芸人全盛の時代
お笑い芸人が至る所で活躍している。ユーチューバーも芸人的なものが多いし、芸人がこれほど評価される時代は他にないだろう。
芸人とは何か。私は、自分は芸人に詳しいと思っているある人を知っている。その人は本気で自分は芸人について詳しいと思っている。しかし、お笑い芸人について知る事は、落語について知るのとは違う。そもそも、今のお笑いは素人の為の開かれた芸だ。
素人が、素のまま、知識のない状態で笑えるか、笑えないか、それが問題であって、玄人的なものがそこに入る余地はない。しかし、素人的な芸が、むやみに玄人的なものまで高められている。そういう見かけが装われている。私はここに気持ち悪さを感じている。
一例を上げれば、「ダウンタウン」がやたら神格化されている事だ。ダウンタウンの松本人志は「笑いの天才」だと言う意見をよく見る。私は、はっきり言えば、お笑いの領域については天才は一人もいない、と思っている。それが何故なのか、説明するのは大変だが、簡単に言えば、大衆の持つ、影のない嗜好に合わせた領域において天才は現れ得ない、と考えているからだ。
これを芸術の領域から見れば「悲しみの欠けた領域に天才はいない」という事になる。セルバンテス「ドン・キホーテ」。確かにこれは笑える狂人の物語であるが、笑いの背後には人間の悲惨や悲しみが滲んでいる。優れた文学作品にはユーモアが存在するが、その裏には必ずと言っていいほど悲しみが存在する。悲しみを完全に払底した領域において、天才は存在し得ないと私は考えている。
松本人志に戻れば、彼のレベルは彼の映画を見ればはっきりする。松本人志には教養がない。しかし、松本人志が大衆に人気なのは、彼が教養がないという事と関係している。明石家さんまもそうだが、教養のなさ、底抜けの朗らかさ、知性の持つ暗さを感じさせないという特性は、大衆には「親しみやすさ」となって現れる。知性は必ず暗い影のようなものを持っている。大衆はそういうものを感じさせない、底抜けの朗らかさを愛する。
今は大衆の時代なので、こうした親しみやすい、面白い人が天才だと言われるが、それはこの社会の基準に沿ったものでしかない。そしてこの社会の基準は大衆の嗜好に合うかどうかという事でしかない。しかし、大衆の嗜好にどんな価値があるのかは、また歴史そのものによって判定されていくだろう。
「お笑い」とは何か、という問題に戻ってみよう。お笑いとは「ズレ」である。ズレはボケであり、ズレたものをツッコミによって元に戻す。これが基本であろう。
それでは何からズレるだろうか。最近見ていたジェラードンというトリオの動画のタイトルを見てみよう。タイトルは例えばこんな風になっている。
「貫禄がありすぎて先生に間違われる生徒」
「角刈り女子が勝手に話を進める恋愛ゲーム」
「おじさんが万引きしたとおもったら、貫禄ありすぎる中学生だった」
タイトルだけでも、コントの内容は大体、想像できると思う。「貫禄がありすぎて先生に間違われる生徒」は、いかにも先生に見える太った角刈りの男が、実は学生だったというオチのコントだ。
この時、何が起こっているのか、見てみよう。まず「いかにも先生のような容姿や喋り方の男」が画面に現れる。彼は新しく赴任してきた教師と会話する。相手は、男を容姿や言動から判断して、ベテランの先生だと思う。しかし話している内容の辻褄が合わず、後から、男が学生だとわかって、驚く。
この時、見ている我々にとって大切なのは「いかにも先生らしい見かけの男は先生でなければならない」という先入観だ。お笑いは、こうした常識を踏まえるのを通例としている。お笑いにおいては、ステレオタイプな設定、記号的なキャラクターというのは実に多い。そこからお笑いが始まると言っていいほどだ。このステレオタイプなものの見方は、大衆が先天的に持っている考え方である。
こうした常識を踏まえて、笑いはそこからズレていく。例えば、とてつもない醜男が、学校一の美女に、汗を掻きながら告白したとしたら、人々は笑うだろう。何故笑うのか。美女と醜男は釣り合わない、と人は考えているからだ。これがイケメンなら誰も笑わない。しかし、実際にはブサイクな男の告白に美人が心を動かされる事もあるかもしれない。ただ、この「かもしれない」はお笑いでは排除される。あくまでも話は、我々が漠然と持っている常識、先入観、ステレオタイプから始まる。
結論から言えば、お笑いとは、我々がぼんやり持っている常識を最大限に肯定するものである。我々の先入観、常識、そうしたものを揺さぶる事はない。むしろ、そこに安堵し、あぐらを掻いた上で、わざとはみ出してみせて、はみ出た様子をみんなで笑うのである。笑われたものは、普通ではないもの、奇妙なもの、異常なものである。そうしたものを笑う事で、我々は自分達が同じ一つのグループだと安堵する。そこにお笑いというものの本質はある。
お笑いは、我々の常識や先入観に揺さぶりをかけたりしない。そういう本質的な価値観は問わない。例えば、「すき焼きは卵で食べる」という常識がある。私は個人的にはすき焼きに卵はいらない、と思っているのだが、そういう意見はお笑いにはならない。
笑いになるのは、例えば、「すき焼きには卵」という常識を逆手に取って、卵を頼まれた人間がうずら卵を持ってきて、それに対して「これだとちっさすぎるわ!」というツッコミを入れるとか、そうした事である。このやり取りにおいては「すき焼きは卵で食べる」という我々の常識は破られない。むしろ、それで正しいのだというイメージを与えてくれる。
