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第6章―6

 足を踏みつけると、そこに燐光の花が咲いた。淡い青白い光が弱々しく森の輪郭を照らしていく。ハルヒコ達は幻想の世界に迷い込んだような錯覚にとらわれた。

 うっとりとその光景に心奪われている場合ではない。ここは魔物の巣食う死の森なのだ。すぐ隣を死神が歩いている。その気配が肌をビリビリと刺激する。

 ハルヒコとシュウは、足元が確認できる最低限の魔法の光を皆の靴に付与した。それでもわずかにこぼれる光が辺りを照らしてしまう。幸いにも今夜の月は明るかった。木々の隙間からこぼれる光が魔法の灯を紛らわせてくれていた。

「パパさん、もっと下の方がいいんだって――」

 すぐ後ろを歩いていたカナが、ハルヒコの背中に向かって声をかけた。

 ハルヒコ達は木々が薙ぎ倒されできた森の通路を上っていた。一年前、猛り狂ったトロールが森につけた、まだ癒されぬ大きな傷痕だ。そんな場所を進むのは不吉だとも思ったが、今はとにかく距離を稼ぎたかった。その空間は、鬱蒼と茂った木立が障害物として立ちはだかることもなかったし、また倒れた木々が折り重なり、いい足場を形成してくれていたのだ。ハルヒコ達は順調に歩を進めていた。

「下の街道に近い場所は見つかってしまう危険があるんだ。だから、できるだけ早く街道から離れた高い場所に行きたいんだよ」

 一気に上ってきて、カナは疲れてしまったのだろうか――。

「おんぶしようか?」

「んん、いい。まだ、がんばれるよ」

 ハルヒコはカナの頭を撫でた。

「疲れたら言うんだよ。パパさん、まだまだ元気だからね」

 この通路を上りきった辺りで少し休憩を取ろう。ハルヒコはそう思った。

 大森林を進む――ハルヒコは何の考えもなしに、この森に突入したわけではない。

 森には確かに何者かが潜んでいる。毎夜、村の櫓から見える、森の奥にともる灯がそれを物語っている。皆は――そしてハルヒコ自身も――その灯がトロールによるものだと考えていた。一年前、大森林からトロールが現れた、ただそれだけのことを理由として。だが、もしかすると、その何者かは魔女や盗賊の類いであるとも限らないのだ。

 ――少なくとも、そいつは知恵を持っている。それは間違いない……。

 それでも、ハルヒコが大森林に足を踏み入れたのには訳がある。微かな光明をハルヒコは見出していたのだ。それが、たとえ闇夜の灯に誘われ焼かれてしまう羽虫のように、自らを危険の最中に投じることになったとしても。

 その灯は、村からはるかに離れた場所を夜毎さまようように移動し、深い森の底を焦がしていた。馬の足なら二日はかかる森の最深部だ。ハルヒコ達が隣国のアクラに向かうなら、必ずそこを横切らなければならない。だが、ハルヒコが目指す目的地は別にあった。徒歩であったとしても、街道を疾走する馬や馬車に紙一重で勝つことのできる唯一の場所。

 首都リュッセルへ村の作物を卸しにいく旅の途で、ハルヒコは好奇心からこの世界の――この地方の――地図を飽きることなく眺めていた。あのすごろくのような地図のことだ。そして、そこにハルヒコは見つけていた――起死回生の一手となる町を。

 こんなことになるなど、そのとき誰が予想できただろうか。

 ――こんな僻地にも町があるんだな……。

 ただ、それだけの印象が残った町。名はサッナ。交易船の中継地として栄えた港町である。ハルヒコはそこで船を捕まえる算段であった。

 街道を馬車で行くと、サッナまでは最短でも二日はかかる。山脈と森を大きく迂回しなくてはならないからだ。しかも、もっとも近い町からサッナまでの道程は険しく、大森林に隣接しているため、暗くなる前にそこを抜けなければ致命的な危険に身を晒すことになってしまう。そのため、サッナとの往来には早朝に出立することを余儀なくされ、どうしても手前の町で一晩足止めをくらうことになる。

 だが、徒歩で大森林を突っ切れば――そんな物好きが今までにいたかどうかは知らないが――丸一日でたどり着くことができる距離だとハルヒコは踏んだのだ。

 賭けだった。それも命を賭した、とびきり危険なギャンブルであった。

 それはハルヒコがもっとも嫌っているものの一つであったはずだ。自分のあずかり知らぬところで、自分の命運が左右される。運などという曖昧なものに、自分の身を委ねなければならない。

 ――くそっ!

