第8章―4
盾とその死角にならなかった鎧の一部は、まだぷすぷすとくすぶっていた。白銀の鎧は微かにススで汚れていた。
――直撃したはずだ!
ウタルは、にやりともせず構えを解いた。その表情はどこか悲しげであった。あるいは残念だと……。
まるで、ハルヒコにはもう抗う力がないとでも言っているかのようであった。
――なぜだ?
ハルヒコは自分の唱えたフラーモの詠唱を――イメージを、今一度ふり返った。何かしくじったのではないかと。
「ハルヒコ殿……」
ウタルが静かに口を開いた。
「これが魔法の真理なのだ……」
諭すように、ウタルは魔法の理について語りはじめた。
「魔法はイメージによって生み出される。言い換えるなら、それはつまり精神の力だ」
ウタルは魔法について精通している……ハルヒコはそう確信した。
「確かに魔法を扱える者は数少ない。魔導士とは、すなわち精神の力を魔法に変換できる者達のことだ。こればかりは訓練したからといって修得できるものではない。生まれ持った才能によるしかない」
ウタルは少しの沈黙の後、断言するように声をはり上げた。
「だが、だからといって、それ以外の者達は精神の力を持っていないと言えるだろうか? 否――! 誰もが精神の力――魂の力を持っている」
そこまで聞いて、ハルヒコは愕然とした。理解したのだ、ウタルがこれから言わんとすることを。
――精神の力には、精神の力で対抗できる……。
ハルヒコの表情を読み取ったかのように、ウタルが続けた。
「気がつかれたか、ハルヒコ殿。精神を魔法に変えることができなくとも、心は鍛えられる。精神の力を集約した魔法もまた、強靭な精神力によって耐えることができるようになる。私は、意志の力であなたの魔法に耐えぬいてみせたのだ!」
ハルヒコはその場に崩れ落ちそうになった。辛うじて踏みとどまれたのは、背後にシュウ達の目があったからだ。自分が抱いた絶望を皆に気取られるわけにはいかない。
――もう、なす術はないのか……。
ウタルには自分の魔法は効かない……。
複数の相手ならハルヒコの魔法は分が悪かったであろう。だが、一対一なら絶対の自信を持っていた。目の前で巨大な岩塊を砕いたこともある。人が――それがどんなに屈強な人間だとしても――ハルヒコの魔法に耐えられるものではない。
その自信はもろくも崩れ落ちていった。自分にはもう何も残されていないとさえ思った。いや、少なくとも今のハルヒコには、一人でウタルに対抗できる手段は本当になかったのである。
――あの悲しげな表情は……。
ウタルが見せた表情は、自分達のたどる運命を見通したからなのか……。
――まだだ……。
まだ何かできることはないのか……。
あきらめずに打開策をひねり出そうとするも、その気持ちとは裏腹にハルヒコの精神はもう限界に達していた。めまいにも似た感情と思考の濁流にのまれ、気がつくとハルヒコは膝をついてしまっていた。あるいは、死という言葉を鮮明に意識して――自分だけではない、皆にももたらされる死――体に力が入らなくなったのかもしれない。
「パパさん! パパさん!」
シュウの声が背後から聞こえる。その声がハルヒコにはひどく痛かった。
何もできなかった父親。みんなを守ることができなかった父親。すまないという思いがハルヒコの胸を深くえぐる。
「パパさん、どうしたの?」
「パパぁ……大丈夫?」
シュウとカナが自分を心配する声。
――家族に心配をかけるなんて……。
みんなに不安を覚えさせるなんて……。
そのとき、ハルヒコは抱えた絶望の中で、何かが引っかかるのを感じた。絶望の淵に芽生えた、微かな感触――。
そして、それは次のシュウの言葉で確信に変わる。
「パパさん、言ってよ! 僕に手伝えることがあれば、なんだってするから――」
シュウの必死な思いが伝わってきた。
――自分は子どもに、こんなことを言わせている……。
ハルヒコの魂にふたたび火が灯った。息をふき返すように、迷いの中から炎が立ち上がった。
――まだだ! 自分はまだ、すべてを出しつくしていない。
絶望するのは、それからでも遅くない。
――自分には、守るべきものがまだあるじゃないか!
「ありがとうな、シュウ。パパさん、大丈夫だから――」
ハルヒコは立ち上がり、ふたたびウタルと対峙した。
ウタルは、ほうと感心したように口を緩めた。
――考えるんだ!
きっと何か突破口があるはずだ。
先ほどシュウに励まされたとき、ハルヒコはこの局面を打開する何か糸口のようなものをつかんだのではなかったか。
――それは何だ……?
そのとき、不意にあるイメージがハルヒコの脳裏をよぎった。巨大な魔物が大木でできた棍棒をいともたやすく振り回している光景――。
――トロール……。
自分は、魔法の効かないトロールをどう倒したのか?
