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第6章―8

 まるでそこに見えない壁があるかのように、森はきれいに切り取られていた。

 森林限界高度――高木が連なる大森林と、背の低い高山植物が岩肌に生育する高原と――その二つが見事な境界線を描いていた。

 二つの異なる世界が隣り合っている。そんな錯覚さえ覚えた。

 ハルヒコ達は大森林から抜け出し、灌木と岩だらけの高原を進んでいた。

 そう、ハルヒコは無事、皆と合流できたのだ。

 事前にハルヒコはシュウとこう打ち合わせていた。

『とにかく、みんなが疲れるまで――歩けなくなるまで進むんだ』

 そうしたら木にルーモを灯し、シュウ達はそこから離れる。気配を消して、その木をうかがっておく。

『パパさんが追いついて、その木を見つけたら合図の光を飛ばすから――』

 同じように光を飛ばして応えてほしい――。

 恐れと不安――ハルヒコが皆に追いつこうと一人森の中を走っていたとき、まるで亡霊のように付きまとい離れなかった感情だ。

 みんなは無事に逃げることができたんだろうか。別の脅威と出会ってはいないだろうか。木に灯された印を見落としてしまってはいないだろうか。

 ――二度とみんなとは会えなくなってしまうんじゃないだろうか……。

 脳裏に浮かんだ中で、それが最も恐ろしい想像であった。

 だが、今はこうして皆と一緒に進んでいる。それだけでハルヒコは心強く、体の底から力がわき出てくるのだった。

「王子様、大丈夫?」

 カナがすぐ目の前で揺れる頭部に向かって声をかけた。

「大丈夫だよ。カナもずっと頑張ってたからね」

 カナは歩き疲れてクイールに背負われていた。ハルヒコがカナをおんぶしようとしたとき、彼から申し出てくれたのだ。

「ありがとう。カナが大きくなったら、あなたのこと、絶対に助けてあげるからね」

 クイールは笑顔を浮かべた。心に温かいものがこみ上げてきて、自然と笑みがこぼれていた。

 こんなふうに、みんなが文句一つ言わずに歩いてくれている――ハルヒコにとってどれほど救いであったか。だが――。

 ――そろそろ休憩を取らないと、みんなの体力がもたない……。

 そう危惧していたところに、巨石が屹立した一帯にハルヒコ達は差しかかった。そして、体を横にして休められそうな、岩に囲まれた場所を見つけることができた。

 休憩するタイミングは今しかないとハルヒコは思った。

「みんな、ここで少し休憩しよう」

 そう言うと、皆は一斉に荷物を下ろし、その場に座り込んでしまった。

 ――思ってた以上に、みんな疲れてたんだな……。

 ハルヒコ自身も横になってしまえば一瞬で気を失ってしまうほどの疲労が蓄積していた。しかし、今は自分のことより、皆のぐったりと疲れ果てた姿に心が痛んだ。

 ――ともかく、火を起こさないと……。

 今はまだ歩いてきて体も火照り暑いくらいかもしれないが、じきに身体は冷えてくるだろう。

 ――でも、火は起こせない……。

 灌木の落ち枝を集めれば焚き火をすることはできる。だが、立ち昇る煙が自分達の位置を知らせてしまうだろう。

 ハルヒコは辺りを見回した。何か方法はないかと。そして、そこかしこに転がっている、ある物に目を止めた。

 ――やってみるか。

 ハルヒコは表面がざらついていない黒い石を集め出した。元の世界で言えば、おそらく玄武岩に相当するだろう。

 それを皆が休憩している場所の中央に積んでいく。そして、その組み上げた石の隙間から内部に向かって唱えた。炎の魔法を――。

 生み出された熱量はその黒い石を焼いていった。やがて組み上げた石の内部は赤く輝き出し、ときおりその隙間からは小さな炎が踊り出た。

 ――上手くいったかな。

 加熱して石が破裂することを恐れたが、しばらく様子をうかがっていても、その気配は見られなかった。

 天井はなかったが、岩が壁となってその空間を取り囲んでくれていたおかげで、冷たい風に直接さらされることもなく、ずいぶんと温かく感じられた。

「トウコ、疲れてるとは思うけど、温かいスープをつくってくれないか」

「材料は限られてるけど?」

 それは食材の種類が限られているとも、量が限られているとも、どちらの意味にも受け取れた。

「みんながお腹いっぱいになるように。元気が出るように、ある物で頼む」

 トウコは分かったとハルヒコが背負っていた荷物を探りだした。ハルヒコも小さな鍋を取り出して、その組み上げた石のかまどの上にかけた。

