コンビニ
もう少し内申書が良ければ同じ高校に行けたのにね、と言った途端に彼女は席を立つ。夏の終業式の放課後のことだった。
戻ってきた彼女は、レジ袋を提げている。コンビニのロゴマーク。一枚十円。最近また値上がりして、一周回ってちょっとお洒落なアイテムになりつつある。
「帰っちゃったかと思った」
「なのに待ってたの?」彼女は袋を私の机に置く。「成績表、出して」
言われたとおりに私はそれを広げた。可もなく不可もなく。我ながら嫌みのない数字の並びだと思う。
彼女はその中でも「何もわざわざそこをピックアップしなくても」という数字に指を添えた。私が不平不満を口にする前に、彼女が言う。
「消してあげる」
そこからの彼女の動きは速かった。レジ袋に手を入れる。何か得体の知れない、画鋲抜きに似たような道具を取り出す。道具の先端を数字に当てる。擦る。
数字が消えている。
「まあ見ててよ」
なんてことを、と口にする前に、やはり彼女はそう言って、またレジ袋に手を入れる。今度はガムの包みのようなものが出てくる。頭から包装を剥がす。
「うわ、なにこれ。きも」
「きも……可哀想に。そんなこと言わないでよ」
剥がされたパッケージの中から、うねうねと何か、黒い紐状のものが這い出てくる。私は椅子を引いてそれと距離を取る。「大袈裟だなあ」と彼女が笑う。黒い紐が私の成績表の上を這う。やめてください、と言う間もなく、それは思いのほか素早く移動して、さっき消された成績欄に覆い被さる。
それから、ぺたり、と。
音がしたような錯覚までしてしまうほどあっさりと、それは厚みをなくした。
「……何? それ」
「見てごらん」彼女が手招きをする。私は尻込みをする。「いいから、ほら」微笑まれると恐怖心が薄れる。結局私は近寄って見る羽目になる。
5。
当たり前のような顔をして、その数字は私の美術の成績を埋めていた。
「訊いてきてみなよ」彼女が言う。「先生に。これ、間違ってないですかって」
私は言われた通りにした。職員室に行った。担任を見つけた。すみません。どうした。これって数字、これで合ってますか。
合ってるけど。
教室に戻る。彼女が画鋲抜きとガムの包みを持って座っている。日直が閉めて行った窓は彼女の手で再び無残に開かれて、カーテンは真っ白な風に膨らんでいる。
「他のもやってあげる。それとも、自分でやる?」
私は彼女と同じ高校に進んだ。
┃|||┃||┃||||┃
大抵のものは売っている、と彼女は言った。
「でも、そのことを知らないだけ……。コンビニの仕組みって知ってる?」
「ううん」私はついさっき買った肉まんをふたつに割って、「食べる?」
「その半分でいいよ。……コンビニって、個人事業みたいなところあるから。結構、店長の人が周りの環境に合わせて、売るものを決めてたりするんだよ」
「成績表の数字も?」
「そう」彼女は四分の一の肉まんを小さく齧って、「学校の近くとか、塾の近くとかならね」それから、自分の手元にあるアイスを見て、「一個食べる?」
食べた。冬と夏の境目の季節が、イートインから見える外の景色だけじゃなく、私の口の中でまで繰り広げられてしまう。首に縄をつけられた犬が雑草を食べて変な顔をしている。
「でも、よかったのかな」
「何が?」
「お金で成績、買っちゃって」
「別にいいんじゃない?」彼女はあっけらかんとして言う。「良い塾に行ったりするのだって、結局はお金で点数を買ってるようなものでしょ」
「そうかなあ……」
そうだよ、と彼女は言った。そうかなあ、と私はもう一度言った。
