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第6章―7

 前門の虎、後門の狼――人が望むと望まざると、世界は安寧を許してはくれないらしい。

 進むべき未来には巨大な悪鬼が待ち構え、逃げ出した過去からは、しがらみという名の亡霊が追いかけてくる。

 ――どうする……。

「もう、わたしが投降するしかないでしょう――」

 自分を差し出せと、クイールはもう一度言った。そこには、ハルヒコの意見など求めてはいない強い決意が感じ取られた。今にも振り向いて、追いすがってきた過去に一人対峙しようと走り出しかねない危うさがあった。

「どうして、そんな……」

「わたしは誓ったのです。シュウを護ると――」

 クイールは何かを睨みつけるように目を細めた。あるいは、睨んでいたものはクイール自身であったかもしれない。

「トロール討伐のとき、シュウはわたしに応えてくれました。そのときに誓ったのです。恩義には恩で報いなければと。シュウを護ると――」

 ハルヒコは思った。

 ――どうして、そんなに気高くいられる? 他人につくせる?

 自分を犠牲にして……。

 人の魂は自ら磨かれ、ここまで光り輝くことができるものなのか。それともこれは、誰かにかけられた――魂の形を無理強いする――呪いなのか……。

 ――ダメだ……。

 彼を行かせてはいけない。

 魂がどうこうなんて今は関係ない。彼がシュウのことを、ハルヒコたち家族のことを心から案じてくれていることも今は関係ない。

 ――彼はまだ息子と同じ少年で……。

 ついさっき、父と母を失ったばかりじゃないか!

 ハルヒコは分からなくなった。自分はいったいどうすればいいのかを……。

「ダメです……。王子、行ってはいけません。まだ、きっと何か方法はあるはずです。あきらめるのは、やれるだけのことをやってからでも遅くはないでしょう」

 知らず、ハルヒコはそう口にしていた。

 クイールはそれでもと食い下がろうとした。だが、喉の奥まで出かかったその思いをぐっと飲み込んだ。

 そのときのクイールはもうすでに決断していた。シュウ達を救う方法はこれしかないと。

 ただ許しが欲しかった。マグダルが新たな師とあおげと――自分の進むべき道を指し示してくれる、助言者の務めを託されたハルヒコに。

「行ってはダメです……」

 ハルヒコは念を押すように、もう一度その言葉を繰り返した。

 ――しかし、他に道は……。

 だが、クイールは思った。マグダルが未来を託した者を信じてみよう。そして、いざとなれば、自らの命を捧げて彼らを救えばいいのだと。

「わかりました……」

 クイールは伏し目がちに、そう了承した。

 ハルヒコは少しほっとした。今にも駆け出しそうな気勢のクイールが、落ち着きを取り戻したように見えたからだ。

 ――だが、どうする……。

 とにかく、この難局を乗り切らねばならない。

 トロールと――まだそうと決まったわけではないが――戦うのは、当然のごとく現実的な選択ではない。シュウと共に戦ったところで勝ち目はないだろう。それにトロールとぶつかれば、派手な花火を打ち上げたようなものだ。追手はそれを目印に、砂糖に群がる蟻のように集まってくるに違いない。

 ――追手と戦うか?

 多勢に無勢だろう。敵わないのはもちろん、心情的にもルアンの兵士とは剣を交えたくはない。かつてトロール討伐の死線を共に越えたときの、歓喜に打ち震える彼らの表情が生々しく頭をよぎる。

 ――まだ甘いと、誰かに笑われそうだな……。

 心の中でハルヒコは苦笑した。

 それに、やはりその騒ぎに気づいたトロールが、今度はこちらに襲ってくるだろう。

 ――どこかに隠れて、やり過ごせるか?

 無理だろう。身を潜められそうな場所は、地肌が崩れて木の根が剥き出しになった穴蔵ぐらいのものだ。追手はネズミ一匹見逃さない。地面の隅々まで目を光らせながら進んでくる。

 ――あえて、トロールに近づいたらどうなる?

