第7章―3
「この世界には、すごい怪物がいるんだね」
ベッドの上でシュウは少し興奮しているようだった。
「怪物じゃない。神獣だよ」
その隣でクイールが罰当たりなと言わんばかりに補足した。
――オシアノレゴ……。
海を統べる神獣。
――三大厄災の一つ……。
神獣と崇められたり、厄災と恐れられたり……。
忙しい存在だなと、ハルヒコは他人事のように思った。
船室に戻ってきたハルヒコは床に毛布を敷いて自分の寝床をつくっていた。ベッドは壁際にそれぞれ一つずつ。一つはトウコとカナが、もう一つはシュウとクイールが一緒に使うことになった。
食後もボナルドとの会話は続いた。彼にとっては何気ない世間話のようなものでも、ハルヒコにはこの世界のことを知る有益な情報であった。
夜の海は危険ではないのか?
そんな質問をしたときのことだった、その三大厄災の一つが話題にのぼったのは。
『海にも魔物は潜んでいる。昼は光の届かない深い海の底でじっとしているが、夜になれば海上に姿を現す。小型船は危ない。襲われる危険があるからな。この船ぐらいの大きさがあれば安心していい。例外を除いてはな……』
ボナルドは、耳を傾けて真剣に話を聞いている子ども達をちらっと見た。それから、ぐっとため込んで、話の続きはと期待する子ども達の表情を確認すると、満足そうに口を開いた。
『海でオシアノレゴに出会ったら、もうあきらめるしかない。不意の嵐に見舞われたと思ってな――』
その姿を見た者はいない。なぜなら、姿を見た者は全員、深い海の底に沈んでいってしまっているからだ。
『今も、この海のどこかに潜んでいる』
話の流れで、ハルヒコは危うくシエラレゴ――空を統べる神獣――の話題を出してしまいそうになった。自分達がこの世界にやってきた日、空の高みに姿を現した巨大な赤龍。
――マグダル様は自分達を見物にでもきたんじゃないかと冗談をおっしゃられていた……。
その後もボナルドとの話はつきなかったが、船員の一人が彼を呼びにきたところで宴は終了となった。
そんなことを思い返しているうちに、カナはすでに寝息をたてていた。シュウのまぶたも重い。
「さあ、もう寝ようか」
ハルヒコは書き物机の上に置かれたランプに呪文を唱え、光を弱めた。体を横にすると、波に揺さぶられて船体の軋む音が耳に入ってきた。ゆっくりと規則正しく、遠くから近くから……。
「ねえ、起きてる?」
ハルヒコは肩を揺すられて目を覚ました。
皆が寝静まっても警戒のため自分は起きていようと考えていたのに、横になった瞬間に落ちるように意識を持っていかれたようだ。
「ん……。ああ、ごめん。眠ってしまったみたいだ……」
寝ぼけた頭でハルヒコは上体を起こした。ちょうど目線の高さに、ベッドに横になったトウコの顔があった。
「子ども達、寝ているから静かにね」
ハルヒコと違い、トウコはしっかりと覚醒していた。むしろ、まだ一睡もできていない様子であった。
「寝れないの?」
「眠れるわけないでしょう」
非難めいた口調に、これから先のやり取りが想像できた。聞く前から、ハルヒコはうんざりとした気分にならざるをえなかった。
「これから、どうするつもりなの?」
あいまいで、とても広義的な質問だ。
「関係のない王族と関わって、あの子達を危険にさらすの?」
――関係なんてない、か……。
決して関係がないなんてことはない。この世界に来て、どれほど世話になったことか。トウコもそれは理解しているはずだ。平穏な日常を過ごしているときだったなら――。
――トウコが追いつめられているのは分かる……。
自分達の子どものことが心配なのも当然だ。ハルヒコ自身だってそうなのだから。
――でも、クイール王子を見捨てることはできない……。
それはクロム王やマグダルへの恩からではない。
「マグダル様に頼まれたからじゃない。いや、最初は確かにそうだったかもしれないけど……」
ハルヒコは頭の中を整理するように、少し考えてから口を開いた。
「しっかりしているけど、王子はまだ子どもなんだよ。シュウと変わらない――。そんな子どもの目の前で……」
ハルヒコは思わず言葉につまってしまった。不意に胸が苦しくなって、しぼり出すように話を続けるしかなかった。
「守ってあげたいって思ったんだ……。シュウやカナに思うのと同じように。どこまでやれるか分からないけど、自分の子ども達も王子も守ってみせるって誓ったんだ」
そう言いながらハルヒコは思った。
――誓った……?
