100年の初恋
山の奥の谷の底にある小さな村で。
その日、あまりの暑さに雨でも降らないかな、と思いながらイアンはひとり小さな池で釣りをしていた。
ボッチャンンッッ!!!
突然それは空から落ちてきて、衝撃でプカリと池の魚とともに浮かんだ。
「に、人魚……!?」
子どもの人魚が浮いていた。
「雨ではなく人魚が空から降ってきた……」
イアンはゴクリと唾を飲み込んだ。
人魚はお伽話のような存在でドラゴンなみの貴種である。その血肉を食べれば長寿になれると囁かれ、闇で超高値で売買されていることをイアンは知っていた。
ツンツン。
ツンツン。
釣竿の先で人魚をツンツンつつく。
「し、死んでいる……?」
「生きているわよ!!」
空の大きな水溜まり、雲から落ちてきたリジェーヌとイアンのはじめての出会いであった。
それ以来ーー。
「イーアーン!」
「リジェーヌ、今年もきてくれたっ! あいたかった!!」
毎年毎年ーー。
「リジェーヌ、人間に見つかったらヤバイだろ? 大丈夫か?」
「この村に来るまでは雲に隠れているから平気よ。知っている? 雲の成分って水なのよ」
夏になるとーー。
「リジェーヌには番がいないのか? 人魚の番は有名だぞ」
「私はカワリモノマザリモノの人魚だから番はいないの。純粋な人魚だけが番持ちで生まれてくるのよ。ほら、髪で隠れているけど、私の背中には小さな羽があるでしょう? 魚でなく下半身が水蛇のお姉様や額に角があるお姉様も番がいないのよ」
「他の人魚からいじめられたりしないのか?」
「どうして? 少しだけ姿形がちがうけど私たちは人魚で皆姉妹よ。お姉様たちとも妹たちとも、とっても仲良しよ」
ーーリジェーヌは山の小さな村を訪れた。
「今年もお土産をもってきたわよ。海の塩と海の魚!」
「リジェーヌありがとう。山の奥まで行商がなかなか来てくれないから、塩は本当に助かるよ。村の皆がリジェーヌに感謝している」
「イアンも感謝?」
「俺は感謝もしているけど、リジェーヌに会えることが一番うれしいっ!」
冬の終わりの雪解けのひんやりした風が頬にあたると、イアンは指折り数える。
根雪がとけはじめ山目覚める頃、草木が芽吹く淡い色合いの空を見上げ。
フィーと口笛のような澄んだ声で鳴く晴鷽雨鷽の夫婦の春の鳥の声を聞き。
紅紫色の蓮華草が咲き。
白、赤、紫、黄の躑躅が咲き。
花房が風に雅やかに揺れる藤が咲き。
顔を上げるように真上に花びらが開く雛罌粟が咲き。
小さな蝶が群がるような無数の小花の金雀花が咲き。
イアンは、盛夏の炎暑でも花が絶えない夾竹桃が咲くのを毎年待った。
そうして山の草草が強い日差しに照らされて、むっと熱気を出す草生きれの夏がくると、リジェーヌは雲に潜んで村までやってくるのだ。
「そぉれ!」
リジェーヌの声とともに、海の魚たちがザザザザァンと波音のように音を響かせ巨大な雲から飛び出してくる。
リジェーヌの魔法によって魚たちは自由自在に空を水中のように游ぐ。
地上では大人も子どもも目を輝かせて、ワクワクと網をもって待ち構えている。海から遠く離れた山の奥の村では、新鮮な海の魚など普通ならば一生食べることができない。今日は一年で一番のご馳走の日なのだ。
太陽を浴びて魚の鱗がキラキラきらめく。
大きな集団で群れを作って群泳をする鰯は球形となって銀色に光っている。
鳥が羽ばたくようにヒラヒラ泳ぐ鮃。
三日月形の尾びれを動かして高速に泳ぐ鰹。
魚体の尾びれを左右に振って泳ぐ鯛を、子どもたちが歓声をあけて追いかける。
