リンゴとの夜
航海に出て4日が過ぎていた。
雄大に与えられた個室は割と広い上級士官用の船室だった。巡洋艦シャイニーロッドの訓練航海では四人部屋だったのを思い出す。
「シャワーとトイレが付いてるのがほんと有り難いよなぁ」
こうやって水の出る設備を個人でたっぷり利用できるのは豪華客船ぐらいのもので軍艦では結構珍しい。
長めのシャワーを浴びた後で身体を拭うのもそこそこにソファにどっかと腰を下ろす。
小さなベッドにサイドボード、ソファ、海図やデータを映写するのに適したフラットな机とそれなりのリクライニングチェア、小さなクローゼット、冷蔵庫、洗面台。
私物はあまり持ち合わせていない、おおすみまる事件の時、私物の大部分が船外に出てしまい回収不可能となっている。今のところ特に飾り気もない殺風景な部屋だが元々軍艦なのだからむしろ華美な方、とも言える。
冷蔵庫からぺットボトルの炭酸水を出して水分補給すると、しばらくの間ソファでぐったりする事にした。そろそろベッドで本格的に横になるか、と立ち上がった瞬間、雄大は部屋の異変に気付いた。あまりに自然に部屋に溶け込んでいたので今までそんなものが部屋に侵入しているなどとはまったく気が付かなかった。
「……おい」
「……」
「おーい?」
ベッドの上では本来ここにいるべきではない少女、リンゴがうつ伏せになり、完全にくつろいだ格好で熱心に漫画を読んでいた。この漫画は豊富なぎゃらくしぃの品揃えの中から雄大がリンゴのために選んで買い与えてやったものだ。かなり夢中になっているようでたまに体勢をかえたりページをめくる以外は微動だにしない。
「こらリンゴ」
「待って、後にしてけろ」
タンクトップとスパッツ、そしてお守り札を首から下げたリンゴは雄大の方を見もせずに答えた。いつの間にか雄大の部屋に転がり込んでベッドを占拠している。シャワーを浴びている間の事だろう。
「あのなぁ」
「ああん、雄大さ、うるさいだよぉ。今これすごくいいとこなのにぃ」
リンゴは完全に雄大に懐いてしまっている、懐き過ぎてしまい多少馴れ馴れしいというか。いつの間にか「宮城さん」から「雄大さ」に呼び方まで変わって親しげになっている。
(これはもしや、男として嘗められているという事か)
年齢の離れた妹か親戚の姪っ子と仲良くなり過ぎたらこんな感じになるだろうか。一旦読み終わったのか最後のページを食い入るように眺めた後、お気に入りのページを探すべくパラパラと飛ばし読みをはじめた。
「面白いだなぁこれ、おら早く続き読みたいだよ! 雄大さオススメの漫画は全部面白くて最高だ」
「なあリンゴさんや?」
「はい、なんだべか?」
まだ漫画の誌面から目を離さない。
「年頃の娘がこんな時間にそんなはしたない格好で若い男の部屋にだな……ゴホン」
「昨日言われた通り、ノックはちゃんとしただよ?」
リンゴは漫画の単行本を脇に置くと上体を起こしてベッドの上にあぐらをかくように座った。
「おまえの場合、ノックした次の瞬間にもう部屋の中に侵入してるだろ……いやノックより問題なのはその下着なのか寝間着なのかわからんような格好だ」
「変じゃない……だよね? ルナシティではもっとかっこいい寝間着が売ってるだか?」
リンゴが身体を揺すると短く結んだおさげと一緒に小振りの胸がごく僅かに揺れた、リンゴは自分の汗のせいで身体に張りついたシャツを離そうとぐいと引っ張った。緩やかなカーブがシャツからのぞく。
「うわっ」
思わず雄大は目を背ける、お守り札がいい具合にブロックしてくれなかったら角度的に危険だった。
ここ最近は環境の劇的な変化と多忙に加え、オフの時間帯もこんな感じでリンゴにつきまとわれてしまって独りの時間がほとんどない。禁欲的な生活を強いられている雄大にはこういうちょっとした色気も目の毒だ。
「なんでここにいるの」
「このベッドの上で漫画読むと落ち着くだよ」
意味がよくわからない。雄大は問答無用で追い出そうかとも思ったが何とか言葉で諭そうと努力した。
「もうそのマンガ読んじゃったんだろ? 部屋に戻って寝なさい、いい子だから」
「……むー」
唇を尖らせたリンゴはぷいとそっぽを向くとシーツを被ってベッドに潜り込んだ。