「周りを見張ってるから、後は頼むね」

 ハルヒコがその場を出ていこうとすると、自分もとクイールが立ち上がろうとした。

「後で代わってもらうので、今はしっかりと身体を休ませておいてください」

 ハルヒコはそれを押しとどめた。

 トウコは小さなナイフで干し肉をスライスし、ジャガイモを皮ごと四等分にしたものを、水をはった鍋に入れていった。そして、鍋の横に空いたスペースにパンを置いて焼いていった。

 鍋が煮立ってきた。シュウにもたれかかるようにして眠ってしまっていたカナが、その匂いに誘われるように、小さなあくびをしながら目を覚ました。いつの間にか、シュウもクイールも眠ってしまっていた。

「カナ、みんなを起こしてあげて」

 トウコはスープの味を確認しながら、塩を少しだけ加えていった。

 ハルヒコは少し離れた、やはり岩に囲まれ身を隠せる場所で、自分達が森から出てきた方向を監視していた。

 その場所も岩が壁となって冷たい風から身を守ってくれてはいたが、じわじわと体にしみ込んでくる寒さだけはどうすることもできなかった。

 ハルヒコは手のひらサイズの石を赤熱しないようにフラーモで温め、それを手拭いに包んでカイロ代わりにした。こんなときにも関わらず、我ながらいいアイデアだと笑みがこぼれた。

「食事を持ってきました。見張りを代わりましょう」

 クイールが器にもったスープとパンを持ってきた。

「ありがとうございます。でも、もう少し私が見張っていますので、王子は休んでおいてください」

 クイールは何かを言いたそうな顔をしていたが、しばらくの沈黙の後、

「私もご一緒させてもらってもよろしいですか」

 と、ハルヒコの隣に腰かけた。

 ハルヒコは「では、これを」と懐のカイロ代わりの石を手渡し、スープとパンを受け取った。

 クイールは目を凝らして注意深く周囲を監視していた。ハルヒコはクイールに見張りを任せ、温かい食事をかきこんでいった。食べ終わると、思わず満足のため息をこぼしていた。

 クイールが目を合わせないままつぶやいた。

「こんなことになってしまって、本当に申し訳ないと思っています……」

 ハルヒコは空になった器を横に置いた。

「王子は何も悪くありません」

 その言葉が気休めにしかならないことは、ハルヒコにも分かっていた。

「いえ、私の責任です……。私が王族の責務から逃げてしまったばかりに……。父上も、みんなも……」

 ハルヒコは何か引っかかるものがあった。

 ――どういうことだろう……?

 時間に限りがあったため、マグダルから城で起こった出来事はかいつまんでしか聞けていない。

 アイス側の兵士が誤って矢を放った。その矢が王妃の命を奪い、王家の呪いが発動した。

 ――そして、城や町はうごめく死者であふれ返った……。

「怖かったのです……。私は王家の呪いを拒んでしまった……。それがこのような結果になってしまった……」

 ――呪いを拒む……?

 ハルヒコは事の詳細を知る必要があると思った。だが、それは今ではない。

 ――さっきから、王子は自分に課せられた責任のことばかり語っている。

 そして、自分を責めている……。

 彼はシュウと変わらぬ年端も行かない少年だ。

 ――まだ一日と経っていない……。

 彼は父と母を失ったのだ。

 それなのに、そのことを悲しむことを許されず、王族の果たすべき責務にさいなまれている。

 ――これこそ呪いじゃないのか……。

 愛すべき人を失ったとき、素直に悲しんで何が悪い。

 だが、その思いを言葉にするのは難しかった。そして、その言葉をかけるべきは今ではないということも理解できた。

 ハルヒコはそっとクイールの頭に手をやった。ただ優しく撫でてやることしかできなかった。

 クイールはうつむいたまま、小刻みに肩を揺らした。歯を食いしばるように、決して声をあげなかった。

 ――どこまでやれるか分からない……。

 ハルヒコはクイールを抱きしめるように引き寄せた。

 ――守ってみせるさ。

 そう心に誓った。


 元の世界で言えば二時間ぐらいだろうか。ハルヒコはみんなに仮眠を取らせ、日が天頂に差しかかる前に出発した。

 目的地である港町サッハまで、歩いて山脈を越えようなどと考える物好きはいない。実際にどの程度の時間がかかるかは予測もつかなかったが、皆に休憩を取らさなければ最後まで歩き通すのは無理だと考えたのだ。

