第8章―6
ガシャンと鎧が地面に転がる音がした。そのかたわらに、ゆらゆらと幽鬼のようにたたずむハルヒコの姿があった。
その場にいあわせた誰もが息をすることも忘れ、眼前で繰り広げられた凄絶な二人の死闘を見つめていた。各々が複雑な思いを抱えながら……。
シュウとクイールは、自分達の命を狙った相手にもかかわらず、あふれてくる涙を止めることができなかった。彼らの胸の中で、ウタルは――目の前に現れた暗殺者ではなく――自分達に剣の稽古を、誇り高い生き方を教えてくれた、人生の師であったのだ。
「隊長!」
一時、茫然としていたウタルの副官が叫んだ。
「よくも、きさまっ! ハルヒコ――っ!」
剣を構え、副官は突進してきた。その様子をハルヒコの虚ろな目がとらえる。
「すまない……」
ぼそっと、ハルヒコはつぶやいた。
次の瞬間、その副官を猛火が襲う。彼は地面でのたうつこともなく――一瞬の苦しみを味わうこともなく――絶命した。
ハルヒコはそのとき、確かにすまないと口にした。だが、もはやその言葉には、何一つ感情というものは込められていなかった。形式的に口をついて出た、ただ空気を振るわせるだけの空虚な振動でしかなかったのである。
ハルヒコの意識は朦朧としていた。上手く頭が回らなかった。だが、そんな状態にもかかわらず、一つだけ理解したことがあったのだ。直感といってもいい。
それはいったい何であったか――。
今、眼前でその存在をかき消されたのは親衛隊の副官であった。ウタルの片腕である。当然、魔法への対処――その訓練を受けていたに違いない。
にもかかわらず、いともたやすく炎の餌食になってしまったのは何故なのか。
ハルヒコに不意に訪れたその理解――遅すぎた直感――ゆえに、副官は抵抗することもかなわず散っていったのだ。
朦朧とした意識の中で、ハルヒコの脳裏に一年前のトロール戦の光景が何度も繰り返されていた。
魔法に抵抗力のあるトロールに、あのとき炎の魔法が効いたのはどうしてなのか――。
トロールに魔法への耐性がある理由は、今は問題ではない。
なぜ魔法の効果が現れたのか――。
その答えが、不意にハルヒコの元に訪れたのだ。
あのとき、ハルヒコは何を思ってトロールにフラーモを放ったのか――?
倒そうなどとは考えていなかった。ただ一瞬の隙をつくるため、目くらましにでもなればいいと炎を放った。トロールにぶつけるのではなく、その直前に顔面の前で破裂させたのだ。
そのときに発せられた眩しい光によって、トロールは確かにひるんだ。同時に、軽微ではあったが頭部には熱傷が生じていたのだ。
どうしてダメージが与えられたのか――?
それこそが魔法の理のもう一つの真理であった。
魂は、魔法の炎を防ぐことができる。だが、そこに形を持って実在する――物理現象としての――炎は、防ぎようがなかったのである。
それは至極当然のことのように思われた。人が焚き火に手を入れれば、無傷ではいられないだろう。物理現象として世界にいったん形をなしてしまった炎に、肉体はもはや耐えうる術を持たないのだ。
こんな簡単なことになぜ気づかなかったのか。どうして、あのトロール戦の後に、深く魔法の理を考えようとしなかったのだろうか。
今のハルヒコに、そんな後悔をする余裕があるはずもない。ただ、直感的に魔法の真理を理解し、迫りくるウタルの副官に向けフラーモを放ったのだ。
副官の目の前でこの世界に実体化した莫大な熱量は、一瞬で彼を灰に変えていった。
ハルヒコはついに駆逐した。立ちはだかる数々の強大な困難を。だが、それと同時に、彼の中には、もはや差し出せるものは何一つ残ってはいなかった。
ハルヒコは事切れたように――重力の井戸を見失ったかのように――ふらふらと揺れていた。視界も定まらない。
――どうして……。
どうして、こんなに頭がはたらかない……。
魔法を使いすぎた後の感覚とも違う。ぐわんぐわんと、酩酊したときのように頭蓋の中が直接揺すられているようだ。
ピシャと何かの液体を踏んだ。ハルヒコの足下に赤い水溜りができていた。
――そうか……。
自分の血がこぼれているのか……。
止めなければと思った。
――どうやって……?
