第8章―1
月明かりが夜の街道を淡く青く照らす。ランプの灯もともさず、馬車はうっすらと浮かびあがった道を駆けていた。
「何か使えるような荷物は載ってるか?」
御者台のハルヒコは前を向いたまま、荷台にいるシュウ達に向かって問いかけた。
シュウとクイールがごそごそと何かをあさる音が聞こえてきた。
ハルヒコ達は馬車を奪い、ロランの町を飛び出した。町の中を通過する間は、努めて冷静に、落ち着いて――。町の外に出た瞬間、ハルヒコは馬に鞭打ち、脱兎のごとくその場を後にした。みるみる町の明かりは小さくなっていった。
「シュウ、明かりをもう少し抑えないと――」
クイールのささやく声がした。続いてガタゴトと何か箱を動かすような音が聞こえてきた。
「パパさん!」
音量調節を失敗したテレビみたいに、突然シュウが素っ頓狂な声をあげた。静けさに慣れた耳が驚く。ハルヒコも体を一瞬、びくっと硬直させた。
クイールがしーっと諌める様子が背中越しに分かった。
「ごめん……」
シュウの謝る声がした。
「どうした。何があった?」
「ああ、えっと……。鎧があるよ、パパさん。剣もある――」
「どうやら、この馬車は武器を輸送していたみたいです」
クイールが続けた。
「鎧か……。みんな、着れそうか?」
「サイズが大きいようですね。剣も子どもが扱うのは難しいと思います。鎖かたびらもありますが――」
ちゃらっと金属がこすれる音がした。
「結構重たいもんなんだね」
「それも、みんなが着るには厳しいか?」
「そうですね。素早く動けなくなります。ハルヒコ殿なら着れると思いますが」
ハルヒコは前方の闇を見すえながら考えていた。
――今は、待ち伏せができるような障害物はないが……。
もし追手が街道沿いに潜んでいたとしたら、突然矢を射られる可能性だってある。
――さすがに何の予告もなく襲ってくることはないかもしれないが……。
それもまた甘い考えかと、ハルヒコは自分を戒めた。最悪の事態を想定しておくのは、高い授業料を払って学んだ切実な教訓ではなかったか。
「鎖かたびらを一着持ってきてくれないか」
クイールが、どうぞと渡してくれた。
「手綱をしばらくお願いできますか」
「もちろんです」
ハルヒコは馬車の操縦をクイールに任せた。
――想像していたよりも重たいな……。
これを子ども達に、そしてトウコに着用させるのは無理だろう。いざというときに素早く対処できなくなる。
ハルヒコは着ていたローブをぬいで、鎖かたびらを衣服の上に身につけた。ずっしりとした質量が体にのしかかる。重力の大きな惑星に降り立ったみたいに、あらゆる動作が緩慢になった。
ハルヒコはローブをふたたび羽織ると、クイールから手綱を受け取った。
「みんな、鎖かたびらは着なくてもいいけど、いざというときには、すぐに頭からかぶれるようにしておいてほしいんだ。もし危険なことが起きたら、床に伏せてすぐにそれをかぶるんだ」
誰もその危険が何であるかは聞かなかった。黙ってハルヒコの指示に従ってくれたのが、小さく金属のこすれる音で理解できた。
「眠れるようなら、みんな交代で仮眠をとったらいい」
ほどなく、カナの小さな寝息が聞こえてきた。
――みんな疲れている……。
当たり前だろう。村から逃亡したのはいつのことだ。ずいぶん昔のことのように感じるが、まだ二日しか経っていないのだ。
それでも、その二日間は常に追いつめられ、気の休まる時など一度もなかった。
――マグダル様との別れも、はるか昔のことのように思う……。
いや、今は感傷にひたっている場合ではない。
ハルヒコは意識を現在進行形の今に戻した。
――バラディンに向かおうとしているが、はたしてそれは正しい選択なんだろうか……。
裏をかいてミッツの港町に戻ることも考えた。さらにバラディンよりも近いルアンとの国境に――検問所を守る正規兵に保護を求めて――向かうことも考えた。だが、どちらも不確定な要素が多い。先を見通すことができない。ハルヒコはバラディンに急行することを選択せざるをえなかった。
キャラバンから追手がかかる可能性も高い。いや、十中八九、アルベルト達が追いかけてくるだろう。彼らはキャラバンの護衛役なのだから。馬車と荷物を奪い返しにこないわけがない。
――馬車はつぶした……。
思い返すたびに、火事を引き起こしたことも含め、自分のしでかした罪に胸が痛む。
――追いかけてくるとしたら馬だろう。
キャラバンにはアルベルトとガブナが騎乗していた馬が二頭いた。もちろん他にも馬車をひく馬は多数いた。だが、鞍などの馬具を準備するのは容易ではないだろう。時間との勝負なのだから。
――二頭の馬で追いかけてくるなら勝機はある。
もしアルベルト達に追いつかれたとしても、その乗騎を狙えばいい。フラーモで馬を仕留めれば――残酷ではあるが――アルベルト達はもはや馬車を追いかけることはかなわなくなる。
問題はすでにアクラに侵入しているかもしれないアイスの追手だ。
――慎重になりすぎているか……。
未確認の集団が国境を越えたなどという情報は何一つ聞こえてこない。今のところ、その兆候も見られない。ルアンの追跡者の動きより、アクラの国境が閉じられる方が早かった可能性だってある。
――だが、安易にそう考えるのは危険だ……。
今まで、どれだけ手痛いしっぺ返しを受けてきた?
