その」と大男は言葉を濁した。代りに年若い男が答える。
「それで僕の質問を誤魔化した積りか? 流石に其れは僕を見縊り過ぎじゃないか?」
「怖い怖い。あたしの勘は恐ろしい事をあたしに教えて呉れて居るよ。見掛けに依らず恐ろしい事をさらっと遣るんだねぇ……。出来ればもう少しソフトな奴で御願いしたいね。女の体に傷を残すのは作法に反して居るよ?」
「作法に反した真似をされたくないなら話を逸らさずにちゃんとした返答をして欲しいんだがね」
「おいおい、仲間割れは止そうぜ。それより明りの確保の方が急務だと思うんだが……」
「好い事言うねぇ……ほら、明りが無いとあたしを痛め附けるにも苦労するよ? 大体の位置は分っても、正確無比な位置は視認しないと手に這入らないんじゃないのかな?」
「妙に癪に障る言い様だな……まあ好い」と言って年若い男は歩き始めた。
「おいおい、置いて行かれるのは困るぜ。俺達も――」
大男の言葉が跡切れた瞬間にこける音が聞えた。
「ふふっ、気を附けないと危ないよ」と婀娜やかな女は大男の手を取って立たせた。婀娜やかな女は大男の手を取って年若い男の前に連れて行き、手を握った。右手を大男と、左手を婀娜やかな女と。一体何う云う積りだと問うと、迷わない為さ、と云う答が返って来た。
「当然だろう? あたしらは此の完全な闇の中を歩き廻ったりは出来ないんだ。かと云ってまさかあんな暗がりにあたしらを置いて行ったりはしないだろう?」
「出来る事ならここに置いて行きたい位なんだがな……」
「今の台詞は聞かなかった事にして上げるから、さっさと行く事だね」
「お前ならば別に僕の案内が無くても自慢の『勘』でどうにか出来るんじゃないか?」
「なぁ、頼むから早く明りの所まで案内して呉れないか? 出来れば喧嘩はその後で……」
少時の間、静寂が周囲を満たした。無音の状態での沈黙が続く。大男は見掛けに依らず、暗闇を不得手として居た。
何か子供の頃に闇に関する何らかの出来事があったのかどうかまでは分らなかったが、兎に角一刻も早くここからの脱出を望んで居る事は慥かだった。
「分ったよ」と一言断ってから年若い男は二人を引き連れて歩き出した。
「あんまり急がないで呉れ……いや、慥かに早く明りのある所まで行きたいんだが、暗いと足許が分らんから、転びそうでな。何と云うか、ほれ、あれだ。俺みたいなのが、転んだりすると、大変だろ? な? だから出来る限りゆっくり――いやいや、だからって速度を落さなくても別に好いんだ。ゆっくり――じゃない、速く、叮嚀に歩きさえすれば、俺としては大満足なんだ。ほれ、今だって転びそうになっただろう? そりゃお前はどう進めば好いのか、何処に何があるのか分ってるのかも知れねぇがな、俺には、分らねぇんだからよ。もうちょい、手加減っつーか、優しくっつーか、な? 歩き易い様に……いや、面倒かも知れないがよ、何処に何があるのかをきっちりと説明してくれると、あー、可成り有難いんだが……いやいや面倒臭いのは分るぜ? でもなぁ、ほら、姐さんだって、矢っ張り何処に何があるのかくらいは分った方が好いだろう? な、姐さん。……姐さん? な、なぁ、姐さんからの返辞が無いんだけど、居るよな? 隣にちゃんと居るんだよな? 手ぇ握ってるんだから分るだろう? 俺をからかって遊ぶなんて人が悪いぜ二人とも。ははは、は……。なぁ、俺なんか気に障る様な事ってやったかな? 二人とも、とってもご機嫌斜めかい? こう云う時だからこそ、楽しい会話をすべきだとは思わないかい?」
「着いたぞ。お待ち兼ねの明りだ」と年若い男は呆れた調子で言った。
明白地なまでに喜んだ様子で大男は湖の部屋に飛び込んだ。
「然程遠くも無いし、殊更道が悪かった訣でも無いのに随分と時間が掛っちゃったよねぇ……。一体誰のせいでこんなに遅くなって了ったのやら」
「分り切った事を訊くな」と年若い男は苛立って言った。
「全く……でかい図体をして居る癖にあれではな。戦闘の時も役に立つかどうか不安だな」
「其の辺は大丈夫さ まぁ孰れにしても今は気にする事は無い。実力は実戦で見せて貰うのが本筋。戦う前からあれこれ言うもんじゃないだろう?」