「リジェーヌの魔法はすごいなぁ」
イアンをが褒めるとリジェーヌは鼻高々にうふふと笑う。
「魔法を維持できずに雲から落ちたなんてウソみたいだ」
「ンもう! あれはまだ子どもだったから!」
顔を赤く染めたリジェーヌに、ぽかぽか叩かれてもイアンは楽しげに笑っている。
はじめての出会いから13年、子どもだったイアンとリジェーヌは愛し愛される恋人となり結婚を考えていた。
「俺、村を出るよ」
「え!?」
「村の小さな池を大きくしようと思ったけど、水が問題でね。集めるのが難しいんだ。だから俺が海へ行くのが二人にとって一番いい方法だと思うんだ。けれど海辺では他の人間にリジェーヌが見つかって危ないから、どこかに人間のいない無人島はないかな?」
「でもイアン、村には塩が必要でしょう?」
「男の純情なめるなよ。俺、3年かけて山道を整備して、来年からは行商が定期的に来てくれるように話もつけた。まあ、海の魚はなくなるけど行商から干物くらいなら買えるだろうし」
リジェーヌは幸せに怯えるように声を震わせた。
「村にはイアンの家族がいるわ。村から海までとても遠い。空を泳げる私とちがって、二度と会えなくなるくらい遠いのよ?」
イアンはリジェーヌに真っ直ぐに視線をあわせると、屈んでその手を取った。
「結婚してくれ。家族も賛成してくれている。そうだな、100年、リジェーヌといっしょに暮らしたい。俺とリジェーヌの二人で」
他はなにもいらない、とイアンの目がリジェーヌに訴える。
ぽろりと涙をこぼしたリジェーヌはイアンの手を両手で包んだ。
100年、長寿な人魚と違い人間にとっての100年は命の長さそのもの。
「おめでとう!」
「よかったな! イアン!」
「幸せになれよっ!」
村人たちが口々に祝福の声を上げる。
子どもたちは跳びはねながら、イアンとリジェーヌのまわりでバンザイをする。その手には魚がしっかりと握られている様が、面白くも可愛くて人々にさらに笑顔が広がった。
だから、気づかなかった。
イアンの兄が暗く濁った目をしていたことを。顔だけは笑っていたから。
イアンの兄は笑顔でリジェーヌに近付くと、袖に隠し持っていたナイフでリジェーヌの腹部をドスンと刺した。
崩れるリジェーヌに一瞬時が止まる。
「アーハッハッハッ! これで俺も金持ちだ! 塩も持ってこない、魚も運ばない人魚なんぞもう価値もない。だが死体ならば価値はある。明日には商人がやってきて人魚を高く買ってくれるっ!!」
イアンの兄が血のついたナイフを振り上げ笑う。
「なんてことを! 今までの恩を徒でかえすのかっ!!」
怒鳴る村人をイアンの兄はぎょろりと睨む。
「あ~? 人魚を売ることを今まで一度も考えたことがないとは言わせねェぞ。おまえもおまえもおまえだって、人魚は金になるって酒を飲んだ時に言ってたよなァ!?」
うっと村人たちがひるむ。
しかし、
「まめっ!!」
小さな女の子が、ごちそうの魚をブンとイアンの兄にぶつける。ついでに足元の小石もおまけとばかりに投げつけた。
「まめちゃんに続けっ!!」
他の子どもたちも、イアンの兄に向かって射るように魚を飛ばす。次々と小石や魚がイアンの兄へと乱れ飛ぶ。
「捕らえろっ!!」
村長が命じながら持っていた杖でイアンの兄のナイフを弾き飛ばし、村人たちがボコッボコに殴りつける。
「まめっ!!」からはじまって、一方的なボコリの連続技であった。
あっけに取られて目をぱちくりさせてリジェーヌが言った。
「まめちゃんすごい」
