第二部 第1章―5
「お待たせしました。学長室にご案内いたします」
ふたたび音もなく、気がつけば、あの青年が戻ってきていた。手持ち無沙汰で足元を眺めていた一瞬の間に、彼はハルヒコの傍らに立っていたのだ。この建物には、音を消したり、気配を消したりするような仕組みが、どこか仕掛けられているのだろうか。
青年に続いてハルヒコは階段を上がる。そのとき、青年が音も立てず歩ける理由が分かったような気がした。青年の足の運びが穏やかであるのは当然として、床や階段が手の込んだ造りをしているのか、ささやかな軋み音ひとつ上げない。玄関の扉とは大違いであった。長い年月を経ても劣化しない高級な木材や石材を、マギア創建時には惜しみなくつぎ込まれていたのかもしれない。
二階に上がり、例外なく掃除の行き届かない廊下を少し進む。もうそこが学長室であった。青年はドアをノックした。
「ザイン学長、お客様をお連れしました」
「入ってくれ」
抑揚のない、きわめて事務的な――ハルヒコの耳にはそのように聞こえた――声が返ってくる。
――やっぱり、自分は望まれていないんだろうか……。
中に入ると、豊かな白いあご髭をたくわえた初老の男性が、年季の入った革張りのチェアから腰を上げたところであった。
「マルロ、ご苦労だった。すまんが、もう少し廊下で待っておいてくれないか」
マルロと呼ばれた青年は「はい」と素直な返事をして、軽く会釈をすると外に出ていった。
「良い青年じゃろう?」
「はい、とても」
ハルヒコの偽りないその返答に気をよくしたのか、ザインの表情は幾分やわらいだような気がした。
「まあ、座ってくれ」
勧められたソファーに「失礼します」とハルヒコは腰を下ろす。
「わしが、この学院の学長を務めているザインだ」
「ハルヒコと申します。どうぞ、よろしくお願いします」
「バナム王からの書状は受け取っておる」
「無理なお話ではなかったでしょうか。ご迷惑をおかけしているなら、本当に申し訳ありません」
今までの経験から、そのような謝罪の気持ちはあまり表現すべきではないと学んでいたはずだ。むしろこの世界では、自分の能力も顧みず積極的にアピールする方が好まれる。もちろん、目的が達せられなければ責任を取ることになるのだが……。ともかく、このときのハルヒコは、そんなことは承知の上で、思わず申し訳ないという気持ちが口からこぼれ出ていたのである。
「ですが、学院のお荷物にならないよう精一杯頑張りますので、どうぞよろしくお願いします」
ハルヒコはリカバリーの意志表明をし、今一度、姿勢をあらため頭を下げた。
「なあに、そんなに緊張する必要はない。心配は無用じゃ」
温かい励ましの言葉かとも思ったが、何かそれだけではないようなニュアンスが含まれている気がした。ザインはハルヒコの何を知っているというのだろうか。
「そなたがここに来ることは、ずっと前から分かっておった」
そして――と、ザインは続けた。
「信頼できる人物だということもな」
いったい何を、この老いた白ひげの学長は話しているのだろうか――ハルヒコは真剣に戸惑わずにはいられなかった。
「ここに、もうひとつ手紙がある」
その手紙に書かれた文字を目でなぞった瞬間、自分でも気づかぬうちに、ハルヒコの目からは涙がぼろぼろとこぼれ出ていた。大の大人が、大の大人の前で恥ずかしさも忘れ、泣いてしまったのだ。
「わしが最も信頼する弟弟子からの手紙じゃ……」
ザインも語尾をつまらす。
ハルヒコは心の中で、何度もその手紙を書いた人物の名を繰り返した。
――マグダル様……。
不思議と、時を経て、その温和なルアンの宰相と再びあいまみえれたような気がした。