次の瞬間、ハルヒコは思いつく。
――ああ、そうか……。
それは正常な思考では決して思いつくことはなかっただろう。そして、それを実行することもありえなかっただろう。
ハルヒコは何をしたか――?
唱えた。フラーモを――。
炎が噴き出した。
どこから――?
ハルヒコの左肩――とめどなく血がわき出る――ウタルに刻まれた深い傷口。そこから、魔法の炎が噴き出したのだった。
炎は切断された筋肉や血管を焼いていく。熱変性した細胞が固まり、傷口はふさがった。血は止まった――。
だが、こんなことは取り返しのつかないことのように思われた。少なくとも正常な思考状態にある人間ならば……。
障害が残ってしまうかもしれない。後遺症に苦しめられるかもしれない。だが、ハルヒコはそんなことを何一つ心配はしていなかった。なぜなら、この後のことなどもう考えてはいなかったからだ。
――自分には、もうこの先はない……。
ここで終わるのだ――。
冷めた理性がそう理解していた。覚悟を決めていた。
自分の命を早々にあきらめたわけではない。助かる見込みがあるなら、きっとその方法を模索していただろう。
だが、ハルヒコにはわかっていた。もはや自分には、選択肢は用意されていないことを。
だからこそ、この最後の命をシュウやクイール、トウコとカナ、彼らのために使わなければならない。せめて、皆が無事に逃げられるようにと……。
ハルヒコは馬車の方に振り向いた。目がかすんで、皆の姿はぼんやりとしか見えなかった。
――これが最後だっていうのに……。
子ども達の姿を目に刻むこともできないのか……。
だが、シュウもカナもそこにいる。トウコもクイールも共にこちらを心配そうにうかがっている。なぜかハルヒコにはそれが分かった。
――どうして、そんなことが分かる……?
だが、不意に理解した。
――ああ、そうか……。
シュウ達がいるはずの場所に炎が揺れていたのだ。淡く白く、そして鮮烈な炎がいくつも重なり合って――。
兵士達が潜んでいた畑に目をやる。風にのって噴き出したハルヒコのフラーモによって麦畑は蹂躙されていった。その業火から逃れた兵士もいるかもしれない。
もちろん視界が霞み、兵士達の姿をはっきりと目にとらえることはできなかった。だが、ハルヒコにはわかった。さまざまな色味を持った炎がそこに揺らめいているのを――。
実際の視覚ならば、麦穂の陰に隠れて発見できなかったはずだ。だが、その炎は遮蔽物などお構いなしに、ハルヒコの視界の中で揺れていた。そこに生き残った兵士達が潜んでいることに疑いの余地はなかった。
ハルヒコは理解せざるをえなかった。その炎が魂の姿を表していることを――。
なぜ自分にそのような魂の炎が見えるようになったのか、それはわからない。
――人は、死の間際になれば、そういうものが見えるようになるんだろうか……?
