夏の底
60数年前、僕の父が高校生だった頃 同人誌に投稿した短編を30数年前に僕が読み
記憶を頼りにリメイクしてみました
昭和四十年代、大阪の下町 汗ばむ夕方、日が少し傾きかけたころ、小学四年生の裕貴はランドセルを背負い、妹の夏美と別れて一人で帰り道を歩いていた 小学校から自宅までは20分ほどの道のり 平凡でいつもと変わらない日常の中、後ろからの声に足を止める
「おい、裕貴!」
振り返ると、ガキ大将の純一が走り寄ってきた いつも大勢を引き連れている純一が、一人でいるのは珍しかった
「純ちゃん…どうしたん?」
「いいとこ連れてったる ついてこいよ」
純一は目を輝かせて言った
「どこ行くん?」
「沼や あの“底なし沼”」
裕貴の心臓がドクンッと跳ねた 沼は、学校や親から立ち入りを禁じられている場所だった
大人たちは「危ない」「近づくな」と繰り返していた それでも、噂話だけは子どもたちの間で
尽きなかった 「底がない」「何人も沈んで死んだ」「大戦中に武器が捨てられた」そんな謎めいた場所だった
「行ったらあかんやろ」裕貴は首を横に振った
「臆病やなあ 俺は行く お前も来いや」純一の目は挑発的だった
裕貴は一瞬迷った 純一に逆らえば何を言われるかわからない けれど、沼に行くのは危険だとわかっている
迷う心が交錯する中で、純一の一言が背中を押した
「お前、怖いんやろ?」
その言葉に負けたような気がして、裕貴は「ちょっとだけ」とつぶやいてしまった
「よっしゃ、行こうや!」
山道を進む純一とぼく 思っていたよりも道は細く、茂った草や木々が視界を遮りセミの鳴き声が響く中をぼくは、不安な気持ちを抱えながらも、純一の後をついて行った
しばらく歩いていくと、丘の斜面をくり抜いたような洞窟の入口を見つけた
僕らは中には入ってみる 洞窟内はいくつかの区画に分けられており、崩れないようにだろうか? 所々にしっかりとした角材で支柱とされていた
錆びついた手榴弾らしきものが転がっているのを見つけ、純一は声を上げて喜んだ
「ほら、見ろ!戦争で使われたんちゃうか! ここは防空壕やったんや」
「触ったら危ないで…」ぼくは声を絞り出す
「お前、ほんまにビビりやな だから一人やと誰にも相手されへんねん」
純一の無遠慮な言葉に、ぼくは唇を噛んだ
しばらく進むと、木々の間から青黒く濁った沼が見えた 沼の境界が定かではないが、教室ほどの大きさだろうか? ここに来てやけに空気が重く感じられた
「ここや!」純一が叫ぶ
沼に近づいた純一は、棒切れを拾って水をかき回し始めた
「めっちゃ深そうやな」
「純ちゃん、危ないで もう戻ろ」
「うるさいな!黙っとけ ここまで来て帰れるか!」
純一は沼の縁に立ち、履いていた靴を投げ捨てると泥の感触を確かめるように足を踏み入れた
「きしょい感触やな〜 お前も来てみい」
「僕は、ええよ」
「裕貴 お前の明日からのあだ名はビビリーマンやな ハッハッハッ」
「アホ言うな これくらい入ったるわ」
沼の縁に腰を下ろし、履いていた靴と靴下を脱ぐと大き目の石の上に置き片足を沼に入れる
「ほんまにきしょいな〜」
おそるおそる両足とも沼へと入る その間に純一は、一歩二歩と歩みを進めていた
靴を置いた石の上にカラスが舞い降りてきた その瞬間、沼が純一の足を飲み込んだ
「うわっ!ちょ、足が抜けへん!」
純一はもがき始めた 泥は彼の太ももまで達し、動けば動くほど深みにはまっていく
「裕貴!助けてくれ!」純一が叫ぶ
ぼくは恐る恐る腕を伸ばしたが、純一の体はどんどん沈んでいく
必死に裕貴に向けて腕を伸ばす 純一 あと少しで指が触れる………
その時、自分まで引き込まれるのでは?と、思わず腕を引っ込めてしまった
「裕貴、離れんな!助けてくれ!」
「純ちゃん…助け呼んでくる!」
「行くな!頼む、ここにおれ!」
「大丈夫!すぐに戻って来るから!」
すでに胸まで沼にはまっていた純一の顔が恐怖に歪んでいた
純一の声が耳を突き刺す けれど、ぼくは恐怖に駆られて沼から這い上がると、靴と靴下を掴みその場を駆け出していた 背後から純一の叫び声が追いかけてくる
「裕貴!裕貴ぃーーー!!」
叫び声が次第に遠のき、消えた
どうやってここまで戻ってきたのだろう? 公園の水道で汚れた手足を洗うと靴を履き
ぼくは何事もなかったかのように家に戻った、心臓はずっと鳴り続けていた 食事中も純一の
叫び声が頭の中で響き、箸を握る手が震えた
その夜、電話が鳴った 父親が受話器を取り、深刻な顔をして母親に声をかける
「純一君が行方不明やって」
母親が驚きの声を上げた 「裕貴、純一君知らんの?」
ぼくはすぐに首を振った 「知らん 帰り道は一人やった」
母親はそれ以上追及しなかったが、裕貴の胸に小さな針が刺さるような痛みが残った
翌日、学校では純一の失踪が大問題となり、警察が捜索に乗り出すことが告げられた
「純一を見た人がいれば、すぐに教えてください」担任の先生が言った
ぼくは俯いていた 手汗が止まらない 心臓が爆発しそうだった