ハルヒコは、はっとした。
――ウタルに対抗するには、これしかない……。
少なくとも、今この限られた時間で思いつけるのは、その方法しかなかった。
「シュウ、この杖の先にフラーモを宿らせることはできるか?」
突然ハルヒコにそう振られ、シュウは困惑した。
「分からないよ。やったことないもん……」
「パパさんも上手くいくかは分からない。でも試してほしいんだ。ルーモを宿らせるときみたいに――」
「杖が融けるかもしれないよ」
「そのときはそのときだ。それに、マグダル様に託されたミスリルの杖――簡単に壊れるはずはない」
シュウはどうなっても知らないよと、杖の先端に手をかざし魔法を唱えはじめた。
すぐさまミスリルの杖が赤熱していく。その先端は輝きを増し、やがて白く――次いで青くまばゆい光を放ちだした。ときおり小さな火花をも散らした。
まぶしかった。凝視することはかなわない。どんなに目を凝らしても、杖の先端がどんな状態になっているのか確かめることはできなかった。
だが、融けている様子は見られない。
――これなら、貫くことができるかもしれないな……。
この世界で破壊することのかなわぬ金属――ミスリルは、シュウの魔法に耐えた。だが、通常の金属ならば、シュウのフラーモ――青い炎に触れれば、たやすく融解してしまうのだ。
ハルヒコはウタルに向きなおった。
ウタルはふたたび感心したように微笑んだ。
――覚悟を決めた男の顔だ。
決して侮ってはいけない――ウタルは気を引きしめた。
そのとき、シュウが叫んだ。
「パパさん、何するの!」
ハルヒコが突然、馬車を降りだしたのだ。
「あなた、何を?」
「パパぁ、危ないよ……」
「ハルヒコ殿!」
皆が車上から引きとめる。
ハルヒコは振り返った。
「大丈夫、パパに任せとけって!」
皆を安心させるように、ハルヒコはにこりと微笑んだ。
――自分は上手く笑えただろうか……。
こわばった笑みではなかっただろうか。
とてもじゃないが、今は笑えるような気分ではなかった。この危機を打開するために、これから差し出さねばならないものが一つあるのだから……。
それでも笑わなければならない。皆を安心させるために。そして、皆の心に残る、自分の最後の表情が笑顔であってほしかったから……。
ウタルは盾を捨てた。剣の鞘も腰から外した。その眼は鋭くハルヒコを見据え、大剣を両手で握りしめ正眼に構えた。
ウタルには分かった。ハルヒコが何を考えているのか、これから何をしようとしているのか――。
だからこそ、全力でそれを受け止める。そして――
――ハルヒコ殿を、全力でたたき潰す!
ハルヒコはゆっくり歩を進めながら思った。鞘を捨てたということは、ウタルもまた退路を断ったということだ。
――手加減はない……。
本気で自分の体を真っ二つに両断しようとしてくるだろう。
ウタルもじりじりと足を運ぶ。
ハルヒコはガクガクと震え出しそうになる足を必死におさえた。一歩また一歩と前進していった。
ハルヒコが差し出すものはいったい何であったか――。
そんなことは分かりきっている。
――自分の命と引き換えにウタルを討つ……。
ハルヒコの脳裏には、大剣によって両断された自分の骸が冷たく地面に横たわる光景がありありと思い描かれていた。死が、その息吹を感じるほどに、ここまで近くに寄りそうことなどなかったことだ。まるで実体をともなっているかのごとく、そいつは首筋の辺りにいて、今も耳元で何かを囁いている。
足よ動いてくれ――。
心よ逃げ出さないでくれ――。
ハルヒコは声にならない叫びをあげ続けた。自分の魂を鼓舞し続けた。
――チャンスは一回きりしかない。
ためらったらダメだ。怯えて、足が止まってしまったらダメだ――。
相手はルアン一の騎士。それに対して、自分は一度も剣を手にしたこともない、ずぶの素人。技術の差は歴然としている。誰の目にも勝負の結果は明らかだ。
ふと、こんなことなら、エオラ城の衛兵に剣の手ほどきを教えてもらっておけばよかったなと思った。
ハルヒコは、ふっと笑った。意識せず笑みがこぼれていた。それでどうにかなるものでもないだろうと。
そのとき、なぜか気持ちが吹っ切れたような気がした。
そして――。
大地を蹴った!
先に飛び出したのはハルヒコの方であった。
ウタルも、それを受けて立つかのごとく駆け出す。
みるみる二人の距離が縮まっていく――。
ハルヒコはまっすぐに杖を突き出したまま突進する。
ウタルは頭上に振り上げた大剣を、向かってくるハルヒコに振り下ろす。ごうっと風を切る音が聞こえた。
ウタルは杖をはらうつもりであった。青く輝く杖の先端は、おそらくシュウの魔法によるものだ。だとしたら、自分の鎧はたやすく貫かれてしまうだろう。
――杖をはらい、返す刀でハルヒコを断つ!
だが、ウタルの思い通りにはいかなかった。
ハルヒコ殿――!
――ここまで覚悟をしていたのか……。
ハルヒコのためらいのない踏み込みが速かったのもある。しかし、それよりもウタルが剣を振り下ろす先を変更せざるをえなかなった理由が他にあったのだ。
ハルヒコは――自らの体で、杖を護っていた!
青白い炎を宿したミスリルの杖を、自らの体を犠牲にしてウタルに突き立てるために――。
ガツっと嫌な音が響き渡った。
ハルヒコとウタル、両者がぶつかりあった音であった。
ハルヒコとウタルの目が合う。
ウタルはふたたび悲しげな目をハルヒコに向けた。残念だというふうに……。
ハルヒコの視界の中に、ウタルの大剣の姿があった。ハルヒコの顔のすぐ左――。
大剣は、ハルヒコの左肩深く……くい込んでいた――。




