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第6章―5

 青年は貧しい村に生まれた。

 村に至る道は険しく、土地は雑草でさえ毛嫌いするほどに痩せていた。

 何かがあって貧しくなったのではない。村は昔からずっと貧しかった。

 その青年は、自分も貧しいまま、やはりこの村で死んでいくのだろうと思っていた。

 あるとき、青年は農作業の合間に、ぼうっと空や野原を眺めていた。他人には枯れた搾りかすのような光景に見えたかもしれない。だが、青年は生まれ育ったこの土地の風景が大好きだった。

 一陣の風が草を揺らしていく。風と共に草原が波打つ。青年は一度だけ海を見たことがあった。押し寄せる波を飽きもせず、ずっと眺めていたものだ。

 このときも、記憶の片隅に残る大海原の波と草原を渡る風の軌跡を重ね、いつまでも飽きることなく眺め続けていた。まるでそこに緑の海が広がっているような、たくましい想像力をはたらかせて。

 次々に押し寄せてくる草原の波を目で追いかけていく。何度も何度も、時が経つのも忘れて。

 そんなときだった。追いかけていた緑の波が、地面に転がる小石を弾き飛ばした。青年は興奮した。そんな些細な光景が楽しくて仕方がなかった。

 青年は何度も波を、風を追いかけた。それが何かにぶつかると、その何かが小さく跳ね飛んでいった。

 ――また海が見たいな……。

 青年がそう思ったとき、不意に風が静まった。目で追っていた草原の波は途中で消えてしまった。ただそれだけのことなのに、青年はひどくがっかりして肩を落とした。

 コツン……。

 小石が弾かれた。風はやんだはずなのに、目で追いかけていたその先で小石が跳ねた。

 ――?

 弱い風がまた起きた。青年は慌てて風がつくる小さな波を追いかけた。だが、また途絶え――今度はその先の枯れた小枝が弾けた。そんなことが何度も続いた。やがて、風が起きなくとも、青年の心の中にある波のイメージを目の前の光景に重ねれば、小さな物ならば弾く――動かすことができることに気がついた。

 魔法の兆しであった――。

 村人達に伝えると、すごい才能だと、みな驚いてくれた。この村から大魔導士が生まれたと、皆の浮かれようは当の青年を置き去りにするほどに熱量を帯びていった。

 あれよあれよという間に、青年の知らぬところで、魔法学校で学ぶ算段がつけられていき、村人達からのカンパも集まっていった。貧しい村だ。みな、なけなしのお金を青年のために喜んで差し出してくれた。

 青年はこの村が好きだった。どんなに土地が痩せて貧しくとも。だが、もはや断ることなど青年にはできなかった。村人達の善意と期待が大波のように押し寄せ――青年は抗えなかった。

 青年は生まれ育った村を後にした。


 魔法学校はその国の首都にあった。見るものすべてが初めてで、青年の目はちかちかとめまいを起こしそうになった。だが、都の華やかさは、青年にとって羨望とはほど遠い、恐れの対象にしかならなかった。事実、用事がない限り、彼は学校の外に出ようとはしなかった。休みの日も、学校の敷地内にある寮の部屋で、日がな一日、本を読み漁っているばかりだった。

 そう、学内には彼が切望してやまなかった書物が山のように――文字通り、整理されず山積みになって――そこかしこにあふれていたのだ。村には、村長の家に数冊のすり切れた紙屑のような本しかなかった。かつて、青年はその紙屑を頼りに苦労して文字を覚えたのだ。

 夢のようであった。体系化された魔法に関するものだけでなく、地理や歴史、科学や文学、政治や経済――この世界の形と仕組みが、それらの書物にはつづられていた。

 それまでの青年にとって、目が届く限りの村の景色が世界のすべてだった。それが一気に拡張されていった。いや、爆発と言ってもいい。宇宙が創生した瞬間みたいに、青年の好奇心はあふれ膨らんでいった。それはもう抑えきれないほどに――。

 魔法学校では良い先輩にも恵まれ、夢のような時が過ぎていった。ただ一点を除いて……。

 青年は書物に埋もれ、誰よりも深い知識と知恵を自分のものとしていった。だが、ここは魔法学校――魔法を学び修めるための場所だ。

 青年は努力のかい虚しく、小さな火球を生み出すことしかできなかった。どんなに努力し工夫しようとも、大きな魔法の力が開花する兆しさえ見つけることはできなかった。それが青年の――魔法の才能の限界だった。