 ――間に合うだろうか……。

 その言葉がハルヒコの頭の内側を何度も往復し続けていた。

 ――もし間に合わなかったら……。

 その言葉も何度も反芻した。だが、救いとなるような声はどこからも下りてくることはなかった。そして、時間は容赦なく過ぎていった。

 はるか彼方に山脈の稜線が途切れている箇所があった。

 ――あそこであってくれ……。

 そう祈ることぐらいしか、ハルヒコにはできなかった。

 いくつかの小休止をはさみ、歩き疲れたカナを何度も背負った。太陽はその位置を刻々と移し変え、西の稜線へと確実に近づいていった。人の切なる願いに耳を傾ける気などさらさらないかのように。

「パパさん、海が見えるよ!」

 あそこまで頑張ろう。そう励ましながら向かっていた、彼方に見えていた山脈の切れ目。そこが前方の視界に差しかかったとき、居ても立ってもいられずシュウは走り出していた。空の色はまだ青かった。

 ハルヒコは胸をなで下ろした。

 だが、その安堵は長くは続かなかった。シュウに追いつく前に、胸の鼓動は再び強く打ち鳴らされていった。

 ――どうして、シュウはあそこでうつむいている……?

 遠くを見据えるのではなく、自らの足元をシュウはうかがっている。

 また、あの嫌な汗がにじみ出てくるのをハルヒコは感じた。

 シュウの隣に立つ。皆、頭の中が一瞬で真っ白になった。

 確かにその場所からは海が望めた。それどころか、塔の先端らしき建築物まで海を背景にして立っていた。目指す目的の港町で間違いないだろう。

 町との間には大きく回りこんだ大森林が腕を伸ばすように横たわっていた。だが、日が傾いてしまう前に到着できない距離ではなかった。

「こんなことってないよな……」

 心が折れそうになった。気が遠くなった。

 もし一人だったなら、ハルヒコはその場に崩れ落ちていたかもしれない。

 はたして、大森林は何を回りこんでいたのか――。

「ねえ、パパさん。ここを下りることってできるのかな……」

 ハルヒコ達の足元には見渡す限りのその何かが広がっていた。彼らを拒絶し希望を断絶する、垂直に切り立った断崖が――。

 足場はないに等しかった。

 ハルヒコは目的の町とは逆方向に目をやった。自分達が今立っている地面は緩やかに下りながら、遠くに霞んで見える森林限界へと延びていた。そこにまで――そして視界の及ぶその先の向こうにまで――足元の崖は容赦なく続いていた。

 ――この崖をたどって回りこむ……。

 そんな時間がはたしてあるのだろうか。

 追手が危険も顧みず、昼夜を問わず馬を走らせたなら、今日の夕方にはサッハの町に到着するだろう。

 もちろん我々の目的地がサッハだと想定しているとは限らないし、無謀な追跡を行わない可能性だってある。

 だとしたら、この崖を迂回しても間に合うかもしれない。

 ――そんなふうに都合よく考えていいのか?

 悪い癖だ。つくづくハルヒコは自分が嫌になった。

 ――間に合うかどうかの問題だけじゃない……。

 この崖がいったいどこまで続いているのか分からないのだ。もしかすると、大森林が街道と合流する先まで続いているかもしれない。そうでなかったとしても、迂回している途中で夜が訪れてしまう可能性だってある。より死の色が濃くなる漆黒の森の最中で……。

 ――崖を行くしかないのか……。

 ハルヒコはもう一度足元を見下ろした。

 ほぼ垂直の断崖は数階建てのビルの高さに匹敵していた。その直下にも急峻な斜面が延びていたが、そこまでたどり着くことができれば、なんとか下っていくことは可能そうであった。

 ――問題なのは、この崖か……。

 足場がまったくなかったわけではない。崖の所々には岩の窪みや出っ張りが目に付いた。だが、アスリートでもない限り、それらを利用して崖下まで移動することは至難の業であったろう。ましてや命綱もない状況ならなおさらであった。

 ――ロープはない……。

 ハルヒコは何か利用できるものがないか、辺りを見回した。

 大小さまざまな岩や石。ちらほらと地面にへばりつくように生えている灌木。

 ――あっ……!

