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ハンバーグ

 深夜十二時すぎ、ようやく家に着いた。終電を逃すことはなかったが、それもいつまで続くか分からない。私はヘトヘトになりながら、玄関の鍵を開けた。中に入ると、騒がしい音楽が聞こえてくる。リビングに入ると、パソコンから音楽を流して踊っている冬の姿が見えた。


「ヒ、ヒ、ヒ、ヒップ!」冬が、音楽に合わせて歌いながら踊っている。私はそれを、白けた気持ちで眺めた。

「おかえり! 今日は遅かったじゃないか! ずっと君の帰りを待ってたんだよ」


「何をしているんだ?」

「見れば分かるだろう、ダンスの練習だよ。今、この韓国のアイドルグループにはまっているんだ。何て読むんだろう。ママモー?」


 私はまともに相手をせず、風呂と夜食の準備にとりかかった。幸い風呂はすでに冬が沸かして入っていたため、準備せずにすんだ。本当に疲れたときは、風呂に入るのさえ億劫になってしまう。


「君が帰って来るまで何も食べないつもりだったから、もうお腹ぺこぺこだよ」冬が体をくねらせながら、まくし立てる。

「先に食べてればよかったじゃないか」


「君の料理が食べたかったんだよ。いや、実際のところ、君の料理の腕はなかなかのものだよ。僕もこれまで色んな人間の家にお世話になったけど、君が作った料理を超えるものはなかった!」

「悪いけど今日は遅いから、簡単な夜食になる。というか、しばらくこんな生活が続くから、料理はあまり期待しないでほしい」


「ええ~」と冬が大袈裟にため息をついた。お世辞のつもりだろうと思ったが、私の料理を楽しみにしていたのは本当らしい。しかし、私も疲れていたし、これからのことを考えると気力も萎え、ちゃんとしたものを作る気分にはなれなかった。あり合わせのものを切って、さっとチャーハンを作った。それだけでも冬は子供のように喜び、むしゃむしゃと美味しそうに頬張った。


「いやあ、あり合わせのもので、こんなに美味しいものが作れるとはねえ」

「そんなに急いで食べたら、むせるよ」私の忠告も聞かずに冬はがつがつと食べ、そして案の定、むせた。苦しそうな顔をする冬に水を持っていってやると、彼は一気にそれを飲んだ。


「危ないところだった」

「もう少し落ち着いて食べた方がいいよ」


 今度は私の忠告を聞き入れ、ゆっくりと食べた。そんな彼を見ながら、私は子供のようだな、と思った。冬に年齢というものがあるのかどうかは不明だが、実際、彼は子供のような外見をしていた。背が低く、顔立ちは幼い。黒い髪を長く伸ばしており、それも幼さを強調させる効果を持っている。何も知らない人が彼を見たら、きっと中学生と思うだろう。


「ところでどうして、今日は遅かったんだい?」私の思索を中断するように、冬が声をかけた。

「急遽、あるプロジェクトに参加させられてね」私は今日の出来事を、かいつまんで話した。


「それはひどい話だ! だって君は、つい最近まで他のプロジェクトで忙しかったわけだろう? それなのに、あえて君を指名するってわけか。ひどい上司だな! 僕だったら断るね。ふざけるな、俺は家に帰ってYoutubeを観たいんだ! ワーク・ライフ・バランスを考えろ! ってね」

「君には分からないだろうが、社会ってのはそれでは通用しないんだよ」私は眉をハの字にして、冬をさとした。


「君たち人間ってのは不思議だな。どうしてそうまでして働くんだい? どうして生活を楽しむことよりも、働くことの方が先にくるんだい? 豊かで多彩な人生を望まずに、どうしてそれらが通りすぎて行くのを、指をくわえて黙って見ているんだい?」


「それは俺だって、もっと楽しくて有意義な生活を送りたいよ。でも、現実はそうじゃない。個人が努力したって、どうにもならないことばかりだよ。今よりも給料がもらえて、毎日定時で帰れる会社で働ければ、何の不満もないだろうけど。でも、現実にそんな会社は存在しないし、いや、あるんだろうけれども、そういうところは優秀な人が多くて、俺なんかが入れるところじゃないんだよ」


「ふーん」冬は興味があるのかないのか、曖昧な返事をした。

「このご時世、仕事があるだけでも満足すべきなのかもしれない。今の会社だって給料は少ないけれども、生活していくことはできている。忙しい時もあるけれど、定時で帰れる時もある。それに、今の日本でそういう人はかなり多いんじゃないかな? みんな、我慢してるんだと思う。そう考えると、自分だけ我がまま言うわけにはいかないな、って思うよ」


「立派だなあ」冬は感心したような顔をしている。

「実に、立派だよ。僕たちはけっこう、毎日好きなことをやって能天気に暮らしているからね。今みたいに当番の時期が来たら仕事をするけれど、それ以外のときは基本的に寝ているか、星の上を散歩したりしているよ。だから僕からすれば、君のような人間は実に立派に見えるね。料理も上手いし」