 青年は落ちこぼれた。

 青年の一番の良き理解者であった先輩が励ましてくれた。魔法がなくとも、君には他の誰にもない大きな才能があると。だが、青年の心は救われなかった。

 ――ここは魔法を学ぶ学校だ。魔法の才能がなくてどうする……。

 青年は、自分を笑顔で送り出してくれた村人達に申し訳なく思った。みんな貧しかった。それなのに家にあった小銭をかき集め、青年の旅立ちを――彼の前途を祝福してくれた。それなのに、自分がその期待に沿えない――その程度の才能の持ち主であったと知ったら、彼らはどんなに落胆することだろう。

 ――それに代わる才能があるだって……。

 先輩の下手な慰みも、そのときの青年の心には届かなかった。むしろ、傷つけた……。

 青年は打ちひしがれた。

 そんな頃のことだ。隣国から魔法学校に魔導士派遣の要請がきたのは。

 新たな農地を開拓すべく、用水路を引く工事に炎の魔法を操る魔道士が必要だと依頼されたのだ。隣国の戴冠したばかりの新たな王は、荒れた土地を切り拓いて、国を豊かにしていこうと張り切っているそうだった。

 青年が派遣されることになった。

 ――こんな小さな炎で、何の役に立つっていうんだ……。

 隣国への道すがら、青年は自分を派遣するに値すると判断した学校の上層部と、なによりも自分自身の才能に悪態をついた。

 そして、青年の危惧は現実のものとなった――。

 用水路の工事現場に到着した青年に求められたのは、厚い岩盤を破壊することだったのだ。皆の耳目に囲まれる中、青年は目の前が真っ暗になり――崩れ落ちた。

 依頼の趣旨が正確に伝わっていなかったのだ。工事現場の監督が青年に謝罪してくれた。だが、青年は皆が自分を責めているように、嘲笑しているように感じずにはいられなかった。青年は自身の心を自ら追い詰めた。

 ――どのみち、こんな自分が役に立つ仕事なんてあるはずがない……。

 青年は宿泊にあてがわれたテントの中で頭を抱えた。この先も自分が誰かの役に立てることがはたしてあるのだろうか。

 ――でも、工事する人達は困っていたな……。

 青年はテーブルの上に置かれていた用水路の設計図に目を止めた。宿泊にあてがわれたテントは、工事現場の事務所としても使われていた。

 ――まだ自分に何かできることはないんだろうか……。

 代わりの魔導士が派遣されるまで、工事の進捗は滞ってしまう。自分の力が足りないばかりに。

 それは決して青年ばかりのせいではなかったし、なによりも、そのとき青年の心はずたずたにへし折られ、自力で再び立ち上がることができるのかも怪しい状態であった。それでも――。

 青年はその設計図に目を落とし――本当に穴が空いてしまうのではないかと思うほどに――隅から隅まで時間が経つのも忘れ、にらみ続けた。

 ――これは……。

 そのときである。テントに一人の若い男性が入ってきた。ひと目見て、現場の人間でないことは明らかだった。華美ではなかったが、身につけた衣服は、とても一般人には手が届かない代物だと青年にもすぐに分かった。

 ――どこかの貴族の方だろうか……。

「熱心に設計図を見ていたようだが?」

 不意にその男性は話しかけてきた。詰問するような感じではなかった。顔には笑みを浮かべていた。

「こんな私でも何かお手伝いできることがまだあるかもしれないと思って……」

 男性はふむとアゴに手をやって、青年と設計図を交互に見比べた。

「それで何か思いついたことがあったのかね? 先ほど、そんな顔を一瞬浮かべていたが」

 青年は驚いた。

 ――顔の筋肉を動かしただろうか……。

 自分でさえ気づかなかった。だが、設計図を見ていて思いついたことがあったのは事実だ。

「はい。私には魔法でお手伝いすることはできませんが――」

 青年は自分が気づいたことを説明していった。それは、工事の関係者が聞けば激怒する内容であったかもしれない。目の前の男性もまた、その関係者であることは明らかであった。だが、青年は自分のためにではなく、その設計図の向こう側に、新たな土地で暮らすことになる人々を思い浮かべ、熱く説明していった。