すると彼女は、その帰りにまた別のコンビニに寄った。出てくると、やっぱりレジ袋を持っていて、手を入れて、私に一粒のチョコレートを手渡してくる。
「なにこれ?」
「今度から口に入れる前に訊いた方がいいよ。しばらく人を信じやすくなる薬」
私は周りを見渡した。
「どういう需要?」
「あそこの公民館、投票所に使われてるから」
なるほど、と私は頷く。
別にいいような気がしてきていた。
「みんなやってるよ」
別にいいんだと思った。
┃|||┃||┃||||┃
就活セミナーの横のコンビニには、ものすごい履歴書が売っていた。
「なんでみんな、買わないんだろうね」
「知らないからでしょ」彼女は迷いなくそれを手に取って、「なんでもそうだよ。知ってるか、知ってないか」
彼女がレジに行く。私もそれに続こうとする。掴む直前で、手が止まる。どうしたの、と戻ってきた彼女が訊ねる。
「いや、迷っちゃって」
「何が?」
「私、こんな大した人間じゃないよ」
履歴書にはこんなことが書かれている。名門中学・高校から名門大学に外部受験、首席入学、首席卒業。留学経験あり。学生時代はスポーツとボランティアと趣味に打ち込み、そのどれもが社会的な価値と繋がりを持っていて、私はとても素晴らしい人間です。
「絶対、ボロが出ると思う。私、飛行機苦手だから、海外とか行かないし」
「じゃあこっちのでいいんじゃない。この国大好きバージョン」
「いや、」そういうことを言ってるんじゃなくて、「わかるでしょ?」
「わかんない」彼女は首を振った。「困ったら、またコンビニで何か買えばいいんだよ。その都度、必要なもの」私に履歴書を押しつけて、「で、そのためにはお金が要る。お金がたくさん手に入る仕事についておくのが大事」
彼女の言っていることが正しい、と私は思った。レジに行く。お金を払う。レジ袋要らないです。鞄にしまう。帰ったら大学の購買部に売っていた「給料の良い会社名簿」と「絶対受かる面接対策」の本を並べて、勉強を始める。
たくさんのお金を費やして、良い会社には入れた。
でも、それだけだった。
┃|||┃||┃||||┃
一体何を買ったらいいのか、私はコンビニの中で途方に暮れていた。
何かが必要だった。仕事はまあ、上手くいっているといえばいっている。困ったときにはコンビニがあったし、何がどこで需要のあるものなのかは、なんとなく見ていればわかる。業務内容が嫌になったら仕事が好きになる薬を買えばよかったし、体力がなくなってきたら元気が出る薬を買えばよかった。
でも、職場が嫌になる理由なんて、大抵は人間関係のこと。
会社にいる間ずっと私は、妙な疎外感を覚えるようになっていた。
やっぱり、と私は思っていた。やっぱりこうなった。履歴書に書かれた私は、どう見ても私じゃなかったから。人と関わるのが大好きです。世の中に蔓延る不正は許せません。休日は価値観を広げるために新しいことに挑戦しています。趣味がいくつあります。その腕前は平均以上のものです。日々社会問題に対する強い関心があり、様々な活動に顔を出しています。ぜひ皆さんも、何かグループで活動するようなことがあれば声をかけてください。読書会とか、勉強会とか。
立派な人だとは思う。
でもそれは、私じゃなかった。
「あの、『私じゃなくてもよくなる薬』って、置いてませんか?」
「あー……そこになければないですね」
苦し紛れに訊いてはみたものの、本当にそれがあって、それを買って、それを飲んで、問題が解決するのかはわからなかった。
社会の上層で活躍するためには、私じゃない私が必要だった。私はそれをお金で買って、できるだけたくさんのお金を得られるようになった。
だから?