 ハルヒコは胸の内で舌打ちした。

 つまりは、その危険な賭け以外に選択肢は残されていなかったということになる。そこまでハルヒコは追い詰められていた。

 そして、何よりもたまらなかったのは、その曖昧な選択に家族を巻き込まざるをえなかったことであった。

 だが、その胸の内を皆に知られるわけにはいかない。ハルヒコは努めて平静を装った。みんなを安心させるために、何度も虚しくなるような笑顔をつくった。

 休憩をとったのは、結局その通路を上りきり、さらに森の奥へと進んでからだった。トロールが穿った森の傷痕は思いのほか深く、上りきった所から村が一望できるほどに大きく開けていた。

 ――もしかすると、見られたかもしれないな……。

 ハルヒコはカナが「疲れた」と呟くの耳にして、初めてそこで休憩を入れた。

 初秋といえども夜は冷える。うっかりしていると、いつの間にか忍び込んで身体中に浸透している――そういった類いの冷たさだった。ここまで歩いてきて体が温かくなっていたせいだろう、うっすらと白い吐息が糸を引くように夜に紛れ出ていった。

 息をひそめ、辺りの気配を探る。虫の鳴き声も、獣が落ち枝を踏み折る音も――何一つ音は聞こえない。むしろ、森の奥から吹いてくる湿った風が肌にまとわりついて、うるさかった。

「みんな、水を少し飲んでおこう」

 ハルヒコは「あまり飲みすぎたらいけないよ」と、革でできた水筒をカナに差し出した。みな物言わず、静かにアクリアの香る液体を喉の奥に流し込んだ。

 こくこくと誰かの喉の鳴る音が聞こえる。ハルヒコは皆の姿を眺めながら思った。

 ――どうして、こんなことになった……。

 この世界に来て、家族全員をこれほどの危険に晒すことなど一度もなかった――考えもしなかった。

 自分でどうこうできる問題ではなかったのだと無理に納得しようとすると、背後の闇から声が上がった。

 ――王族と関わったことが、そもそも間違いの始まりだったのではないか……。

 聞き慣れた声だった。

 ――いや、王やマグダル様のおかげで、自分たち家族はここまでやってこれたのではないか。

 この異世界で――と、これもよく知る声が反論した。

 ――大きな恩を受けたマグダル様から託されたのだろう、王子のことを……。

 すかさず闇はささやいた。

 ――王子を差し出せば、自分達に危害は及ばないのではないか……。

 アイスは自分のことをひどく買ってくれている。また平穏な村の生活に戻れるんじゃないか……。

 ――でも、それはもはや別の国だ。

 アイスが治める、まったく異なる国。ルアンという名がこの先も変わらなかったとしても、その中身はごっそりと入れ替わってしまうだろう。いつまでもずっと続くと思っていた日常は、もう戻ってはこない。

 ――それでも、アイスが治めるなら悪い国にはならないのではないか。

 その声はひどく食い下がった。

 ――いや、マグダル様に受けた恩はどうする……。

 ――その恩のために家族を犠牲にするのか……。

 畳みかけるように、闇の声は強く大きくなっていった。

 そのとき、不意にハルヒコはクイールと目が合った。思案にくれるハルヒコのことを、ずっとクイールは見つめていたようだった。

 ハルヒコは思わず目を逸らしてしまった。

 逸らすべきではなかった。邪な胸の内を見透かされてしまったようで……。

「みんな、出発しよう――」

 取り繕うようにハルヒコはそう言った。

 

 それからは沈黙の行軍となった。

 歩きながら、ハルヒコはこれから向かう目的地を説明した。どうしてそこに向かわなければならないのか、そして、その計画にどれほどの勝算があるのか。

「だから、みんな頑張って歩いてほしい」

 返事はなかった。同意も異論さえも……。

 誰も一言も発せず、ただハルヒコの後を付き従った。

 その沈黙は、激しく罵られるよりもハルヒコの心を抉っていった。冷たい刃で少しずつ表面を削り取るように。

 森は眠りについたように変わらず静まり返っていた。そのことが逆に不気味さを助長させていた。

 なぜ、こんなにも物音一つしないのか――。

 せめて虫の小さな鳴き声くらい聞かせてくれてもいいだろうに――ハルヒコは心のどこかでそう祈っていた。

 ハルヒコ達は森の斜面を上るでも下るでもなく、足場のしっかりとしていそうな場所を選びつつ前に進んだ。上りを右手に、下りを左手に見ながら進めば、歩みは遅くとも確実に西に向かっているはずだった。

 大森林は東西に連なる大連峰の麓に広がっていた。エオラの北は大地の果てと見紛う大絶壁が海に落ち込んでおり、そこが大連峰の端にあたった。隣国のアクラ、そしてさらにその先にまで、数千メートル級の大小さまざまの峰が途切れることなく肩を並べていた。ハルヒコは村の櫓に上り、自分の目で何度もその光景を確認していたのだ。

 ――村を出発してどれくらい経ったんだろうか……。

 ずいぶん時間が経過したような気もするし、ついさっきの出来事のような気もする。距離だってもうずいぶんと歩いてきたような気もするし、まだ村からそれほど離れていないような気もする。