 追手も警戒して近寄れないのではないか。

 ――いや、こちらが先にトロールに気づかれてしまう危険性が高い……。

 それに、放っておいても、追手はあの灯を我々だと思って近づいてくるだろう。

 ――追手とトロールが衝突してくれれば、その混乱に乗じて逃げることができるかもしれない。

 だが、その前にトロールか追手のどちらかに我々が見つかってしまうことも大いにありえる……。

 ハルヒコはそこまで考えて、頭の片隅に何か引っかかるものがあった。この困難な状況を打開する糸口となる何かを。

 ――確実にトロールと追手をぶつける……。

 ハルヒコは決断した。

 ――これしかない……。

 

「みんな、よく聞いてほしい――」

 顔を上げると、目を凝らさずとも斜面の上方に灯が揺れていた。ハルヒコ達は先ほどの場所からさらに進んで、その灯火の様子をうかがえる物陰に身を潜めていた。灯の明かりの中を時折り巨大な影が横切る。その正体はトロールと思って間違いないだろう。

 このまま、さらに前進してやり過ごすことも考えられたが、今もハルヒコ達の肌を撫でていく空気の流れ、すなわち風が不安要素となり、その案には踏み切れないでいた。

 魔物の鼻はよく効く。ハルヒコ達が今いる場所は、トロールがいるであろうあの灯の風下に位置していた。だが、先に進んでしまえば自分達は風上に立つことになってしまう。獲物のにおいをトロールがむざむざ見逃すはずがなかった。

「いいかい。トロールが飛び出したら、少し様子をうかがって、それから西に向かって走るんだ」

「パパさんはどうするの……」

 不安そうにシュウが聞いてきた。ハルヒコが計画を話す前に、父親はきっと別行動をとるのだろうと予感して。

「パパさんはトロールをおびき寄せる。……大丈夫。トロールと戦ったりなんかしないよ。トロールを追手の方に向かわせるんだ」

「でも……」

 ハルヒコはシュウの頭を撫でながら、トウコと目を合わせた。

「子ども達のこと、頼む――」

 そして、カナに向かって「しっかり走るんだよ」と微笑んだ。

「シュウ、クイール王子、みんなを守ってほしい。私もすぐに追いかけるから」

 ハルヒコはそう言うと、一人振り返らずにその場を離れていった。

 ――シュウ、打ち合わせ通り頼んだぞ。

 皆を守るため、勇ましく飛び出したハルヒコだったが、一人になると途端にひどく心細くなっていく自分を自覚せずにはいられなかった。

 ――このまま、二度とみんなと会えなくなる……。

 ありえない話ではないなと思った。

 それでも足は止まらなかった。止められなかった。

 さっきからずっと考えはまとまらない。何かに納得できて行動しているのではない。あずかり知らぬ何かに体が突き動かされているのだ。

 ハルヒコは歩きながら、自分の計画に最適な場所を求めていた。

 ――トロールと追手の対角線上にあって、足元に……。

 ここだ!

 ハルヒコは自分の目的に適う場所を見つけた。

 トロールの方にまだ動きはない。風下であることが、これほど有利にはたらくとは――。

 追手の方は着実にこちらの方へ近づいてきている。あのトロールの灯にもう気づいているのだろうか――。

 ――まだだ……。

 ハルヒコはじっとその場に立ち、時が来るのを待った。

 トロールは動かない。追手は確実にその距離を縮めてきている。

 ――本当に上手くいくのか?

 ここにきてもなお、迷いは頭から離れなかった。ハルヒコの心臓は、今にも爆発してしまうのではないかと思うほどに激しく波打った。

 松明の炎が揺れた。その光に照らされ、追手の兵士の顔が一瞬見えたような気がした。

 その瞬間、ハルヒコは唱えていた。炎の呪文――フラーモを。

 マグダルより託されたミスリルの杖を目標に向ける。

 ハルヒコは直感的に理解した。

 ――この杖は魔法を増幅する!