「あ、じゃあ……肉まんください」
「はい。袋は……」
「そのままで」
かしこまりました、と店員が言う。手渡してくる。少し冷めている。店から出て、口をつけようとして、外で何かを食べているのが恥ずかしくなって、やっぱり袋を貰えばよかったと思う。家に向かう。もう冬だった。
お金はたくさんのことを解決してくれた。でも、お金じゃ買えないものもあった。それは愛とか勇気とか、そんなに希望に溢れたものじゃなくて、その場所にいる資格とか、精神的な正しさとか、そういうものだった。
私にはそれがなかった。
周りの人たちが楽しいと言うものを楽しいと思えなかった。周りの人たちが蔑んでいるものを、適切に軽蔑することができなかった。品性がなかった。良い人間ではなかった。「ちゃんとしたものを食べないと心が貧しくなるよ」という上司が食べさせてくれたご飯より、中学生のときに彼女と机を並べて食べたカレーライスの方が美味しかった。コンビニで食べた安いスナックの方が美味しかった。
家に着いてから、ようやく肉まんを食べた。冷え切っていて、美味しいかどうかもよくわからなかった。人の言うことを信じやすくなる薬を飲んだ。お風呂に入った。薬が効いてきた。ベッドに入りながらイヤホンをつけた。社長によるありがたいお言葉。我々は世界に価値を還元する仕事をしています。あらゆる問題に真摯に取り組んでいます。給与が良く、恵まれています。不平不満を言う必要はどこにもありません。さあ、仕事を楽しみましょう。チームワークを大切にしましょう。日頃から社会のことについてよく考え、適切に貢献しましょう。正しい人間であることを心掛けて、今日も元気に生きていきましょう!
明日死のうと思った。
┃|||┃||┃||||┃
無断欠勤でもいいと思ったけど、一応会社に連絡を入れてから休むことにした。特に理由を深く訊かれることはなく、それで私が社会に対してすべきことは全て終わった。
楽な死に方はどこに行けば買えるだろう、と考えて行き着いた先は大学の購買部だった。売っていたし、買えた。大学図書館の机に彫り込まれた「死にたい」という文字を覚えていたのがよかったんだと思う。錠剤を手に持って、あとそれを飲むための水も買って、私は外に出る。どこに歩いていく気もしなかったから、そのまま講堂前のベンチに座った。肥え太った鳩が私の前を横切っていく。ちょうどその羽の色が、太陽を隠す薄雲の色と同じだった。
「あれ、」
すると、予想しない顔がそこにあった。
「え、どうしたの」
「そっちこそ」
彼女だった。中高大とずっと一緒だった、一緒にしてくれた彼女。彼女がスーツ姿で、そこに立っている。不思議そうに私を見ている。
私は自分がここにいる理由を言わなかった。一方で彼女は、今勤めている法律事務所の仕事の関係で、大学教授に面会に来たのだと教えてくれた。今の仕事に満足しているのだと思う。せっかくだから一緒に食べないか、というので、食堂に降りていって昼食を共にすることになった。
最後の昼餐。
「一口食べる?」
「いいよ。そんなに食欲ない……」
「悩み事?」
「…………」
「一口貰っていい?」
どうぞ、と私は定食の皿を差し出した。彼女が細かく切って取る。代わりに、要らないと言ったのに自分の分を一口皿に渡してくれた。
「コンビニで買えばいいよ」
彼女は言う。
「困ったら、コンビニで買えばいいんだって。そんなに難しいことじゃないよ」
そうだね、と私は微笑んだ。必要なものが置いていない、という話をしようと思えばできたけれど、彼女は午後も仕事があるだろうし、引き留めたくなかった。
「あのさ、」
「ん?」
代わりに、別れ際に一言だけ訊くことにした。
「今までコンビニで買って、一番良かったもの、何?」
「何その質問……」
んー、と彼女は宙を見て、考えて、
「肉まん」
「肉まん?」
「自分で買ったことないけど。一口貰うのが美味しいんだよね」
今度の日曜日遊ぼ、連絡するね、と言って彼女は去る。私は鞄の中を見る。さっき買った薬が入っている。ごみ箱に捨てる。口に入れる前に訊いてよかったと思う。
コンビニに寄る。会社に行く。上司が席を立つ。おやどうしたんだ今日は休みの日だよしっかり休んで生産性を上げて私生活も充実させなきゃ。その横に知らない人物が立っている。どなたですか。ああ、彼女は臨時で雇った方でね。君が今日休みを取るというから、穴埋めに来てもらったんだよ。君と同じ経歴を持っている。
そうなんですか。
明日からもぜひ、来てもらってください。
退職届はどこでも売っている。日曜日には、「いい仕事先」がどこに売っているかについて、私は訊ねる。
(了)