第2章―4
ざっざっざっと砂利を踏みしめる音が足早に近づいてきた。と、おもむろにバンと扉が開け放たれた。
居間のテーブルにいた三人は、何ごとかと一斉に玄関をふり向いた。
「ただいま。ああ、よかった! みんな、ちょうどいたんだ――」
そこには息せき切って帰ってきた、まだ興奮さめやらぬといった様子のハルヒコが立っていた。
「パパさん、おかえりー」
子ども達がいつもの調子でそう言うと、三人はもう関心がなくなったように、ふたたびテーブルの方に向き直った。
トウコは止めていた縫い物の針を動かし始め、シュウは冒険譚が書かれた小説に目を戻し、カナはやはり冒険譚が描かれた絵本を熱心に眺めだした。
「ちょっ……。みんな、すごいことがあったんだって。もう絶対にみんな驚くよ。本当にすごいんだから」
「パパさん、いつもそんなふうに言って、たいてい大げさだよね」
「そういうとこ、あるよねー」
――そのフレーズ……。
気に入っちゃったんだな、カナは……。
「違う違う。今回は本当に――いや、確かに今までは大げさだったことはあったかもしれないよ……。でも、今度は本当にすごいんだって」
仕方がないなといった顔で、三人はハルヒコの方に向き直った。ハルヒコは自分が注目されていることに満足して、さてといった調子で話を切り出そうとした。だが、ふと何かを思い出したかのように「あ、ちょっとその前に」と荷物を下ろし、みんなの視線をしたがえたまま流しの方へと向かった。
「少しだけ水を飲まして……」
三人の非難めいた目にさらされながら、ハルヒコは悠々とコップ一杯の水をうまそうに飲み干した。
――みんな、あんまり期待していない顔だな。
だが、いつもと違い、ハルヒコの心には余裕があった。それは、これからこの場で起こる出来事に、家族全員がぽかんとだらしなく口を開け、しばらく何も考えられなくなること間違いなしと、絶対の自信を持っていたからだ。
「さて。みんな、お待たせ」
ハルヒコは鷹揚にそう言うと、三人の顔を見渡した。だが、みんなの冷めきった表情を確認して、少し引っ張りすぎたかと一気に弱気になっていった。
――ちょっと調子に乗りすぎたか……。
んっんーと小さな咳払いをして気持ちを落ち着けると、ハルヒコはどことなく皆をなだめるような口調になって――つまりは一気に弱気になって――話し始めた。
「さて、それではみんな、かまどの方に注目してもらえるかな」
三人は言われるがまま、薪のくべられていないかまどに目をやった。
「おっと、薪がないな。ママさん、火起こし大変だろ。もしよかったら、今からぱぱっと火をつけてあげるけど」
「ううん、いいわ。まだ夕食の準備には早いから。遠慮しておくわ」
なんの躊躇いもなく、すぐにトウコから断りの言葉が返ってきた。ハルヒコは直ちに善意を拒否されたような気分になった。
――即答か……。うーん、どうするかな……。
正直なところ、今から披露しようとしていることは……かなりしょぼい。それはもう、本当にしょぼい。自分でも実感しているくらいなのだから間違いないだろう。
かまどに薪があれば、それも少しはマシに見えるかもしれないと踏んでのことだったのだが……。
「まあ、そう言わずに」と、ハルヒコは聞かなかったていで、かまどに薪を並べていった。遠慮してか、無意識に小さな薪を三本置くだけにとどめた。
「それじゃあ、みんなしっかり見といてよ」
ハルヒコは右手を左手で支えるようにして、かまどの方に突き出した。そして、三人に届くかどうかといった囁き声で、ぶつぶつと何かをつぶやき始めた。それはマグダルから教わったばかりの、神々の時代より伝わる古代語の連なりであった。
一つ一つの言葉の意味はまだよく分からない。だが、一語一句違えることのないように、慎重に何度も何度も繰り返し唱える。
『まだ個々の言葉の意味は分からんでもいい。ただ全体として何を語ろうとしているかは理解しておく必要がある』
イメージが大事なのだとマグダルは言った。そして、今唱えている呪文が語っていたのは「炎よ生じ、集まれ」という、すこぶるシンプルな内容であった。
――その割には、全体的に長ったらしい言い回しだよな……。
いけない、いけない。余計なことを考えるな――。
集中、集中。手の先に炎が形作られるイメージを持つんだ――。
ハルヒコは手の先に意識を戻した。
「パパさん。急に独り言、大丈夫?」
「大丈夫ー?」
「みんな、そっとしておいてあげましょ。きっと疲れているのよ」
三人の好き勝手な物言いに思考が引っ張られてしまう。つまりはツッコミを入れたくなってしまう。
――くっそー。もう本当に言われ放題だな……。
頼むから集中させてくれ!