誰に……。
だが、考えがまとまらないうちにトウコが感情をぶつけてきた。努めて声をひそめてはいたが、冷たく身をえぐるように――。
「無責任なこと言わないで。あの子達に万が一のことがあったらどうするの。責任はいったい誰が取ってくれるっていうの!」
ハルヒコは言い返すことができなかった。いや、言い返せなかったわけではなく、ぐっと言葉を飲み込んだのだ。
――じゃあ、どうすればよかったのか?
村にあのまま残っていたとしても、王子を引き渡したとしても、自分達が無事でいられる保証なんてなかったはずだ。図らずも、クロム王やマグダル、国の中枢に近しいところに自分達は関わることになったのだから。
「じゃあ、どうすればよかったっていうんだ!」
ハルヒコは喉まで出かかったその言葉を抑え込んだ。息がつまってしまったかのように……。
「トウコの気持ちも分かる……。でも、とにかくアクラには入れるんだ。ルアンからはもう出た。危険な目に会うことはもうない。安心していいんだ」
話しながら、よくもそんな嘘をつけるものだと、ハルヒコは自身を嫌悪せずにはいられなかった。
トウコは口を真一文字に結んだまま、非難の目をハルヒコに向けていた。やがて、顔を背けて毛布に潜りこんでしまった。
命にかえて皆を守る――その覚悟を繰り返し誓う。今のハルヒコにできることは、ただそれだけしかなかったのだ。
翌朝もハルヒコ達は、船長室でボナルドと一緒に朝食をとっていた。パンとスープだけの軽い食事だった。ハルヒコはちぎったパンを口の中に放りこみながら、ちらちらとボナルドをうかがっていた。
――人の良さそうな船長だ……。
もしかすると、事情を打ち明ければ力になってくれるのではないか――。
「船長、ミッツに到着したら、この船は次はどこに向かうんですか?」
どうしてそんなことを聞くんだ――興味深げな目でボナルドはハルヒコを見つめた。
「ミッツに着いたら積荷を載せかえて、また逆戻りだな。サッハに戻ることになる」
「その後は……?」
ボナルドは微かに怪訝な表情を浮かべた。
――追求しすぎたか……。
「いえ……。バラディンに向かうのに、陸路で行くのが速いのか、船でさらに進んだ方が速いのか。そう思って……」
ボナルドはハルヒコの表情をうかがっていた。そして、あごに手をやって答えた。
「船でナリッシュの港まで行って、そこから陸路を行くって手もあるが――。遠回りだぜ。ミッツで馬車をひろって、ロランの町経由で行くのが一番いいんじゃねえかな。ロランの町で一泊して――。そしたら、明日の昼過ぎにはバラディンに着くはずだ」
二日後にはミッツに戻ってきてナリッシュには向かうがなと、ボナルドは付け加えた。
――どうする……。
国境からずいぶんと離れているナリッシュまで船で行くことができれば、アクラに侵入しているかもしれない追手から、より確実に逃れることができるだろう。
だが、ミッツの町に二日間も滞在するのは危険だ……。
いや、考えすぎだろうか。もうアクラの国内に自分達は入っているんだ……。
ボナルドを待ってナリッシュに向かうべきだろうか。それとも――時間が勝負だ――やはり陸路でバラディンに向かうのが正解か……。
――事情を打ち明けてみるか……。
ボナルドの人柄を考えると、予定を変更してナリッシュに向かってくれるかもしれない。
――いや、それも甘い考えか……。
ボナルドと会ってまだ一日とたっていない。食事を二回、共にしただけだ。それだけで人柄などと、彼の内面をのぞいた気でいるのは危うい。もしかすると、演じているだけなのかもしれないのだ。いい人を装っているのかもしれないのだ。
しかし、自分の直感を信じたいという気持ちもハルヒコにはあった。
――仮に船長が想像通りの人柄だったとしたら……。
予定を変更してナリッシュに向かってくれる――。だが、他の乗組員達はどう思うだろうか……。
――悪事をはたらいていた者もいたと言っていなかったか……。
報奨金目当てでクイールを拉致する――。そのために船を占拠する――。
ハルヒコは混乱してきた。考えは一向にまとまらない。
そんなとき、遠くの方から、よく通る声が上がった。
「港が見えたぞー!」
ボナルドが立ち上がった。ハルヒコ達も彼の後に続いた。
甲板に出ると、風にあおられ思わず体が持っていかれそうになった。まだ遠く霞んだ陸地に、朝日の陽光を浴びて輝く白亜の町が横たわっていた。




