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第8章―5

 刃で切り裂かれたというよりは、鈍器で殴られたというのが感覚としては正確だったかもしれない。痛みは不思議と感じなかった。おそらく、随分と後になってから、耐えがたい激痛が襲ってくるのだろう。

 大剣はハルヒコの左肩の骨を砕いて止まっていた。

 ウタルが手を抜いたわけではない。ハルヒコの突っ込みが思いのほか鋭かったのもある。もとより、ウタルはハルヒコの杖を弾くつもりであった。そのため、狙いをハルヒコ自身に変更したときには、すでに懐深く入り込まれていたのだ。

 それでもウタルほどの技量があれば、ハルヒコを一瞬で絶命させることもできたはずだ。剣の束で頭蓋を砕くことも可能だったに違いない。だが、それはかなわなかった。

 一つには、ハルヒコが鎖かたびらを身につけていたことによる。そして――。

「見事だ、ハルヒコ殿……」

 ハルヒコの杖はウタルの鎧を貫いていた……。

 シュウの青白い炎をまとった杖の先端は、鎧の分厚い鋼板を融かし、ウタルの胸に突き刺さっていた。あと一押しがあれば、心の臓を貫いていたであろう。だからこそ、ウタルはそれ以上、踏み込めなかったのである。

 二人が激突する瞬間、ウタルは狙いをハルヒコの心臓に切り替えた。だが、結果は鎖かたびらに阻まれ、自らの胸に刺さった杖に動きを制限され、ハルヒコを絶命させるまでには至らなかった。

 ――ハルヒコ殿、あなたの勝ちだ……。

 誰の目にも、まだ勝負はついていないように見えた。だが、ウタルは自分の敗北を悟っていた。

 すでにハルヒコは呟いていたのだ。フラーモの詠唱を、炎の魔法を――。

 杖が鎧を貫き、その先端がわずかにでもウタルの体にくい込んだ、その時点から。

 いや、もしかするとさらにその前、二人がぶつかる以前より、ハルヒコは無意識のうちに詠唱を始めていたのかもしれない。

 まもなく、圧倒的な熱量がウタルの体内より噴き出すことになるだろう。

 魔法は頑強な精神によって防ぐことができるという。だが、魂の内側は無力で無防備だ。迫りくる業火を防ぐ手立ては、もはやウタルには残されてはいなかった。

 ハルヒコの受けた傷を考えれば――この後、無慈悲に時が過ぎてしまえば――相討ちといっても差し支えはなかった。だが、今このとき、この瞬間に関していえば、ハルヒコの勝利には違いなかったのである。

「ウタル隊長、どうしてこんなことに……」

 ハルヒコは最後のワンフレーズを残し、呪文を唱えることをためらった。

 ウタルは微笑んだ。

「ハルヒコ殿と同じだ。私も父親だったということだ……」

 ウタルの口から思いもかけない言葉が飛び出した。ハルヒコは混乱した。

「私は騎士の務めを捨てた。父としての思いを選んでしまった。もう私には、騎士としての誇りも誉れもない……」

 すべてを理解することはできなかったが、ハルヒコは悲痛な声で叫んでいた。

「やり直すことはできないのですか! 共にまた、王子を守っていくことはできないのですか!」

 ウタルはふたたび微笑んだ。先ほどの笑みとは少し違っていた。自嘲のようにもとらえられたし、ハルヒコのことを相変わらずの甘ちゃんだと笑ったようにも思えた。結局、ウタルのその最後の笑みに、どんな意味が込められていたのか、今となってはハルヒコに知る術はない――。

 ウタルの顔からすっと笑みが消えた。その表情は、目は、何かを語るかのように真剣なものへと変わっていった。

「ハルヒコ殿、あなたの覚悟はその程度のものだったのか。ならば――!」

 ウタルはハルヒコの左肩に食いこんだ大剣を引き抜き、ふたたび頭上に振り上げた。

「私が勝利を奪うまでだ!」

 ハルヒコの肩を激痛が襲う。

「覚悟を見せよ、ハルヒコ! そんなことで、これから先、大事なものを守っていくことなどかなわぬぞ!」

 ウタルは剣を振り下ろした――。

 ――ウタル隊長……。

 知らず、ハルヒコの目からは涙がこぼれ落ちていた。

 そして、唱えた――。

 フラーモと……。

 鎧の隙間という隙間から、灼熱の炎が噴き出した。

 かつて、そこには大切な人を抱きしめた手が、腕があっただろう。

 思いを届けようとして、弾み、駆けた足があっただろう。

 そして、思い出のつまった――人の長い人生が刻まれた――頭部が、悲喜交々の表情を浮かべた顔が、そこにあったのだろう。

 それらは一瞬で灰燼に帰した。

 ハルヒコの魔法がそうさせたのである。

 ウタルという存在は、この世界から永劫に失われていった……。


「父さん……」

 自分を呼ぶ声がある。

 懐かしい――だが随分と長い間、思い出せなかった……思い出そうとしなかった――息子の声だ。

「父さん、どうして騎士の誇りを捨ててしまったのですか?」

 僕のせい――?

 そう言外に、息子は尋ねているような気がした。声にはならぬ、その問いかけに、

「そんなことはない!」

 すぐさま、父はそう答えた。

 息子に負い目を背負わせたくなかったのだ。

 ――そうじゃない……。

 自分のために、復讐のために、自分は騎士であることをやめてしまったのだ。

 突如として、彼の足元に身動きもとれぬ深いぬかるみが広がる。広大な湿地は、どこもかしこも赤く染まっていた。兵士達の骸が折り重なるように辺りを埋めていた。

 声は、うつろな目を虚空に投げ出した兵士の一人から発せられていた。

「一時の衝動にかられ、私は復讐を選んだ。騎士の誇りを捨てたのだ……」

 しぼり出すような声で、父はそう続けた。

「後悔しているの?」

 だが、その問いに対する答えはなかった。

 ――まだ復讐はなってない……。

 だがそれは、いつか必ずや盟友が成し遂げてくれるだろう。

 しかし、その望んだ未来に思いを馳せてみても、心が満たされることはなかった。ただただ虚しさが、寂寥が、込み上げてくるだけであった。

「私は父として、お前に何もしてやれなかった……」

 父の自戒に、息子は腹を立てたような声を上げた。

「本当にそう思っているのですか!」

 長い人生ではなかった。けれど、僕はたくさんのものをあなたからもらった。それは、とてもまぶしく、輝いて、かけがえのないものばかりだった。

 父は言葉をつまらせた――。

「最後に私は地に落ちた。魂をみずから汚してしまったのだ……」

「それを、あの人は浄化してくれた。死に場所を求めていた父さんに、許しを与えてくれたんだ――」

「そうだ。そして、彼に託した……」

 ――希望を。

「本気でぶつからなければ、思いは届かなかっただろう……」

 骸の奥で、息子が笑ったような気がした。

「あの人ならきっと守れるよ」

「ああ、私が守れなかったもの――彼ならきっと守れるはずだ」

 たとえ、世界のすべてを敵に回したとしても……。

 気がつけば、辺りの光量が増していた。視界はどんどん真っ白に染めあげられていく。いや、世界がかき消えていっているというのが正しかったかもしれない。

 それは束の間の夢であった。

 夢はほどなくその色を失い、後には何も――欠片さえも残ってはいなかった。


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