「昔はね、料理人になるのが夢だったんだよ」私はぼそっと呟いた。

「へえ、それは初めて聞いたね! 君との付き合いは今年で四年目になるけど、初めて聞いたよ! どおりで料理が上手いわけだ」冬はさかんに感心している。


「まあ、今じゃもうまったく夢の話になっちまったけどね」

「そんなことないだろう! 今からでも君は、立派な料理人になれるよ! どうしてその道を目指さないんだ?」


「もう遅いよ」私は力なく笑った。

「君はまだ、若いじゃないか! どうしてそんなこと、勝手に決めつけるんだ?」冬が私の顔を覗き込む。


「俺は料理のことをちゃんと勉強したわけじゃない。他の人はちゃんと勉強して、早い時期から修業をしている。俺なんかが通用する世界じゃないんだよ」

「今からでも勉強すればいいじゃないか」


「無理だよ。仕事と両立なんてできっこないし、中途半端で終わるのが関の山さ」

「もしかして、自信がないのかい?」冬が、私の顔をまじまじと見つめながら言う。実際、それは図星だった。料理の勉強をせずに大学に入ったのも、ただの逃げにすぎなかった。料理人には憧れていたが、自分の力が通用しないことを知るのが怖かっただけだった。大学を卒業し、安定して働くことが自分には向いていると言い聞かせたが、それは結局、ただの自己欺瞞でしかなかった。


「自信があったら、今の仕事なんてとっくに辞めてるよ」私は自分を嘲笑する気持ちで言った。

「君は、自分のことを過小評価しすぎじゃないのか?」冬が、真っ直ぐ私を見つめながら言う。


「君の料理は美味しいよ。これは本当だ。僕は思ったことはそのまま口に出してしまうタイプでね、嘘をつけないんだ。だから僕が美味しいと言ったら、それは本当に美味しいんだよ」

「君に褒められてもなあ」私は苦笑した。


「君は自分のことを低く見積もりすぎている。もっと自分に自信を持った方がいい。君自身が気づいていない値打ちが、君の中にはあるよ。それを磨いて発展させるかどうかは、すべて君の意志次第だよ」


 冬は私を励ますつもりで言っているのだろうが、私は真剣に受け取らなかった。何より、疲れていた。明日の仕事のことが頭にあり、早く風呂に入って寝ようと、そればかり考えていた。私が話を切り上げようとすると、冬は少し不服そうだった。


「君は、料理の道を諦めて、後悔しないのかい?」

「後悔なんかしないよ。もともと、本気で考えていたわけではないから」


 私は冬を適当にあしらい、浴室へ向かった。湯船につかり、顔をばしゃばしゃと洗った。ふうーっと息を吐き、もくもくと立ち込める白い湯気を見つめる。特に何の感慨も浮かばなかった。ただ、冬に過去の夢を話したことは、自分でも意外だった。どうしてあんなことを喋ったのだろう? 冬がさかんに料理を褒めるから、少し調子に乗ったのだろうか? 


 そんなことを考えていると、突如、昔に思い描いていた感情が、少しずつ胸中によみがえってくるのを感じた。それは、とっくに忘れたものだと思っていた、懐かしい感情だった。どうやら、まだ心のどこかに残っていたらしい。そして幼い頃に食べた、洋食屋の美味しいハンバーグの記憶もよみがえった。二十年近くも前のことで店名は忘れてしまったが、そこで食べたハンバーグは感動するほど美味しかった。


 料理人に憧れるようになったのは、それがきっかけだったと思う。それから自分も、料理で人を感動させたいと思うようになったし、そのことを考えるだけでワクワクするようになった。自分で料理を作るようになってからもその想いは変わらず、何よりも料理を作ること自体が楽しかった。


 しかし、高校生活も折り返しに入り、真剣に目の前の進路を考えなければならなくなったとき、私は突然、怖くなったのだった。肝心なときに決断できないのは私の欠点であり、そしてそのときも、大学に進学するという無難な道を選んだ。大学を卒業する頃には料理人の夢などすっかり忘れてしまい、そして現在の会社に就職した。大学生活は楽しかったし、それで忘れてしまうなら、そもそもその程度の夢だ、と考えるようになっていた。


 だから今、どういうわけか昔の感情が思い起こされ、しかもそれが思いのほか強く心に残っていることに、私は驚いた。だが、今さらどうすることもできない。私はこの感情を、今の私の生活にはそぐわない、余計なものだと考えた。そんなことに気をとられている場合ではない。私は湯船からあがり、さっと頭と身体を洗った。そして浴室から出て、歯を磨いた。ひととおり寝る準備をすませてリビングへ戻ると、冬はまだパソコンで動画を観ている。


「さっきの韓流アイドルなんだけど、こっちの曲も良いね」冬は身体でリズムを刻みながら、にこやかに笑う。

「俺はもう寝るから、静かにしててくれよ」冬にイヤホンを渡し、私は寝室へ向かった。


 寝室は暖房が効いておらず、入った瞬間に冷気が全身をさした。私は急いでベットに潜り込み、照明のスイッチを切った。かけ布団をあごの近くまで引きあげ、頭と枕の位置を調整する。疲れているからすぐに寝れると思ったが、案の定、すぐにうとうとし始めた。


この瞬間が一番幸せだな、と思う。こういうささやかな幸せがあるから、頑張れる。プロジェクトが終わるまでの辛抱だ、頑張れ! と私は自分で自分にエールを送った。そして、この山が終わったら、何か自分にご褒美をプレゼントすることを固く約束し、何を買おうかと考えている楽しい気分のまま、眠りに落ちた。


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