 そして、その杖の延長線上に狙いを定める――トロールに向かって。

「フラーモ!」

 それは今までハルヒコが放った炎の魔法の比ではなかった。火球の熱量はその密度をより収斂し、飛翔する勢いは稲妻かと見紛うばかりであった。

 ハルヒコは放った魔法の反作用で、自分が吹き飛ばされないように踏ん張らなければならなかった。

 火球は一直線に延びていき、やがて目標に吸い込まれるようにして消えていった。

 辺りに静寂が戻ってくる。何事もなかったように。ただ炎の魔法がどこかに吸い込まれてしまっただけのように。

 ――上手くいったのか……?

 次の瞬間、雷鳴のような怒号が爆発した。森全体が――立っている地面さえも――震え怯える激昂であった。

 ハルヒコは距離があったにもかかわらず、直ちに足元にあいた穴――土が崩れ木の根が露出してできた浅い空間――に飛び込んだ。

 トロール達の動きを確認してからでなければいけなかったはずだが、あまりの恐怖に耐えきれなくなったのだ。

 地震のような揺れが起きた。それも複数。

 疑いの余地はなかった。間違いなく、その振動はこちらに近づいてきている。

 ハルヒコは暗い穴蔵の中で息を潜めた。

 遠くから地震の音がゴゴゴと押し寄せてくるように、その怒りに狂った足音はいよいよハルヒコのいる場所にまで到達した。

 と、ハルヒコの体が上下左右に激しく揺さぶられる。

 一体……。二体……。

 まさしく今、ハルヒコの頭上を想像を絶する重量物が駆け抜けようとしていた。

 しかし、それも瞬間の出来事であった。

 ――離れていく……。

 やったのかとハルヒコは思った。

 トロールをおびき寄せ、追手にぶつける。それがハルヒコの作戦だった。

 そして、ハルヒコの思惑通り、二体のトロールは今、追手の方に向かっていっている。

 ハルヒコはふーっと息を吐いた。知らず、呼吸するのをずっと忘れていたようだった。

 ――もう行けるか……?

 ハルヒコが遠ざかっていく振動に注意を払う。シュウ達に追いつくために、その場を離れるタイミングを見計らっていたのだ。

 ――!

 違和感を覚えた。

 遠ざかる振動に混ざって、もう一つ別の振動を感じる。しかもそれは――

 ――近づいてきている!

 もう一体いたのか!

 なぜか、その一体は遅れて動き出したのだ。

 ――何があった?

 フラーモがそのトロールに直撃してしまったのか? それとも、その一体だけが何か準備に手間取ってしまったのか?

 考えても仕方がなかった。そこにどんな事情があったのかなど今は関係なかった。

 ハルヒコは再び息を潜めた。

 その振動は先に進んだ二体と同じように近づいてきた。そして、そのまま、やはり同じように通り過ぎていった――。

 と、ハルヒコが祈った瞬間、その重たい足音は彼の頭上でぴたりと止まってしまったのだった。

 クンクンと獣が嗅ぐような鼻息が聞こえてきた。

 ハルヒコは全身から汗がふき出した。悪寒が止まらなくなった。

 焼石に水とはどこかで理解しつつも、ハルヒコはいつでもフラーモを放てるように身構えた。

 ふごぉおぉーっ!

 そのとき、先行する二体のトロールが咆哮を上げた。

 そして、頭上のトロールはそれに呼応するかのように、再び地面を激しく揺さぶりながら離れていった。

 ハルヒコは激しく運動をした後のように、ぜいぜいと空気を肺に取り込んだ。

 遠くで大木が折れる音がした。トロールの猛り狂った怒号が響いた。そして、それに混じるように兵士のものであろう叫び声がいくつも聞こえてきた。

 追手の中には、よく見知った兵士もいるかもしれない。

 ハルヒコは耳をふさぎたかった。


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