馬の耳に念仏
携帯のアラームの音で目が覚めた。時刻は七時。カーテンのすきまから、うっすらと朝の光がさしこんでいる。起きなければいけないことは分かっているが、理性が睡魔にあらがえない。十五分ほどかけてようやく睡魔との戦いに理性が勝利し、私はベッドから降りた。冬の朝というのは、ことほどに辛い。
厚手のパーカーを羽織り、洗面所へと向かった。途中、リビングをちらっと見たが、冬はノートパソコンの画面をつけたまま、こたつで寝ている。どうせ、Youtubeでも見ながら寝落ちしたのだろう。嗚呼、電気代・・・と思いながら、私は洗面所で歯を磨き、顔を洗った。
スーツに着替え、テレビをつけながら、コーヒーと軽い朝食を食べた。わざとテレビの音量を大きくしたが、冬は大きないびきをかいて寝ているだけだった。冬の分の朝食にはラップをかけておき、私は会社へ向かった。
今朝は昨日とはうってかわって晴れており、空いっぱいに広がる青が目にしみた。最寄りの駅まで歩き、そこから電車に乗って会社へ向かう。満員とまでは言わないものの、朝のこの時間に座れることはまずないので、私は電車の中ではいつも立って携帯のニュースを見たり、音楽を聴いたりして過ごしている。
会社に着くと、すでに何人かが出勤しており、デスクに座ってパソコンに向かっていた。私は自分のデスクに座り、パソコンの電源を入れ、メールの確認をした。いくつか取引先からのメールが来ていたので、返事を書いた。
私はとある中小企業でシステムエンジニアとして働いている。つい最近プロジェクトを終えたばかりであり、それに関連したメールが来ていた。納期が近くなると当然忙しく、帰る時間も終電近くや、ときには終電に乗れないこともある。土日もしっかり休みがとれるわけではなく、どちらかには出勤する羽目になることが多い。
そのくせ、給料はびっくりするほど安い。世間一般からすると、システムエンジニアと聞けばなかなか良い給料をもらっているように想像するかもしれないが、とんでもない。今年で入社四年目になるが大して給料はあがらず、物価の高い都心で生活していくにはギリギリの給料である。
これでは結婚など夢のまた夢、最近実家の両親から電話でよく聞かされる「孫の顔」というやつは、当分というか、一生おがめそうもない。何か大きなプロジェクトを成功させて出世するか、待遇の良い企業に転職するしかなかったが、前者については当然のことながら、私にそのような能力があるわけもなく、後者についてはこのご時世、私のような凡百のシステムエンジニアを高待遇で迎え入れてくれる、慈悲深い企業など存在するはずもなかった。
つまり、私は行き詰っていた。
「遠野先輩、おはようございます」
後ろから声がかかった。振り返ると、後輩の安曇野が立っていた。背が高く、二枚目で、今日も仕立てのよさそうなスーツを着て、愛想よくニコニコ笑っている。
「おお、おはよう」私は眠たそうな声で返事をした。
「先輩、何か疲れた顔してますね。今は忙しくないはずなのに、どうしたんですか? 何か悩みでもあるんですか?」安曇野が純朴な顔をしてたずねる。
「ああ、え? そうか? 気のせいだろう。俺は何ともないよ」もちろん悩みの原因は例の同居人しかないわけだが、当然、安曇野にその話をするわけにはいかない。
「じゃあ先輩、プロジェクトも終わったことだし、今晩あたり飲みに行きませんか?」
安曇野はよく飲みに誘ってくる。入社一年目の新人なのに、遠慮なく先輩を飲みに誘う神経も大したものだが、それにもまして酒の強さも大したものだった。安曇野は入社後、最初に開かれた社員同士の飲み会ではやくも頭角を現し、六次会まで飲んだあげく、酒豪で知られる課長を潰したことはあまりにも有名である。
翌日、課長が仕事を欠勤するなか、元気そのもので溌剌と出勤してくる安曇野を見て、私たち先輩社員は震えあがった。以降、安曇野の飲みに付き合おうという勇気ある社員は存在せず、どうやら最近は私に狙いをしぼっているらしい。
「いや、俺はその・・・ほら、今日は用事があるから」
「先輩が用事なんて珍しいですね」
余計なお世話だ、という言葉は飲み込んだ。
「もしかして用事ってデートとかですか? なんだ、それなら僕も誘ってくださいよ~」
どうして女性とのデートにわざわざ安曇野を誘う必要があるのか理解はできなかったが、そんな予定はない、としっかり伝えておいた。
「そんなわけないだろう。俺は彼女もいないし、デートできる相手もいないよ」
「あ、やっぱりそうですよね。そうだと思ってたんですよ。先輩そんな感じしないですもんね。逆に僕、心配してたんですよ」
「余計なお世話だよ」
安曇野をあしらい、私は再びパソコンへ向かった。用意しないといけない資料があり、安曇野と関わっている暇はない。彼はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、しぶしぶ自分のデスクへ向かった。次に飲みに誘われたら、さすがに断れないかもしれないな。そんな考えが頭をよぎったが、私は作業に集中することにした。
昼休憩が終わってしばらく経った頃だった。私が資料作りを終わらせ、暇つぶしにネットでニュースを見ていたとき、突如、課長に呼ばれた。何だか嫌な予感がすると思いながら、課長のデスクへ向かった。こういうときの私のカンは異様なほど的中し、事実、今回もその予想を裏切らなかった。
「遠野、君にお願いしたいことがある」課長は重い、威厳のある口調で言った。
「はあ」それに引き換え私は、軽い、気の抜けた返事をした。
「実は上田が今朝、交通事故に遭って入院することになった」
上田とは先輩社員のことで、私より十五歳ほど年配の、古株の社員である。社内で一番仕事のできる先輩でもあり、性格も気さくで周囲からの人望も篤い人だった。
「そういえば確かに、今日は上田さんのこと見ませんね」
「自転車で通勤中、一時停止を無視した車にはねられたらしい。幸い命に別状はないが、足を骨折して二カ月入院するようだ」
「まじっすか。大丈夫っすか」驚きのあまり、くだけた口調になる。
「心配はいらない。今心配なのは、上田が主導していたプロジェクトのことだ。彼が抜けたことで、プロジェクトが暗礁に乗り上げている」
社員よりプロジェクトを心配する課長に、私は苛々した。それは、上司としてふさわしくない発言じゃないですか、と食ってかかりたくなった。だが、自制した。この課長の神経は針金でできている。頑固一徹で、部下の意見などまともに聞いたためしはない。突飛なアイディアや考えを押し付けつられ、プロジェクトを引っかきまわされたことも、一度や二度ではなかった。私は以前から、「馬の耳に念仏」という言葉は、この課長のために存在するのではないかと疑っていた。
「確かに上田さんが抜けるのは痛いですね。プロジェクト、どうするんですか?」
「だから、おまえに参加してほしいんだよ」
「へ?」私はまぬけな顔をしていたように思う。
「おまえに、上田のやっていたプロジェクトに助っ人として、参加してもらいたい」
「でも、私もプロジェクトを終えたばかりで、まだ報告書もできていないです」
「いや、いいんだよ」
何がいいのか、全くわからない。報告書は作らなくてもいい、ということなのだろうか?