「勘か?」
「勘さ。不満かい?」
「別に」
年若い男が地底湖に向おうとすると、後ろから声が掛った。
「あたしに接触して居たにも拘らず、あたしに関する情報を引き出そうとしなかったんだね。慎重と云うか臆病と云うか……もう少し積極的でも好いと思うけどね?」
歩みを止めた男は、然し何も答える事無く再び歩き出した。背後から婀娜やかな女の幽かな笑い声が聞えた。と同時に足音も耳に這入って来る。附いて来て居る様だった。
巨大な地底湖では大男がその大きさに感歎して居た。年若い男は水際に居た大男に呆れた様に言った。
「子供の様だな。先程の暗闇の中での反応と云い、もう少しそのなりに相応しい反応をしたらどうだ。ギャップが激し過ぎるのは如何な物かと思うが」
「だってよぉ、こんな珍しいもん見たら普通はこうなるだろ?」
大男は改めて湖に目を向けて言った。
「すげぇもんだな。岩か何かが発光してんのか? いや砂か?」
「水だ」と年若い男は言った。
「原理は分らない。然し此の水自体が光を発する様だ。取敢えずこれで明りの確保は出来た訣だが……問題はどう遣って此の水を持って行くかだな。透明な袋か何かが有れば好いのだろうが――持って居るか?」
大男は首を振った。
「そうだろうな。さてどうした物か……」
「ここはあたしに任せて貰おうか」と後ろから来た婀娜やかな女は言った。
「あたしの本来の力を使えば此のくらいはどうって事は無いからね」
婀娜やかな女はしゃがんで水に手を翳した状態で静止した。目を閉じて其の儘の姿勢で居る。然し時間が経ってもこれと云った変化は起らなかった。
余りに何も起きないので年若い男は婀娜やかな女から視線を外して周囲に目を向けた。地底湖は広大で向う岸は遙か先に見える。
天井も高く十八米は有った。湖自体の面積は一三〇〇〇平方米。湖からは巨大な岩の柱が七本、伸びて居た。円い形をした物で天井に向って真っ直ぐに立って居る。
柱は高さによって太さが異なって居たが直径は八米以上あった。其れが七本も湖から生えて居た。柱の周囲には光の粒の様な物が飛んで居た。情報を取得しようとしたが叶わなかった。目には映って居るが情報として捕まえようとするとどうしても捉えられない。
一体何なのだろうか、と年若い男は思った。若しかするとこれは自分の見て居る幻なのだろうか。そんな気もした。然し隣に居る男が「あの光の粒って何だ……?」と呟いた事で、何うやら自分だけが見て居る幻覚と云う訣では無さそうだと分った。
再度情報を取ろうと試みて見るが失敗に終った。どうしても捉えられなかった。何故なのか。自分の能力が狂って了ったのだろうか。
然し依然としてその他の情報は捉えられる。焦る事は無い、と年若い男は自分に言い聞かせた。分析・解析だけで無く、情報自体が取れない事は今までにだって有ったのだから。
例えば今隣に居る女、こいつの情報も取れなかったではないか。あの光の粒も直接触れば情報を採取出来る筈だ。問題は無い。
年若い男は情報を取る事を止め、視覚に頼る事にした。無数の光の粒は柱の周囲を緩やかに飛び廻って居た。飛び廻ると云うよりも落下して居ると称した方が適切かも知れない。
比較的水面に近い位置で発光物は下に向って行く。そうして着水しそうに為るほんの少し前に上空へと又緩やかに上って行く。其れを延々と繰り返して居た。
柱以外の場所ではこう云った事は全く起っていなかった。柱の周囲でのみ発生する現象であるらしかった。壁に目を向けると絵の様な物が描いてあった。
絵と云うより紋様と称すべき物。線と線が幾重にも交叉し、其の隙間に点が幾つも打ち込まれて居る。そこに水が反射して奇妙な光の渦が出来て居た。湖面は穏やかで波一つ無いにも拘らず光の渦は波打って居る。
水の発する光は、壁を、柱を、天井を反射して部屋全体を光で満たして居た。水自体が光を発して居るから水底は全く見えない。水と云うより蒼い光が漂って居る様に思えた。
手を前に翳すと天井に陰が出来た。手の周囲を光が揺らめいて居た。年若い男は黙って居た。大男も何も語らずに黙して湖を見詰めて居た。静間が部屋を支配して居た。