「だ、だっておら寂しいだよ……追い出されたら部屋の前で泣いちゃうから」
リンゴはこうなると梃子でも動かない。力ずくで追い出そうとする過程で騒がれたら他のクルーにあらぬ誤解を受けるのは間違い無い。それにまあ、なんとなく可哀想でもある。リンゴは押しが強いようでその実、子犬のように小心で臆病だ。
「あー、またか……わかったよ、今夜もそこで寝ていいから……」
「やったー! だから雄大さ大好きだぁ」仕方無くソファに横になると、リンゴは食堂で初めて食べた料理が口に合わなかったけど我慢して食べただとか牛島調理長に貰ったシャンプーがいい匂いだとか頻繁にレジで違算を出したり酒瓶を割ったりするブリジットがどうしてクビにならないのか不思議だとか、他愛もない話題を振ってくるがリンゴがあんまりにも楽しそうに話すので無視する訳にもいかず、何とか眠気を抑えて相槌を打ち続けた。
小一時間もするとリンゴは丸くなってすうすうと寝息を立てていた。雄大はベッドの脇に座るとリンゴの頭を優しく撫でた。
(世間知らず少女が見知らぬ人に囲まれ新しい環境で生活していくのが寂しくて不安なのはわかるけどな……)
普段大きな口を開いてしゃべってる時はカエルのキャラクター、ケロっぺに似た愛敬のある顔だが、こうやって目を閉じて黙っていると結構整った目鼻立ちをしているし、パサパサだった髪の毛も潤いを取り戻して艶が出て来て……こういうのもなんだが贔屓目に見れば美少女と言えなくはない。
「お前さ、こんな下着も付けずに男の部屋に毎晩……俺が普通の男だったらとっくに……」
不意にリンゴがむずがるように身を揺すった。
「……ダメだぁ」
寝言は雄大には聞き取れなかったが何か怖い夢でも見てるのか少し険しげな顔になり、身体を逸らして手を伸ばす。
「……どこさ……」
「……リンゴ?」
伸ばした手を握ってやると 少女の顔は安堵で満たされ再び安らかで朗らかな寝顔に戻っていった。そっと手を離す。
弾力のある引き締まった小さな身体は瑞々しくはちきれんばかりの生命力に溢れている、大人の女性にはない爽やかな甘酸っぱい色香。
迂闊に手を握ったのは失敗だった。リンゴの体温が、肌の感触が手に残って離れない。
雄大は形よくくびれた腰に手を伸ばしそうになる。
(い、いかん……俺を信頼して眠ってるこんな無邪気な子に悪戯するなんて……)
雄大にここまで全幅の信頼を寄せ、打算無しの真っ直ぐな好意をぶつけてきた女性はリンゴが初めてだ。いくらリンゴが男女間のあれこれに疎いとしても、雄大が手の早い男ならとっくに男女の仲になっていてもおかしくはない。
パッとユイ皇女殿下の顔が雄大の頭に浮かぶ。
(俺みたいなのじゃ、ユイ皇女みたいな美人と釣り合うはずもないし、それに……)
リンゴ以上に自分を好いてくれる女性とこれから巡り会う保証なんてないし、雄大もリンゴの世話を焼くのは嫌いじゃない。
「リンゴ……お前の言う『好き』が俺の思ってる『好き』と違うとしても。俺、もう我慢しないぞ?」
雄大は年下の少女の小さな身体に身を重ねると自らの顔を寄せた。
不意にリンゴの唇が開き、その手が雄大の腕を掴む。
(えっ、起きてた?)
雄大は驚きのあまり心臓が止まりそうになった。
「とうちゃん……やっと……みつけた」
「は?」
(とう、ちゃん……?)
リンゴはしっかりと雄大の腕を握ったまま寝息を立てていた。ふりほどけない程ではないが、リンゴの穏やかな寝顔がまた曇るかと思うと忍びない。
雄大は観念したかのようにベッドの端に身体を横たえ添い寝をする事にした。
(親父さんの替わりか……やっぱりというか、がっかりというか)
先刻までの妖しげな気分が吹き飛ぶ。
この娘はまだまだ子供だ、誰かが親代わりで見守ってやらなければ。
持て余し気味の性欲とリンゴの女としての魅力を上回り抑えつけるような、奇妙な使命感が雄大の中に芽生えた。
実家を飛び出して家族の縁が薄くなった雄大に、新しく大切な守りたい家族が出来た──そんな瞬間だった。
(でもなー、流石に理性の限界だから脚挟んでしがみつくのやめてくんないかな……)
結局、雄大は一睡も出来なかった。