それではこの常識とは何だろうか? お笑いに対する考察が意味があるとすれば、私にはその点だけな気がする。私の印象では、この常識とは、戦後に作られたものであると思う。「お茶の間」という言葉に代表されるような、安定した家族像、安定した生活、内輪で楽しく団らんするとか、仕事や勉強に精を出せば人生はうまくいくとか、そうしたもののトータルだと思う。
「お茶の間でテレビを見る」という当たり前事象について考えてみよう。「お茶の間でテレビを見る」というのが当たり前である為には、まず、「お茶の間」が安定していなければならない。お茶の間とは家族団らんの象徴であり、そうした空間だろう。
この空間から、テレビを見る。テレビの中のお笑い芸人を見て、笑う。この時、我々は芸人は滑稽な事をしていると感じる。流行した芸人の顔ぶれを見てみれば、彼らは一様に、どこか蔑まれる要素を持っている。
『蔑まれる』というのは言い過ぎだとか、ひどい言い方だと言うのであれば、それは私が人々の抱いている残酷さを明文化した罪が問われている事なのだろうーーいずれにせよ、人々はお笑い芸人を「下」に見ている。「ブサイク芸人」とか「ポンコツ芸人」が次々に現れては消えるのは、自分達よりも「下」の人を笑って、優越を感じたいからだ。
この優越の問題は、前に言ったズレの問題と同一だ。まず「常識=茶の間」があって、そこから「ズレた=下」の芸人を笑うのである。人々は、意図して自分達未満を演じている人々を見て、自分達の存在の正しさ、常識の正しさを確認する。
だが、今の社会で起こっているのは、常識の崩壊に他ならない。これは「茶の間」という言葉が廃れつつある事も合わせ、格差社会や、それぞれの人間に繋がりがなくなってバラバラになっているとか、巨大なシステムだけが君臨しているとか、色々な要素が挙げられるだろうが、はっきりしているのは、戦後に築いてきた、平和と安定が崩壊しているという事だ。
この社会は目下、崩壊中である。しかし、テレビをつければ相変わらずステレオタイプなストーリーがニュースでもドラマでも語られ、お涙頂戴な下町の物語云々といったものが溢れている。お笑い芸人はまさに全盛期で、芸人自体はどんどん小粒になってきているにも関わらず、その小粒な芸人も場合によっては結構なスポットライトが当たったりする。それではどうしてこのような事になっているのだろうか?
答えは簡単で、それは、人は窮地に追い込まれれば追い込まれるほど、かつての自分達の良かった頃、その幻想に取り付こうとするからだろう。この幻想は強固であり、ステレオタイプなものの見方を変えるのはほとんど不可能に近い。それよりは「京都人は性格が悪い」「宇都宮といえば餃子」云々といったステレオタイプなものの見方を頭に詰め込む方が遥かに楽だ。このステレオタイプな考えは、自分の頭で考えるという労を取り払ってくれる。それは、要するに楽なのだ。
要約すると、今の社会が芸人全盛なのは、我々が崩壊しつつある中で、その崩壊を直視したくないからだ。下の人間は、より下の人間を探す。タル・ベーラの映画に、村で一番無力な少女が、自分よりも弱い猫を見つけて捕まえ「私の方が強いんだ」とささやきかけるシーンがある。少女は猫に毒を盛って殺すのだが、後から自分の罪を感じて、猫の死体を抱えたまま、自分も毒を飲んで死ぬ。この物語は悲しいが、人間の真実を伝えている。
芸人の滑稽な姿を笑う我々は、他人を笑う存在であって、その事で自己肯定感を感じられる。しかし、その肯定が依って立つ場所が一刻一刻、崩壊していっているにも関わらず、それについて目を向ける事はできない。我々は崩壊のさなかに、自分達よりも崩壊している何物かを見て笑う。しかし、この笑いがどこまで続くかはわからない。
芸人が全盛の一方で、ネトウヨ的な思考も増えてきている。これは崩壊の理由を他人に押し付けるものであり、崩壊を直視しないという姿勢では、お笑いを面白がる精神に近い。崩壊していっている集団の中で、内輪的一体感に閉じこもり、外部を見ないようにしようとするのが、「優しさ」を重視したノリの正体だ。一方で、ネトウヨは奇妙なくらい生真面目であるが、この一本調子の生真面目は、優しさを基調とするふやけた笑いと好一対を成している。しかしその本質は同じであり、自分の頭で考えないという点は共通だ。
これで言いたい事は大体言ったわけだが、今の、お笑い芸人全盛の雰囲気に私は気持ち悪いものを感じている。私がもし、人気芸人だったとしても、どこか居心地の悪いものを感じただろう。それは、島田紳助がどんな道筋を辿ったかを見れば、はっきりすると思う。昨日の人気芸人は、明日にはもう唾を吐きかけられる存在となりかねないのだ。
人気芸人である事は、人々の本当の、心からの賛意を現したものでは決してない。私はごく普通の人と話すと、彼らの価値観がよくわからない、といつも感じる。しかし、彼らだって自分の価値観がわかっていないし、そういうものはほとんどないので、だからこそ漠然とみんなが褒めているものを褒め、みんながしている事をする。芸人は面白がられているだけであって、その人の価値が社会に本格的に承認されたわけでもなんでもない。
その事を自覚した上で芸人をしている芸人がいるとすれば、それは立派なものだが、それでも大衆に奉仕する存在という事でやはり限界はあるだろう。私の芸人についての見解は、以上のようなのもだ。個人的な感想を最後に付け加えれば、教養のある芸人は「立川談志ー北野武」で終わりなのだな、と寂しい気持ちを抱いている。北野武ですらも、立川談志に「お前はレベルが低いからテレビに出続けているんだ」と(期待を込めた)難詰を食らっていたぐらいだ。今はそうした教養というものが全然わからなくなっている。後にはみんなで地べたに寝そべって楽しくやっている人々の影が地上に残るばかりだ。