 ――安心とはほど遠いな……。

 焦燥に駆られはしたが、自分一人だけで行動しているわけではない。ハルヒコは努めて皆の様子をうかがいながら歩を進めていった。

 ――誰か一人でも動けなくなってしまえば、もう計画通りにはいかない。

 怪我をしたり、疲労で歩けなくなったり――。

 それに、そもそもこの計画自体が大きな不確実性をはらんでいる。

 ――それを考えたのは誰だ……。

 ハルヒコは自分の無力さに腹が立った。

 それからどれほど歩き続けただろう。はあはあと皆の息が荒くなってきた。ハルヒコは二度目の休憩をとることにした。本音を言えば、自分の疲れ具合と照らし合わせて、もっと前に進みたくはあったが。

 皆、地面に腰を下ろし、水を少し口に含む。普段なら、どんなときでも明るいカナが一言も声を発せず、トウコにもたれかかっていた。疲れてしまったのか、それとも、子どもながらに今の追い詰められたこの状況を肌で感じ取っているのか。

 ハルヒコは辺りの様子をうかがう素振りを見せて、少し離れた場所に一人立った。辛かったのだ、みんなのその憔悴しきった顔を見ているのが……。

 ――どうして、こんなことになってしまった……。

 また同じことを考えてしまう。考えてみたところで、堂々巡りを繰り返すことがわかっていても、それでも、自分の心の闇から発せられる声を――闇との問答を――止めることはできなかった。

 ――誰もが清廉潔白にとはいかない……。

 自分は公平公正な人間だと思ってきた。そうあるべきだと努めてきた。不条理なこと、理不尽なことを毛嫌いし――それどころか怒りさえ覚えて――立ち向かっていった。

 ――でも、それは……。

 なんてことはない。それがただの平和な日常だったからだ。追い詰められて、人は本性を現す――ボロを出す……。

 ――自分は多くの恩を受けながら、それでも、家族の安全を天秤にかけずにはいられない……。

 当然のことだ――弁護の声が上がる。だが、それもやはり自分の闇から生まれ落ちた言葉でしかない。

 ――自分に力があればいいのか……。

 何者にも自分の運命を翻弄されることのない、絶対的な力が……。

 ――そんなこと、今は関係ないだろう。

 善なる声に従うかどうかは、力とは無関係なはずだ。

 ――いや、あるね!

 力がない者は、ただ翻弄されて何も選択することを許されない。

 ――今はそんなことを考えている場合じゃないだろう!

 ハルヒコの内側は、もはや混沌の渦が嵐のように逆巻いていた。

「ハルヒコ……」

 そんなときである。不意に背後から声をかけられたのは。

 振り向くと、そこにクイールが立っていた。

「王子……」

 ハルヒコは彼の目を見ることができなかった。目を通して、自分の内側を覗かれるような気がしたからだ。このどろどろと渦巻く汚らしい魂の姿を……。

 何か答えなければならない。自分を取り繕う言葉を、何か……。

 あさましいと思った。これほどまでに自分のことをみすぼらしいと感じたことはなかった。それでも、言い逃れを――自らに対しても、相手に対しても――探そうとする。よこしまな自分を抑えることはできなかった。

 ハルヒコはそこまで追い詰められていたのだ。

「ハルヒコ……。いや、シュウのお父上……」

 内なる混乱に壊れそうになっているハルヒコを前に、クイールが口を開いた。

「わたしを、どうぞ彼らに差し出してください――」

 ハルヒコの頭は真っ白になった。何かを考えようとしても、その何かは浮かび上がってこなかった。もう何も考えたくないとまで思った。

「それは……」

 考えがまとまって発した言葉ではなかった。条件反射のように、ただ答えただけにすぎない。

 そのとき――

 ――!

 ハルヒコを瞬時に現実へと引き戻す出来事が起きた。

 突然ハルヒコの表情が険しくなったのを、クイールは訝しんだ。

「どうしたのですか……」

 ハルヒコは口に人差し指を当て、静かにするよう目配せした。

 周囲は変わらず耳をふさがれたみたいに物音一つしない。森の湿気を含んだ重たい空気が、ただ肌を撫でていくばかりであった。

「臭いがする……」

 ハルヒコはささやいた。

 その言葉を受け、クイールは浅く空気を吸い込み、鼻腔にたまる空気の臭いを意識した。

「これは!」

 何かが燃えている臭いが微かに含まれていた。風に乗って、その臭いは運ばれてきているのだ。

 ハルヒコは風が流れてくる方向――風上にじっと目を凝らした。

「そんな……」

 そして、見つけたのだ。

「どうして、ここに……」

 奴らははるか彼方の森にいたのではなかったのか――。

 ハルヒコが目を凝らした先――おぼろげに揺れる炎の灯が森を焼いていた。そして、その灯の中を踊る巨大な影――。

 ――あいつらだ……。

 どうして、ここにいるのかは分からない。だが、このまま進むわけにはいかない。自明の理であった。

「引き返さないと――」

 ハルヒコはクイールに、そして休んでいるシュウ達に伝えようと振り向いた。

 ――!

 絶望とはこういうことか……。

 ハルヒコはそう思った。

 振り向いたそのはるか遠方――森の中を幾つもの灯りが揺れながら近づいてきていた。


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