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白羽の矢が飛んできた

 今日は何曜日だっけ? ああ、そうかまだ水曜か。いや、違うな、火曜か? そうか、まだ火曜か・・・。


 キーボードを打ちながら、私の頭は朦朧としていた。画面をにらみ、機械的に手は動くものの、頭の中は霧がかかったようにぼんやりとしている。


 急遽、上田さんのプロジェクトに編入させられてから、今日で一カ月が経つ。あれから毎日徹夜で、終電はおろか、会社に泊まり込むこともしばしばだった。上田さんが主導していたプロジェクトは、予想していたよりもかなり大がかりなもので、しかもまだ作業は全然進んでいない段階だった。そんな状態で主戦力である上田さんが抜けてしまい、社内は混乱状態だった。


 私だけでなく、他にも何名かの社員が駆り立てられ、その中には安曇野も含まれていた。上田さんでないと分からない部分も多く、電話を使ってやり取りもしていたが、納期が遅れるのは避けられそうもない。


 おかげで毎日課長は不機嫌であり、そのくせ自分だけは毎日定時で帰るという素行の悪さに、作業を進める社員たちは苛々していた。「だって俺、実働部隊じゃないから、指揮官だから」というのが課長の言い分だったが、指揮官こそ戦場に留まるべきじゃないのか! という至極真っ当な意見は誰も口にしなかった。馬耳東風、馬の耳に念仏である。そんなことにカロリーを消費されることは極力ひかえ、社員たちは黙々と各自の作業に打ち込んでいた。


「先輩、ちょっといいですか」私のデスクに、安曇野が仕様書を持ってやって来た。彼も、ずいぶんと目のくまが目立つようになっている。

「どうした?」私はぼんやりとしながら答えた。


「ここのコンパイラの部分なんですけど、何度やってもエラーが出るんです」

「どれどれ」私は目をこすりながら、仕様書に目を通した。安曇野のデスクに向かい、パソコンの画面を眺める。彼の間違いを見つけ、こうすればうまくできるよ、と指摘した。


「ありがとうございます! 先輩、さすがっすね」

「大袈裟な」私は笑った。仕事のできなかった安曇野も、この一カ月でずいぶんと色んなことを覚えた。もちろん、彼の実力に合った簡単な作業を割り振っているにすぎないが、それでも最初の頃と比べたら、格段に進歩している。私たちがちゃんと指導していなかっただけで、本当は飲み込みが早いのかもしれない。


「ところで先輩、今日はこれから取引先のところに顔出すんですよね?」

「ああ、そうだったな」私は胃が痛くなるのを感じた。取引先から納期の遅れについての説明を求められ、その大役に私が白羽の矢を立てられたのだ。本来ならば課長が出向くべきだと思われるが、「ほら俺、技術的なことは詳しくないから、指揮官だから」というへたな逃げ口上を使い、面倒な仕事を私に押しつけたのだった。


「課長いわく、技術的なことは遠野にまかせろ、とのことらしい」私は乾いた笑いしか出なかった。

「でも実際、先輩は頼りがいありますよ。このプロジェクトだって、いつの間にか中心的な立場になってるじゃないですか」


「みんなやりたくないだけだろ。俺は断れない人間だと思って、みんな押しつけてるんだよ」

「あ、先輩、知ってたんですね」

 冗談まじりに言ったつもりだったが、どうやら本当のことだったらしい。驚いた私の顔を、安曇野がまじまじと見つめる。


「あ、先輩、知らなかったんですか?」安曇野が微笑む。

「うん、できれば知りたくなかったよ」私も微笑む。


 私は自分のデスクに座り、黙々とキーボードを打ち始めた。連日の激務でとうに心はすりきれており、もはや、ちょっとやそっとのことでは私の心は動じない。私は画面を見つめ、ぶつぶつと小言を呟きながら、ひたすら指を動かす。しかし、後ろからまた安曇野の声が聞こえてきた。どうやら、まだ何か話したいことがあるらしい。


「どうした?」私は画面を見たまま、ぶっきらぼうにたずねた。

「実はさっき落合さんと少し話したんですけど、先輩は今日、取引先から直帰して良いらしいですよ」


「本当か?」私は後ろを振り返った。安曇野はニコニコしながら立っている。落合さんとは、上田さんのプロジェクトを引き継いだ先輩社員であり、今は実質的にリーダーとして、プロジェクトを主導している人物である。


「本当に、良いって言ってたのか?」私は安曇野を、喜びと疑いの入り混じった目で見つめた。

「本当に、良いって言ってましたよ」安曇野が自信満々に答える。


「どうしてまた、急に」

「実はさっき、僕から落合さんに提案したんですよ。最初はまったく先の見えなかったこのプロジェクトも、みんなの頑張りのおかげで、少しずつゴールが見えてきたじゃないですか。だから、今週からは体調のことも考えて、早く帰れる人を何人か決めて、それを交代制でまわしていきましょう、って言ったんです」


「落合さんは何て言ったんだ?」

「おまえの言う通りだ、そうしよう、って言ってくれましたよ」


「それで、栄えある第一号に、俺が選ばれたってわけか」

「そういうことです」


「まさか、おまえがそこまで成長しているとは思わなかったよ」私は安曇野の機転に感動し、そして感謝した。

「それもこれも、先輩のおかげですよ」安曇野が慎み深い笑みを浮かべる。


「いや、俺は何もしてないよ。おまえが落合さんを説得してくれたからだろう」

「先輩が頑張って、引っ張ってきてくれたおかげですよ。実際、落合さんも先輩の仕事ぶりを、とても褒めてましたよ。遠野の頑張りがなかったら、このプロジェクトもどうなっていたか分からない、って言ってたぐらいですから」


「へえ、落合さんがそんなことを」

「だから、先輩のおかげなんですって」


「そうかなあ」私は曖昧な返事をした。

「あ、ちなみに、僕も今日は早く帰れることになりました」


「ほお、そりゃあ良かったじゃないか。安曇野もこの一カ月間、即戦力として頑張ってくれてるからな。俺たちも、かなり助かっているよ」私は安曇野の肩を叩いた。

「いやあ、足を引っ張らないようにって、そればっか考えてますよ」安曇野が照れながら頭をかく。


「まあ、おまえも今日は早く帰って、ゆっくり休めよ。だいぶ、目の下のくまも目立ってきてるしな」

「そこでなんですけど、先輩、よかったら今日の帰りに、一緒に飯でも行かないですか?」


「飯かあ」私は逡巡した。ここ最近、あまりの忙しさにまともな食事をとっていない。久しぶりに外食でもして、美味しいものを食べて元気をつけたい、という気持ちもある。しかし同時に、冬のことも気がかりだった。ここ一カ月間、冬とはまともに顔を合わせていない。私が家に帰らないことも多く、帰っても冬が不在だったこともしばしばあった。冬のことだからどうせ暢気にやっているだろうが、一応は同居人だ。今日は早く帰って、様子を確認することにした。


「悪いけど、今日は早く帰ってゆっくりするよ」

「そうですか。まあ、それが賢明ですよね。まだまだ先は長しい。じゃあ、プロジェクトが終わったら盛大に打ち上げでもしましょう」

「ノンアルコールならいいよ」


 なに子供みたいなこと言ってんすか、と言って安曇野は笑った。私が酒を飲めないことを説明すると、「僕が鍛えてあげますよ」と言って、彼は自分のデスクに戻っていった。私はほんの少しだけ、プロジェクトがこのまま終わらなければいいのに、と思った。


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