「そのプロジェクト、どの辺まで進んでいるんです?」
「わかんねえ」課長は小指で鼻の穴をほじくっている。
「他にもやることがありますし、かかりっきりというわけには・・・例えば、作業の進捗状況に応じて手伝うとかは、できないですか?」
「いや、今日から頼むよ」
課長は私の耳を疑うことを、平然と言ってのけた。今日から? ようやくプロジェクトを終えて、徹夜三昧の日々から解放されたというのに、またあの生活に戻れというのか? というか、なぜ私なのだ? 他にも手が空いてそうな社員は、いるだろうが。
それこそ、安曇野だ。安曇野なんて、資料のコピーをとるかネットを見ているかぐらいで、いつも暇そうにしているじゃないか。どうしてプロジェクトを終えたばかりの私を、指名するのだ! さすがに直接そのようなことを言うことはできなかったが、私は違う社員に仕事を振るよう、課長に頼んだ。
「私ではなくて、他に適当な人が・・・」
「いや、俺はおまえに頼みたいんだよ」課長は譲らない。
「例えば安曇野とかどうですか? あいつにもそろそろ一つ大きな仕事をさせて、成長する機会を与えてやった方が」
「あいつ仕事できねえだろ」安曇野が仕事ができないことは、社内の誰もが知っている。彼は家が裕福で、将来は父親の会社を継ぐことになっているらしい。この会社に来たのもいわゆる「社会見学」のためらしく、その余裕のせいか、全く真面目に仕事をしたがらない。仕事を振っても満足にこなすことができないため、周りの人間がサポートをする必要があり、入社以来、一番面倒を見ているのはおそらくこの私である。
「いや、そろそろ鍛えてやって、一人前にしてやった方が」
「はあ~」と課長はため息をついて、デスクに両肘をつき、左右の手を組み合わせた。そこに額をくっつけ、何やら考え込んでいる。ため息をつきたいのはこっちだよ! と思いながら、私は苛々を我慢した。
「遠野、おまえ、わからんのか?」
「はい?」
「遠野、おまえは、俺がいま何を考えているのか、わからんのか?」
わかったら苦労するか! という言葉は飲み込み、私は課長をまじまじと見た。どんな返事をすれば良いのか分からず、黙って次の言葉を待った。
「俺は、おまえに期待しているんだよ」
「ああ」私の口から、乾いた声が漏れる。
「俺がこうやって無理難題を吹っかけるのも、遠野、おまえに期待しているからなんだよ。おまえを鍛えるための、いわば愛のムチってやつだ」
私はそこで、課長が自分の命令を「無理難題」だと理解していることに驚いた。そして、それが私を鍛えることになると信じていることにも驚いた。これはだめだ。手のほどこしようがない。何が「愛のムチ」だ。「アホの無知」の間違いじゃないのか? 私は諦めの気配を感じ、視線は宙を泳いでいた。
「馬の耳に・・・」
「なに? 馬がなんだって? もしかして遠野、おまえも競馬やるのか?」
課長の言葉には耳を傾けず、私は自分のデスクへ戻った。身体の力が抜け、虚脱感に襲われる。プロジェクトが終わり、しばらくはゆっくりできると思っていたが、その目論見はあえなく頓挫した。アマゾンプライムで映画を観まくることを楽しみにしていたのに、そのささやかな幸福さえ奪われた。私の日常は色彩を失い、世界が灰色に見えた。そばを通りかかった安曇野が、心配そうに声をかけてくる。
「先輩どうしたんですか? なんか、魂が抜けたような顔してますよ」
「ああ」私は空気が抜けるような返事をした。
「もしかして、今日のデートご破算ですか? 彼女の機嫌、損ねちゃったんですか?」
嬉しそうにはしゃぐ安曇野を見ても、私の心は動かない。私は自分を石のように思うことにした。石のようになり、感情を消すことが賢明だと思われた。これから携わるプロジェクトがどの程度の規模なのか分からないが、上田さんが主導していたぐらいだ、そう簡単には終わらないだろう。私は次のプロジェクトが終わるまで、石になって過ごすことを決意した。
「僕が代わりにデート行ってきましょうか?」
背中越しに安曇野の冗談が聞こえる。私はそれを無視して、画面に向かって機械的にキーボードを叩きはじめた。