それから数日の間、なんの進展もなく ぼくは学校で話をすることもなくなっていった
誰が言い出したのだろう? 純一は沼に行ったのではないかと……
「沼を捜索するらしい」そんな噂がクラス中を駆け巡るたび、裕貴の耳鳴りはひどくなる
「見つかったらどうしよう……」
ぼくの頭の中で繰り返されるその言葉に、胸が締め付けられる 純一の体が発見されれば、あの日のことが全て明るみに出る――自分がその場から逃げ出したことも
裕貴の心は張り詰めた糸のようだった 沼の中に自分の罪が潜んでいるように感じ、呼吸が苦しくなった
それから数日後、捜索は一旦中止されたと聞かされた日、裕貴は自分の耳を疑った
「沼を全部調べたけど、何も見つからんかったらしいわ」
友達が何気なく口にした言葉だった
その瞬間、裕貴の体から力が抜けた 冷たい汗が一気に引き、肩が軽くなる
「よかった……見つからんかった……でも純一の靴は?」
しかし、その安堵の裏には、罪悪感が暗い影のように重くつきまとっていた
「いったい……純ちゃんは……どこへ?」
自分の中の矛盾に押しつぶされそうになりながらも、裕貴は無理やりその思考を振り払った
それから数日後の明日から夏休みという夕方、妹の夏美が思いもよらぬ一言を口にした
「お兄ちゃん、あの日は純一君と一緒に帰ってたやろ?」
ぼくは一瞬息を飲んだ
「なんでそんなこと言うんや?」
「わたし見たもん そこの公園の角で二人で歩いてたやろ?」
夏美の言葉に、裕貴の中の何かが音を立てて崩れた 誰も知らないはずだった――そう信じていたのに
その晩、裕貴は眠れなかった 布団の中で純一の声が何度もよみがえる
「裕貴、離れんな!」 「裕貴、助けてくれ!」
いつの間にか浅い眠りに落ちた裕貴は、夢の中で沼のほとりに立っていた。目の前には泥だらけの純一が立っている
「なんで助けてくれへんかったんや……」
純一の声は低く、どこか遠くから響いてくるようだった 純一の体は次第に泥に包まれ
目だけが裕貴をじっと見つめている
「ぼく、怖かったんや……」ぼくは夢の中で言い訳をした
その瞬間、純一の手が泥の中から伸び、ぼくの足を掴んだ
「一緒に来いよ、裕貴……」
泥に飲み込まれる感覚が現実のようにリアルだった ぼくは叫び声を上げ、布団から飛び起きた 汗が滝のように流れ、胸の鼓動がうるさいほどだった
「夢……ただの夢や……」
ぼくは自分にそう言い聞かせたが、純一の視線が今もぼくを見ている気がした
夏休み初日、ぼくは一人で沼へ向かった 茂みを抜け、あの日と同じ場所に立つ
沼は静かに、深い緑を湛えていた ぼくは沼の縁に立ち
しばらくじっとその水面を見つめた 風が吹き、木々がざわめくたびに背筋が震えた
あの日と同じように重苦しい空気が辺りを包んでいる。
「純ちゃん、どこにおるんや……」
ぼくは呟きながら、小さな石を拾い上げて水面に投げた 石は跳ねることなく、泥水に吸い込まれるように沈んでいく その光景に、胸の中の罪悪感が再び重くのしかかった
「怖かったんや……ほんまに怖かったんや……」
ぼくの声は震えていた 涙がこぼれそうになるのを堪えながら、何度も自分に言い聞かせた
けれど、その声は風にかき消され、沼に吸い込まれていくような気がした
そのとき、背後の茂みから微かな音がした ぼくは驚き、振り返る
しかし、そこには誰もいない ただ草木が風に揺れているだけだった
「誰や……?」
そう呟いた瞬間、再び茂みの奥から音がした。恐る恐る近づいてみると、そこには純一の靴が片方だけ転がっていた ぼくの心臓が一気に跳ね上がる
「あのときの……」
靴を拾い上げると、泥が乾いてひび割れているのがわかった 手が震える……
なぜここにあるのだろうか?どうして見つからなかったのか?頭の中が混乱する
そのとき、耳元で微かに声が聞こえた気がした
「裕貴……」
振り返っても誰もいない。声はどこからともなく沼の方から聞こえてくるようだった 恐怖と後悔が入り混じった感情に押しつぶされそうになりながら、裕貴は靴を握りしめ、沼の縁へと戻った
「純ちゃん……ごめん……」
ぼくは深く頭を下げた 心の中で何度も謝り続けた すると、不意に風が止み、辺りが静寂に包まれ沼の水面が揺れ、小さな波紋が広がる
「純ちゃん、聞こえてるんか……?」
答えはない……ただ、沼は静かに佇んでいるだけだった
ぼくはその場に立ち尽くし、長い時間を過ごした やがて、日は傾き、茜色の夕日が沼を照らすころ、ぼくは静かに沼の縁に腰を下ろした
「純ちゃん 1人で寂しかったな ごめんな……」
ぼくは靴と靴下を脱ぐと、純ちゃんの靴と一緒に丁寧にあの石の上に置いた
静かに沼の中へと両足を下ろすと、純ちゃんを最後に見た付近まで歩みを進める
不思議なことに、恐怖よりも言葉にならない解放感がぼくの体を飲み込んでいった
沼のほとりに置かれた靴は、静かに夕日の中に佇んでいた そして、再び風が吹き、木々がざわめき出す その音がまるで何かを語りかけているようだった
その父も亡くなって10年以上、誰かの目に触れて喜んでくれるかな?