 青年が話した内容をかいつまんで言うと、つまりはこういうことだ。

 用水路を引く経路を変えろ――。

 設計図そのものを根本から変えろと青年は主張したのだ。

「こうすれば、工事の期間も短縮できますし、費用もおさえることができます。無理して厚い岩盤を砕いていく必要はないのです。それに――」

 青年は続けた。

「開拓地で暮らす人達の利便性も上がるでしょう。農地をさらに拡げていくのも容易になるはずです」

 男性はじっと青年の瞳を見つめた。青年は目を逸らしてはいけないと、なぜかそのとき思った。青年は男の視線を受け止め続けた。

「どうして、そう思うのだ?」

 男性が無表情に問うた。

 そのときの青年は、もはや自分のことなどすっかり忘れてしまっていた。新たな開拓地で暮らすことになる人々の、まだ見ぬ笑顔だけを思い浮かべていた。自分が生まれ育った村の人達の姿をそこに重ねていた。ここで自分が引いてしまっては、その人達の笑顔が損なわれてしまう。譲れないと、誰に頼まれたわけでもなく、勝手に熱くなっていた。

「私は大きな魔法は使えません。とんだ落ちこぼれ魔導士です。――でも、知識や知恵に関しては、私は誰にも負けません。マギア一の魔導士であっても、私には敵わない――」

 青年ははっとした。言い過ぎたと思った。だが――

 ――そうか……。

 私は誰にも負けないものを持っていたんだ……。

 自信過剰などではなかった。今や揺るぎない確固とした自信として、それは青年の胸の内にあった。くすぶっていた火種が、時を待っていたかのように、大きな炎となって噴き上がったのだ。

 青年は自分の生い立ちを語り、いかに魔法学校で知識を蓄えていったかを説明していった。

「なるほど……。だが、その自信には責任がともなうものだ。その覚悟が君にはあるのか?」

 ――責任?

 責任とは何だ? それは自分に対するものだろう。そんなもののために――そんなものを気にして――自分は生きているんじゃない。

 ――誰かのために生きたいんだ!

 目の前が晴れたような気がした。

 ――そうだ。自分は、自分のために生きたいんじゃない。

 ――誰かのために生きたいんだ!

 青年はもう一度そう思った。自分が進むべき指針を見つけたと思った。迷いはなかった。

 ただ、このときの青年は若かった。責任にはもう一つの側面があることを、彼はそれほど遠くない未来に知ることになる。すなわち、自分に対しての責任より重い、そこに暮らす人々への責任だ。

 だが、青年は若かった。このときはただ、自分の信念に従って突っ走っていれば許されたのだ。そして、やがては他者への重責も背負えるように大きく成長していくことになる。

「私ならやれます」

 男性はそうかと言うとテントを出ていった。

 その後、青年にとっては長い夜となった。

 ――ああ……調子に乗りすぎたかもしれない……。

 青年はまた頭を抱えていた。だが、その表情には知らず笑みがこぼれていた。

 満足だった。爽快だった。

 青年はにやけた顔のまま、いつしか眠りに落ちていった。こんな心地好い眠りはいつぶりだろうと――。

 翌朝、その眠りはドタバタと慌ただしい靴音によって妨げられた。いい夢を見ていたような気がしていたのにと、青年は恨めしく思った。

「あなたの指示に従い、工事を進めていくようにとの命が下りました――」

 青年は驚いた。あの男性はいったい何者だったんだろう。

 だが、青年はたじろぐことなく立ち上がり、こう言った。

「どうか、新たな土地で暮らす人々のために、皆さまのお力をお貸しください――」

 青年は自分でも驚くほどに、すでに覚悟は固まっていた。

 それから半年後、用水路は完成した。当初はぎすぎすしていた現場の人間関係も、今や本当の仲間と呼び合えるほどに深い絆を青年は結んでいた。いや、むしろ――みな口には出さないが――青年に尊敬の念を寄せていた。

「やり遂げたな――」

 現場に立つ青年の背後から、不意に声がかけられた。

 青年が振り向くと、そこにはあの夜テントを訪ねてきた男性が立っていた。その正体を誰に聞いても明かしてはくれなかった人物だ。

 ――やはり、どこかの貴族の方だろうか?

「本当に成し遂げるとは大したものだ」

 青年は思った。

 ――信用していなかったのに、これだけのことを任せたのか……?

 男性は青年の心の声が聞こえているかのようだった。夏空を思わせる爽やかな笑顔を浮かべた。

「協力してくれた皆さんのおかげです。自分はただ頭を使って指示を出していただけです。一度地面を掘る手伝いをかって出ましたが、すぐにへばってしまいました……」

 男性は豪快に笑った。

「そなたは本当に非力そうだからな!」

 青年は、はあと薄く笑うしかなかった。

「でも、満足です。ここまでやれたことに誇りを持って、マギアに帰れます」

「もう行ってしまうのか?」

「ずいぶんと長居をしてしまいました。私は本来は魔法を学ぶ学生ですから」

 男性は合いの手を入れるように言った。

「落ちこぼれの――な」

 男性は愛嬌のある笑顔を浮かべた。

 ――ああ、この人は容赦がない……。

 口の悪さは折り紙つきだ。でも――

 ――悪意はないんだ。

 青年は、はにかんだ。

「ああ、そうだ。私はまだ名前を名乗っていなかったな」

 誰に尋ねても知ることのできなかった男性の名前。その質問をすると、誰もが言葉を濁して、その場から逃げるように離れていった。おそらく、男性自身がそれを戒めていたのだろう。