一方で、大規模な軍隊が移動していないことは確信していた。侵入できていたとしても、兵は少数――。
――そして、精鋭だ……。
さすがに他所の国で、あからさまな検問を街道にはることはできないだろう。物陰に隠れ、突然行く手に立ちふさがる。
――ならば、押し通るまでだ。
矢を射られても、鎖かたびらで何とかしのぐことができるだろうか。とにかく、頭と腹だけ護ってくれればいい。
その後、馬で追いかけてきたとしても、アルベルト達の追跡を想定したときのように、騎馬だけを仕留める。
事はそんなには簡単に運ばないだろう。それでもハルヒコは何度も頭の中でシミュレーションを重ねた。想定しうる事態を、繰り返し繰り返し――。
ハルヒコは馬車を停めることなく走らせ続けた。馬の疲労ももちろん心配であったが、追手がかかっているだろうことと、そもそも夜の街道が――夜の世界ならどこもかしこも――危険であったからだ。実際には盗賊に襲われる被害が多かった。そして、まれに魔物が出没することもあった。
そんなわけで街道を行き交う馬車は当然のように今はない。幸いにも月明かりに照らされ、辺りは平地。盗賊や魔物が潜んでいそうな見通しの悪い場所は少なかった。
ハルヒコは馬を常歩の速さで走らせていた。馬の息が上がりかけたら、気持ちゆっくりとスピードを落とす。無理はさせなかった。緊急時は駆け足で走らせなければならなくなるからだ。
永遠にこの夜が続くような気がした。何度もその不安と対峙した。そして――。
――ああ……。
もし神様がいるなら感謝しないとな……。
ハルヒコは気配を感じ背後を振り返った。
東の空が白んできていた――。
朝の早い農家なら、もう活動を始めている時間だ。右手に木立の生い茂る丘を眺めながら、ハルヒコ達の馬車は街道を進んでいた。
不意にその丘を下る坂道から一台の馬車が街道へと滑り出てきた。質素な荷馬車に老人が一人乗っていた。
「おう、おはようさん。ずいぶんと、早えーなあ」
老人は軽く手を上げ、くしゃっと破顔した。馬車はそのまますれ違っていった。
「あの――」
ハルヒコは何か思うところがあったのだろう。その老人を呼び止めた。
「この道をまっすぐ行けば、バラディンに到着しますか?」
「ああ、そうだなあ――」
この老人が追手の一人であるはずがない。
――あんな笑顔をするんだ。間違いない。
地元の農民。しかも、とても人の良さそうな老人だ。
甘いと思われるかもしれない。だが、ハルヒコは直感的にそう確信した。
「時間はかかるがバラディンには着くよ。ここからなら、昼過ぎには到着できるんじゃないかな」
いよいよゴールが見えてきた。だが、ハルヒコがその老人に声をかけたのは、他に期待するところがあったからだ。
「失礼ですが、ご老人がやってこられたこの道は?」
「ああ、わしの村がある。そこからさらに行けば他の村もいくつかあるよ。おお、そうだ。バラディンに行くなら、街道よりそっちの方が少しばかり早いかもしれん。地元の人間しか知らん道だからのう」
どうやら街道はぐねぐねと蛇行しながら走っているらしく、老人に教えてもらった道は幾つかのゆるやかな山を越えなければならないものの、ほぼ一直線にバラディンにつながっているとのことだった。
ハルヒコは決断した。その道を進むことにした。
もちろん不安がないわけではない。街道を進めば迷うことなくバラディンにたどり着ける。だがその一方で、もしルアンの追手がすでに国境を越えていたとすれば――。
――確実に街道のどこかで待ち伏せている……。
方や老人がやってきた道は、地元の人間しか知ることのない田舎道。その存在をルアンの兵達が知るはずもない。
――仮に知っていたとしても、こちら側に割ける人員は限られるだろう。
そんなふうに総合的に判断し、ハルヒコは街道を避ける選択を下したのだ。
馬車はのどかな田園風景の中を進んでいく。典型的な田舎道。ハルヒコ達の村を通る道とよく似ていた。地面は舗装されておらず石もごろごろ転がっている。だが、車輪がはまってしまうようなぬかるみもなく、馬車の走行に支障をきたすようなところはなかった。
ただ一点、ハルヒコが気になったのは道幅であった。
――馬車一台分の幅か……。
まだ一台もすれ違っていないが、もし対向する馬車が来れば、どちらかの車両を端に寄せられる場所まで道を譲りあわねばならない。
――それに、馬車を転回させることも難しい……。
つまり自由に馬車の進行方向を変えられないということだ。その点だけは致命的な結果に結びつかないかとハルヒコを不安にさせた。
――それでも、やはりこちらの方が安全なのは間違いないだろう。
ハルヒコはその唯一の気がかりを押し殺しつつ、手綱をぎゅっと握りしめていた。
街道を離れてどれくらい経っただろうか。陽もずいぶんと高くなってきた。穏やかな陽気のせいか、まるでのどかな家族旅行をしているような気分になってくる。
――そうだったら良かったのにな……。
いつか本当にそんな旅ができる日がくるのだろうか……。
「あっ!」
シュウが唐突に声を上げた。
「パパさん、あれ見て!」
シュウが前方を指差す。
遠くの山の稜線に、明らかに人工物とおぼしき形状のものがのぞいていた。
「城だ! バラディンの城だ!」
クイールが叫んだ。
バラディンの町はゆるやかな丘陵に扇状に広がっている。その要の部分、丘の頂に城はあった。
みんなから歓声が上がる。
ここから見えるその城までは、決して気の遠くなるような距離ではない。現実的で実際的な位置にある。もうすぐ安全が手に入る。
――ようやく、ここまで来れたんだ!
そのときであった。
シュッ――!
どこからともなく矢が放たれた。
幾本もの矢が馬車をひく馬に突き立った。
馬はいななき興奮し――。
どっと地面に倒れると、やがて動かなくなった……。