とそのとき、手の先の空間がほんのりと温かくなったような気がした。
――来た!
そんなのはただの勘違いだと否定してくる理性を押しとどめ、目の前で起ころうとしている現象は紛れもない現実なのだと、ハルヒコは何度も何度も必死に自分自身に言い聞かせていった。
春のやわらかな陽だまりのような温かさが、徐々に夏の強い日差しに貫かれたような熱気に変わっていく。その変化を手のひらに感じ始めると、それまで茶化していた家族達がいつの間にか息を呑んでハルヒコの手の先を見つめていることに気がついた。
――みんなにも見え始めているんだ!
もはやイメージを止めるものはなくなった。自分の手の先に、できるなら今すぐにでも手を引っ込めたくなるほどの――生物なら身の危険を感じずにはいられなくなるほどの――膨大な熱量が生まれつつあった。同時に、指のすき間からは赤い光がこぼれ始め、それはますます輝きを増していった。
やがてイメージの具現化が頂点に立とうとしたとき――それはまるで火にかけた水が唐突に沸き立つような、異なった様相へと明らかに変化したと分かる刹那――、その一瞬をハルヒコは見逃さなかった。
「フラーモ!」
マグダルが唱えたのと同じ、古代語で『炎』を意味する言葉――。
ハルヒコがその古の言葉を発するやいなや、手の先の空間に生じた火球は、その延長線上に暗く口を開くかまどに向かって飛翔した。
火球は徐々に加速していくのではなく、速度ゼロから次の瞬間には最高速度に達し、弧を描くこともなく一直線にかまどの中へと吸い込まれていった。
パンと何かが弾けるような音と共に、その炎の塊は壁にぶつかって消滅した。後にはマグダルのときと同じく鈍く赤熱したレンガが闇の中で恨めしそうにこちらを睨んでいた。マグダルのものと比べると、ずいぶんとささやかな恨み節ではあったが。
――狙いは外したけど……。
さあ、どうだ!
ハルヒコは期待をこめた目で三人の方に振り向いた。
誰も彼もぽかんと口を開け、一言も発せずにいた。
――来た! これだよ、これ!
ついに、みんなから賞賛される日が来たんだ!
さあ、みんな。今胸に抱いている感動を、何でも遠慮せず言ってくれ。パパさんは、それを受け止める準備はできている――。
ハルヒコは待った。そして、ついにその時は来た――。
子ども達は興奮して叫んだ。
「すっごーい! パパさんの手品、上手ー」
「バカ! カナは分かってないなー。パパさんはついにこの世界でライターを作ったんだよ」
「まあ、ともかく火起こしは楽になりそうね」
――違う……。
予想の斜め上をいく反応にハルヒコは戸惑った。人は自分の想定していた計画から事態が外れていってしまうと、とたんにいっぱいいっぱいになってしまうものだ。
――違う、違う、違う……。
「ちがーう!」
突然、天を仰ぎみて叫んだハルヒコに、皆は遠巻きに奇異なものを見るような目をした。
「手品でもライターを作ったわけでもない! いや、ライターは材料が見つかったら作ってみたいとは思っていたけど……」
「未完成のライターなの?」
ハルヒコはみんながわざと答えを外しているような気がして仕方がなかった。
「ほら、冒険や英雄の物語によく出てくるやつがあるだろ」
ま、ほ、う――。
M、A、H、O――。
「炎の魔法だよ!」
ハルヒコが語気を荒げてそう力説しても、しばらくは耳が痛くなるほどの静けさがその場を支配していた。
やがて、その沈黙を破るように、シュウがおずおずと口を開いた。
「あ、ほ、う?」
「魔法! わざと言ってるだろ!」
ハルヒコは思った……。
――そろそろ話を先に進めさせてくれ……。