だが、今はそんなことはどうでもいい。その魂の炎によって明らかになったのだ。生き残りの兵士達がいることを――。
ハルヒコから見て馬車の左手、上り斜面の畑には黄色の炎が二つ、赤い炎が二つ。右手、下り斜面には若干の黄色みがかかった白い炎が二つ。赤い炎は今にもかき消えてしまいそうに弱々しかった。炎の色が命の――魂の――強さを表しているのだと思った。
――上り斜面の兵士達は後回しだ……。
優先すべきは、下り斜面の兵士達の方であろう。万全ではないものの、充分にシュウ達の脅威となりえる。
――自分には、あと何発のフラーモを打つ力が残っているんだろうか……。
できることなら、この場の兵士達全員を始末しなければと、感情も感傷も何一つこもらぬ思考でハルヒコは考えた。淡々とコンピュータが分析するかのように……。
「フラーモ……」
ハルヒコは炎を放った。
命の炎が一つ消えた――。
ハルヒコの意識が飛んでいきそうになる。
――まだだ……。
息も絶え絶えに、ハルヒコは次の詠唱に入った。
ふと視界の片隅に、シュウ達の白く輝く白銀の炎が目についた。
――もう少し、みんなと一緒にいたかったな……。
「フラーモ……」
畑に潜んでいた炎がまた一つ消えていった。
これで下り斜面にはシュウ達の障害となるものは何もなくなった。ハルヒコは右手で斜面の下を指差した。そして叫んだ。逃げろと――。
その叫びは自分が発したものにもかかわらず、くぐもって、ハルヒコの耳にはとても小さく聞こえた。まるで自分ではない他の誰かが、遠くから叫んでいるような感覚だった。
――みんなに声は届いたんだろうか……。
そのとき、世界がぐらっと揺れた。そして、次の瞬間、ハルヒコの右半身に強い衝撃が襲ってきた。ハルヒコの視界の半分を地面が埋めていた。
限界だったのだ。ハルヒコは力尽き、地に崩れ落ちていた。
シュウ達が何かを叫んでいるようだった。だが、その声はもはやハルヒコの耳に届くことはなかった。
薄れゆく意識の中で、ハルヒコは考えていた。
もう自分にできることはない。やれることはやった。しぼり尽くした。
あとはシュウ達自身の力で切り抜けていくしかない。シュウとクイールが力を合わせれば、きっとトウコとカナを守れるはずだ。
――後のことは、もう彼らに任せよう……。
それは人によっては無責任ともとれる考えだったかもしれない。だが、このときのハルヒコは心からそう思ったのだ。
自分の役割はここで終わった。あとは子ども達が、若者達が、自分達の進むべき道を決めていけばいい。人生を、困難を、自分達の力で切り抜けていってほしい。
考えてみれば、いつかはすべての親がたどる道ではないか。子は、いつかは親から離れていく。巣立っていく。
こんな状況ではあったが――不運には違いない――彼らの巣立ちがたまたま今このときに重なったということにすぎない。
人生や運命なんてそんなものだ。いつも、自分の都合のいいようには、この世界はできていない。
だからこそ、人はどんなときにあっても自ら考え、選択していかねばならないのだ。自分の人生を、他人に委ねてはいけない。
自分の責任において――決して他の誰かを責めてはならない――生をまっとうしていく。自分の意思で決断したことなら、たとえその結果が思い通りにならなかったとしても、後悔をすることはないはずだ。
――だから、託す……。
彼らの人生を、彼ら自身の手に。
自分がその傍らにいられないのは、もちろん寂しいとは思ったが……。
一方で――語弊はあるかもしれないが――ハルヒコは満足でもあった。最後に、家族のため、若者のため、まさか自分が命をかけられようとは……。
家族を置いて逃げ出したり、足がすくんで一歩たりとも動けなかったり――こんな極限の状況に置かれたら、自分ならいったいどうするだろうか。なんとなく、そんなことを考えたことがある。
もちろん自分の命大切さに他者を見捨てることだってありえるだろう。ハルヒコはその選択を否定したくはなかった。そんな行動をとらざるをえなかった人々を軽蔑したりはしたくなかった。
――人それぞれだ……。
こんな状況なら逃げ出したくもなる気持ちもよくわかる。それも一つの選択だ。何が正しいとか、何が間違っているとか、そういう問題ではない。迷いの中で下した誰かの選択を、ハルヒコは責めたくはなかった。
ただ、今の自分に関して言えば、こんな状況下で誰かのために命を投げ出せたことに対し、ハルヒコ自身、驚きを覚えていたし、人生の最後をこのような形で終われることもまた本望であるような気もした。
――ああ、なんだか眠たくなってきたな……。
いよいよ終わりか、そう思った。
そんなタイミングのことである、地面から複数の振動が伝わってきたのは。そのリズムから、おそらく何頭かの馬が大地を蹴って、こちらに向かってきているだろうことが推測できる。
――敵か、味方か……?
バラディンの城からも畑が燃えて立ち昇った煙が見えたに違いない。それで衛兵が駆けつけてきた――そう考えたいところだ。
だが、同じようにその煙を見て、敵が集まってきたとも考えられる。
――シュウ、クイール、負けるなよ……。
シュウ達を信じている。
――どうか、皆に幸あらんことを……。
何かに導かれるように、ハルヒコは深い闇の底へと沈んでいった……。