「リジェーヌ、リジェーヌ……、大丈夫なのか?」
滂沱の涙をあふれさせイアンがリジェーヌにすがる。
「うん、平気。ちょっと血は出たけど、もう傷口もふさがったわ」
人魚の再生能力は凄まじい。人魚を殺したければ、首を一撃で切り落とすしか方法はないのだ。
「リジェーヌ、すまない。俺の兄が……。俺、俺、リジェーヌが死んだら、リジェーヌの死体を抱いて火の山に身を投げるから。リジェーヌを誰にも渡さない、利用させないから」
だから捨てないで、と絞り出すような涙声でイアンはリジェーヌを放すまいと抱き着いた。
「イアン、私は死なないわ。だってイアンが命の100年をくれると言ってくれたもの。だから私も、私の初恋の100年が続くことを約束するわ。私とイアンは100年ずっといっしょよ」
リジェーヌのやさしい声に、イアンは鼻をスンスンならしウンウン頷いた。
「100年ずっとだよ?」
「ええ、100年の誓いね」
その言葉通りイアンとリジェーヌは幸福に暮らした。
鳥が囀ずり花が囁くように咲きこぼれる季節がめぐり。
蝶が舞い飛び風がキラキラ光るような季節がめぐり。
照るる月が美しく木々が古の姫君のような衣装を着る季節がめぐり。
降るる雪が銀色の花嫁のベールのような季節がめぐり。
花の春も暑い夏も澄んだ秋も凍れる冬も。
繰り返し、
繰り返し、
四季の季節はめぐり、それは100年続いた。
〈ちょこっと〉
ーーまめちゃん、ごちそうの日ーー
空から降るように泳いでくる魚の姿に子どもたちが一斉に駆け出す。
だめと言う言葉がまめと言う発音になるため、まめちゃんと呼ばれる小さな女の子も、初心者コースの鰯の球形群に勇者のごとく突っ込んだ。
しかし、小さな銀色の魚の方がまめちゃんより強かった。ぺちんぺちんと数は力なりとばかりに無尽蔵のような鰯に襲われ、ペッと群れからコロンと放り出されてしまった。
「まめっ!」
もう一度トライーーペッ、コロン。
「まめっ!」
さらにトライーーペッ、コロン。
「まめっ!」
さらにさらにトライーーペッ、コロン。
「ま~め~!!」
じだんだを踏むまめちゃんを哀れんだのか好奇心か、一匹の鰯がまめちゃんの目の前でとまる。
好機なり! まめちゃんが網をゴンと振りおろす。
けれども鰯は目の前。網は1メートルの棒の先についている。結果、かすってもいない。
やれやれとため息をついて鰯が1メートル後退ってくれた。
「うわー、魚がため息だよ?」
「俺、はじめて見た」
「俺も。え、魚ってため息つけるの?」
子どもたちがひそひそ話すが、鰯に夢中のまめちゃんには聞こえていない。
次こそ、と反動をつけて網を勢いよくおろすが鰯の横だった。距離的にはばっちりだったが、まめちゃんの身長と同じくらいの網は重く、バランスよくまっすぐに上から下におろすことができなかったのだ。
うるん、とまめちゃんの大きな瞳に涙がたまる。あわてて鰯が破れを見つけその隙間から網へと魚体をねじ込んだ。
網の中から見つめあう鰯とまめちゃん。
その夜、鰯を食べたまめちゃんはぷくぷくほっぺを両手でおさえた。
「おいちーっ!!」
あたりまえだ、とお皿の上で骨だけになった鰯がエヘンと胸をはった気がした、まめちゃんのごちそうの日であった。
鰯の骨は翌日まめちゃんのおやつになりました。
「おいちーっ!!」
次に投稿する「愛執人魚」は同じ世界のお話で、そちらは番のいる人魚です。同じ世界なので、ややこしくなったらお許し下さい。
読んでくださってありがとうございました。