「はーい完成!」と出し抜けに婀娜やかな女が言った。
「いやいや流石に斯う云うのは疲れるもんだね。予想以上に疲れてあたしも吃驚だよ」
「行き成り何を言い出すんだよ」と不機嫌な声で年若い男が言った。
「先刻から何を遣って居たのか知らないが聊か時間が掛り過ぎじゃないのか」
「随分な言い様だねぇ……人が頑張ってこれを創ったと云うのに」
婀娜やかな女は自分の胸の前に水の塊を掲げた。両手で持った其の塊は直径四〇糎程度の大きさだった。
婀娜やかな女は自分の足許に目を向ける。見ると其処にも小さな水の塊が二つ出来て居た。此方は婀娜やかな女の持って居る物の大体三分の一程度の大きさの物。
婀娜やかな女は微笑んで自分の頭上に四〇糎の塊を浮遊させた。突然塊が消える。後ろで大男が驚きの声を挙げた。大男の胸の前に光の塊が有った。
手に取って、と婀娜やかな女は言い、大男は従った。男が手を触れると塊は紐状に変化し男の肩に掛って腰の辺りまで紐を伸した。腰の位置で塊は又姿を現した。大きさが若干小さくなって居る。
婀娜やかな女に目を向けると楽しそうに笑みを浮べて居た。又水の塊が浮び上がった。再び消える。今度は年若い男の前に現れた。
手に取って、と婀娜やかな女は言った。年若い男は直ぐには触らなかった。一度婀娜やかな女を見た。先程と全く変らぬ笑みを浮べて居た。
年若い男は吐息を一つして二つの塊にそれぞれ片方の手で触れた。同じ様に水は形を変化させ襷の様に体に巻附いた。鳩尾の辺りで交叉し肩を経て背中を廻り、腰の辺りで上に向って伸びて行く。
不図気附くと目の前にもう一つ光の玉が有った。先程の物よりも更に小さい。右手で触れると今度は鉢巻の様に頭に巻附いた。
「鳥渡不恰好だけど、まぁ動き易そうで好いんじゃない?」
「自分で遣って置いて其の言い草はどうかと思うんだが……」
「別にあたしがデザインした訣じゃないのさ。其れはあんた達が自分の動き易い形を自ら創り出しただけ……あたしに文句言うのは筋違いってもんだよ」
「そう――なのか?」
「見て御覧よ、あたしの此の明りを」
婀娜やかな女は湖から水を取出して塊にした。婀娜やかな女が塊に触れると先端が丸くなった棒に変化した。其の姿は何処と無く街灯を思い起させた。
「此の水はあんた達の好きな様に出来るから、嫌なら今からでも形を変えれば?」
そう言われても年若い男は形を変えなかった。大男も変えなかった。不恰好と言われたのは癪と云えば癪だが動き易さと云う意味では此のほうが都合が好かった。
「さて……其れじゃ明りも手に這入った事だし、行こうかねぇ」
婀娜やかな女はそう言って年若い男に出口を探す様に言い附けた。
「丸で直ぐに脱出出来る事が分って居るかの様な言い方だな」
「出られるよ。間違い無くね。あたしの勘がそう言ってる」
「勘ね……君は本当に何なんだ? ここが何処なのか本当に分らないのか?」
「ふふっ、まだ疑ってるんだねぇ……あたしの勘は万能じゃ無い。あの柱にあんたを触れさせれば、あの建物から抜けられる事は察知出来ても何処に出るかまでは分らない。近い内にここから抜けられるであろう事は分っても、其れがどう云う経緯でなのかまでは全く以て分らない。つまりはそう云う事さ」
年若い男は溜息を吐いた。
「情報が全く取得出来ないから分析も出来ない。嘘を吐いて居るのか、調戯って居るのか、或いは本当に何も知らないのか……全く分らない」
「好いじゃないか。たまには自分自身を信じて見るのも」
「僕は自分の能力に絶対の自信を置いて居るのだが……」
「ふふっ、そうだったねぇ……完璧だと思って居た己れの力の不足を見せ附けられて、あんたの大事な大事な矜恃を穢して了ったかい?」
「自分の能力が完璧だと思う程に己惚れてなど居ないよ。出来る事と出来ない事の区別ぐらいは附く。只、今までなら難無く出来て居た芸当が君に関してはどう云う訣だか全く出来ない。だから――何だろうな、これは……。逡巡――いや違うな。戸惑い……か? うん、多分戸惑って居ると云う表現が一番適切なのだろうな。僕は君と云う存在に出遭い、そうして分析不可能な事態に巻き込まれてどうすれば好いのか分らずに戸惑って居るのだと思う」