エール共和国へ ⑩
エルフは思わず俯き、深く息を吐き出した。
賑やかな市場を歩きながら、行き交う人々とすれ違う中で、彼女の心は次第に迷いを抱いていく。
周囲を照らす灯りが人々の姿に揺らめき、夕闇に沈みゆく空の下、どこか幻想的にぼやけて見えた。
目の前の道が、なんだかよく見えない気がした。
外出する際、エリスをリズミアに任せた。
だが、医者を探しに出たものの、成果は一つも得られなかった。
町中の診療所をほぼ回り尽くしても、エリスが昏睡状態に陥り、高熱が引かない原因を見つけることはできなかった。
——無駄な時間を過ごしてしまったのは明らかだ。
もし外に出ても無駄足に終わると分かっていたなら、最初から部屋でエリスのそばにいた方が、よっぽど意味があっただろう。
後悔しながらも、エルフは知っていた。
一度出た以上、後戻りはできないのだと。
「教会があさって、また『聖女の洗礼』って儀式をやるらしいよ。今回は町中の人間が参加しなきゃいけないんだってさ……」
「どうせ私たち一般人には関係ないってのに、教会はいつも変な行事を押し付けてくるんだから、本当にやってられないよね……」
突然、エルフの耳に気になる話が飛び込んできた。
彼女は声のする方向に目をやると、果物屋台の近くで話し込む二人の女性の姿を見つけた。
険しい表情で、互いに不満をこぼしている様子だ。
「すみません……ちょっとお尋ねしてもいいですか?」
エルフが話を遮るように近づくと、女性たちはあからさまに迷惑そうな顔を見せた。
「『聖女の洗礼』という儀式について、お聞きしたいのですが……」
「そんなもん、教会が適齢の女の子を攫うための口実に過ぎないわよ!」
不機嫌そうな声で、一人の女性がエルフの言葉を遮った。怒りを含んだ調子だった。
「『聖女の洗礼』に参加した子たちは、みんな姿を消してしまうの。どれだけ家族が教会に問い詰めても、あの連中は『神の恩寵を受けてより素晴らしい世界へ行った』なんて、訳のわからないことしか言わないのよ。どこに行ったのか、誰も知らない。追及しようとした人たちも、謎のまま消えちゃうの!」
「それどころか……教会の奥にある黄金の十字架に、娘が縛り付けられて焼き殺されているのを見た、なんて話もあるのよ。」
「え、本当? そんなの広まったら、大スキャンダルになるわよね……」
「でも教会の権力は絶大だからね……何が広まろうが、奴らには痛くも痒くもないわ。」
女性たちはエルフをほぼ無視し、彼女が関心のない話題に移っていった。
しかし、十分な情報を得たエルフは、これ以上尋ねることなく足を旅館の方へ向けた。
「焼き殺される」という言葉を耳にした瞬間、彼女の頭には、ある光景が蘇ってきた。
それはグランドを旅した際、黒いローブをまとった「魔女」と呼ばれる女性が、帝都で帝国軍に生きたまま焼き殺された場面だった。
女性たちの話によれば、この地域の教会が行う儀式の対象は、どうやら「魔女」と疑われる者ではなく、普通の住民の家庭から無理やり連れ去られた哀れな少女たちのようだ。
エルフは思わず身震いし、背筋に冷たい感覚が走った。
強烈な不安感が、彼女の心の奥底から湧き上がってくる。
エルで長く滞在した経験のあるエルフは、魔力流を掌握する教会が、魔力流を持たない一般人に対してどれほど恐ろしい支配力を持つか、痛いほど理解していた。
魔力流の量で地位が決まるこの地では、魔力流が少なければ少ないほど、その者の地位は低い。
教会の持つ膨大な魔力流の前では、普通の住民は反抗の機会すら与えられない。
「聖女の洗礼」が一体何のために行われているのか、エルフには分からなかった。
だが、それを知る必要もない。
自分に影響が及ばない限り、関わる必要もないのだ。
彼女は大きく息を吐き、顔を上げると、いつの間にか旅館の前にたどり着いていた。
「まずはエリスの様子を見てこよう……」
そう呟き、旅館に足を踏み入れようとしたその時だった。
リズミアがオスたちと何か言い争っている様子に気づいた。
目は泣き腫らしたように赤く浮腫んでいる。
「えっ? リズミア……ここで何してるの?」
「エ、エルフ!」
リズミアはエルフに駆け寄り、そのまま抱きついてきた。
何が起こったのか分からず、エルフはリズミアの背中を撫でながら、落ち着かせようとした。
「エリスが……エリスがいなくなったの!」
リズミアの泣き声が、エルフの耳に響き渡る。
状況が何一つ分からないまま、エルフは雷に打たれたかのようにその場で立ち尽くした。
エリス……
彼女が、突然姿を消した?




