第二部 序章
「くそっ……。まったく、何てことしてくれたんだよ」
「仕方ないだろう。いきなり潮が変わったんだ……。こっちだって生きた心地しなかったぜ」
二人の男性を乗せた馬車が、海に面した街道を東に向かって疾走していた。オマの町を出て以降、波の打ち砕ける音が、ずっと彼らの耳につきまとう。だが、海は見えない。彼らの視界を占めていたのは、この世の底が抜けてしまったかのような巨大な穴。あらゆる光を呑み込んで放さない漆黒が――黒い海が――世界の半分を埋め尽くしていた。
夜が訪れていたのだ――。
「こんな時間になって……本当に冗談じゃないぜ……」
「なあ……悪かったよ……。だけど、下手すると死んでたかもしれねぇんだ……。あんなに近づくことになるなんてよ……」
「潮の流れが変わったって……?」
「ああ、そうだよ……まるで何かに引っ張られているみたいだった……。だから、捨てれるもんは全部捨ててよぅ……今日、引き上げた獲物も全部放り出してよぅ……」
船を軽くし船速を上げる。そうして、突如、牙をむいた潮流を振り切り、逃れることに成功した――。
ナフは腹を立ててはいたが、マンサの漁船がとった行動は正しかったのだと、一歩引いたところで冷静に考えている自分もまた認めていた。海に糧をもとめる者達にとって、この一件は看過できない事態に発展しそうな予感がしたのだ。
「ずっとおとなしくしていた、あいつが動き出したのかもな……」
「村の爺さんがよく話していた、あれか……?」
「あの島には近づいちゃいけねぇ……」
「海の化け物……」
そのとき、ガツンと車輪が石に乗り上げ、乗員を振り落とさんばかりに馬車が跳ね上がった。飛ばした石の破片が、からからと崖下に落ちていく音が、後から追いかけてくる。
「おい、急ぐのは分かるけどよ……。ここから落ちたら、しゃれにならねえぞ」
「分かってるって!」
ナフは右に左にと、ぐねぐね折れ曲がる街道を、速度を緩めることなく馬車を走らせていく。起伏にとんだ急斜面の山地が海に沈み形成された地形――異世界の言葉を借りれば、リアスと呼ばれることだろう。
「もう日が沈んでるんだ……。俺は早く村に帰りたいんだよ……」
夜は魔物の時間だ……。
魔物は光を嫌う。それゆえ、おのずと夜に出没し、人の目が効かぬ闇の中、ひっそりと暗躍するのだ。
「ここいらには出ないはずだろう……」
マンサの言っていることも、あながち間違ってはいない。魔物が出るといっても、何処にでも、所構わずにというわけではないのだ。もっと東方の大森林ならいざ知らず、ここはバナム王のお膝元、アクラ国首都バラディンが築かれた丘陵の裏手にあたる。森も深くはない。魔物を見かけたという噂も聞いたことがない。
それでも――本能は、やはり闇夜を毛嫌いする。その光の届かぬ場所に潜んだ何かに怯え、肌がぶつぶつと総毛立ってくる。
「とにかく……この場所は嫌なんだよ……」
ここまでナフが不安になるのには理由があった。もはやマンサが海で遭遇した危機など、どこかに吹き飛んでしまうほどに。
――ここを抜ければ、村まであと少しだ……。
そう自分を鼓舞した瞬間、突如として周囲の音が失われ、それまで街道沿いに走っていた木々の連なりが、ぷつりと切れた。灌木ひとつない切り立った斜面の上に、煌々と輝く真円の月が落ち着きはらい浮かんでいる。そして、その『丘』を――ナフの心が決して穏やかにはなれぬ元凶を――くっきりと照らし出していた。
――恐ろしいっていうんじゃねぇ……。
ここは……『不吉』なんだよ――。
「なあ……おい……」
見るまいと固く決意していたはずなのに……。マンサのつぶやきに――それは抗えない誘惑のようでもあった――ナフは、思わず『それ』を見上げてしまったのだった。
なぜ、この丘が人を不安にさせ、不吉だと忌み嫌われるのか――。それは、この丘の地面の下に無数の屍が埋まっているからだ。それは比喩などではない。かつて、この国は未曾有の厄災にみまわれた。人々は怖れおののき、蓋をするように、その無数の恐怖を悲しみと共に、この地に封じたのだ。
そんな場所で、マンサは見つけてしまった。ナフは見つめてしまった。常軌を逸した、その光景を――。
二人は息を呑んだ……。
丘の上には、やけに巨大な満月が浮かんでいた。その大きな白銀の真円を背景に、踊っていたのだ……二つの影が――。
ナフとマンサは震えあがった。人も寄りつかぬ、あの丘に誰かがいること自体、異常であるのに――しかも、こんな時間にだ――月夜を舞台に、何者かが手と手を取り合い踊っている――。
それだけではない。シルエットでしか確認のしようがないが、踊っている一人は長いローブを着た人間――本当に?――だと分かる。だが、もう一つの影は――どう贔屓目に見ても、人ではありえなかったのだ……。
その身体はスカスカで、棒のように細い四肢がカクカクと動き回っている。すき間だらけのシルエットは、背後の月明かりをよく通していた。
――骸骨だ……。
目を凝らしてみると――そんなことはしたくなかったが、もはや自分の意思では止められない――踊る二人を無数の影が取り巻いているではないか。
死者の群れが、無数の骸骨達が、手を叩いてリズムをとっていた――。
ナフとマンサは思った。
自分達が見ている、この光景はいったい何なのだ……。
――夢でも見ているのか……?
それとも、何者かに惑わされている――?
ナフとマンサはパニックに陥り、涙と鼻水を大量に垂れ流しながら、ただひたすらに馬に鞭を入れた。とにかく、一刻も早く、この場所を通り抜けなければ――。
何をどう考えてみても、まともな光景とは思えない。地獄の底が抜け、地上に這い出てきた亡者達が喜びに浮かれ、舞い上がっているのだろうか。
そんな異常な状況に恐慌をきたしていたナフではあったが、しかし――ふと、脳裏に思い浮かんだ言葉がある。それは、あまりに現実ばなれした情景にあっても、見過ごすことのできない『感想』であったのかもしれない。
――それにしても……。
あの人らしき影の方は、まるで骸骨に踊らされているみたいじゃないか……。
いいように振り回され、翻弄されている――。
――いや……。
本当は、こんなまともな言葉を使いたいわけじゃない――。
彼が思い浮かべた言葉は、そんな体裁のいい代物ではなかった。だが、はたして、この状況をそんな俗な言葉で形容していいものかどうか……。ナフは無意識に躊躇っていた。
つまりはこうだ。何一つ脚色することなく、ナフが思い浮かべた言葉を言い表すならば――。
――あのローブを着た人物……。
なんて下手くそなステップなんだろう――。
馬車が駆け抜けた後も、満月の夜の宴は終わりを知らず、骸骨達にはやし立てられ、その人物はくるくると踊らされ続けるのであった。




