第7章―7
しんと静まり返った時が過ぎていっているためなのか、それとも時が止まってしまったために何も音がしないのか――それは分からない。
もしかすると、ハルヒコの思考が止まってしまったために――あまりにも負荷がかかりすぎたがゆえに――何かを耳にしようとする機能が停止してしまったのかもしれない。
部屋に戻ったハルヒコは、現在の状況をぼやかすことなく皆に伝えた。そうしなければ切り抜けられないところまで追いつめられていたのだ。
ルアンでクーデターが起きたこと、王子が魔道士と共に逃亡していること――それらはもうすでにこのアクラまで伝わってしまっている。極めつけの不運は、自分達に害をなすかもしれぬアルベルト達の仲間に――サルザイに――ハルヒコが魔道士であるとバレてしまったことであった。
何事もなかったように――とぼけてみせて――このままアルベルト達と共にバラディンに向かうことができるか。
――それは難しいだろう。
運に任せるよりも勝率は低いかもしれない。
自分達の命運をあずかり知らぬ何者かにゆだねるべきではない。進むべき道がどんなに困難でか細くとも、自分で判断し選択していかなくてはならないのだ。
――逃げ出すしかない。
だが、どうやって……。
――馬車を奪うか?
馬は馬車の車体からはずされ、今は離れの馬屋で休まされている。馬車を奪うにしても――誰にも気づかれることなく――どうやって馬屋から馬を引き出し、馬車につなぐことができるというのだろうか。
――この町のどこかを探せば、他の馬車が見つかるか?
そんな都合のいい話はないだろう。どこの誰が好き好んで、奪ってくださいと言わんばかりの馬車を放置しているというのか。
――また徒歩で進んでいくか?
大森林はもう過ぎてしまっている。山脈に沿って森は続いているが深くはなさそうだ。それはつまり、脅威となる魔物の類いが少ないということを示唆している。だが、確実な情報は何一つない。トロールより凶暴な魔物と遭遇する可能性だって皆無ではないのだ。
――それに食料もないに等しい……。
徒歩ならば夜通し歩いたとしても――現実的ではないが――バラディンまで丸二日はかかってしまうだろう。途中で食料を購入することもままならない。
――この町のどこかに潜伏しておくか?
そして、アルベルト達が出発したのを見計らって別の馬車を見つける。
――より確実に怪しまれてしまうだろうな……。
アルベルト達のみならず、キャラバンの隊員達も引きこんで――もしかすると町中の人間をも巻きこんで――皆で結託して捜索をされてしまえば、もはや打つ手はなくなってしまう。逃げ場がなくなるのだ。
――どうすればいい……。
いいアイデアは一つも思い浮かばない。事は急を要する。それなのに、ゆるんだ蛇口から水が糸をひくように、時間は無駄にただこぼれ落ちていくばかりだった。
夜半過ぎ、前兆もなく突然火の手が上がった。
最初に気がついたのは、キャラバンの荷物を見張っていた当番だった。焚き火は夜通したやさなかったので、薪が燃えるにおいは当然辺りに充満している。そのにおいが濃くなった。鼻のきく一人がそれを訝しんだのだ。
場所は宿の母屋から離れて建つ馬屋。そのもっとも奥まった馬房に敷かれていた藁が火元であった。幸いにもその馬房に馬は入れられておらず、またキャラバンの馬達も火元とは反対側の入り口付近に集められていたため、出火を発見した時点ではまだ一匹たりとも犠牲は出ていなかった。
だが、火はボヤですんだというわけにはいかなかった。キャラバンの見張りが馬屋に駆けつけたときにはもう柱や梁の一部に火が燃え移り、馬達はいななき声を上げ落ち着きを失いつつあった。
「火事だ!」
その叫び声に次々と人が集まってくる。キャラバンの隊長がやってくる頃には、手分けして消火にあたる者や馬屋から馬を引っ張り出す者で、騒然と辺りはごった返していた。
「遠くの馬車から馬をつなげて移動させるのだ! 荷物を守れ!」
キャラバンの隊員達は馬を引きつれ、広場の出口近くに停めていた馬車から順に動かしていった。通りに抜ける路地に次々と馬車が並べられていく。
馬屋から最後の馬が引き出された。だが、その頃には馬屋の三分の一ほどにまで火は燃えひろがり、もはやその勢いを止めることはかなわない状態であった。それでも隊員達は被害を最小限にとどめようと井戸から水をくみ上げ、バケツリレーで踊る炎に水をあびせ続けた。
怒号が飛び交い広場は混乱していた。みな自分達のことで手一杯だった。誰かにかまっている余裕などなかった。
そんな騒乱の中、物陰の闇に潜む者達がいた。
ハルヒコ達であった――。