「私の名はクロム。このルアンの国の国王だ」

 青年はカミナリに打たれたように、一瞬意識が飛んでしまった。

 ずっと、この土地の地方貴族とばかり思っていたからだ。それがまさかこの国の王であったとは……。

 青年は、はっとして頭を地面につけようとした。それをクロムが引き止める。触れられた手が同じ人間のものとは思えなかった。

「やめてくれ。ここは城の謁見の間じゃないんだぜ」

 そして、こう言った。

「見てみろよ。俺たち二人、同じ地面の上に立っている」

 そのとき、青年はなぜだか涙がこぼれそうになった。

 ――貧しい村の出の自分が、王と同じ場所に立っている……。

「なあ……」

 クロムは話しにくそうに口を開いた。

「この国に残らないか……。俺と一緒にこの国を豊かにしていってくれないか」

 青年は顔を上げてクロムを見た。優しい表情の中に真剣な眼差しが揺れていた。

「俺もアクラからこの国に婿養子としてやってきたんだが……。外から思われているほど、この国の内情は上手くいってないんだ」

 クロムは遠い目をした。どこを見据えているのか、青年には分からなかった。少なくとも、青年が今眺めている同じ景色でないことだけは確かだった。

「まあ、他の国に比べたら、争いがないってことだけは悪くないがな。周りの国を見てみろよ。戦争ばかりしてやがる。――そこに暮らす人々のことを考えたら、どうしてそんなことを平気でやれるんだろうな……」

 クロムは青年の目を見た。強い眼差しで。

「戦争に疲れた民が、どんどん各地から流れ込んでくるはずだ。俺はそんな彼らにも安心して暮らせる国をつくっていきたいんだ」

 青年の心は動かされていた。一瞬にして心をつかまれてしまっていた。この王には人の心を揺さぶるカリスマがある。それでも――

「自分には自信がありません……。そんな大層なことが自分にできるとは到底思えません。魔法もろくに使えないような人間ですから……」

 青年は自らに課した呪縛をまだほどけないでいた。

「俺はポンコツ魔導士を欲しいなんて言ったわけじゃないんだぜ――」

 クロムが声を上げた。自分の願望を叶えるためではない。そこには明らかに青年を励まそうとする色が見てとれた。

「俺はお前が欲しいんだ」

 告白されるとはこんな感じなのかなと、時をわきまえず、青年はそう思った。

「なあ、お前はあの設計図の中に何を見ていた? あの薄っぺらい紙の向こうに――」

 クロムは続けた。

「俗人は、紙の上に置かれている文字と数だけを追う。でも、お前はその向こうに何を見ていた? その紙の向こうに、未来を――そこで暮らす人々の姿を見ていたのだろう?」

 青年の心はそのとき定まった。まだ見ぬ人々のために、自分は役に立てるのだ。

「そうだ。まだ名前を聞いていなかったな。皆には俺の名を決して教えるなと言っていた手前、こちらが勝手にそなたの名前を知るのも悪い気がしていたのでな」

 ――律儀な人だ……。

 悪い気はしなかった。

 そして、青年は背筋をまっすぐ伸ばし、この国の王を正面に堂々とこう名乗った。

「私の名は――マグダルと申します」

 高らかに、誇らしく――。


 そこで目が覚めた。

 ――んん? 夢じゃったのか……。

 呑気なものじゃのう。

 マグダルは苦笑した。そして、

 ――もしかすると、わしは助かるんじゃろうか……?

 ふと、そう思った。

 ――こうしてはおれん。

 ――やけに暗いのう。

 ――まずは明かりをつけねば。

 立て続けにそう思った。そして、気づいた……。

 ――ああ、暗いんじゃない……。

 わしの目が見えなくなっておるのじゃ……。

 手で傷口の辺りをまさぐる。手が痺れて、よく分からなかったが、何かが飽きもせず、ふき出しているのは感じとれた。

 ――なんじゃ、やっぱりダメかのう……。

 だが、懐かしい夢を見て、気分は悪くなかった。しかし、その一方で、

 ――やっぱり寂しいのう……。

 最後にそう思った。


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