 頭の片隅にひらめくものがあった。

「シュウ、ちょっとこっちに来てくれないか」

 ハルヒコは屹立する岩の一つに向かっていった。そして、付近の地面に目をやって何かを探しているようだった。

「パパさん、どうするの?」

 ハルヒコは両手でなんとか抱えられる大きさの平らな面を持つ石を拾い上げた。

「シュウのフラーモは石を融かすことができたよな。パパさんがこの石を支えておくから、この岩と石の隙間にフラーモを当ててくっつけることができないか試してくれないか」

 シュウはすぐに理解した。

「分かった。やってみる」

「最初は小さめの炎で頼む……」

 シュウは炎を当てるべき標的に手を寄せ詠唱を始めた。かざした手の先に青白い火球が目に見えぬ何かを収束するように生み出されていった。

 ――たまらない熱さだな……。

 石を支える手にも、火球を間近でうかがうハルヒコの顔にも、容赦のない熱量が襲いかかってきた。

「フラーモ!」

 シュウが放った火球は正確に目標に衝突した。ハルヒコの読み通り、その箇所は融けて岩と石を一体化させていた。

「あと何箇所か同じようにくっつけてみてくれ」

 何度もその凶暴な熱量に肌を炙られながら、ハルヒコはじっと耐え続けた。

 都合五箇所が融着され、ハルヒコが手を離しても石は岩の側面に固定されたままであった。

「試しに乗ってみるよ」

 シュウが片足を石にかけた。ゆっくりと体重を乗せていき、もう片方の足を地面から離す。両足を石の上でそろえると、シュウはハルヒコに向かってにこっと笑った。

 だが、ハルヒコは手放しには喜べなかった。

 ――時間がかかりすぎる……。

 それに、はたして崖という状況下で、こんなふうに二人で作業することが可能なのだろうか。シュウの魔法は最後まで持つのだろうか。

 ――シュウの負担が大きすぎる……。

「ねえ、パパさん。見てて――」

 そう言うと、シュウは石の上で軽くジャンプした。だが、両足が再び石についた瞬間、融着した部分が割れ、シュウは石もろとも地面に落ちてしまった。

 ハルヒコが慌ててシュウの体を支える。

 一時垣間見えた希望の光は急速にその輝きを失っていった。

 ――固定する発想は悪くないんだ……。

 ハルヒコはそのアイデアを諦めきれないでいた。

 ――固定する……。

 何かが引っかかった。固定する――他に何か方法がなかったか……。自分はそれを知っているんじゃないのか……?

 ハルヒコは、はっとして呟いていた。

「シュロシロだ……」

 その呟きを耳にしたシュウが、確認するように反唱した。

「シュロシロ……。鍵の魔法だね」

 本来は扉や箱の蓋に魔法の鍵をかける呪文だ。物理的な鍵と異なり魔法でなければ解除することはできない。また、他の魔導師がかけたシュロシロは、上位の能力を持った魔導師でなければ解くことはかなわない。

 だが、シュロシロは単に鍵をかけるだけの魔法ではなかった。かつて、その魔法の仕組みに疑問を抱いたハルヒコは試してみたのだ。そう、家畜のニワトリの足を地面に固定して、そのニワトリから非難めいた叫び声で糾弾された、あの一件だ。

 ハルヒコはもう一度石を支えて、シュロシロを唱えた。

 はたして……石は固定された!

 それは不思議な光景であった。石と岩の接点がわずかであるにもかかわらず、石はぐらつくこともなくしっかりと固定されていた。まるでその石が宙に浮いているような錯覚さえ覚えた。

 今度はハルヒコがその石に足をかけた。

 確信があった。ハルヒコは一気に体を持ち上げ、全体重をその石に乗せていった。

 石は微動だにしなかった――。

 シュウ達が心配するほどに、その石の上で何度もハルヒコが嬉しそうに飛び跳ねようとしようとも。


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