目の前で繰り広げられている混乱の状況を前にして、ハルヒコは――他の者達も皆――胸がしめつけられるような思いだった。この事態を引き起こしたのはハルヒコ自身だったのだから。
ハルヒコは馬車を奪って逃走することを選んだ。もちろん今の状況も想定した上での苦渋の決断だ。つまり――誰かに迷惑がおよぶことをハルヒコは容認したのだ。最悪その誰かが死傷する可能性だって否めない。
それでも――ハルヒコは選んだ。クイールを守るために、家族を守るために――。
自分達が助かるために誰かを犠牲にする。それが正しい行いであるはずがない。そんなことは百も承知だ。今もハルヒコは耐えがたい罪悪感に苛まれている。
――それでも進むしかないんだ……。
いつか必ず謝罪も補償もしてみせる。
――自分達の命の灯が、そのときまでかき消えていなければ……。
荷物が炎に巻かれないように、キャラバンの馬車は離れた場所に移動させられ停車していた。馬をつないだまま――。
並んだ馬車の列を荒ぶる炎が照らしている。その反対側に濃密な影が生み落とされ、闇のトンネルが形作られていた。影はまるで踊っているようだった。
ハルヒコ達はその闇の連なりの中を広場の様子をうかがいながら進んでいった。塀や地面に投影された自分達の影もまた踊っているように見えた。
だが、闇の中をハルヒコ達はただ潜行していっていたわけではない。ときおり、その暗闇のキャンバスに青白い光跡が短く描かれた。
「パパさん、これでいい?」
声をひそめてシュウが聞いた。
「それでいけると思う。半分くらいまで切れ目を入れておけば大丈夫だろう」
子どもにこんなことをさせる――胸が痛みながらも、今はシュウの魔法に頼らざるをえなかった。常軌を逸した極高温の青い炎――シュウのフラーモがどうしても必要だったのだ。
シュウは馬車の両輪をつなぐ車軸に向かって呪文を唱えていた。極高温の火は木製の車軸を燃やしていったのではない。削っていったのだ。青い炎がふれた瞬間、そこにあった物質は蒸発するように消えていった。
――追手がかかったとしても、これで馬車は使えないはずだ……。
動き出せば車軸が折れ、馬車は走行不能におちいるだろう。
ハルヒコは、あらためて罪を重ねていっていることを意識せずにはいられなかった。だが、ここで止まってしまうわけにはいかない。もう賽は振られてしまったのだ。誰でもない、ハルヒコ自身の手によって。
そうやって連なる数台の馬車を越えていった。路地が大通りに面した場所に達すると、そこにキャラバンの先頭の馬車が停まっていた。
――幌はついていないのか……。
欲は言えない。ともかく、この場を脱出するのだ。
「おお、あんたら無事だったのかい――」
ハルヒコ達が馬車の陰から姿を現すと、不意に声が投げかけられた。
――見張りがいたか……。
考えてみれば当然のことではないか。
先頭車両の側にキャラバンの隊員が一人、警護に立っていた。アルベルトの仲間ではない。
「災難だったね。でも、火事に巻き込まれなくて本当によかったよ」
――どうする……。
この隊員に襲いかかって口を封じるか?
だが、彼を傷つけずにそうする術をハルヒコは持っていない。ハルヒコが力づくで誰かを制圧する手段は炎の魔法しかないのだ。理の力をふるえば、この見張りの隊員が傷つくことは避けられないだろう。下手をすれば致命傷をおわせ死に至るともかぎらない。
「隊長さんに……」
ハルヒコはおずおずと切り出した。
「ここに避難するようにと言われて来ました――」
よくもまあそんな嘘を、次から次へと平気な顔をして口から出せるものだ。ハルヒコは子ども達の目の前で、そんなあさましい自分の姿を見せることに、ひどく胸がしめつけられる思いだった。
悲しかった。たとえ今が追いつめられ切羽つまった状況であったとしても――。
「もしよければ、私達が見張っておきますよ」
その言葉も自分の心に蓋をして、何とかしぼり出したものだった。
「助かるよ。あっちの様子が心配だったんだ。悪いがここは任せる。頼んだよ――」
その声に疑いの色はなかった。隊員はハルヒコ達のことを信じきっていた。
ハルヒコの胸をまた鋭利なナイフがえぐる。
――こんなことを繰り返していると、人は心を失っていくんだろうな……。
なぜかそのとき、そんなことを頭に思い浮かべた。
隊員はふり返ることなく行ってしまった。周囲には誰の姿も見えなくなった。ハルヒコ達だけがぽつんとそこに取り残された。
「行こう……」
ハルヒコは皆に乗車するよう促した。
馬車を発車させる直前、ハルヒコはふり向いて、闇夜を焦がす炎を目に焼きつけた。
それから、馬車は音もなく動き出した。




